3.堅物女が令嬢らしく「お願い」をする
アマリアのトラウマ、それもふたつある。
ひとつはかつての婚約者絡みだ。まだ今のように世間の酸いも甘いも知らなかった無邪気な15歳の少女は、ひとりの美青年に恋をし、婚約を取り付けた。
……今にして思うと、間違いなく美青年ではあったが、「大したことはないな」と思う。彼の中身が顔の良さを差し引いてもなお悪かったのと、後にもっともっと美しい人を知ってしまったから。
だが当時の彼女は恥ずかしい程世間知らずだった。ただただ己の面食い趣味に正直に従い、その中身を疑うこともなかった。そのせいで手痛い目に遭ったため、もう美形に心酔するのは懲り懲りなのだ。美しい人は遠くから眺め、自分の人生とは交わることが無いのが最良、と学んだのである。
それなのに、運命の神というのは悪戯好きなのだろうか。
彼女が悟った後、あろうことか今までの人生で出会った人間の中でもNo.2に入りそうな程美しい人、サミュエルに雇われることになってしまったのは実に皮肉な話である。今だって毎日、彼の放つキラキラの美に内心の興奮を抑えながら、外面では塩対応をせざるを得ない。
幾らサミュエルの方から自分(の、野太い声)に好意を持たれていると言っても、これ以上彼と距離を詰めるなど、とても無理だとアマリアは思っていた。
「はぁ……」
彼女がひとしきり自嘲してから頭を起こすと、乱れほつれた自分の髪の毛が視界の端に入る。机に横向きに頭を乗せ、左右に揺すったりもしていたせいだろう。アマリアは髪を一旦ほどいて結い直そうとした。
「失礼します」
急なドアノックの音に彼女は慌てた。執務室に髪の乱れた女が居てはまた何を噂されるかわからない。アマリアは慌てて髪を下ろしたまま、さっと手櫛でできるだけ整えてドアを開ける。
「どうぞ」
「宰相閣下へ書類をお届けに……ぇっ!?」
入ってきたのは、よく書類を持ってくる馴染みの文官だった。たしかブラウンと言ったか、とアマリアの記憶上にちらりと名が浮かぶ。だがその名を呼ばず、彼女はいつも通りに事務的に答える。
「ああ、ありがとうございます。閣下とキューテックさんは不在ですので、私が簡単に確認させていただきます」
「……はぃ……」
彼女は入口に立ったまま書類にざっと目を通し、とりあえず明らかな不備がないか確認した。その間、ブラウンが呆けたような顔でじっと自分に視線を注いでいるのも気づかずに。
「はい確認致しました。大丈夫そうですね。お預かり致します」
「あ、あの……セーブルズさん、だったんですね?」
「え」
「あの、いつもと雰囲気が違うので」
「!」
言われて初めて彼女はハッとした。髪を下ろした上、眼鏡をかけるのを忘れていた!! この場をどう取り繕うべきか即座に考える。一番の優先順位は「宰相の第二秘書はいつもは堅物の家庭教師か未亡人のような身なりをしているくせに、実は執務室の中だけでは女らしい格好だそうだ。なんと不埒な」という誤解が広まらないことだ!!
そう一瞬で結論付けると、アマリアは珍しく愛想よく微笑み、いつもの事務的な口調を令嬢らしいものに変えた。
「あら、まずい所を見られてしまいましたわね……実は今は室内に誰の目も無いので、ちょっとだけ息抜きで楽な格好をしていたんですの。でもそんな女、はしたないとお思いでしょう?」
「いや、そんなっ! 自分は寧ろそちらの方が……」
「いいえ。ただでさえ私、閣下と仕事以上に親しいだなんて根も葉もない噂を立てられて傷ついてますのよ。ですからわざと堅苦しい恰好を普段はしていますの」
「そ、そうだったんですか!?」
「それなのに執務室でこんな姿をしていたと誰かに知られたら、またなんて酷い噂をされるか……。ね、お願いですからここだけの秘密にしてくださいません?」
薄いアメジストのような瞳で見上げ、唇の前に人差し指を立ててお願いをすれば、文官の頬がはっきりと赤く染まった。
「は、はい! 勿論!」
アマリアはいっそうゆったりと微笑む。
「良かったですわ。見られたのが貴方のような秘密を守って下さる紳士で」
「はい! で、では! 失礼します!」
ブラウンは赤い顔のまま、ガチガチに固まって帰っていく。アマリアは素早くドアを後ろ手に閉めるとふーっと息を吐いた。
(上手くやれたかしら……?)
頭の中に、以前憧れていた淑女を思い描きながら「彼女ならきっとこう言うだろう」と成りきって言ってみたが、元々男女の駆け引きなどには疎いアマリア。きちんと演じきれたかは自信がない。
(でも、確かブラウンさんは……)
過去の書類のやりとりで、彼がアマリアに負けず劣らずお堅く真面目だったはずだと思い出し、彼女は安堵した。ブラウンがああ言ってくれたからには、きっと周りに言いふらしたりはしないだろう。
(今後は気をつけなくちゃ)
アマリアは机の上の眼鏡を取り、鼻の上に乗せた。この眼鏡は度は入っていない。その代わり、ぱっと見は気づかないほどに薄い黄色が入っていて、彼女の薄紫の瞳の色をありふれた茶色に変えてくれる特注品だ。アマリアは素早くこげ茶色の髪の毛を結い直しまとめ、いつもの地味で堅物な姿に戻った。
◆
宰相閣下と第一秘書はなかなか執務室に戻ってこなかった。国王陛下との会見が長引いているのだろうか、それとも火急の用件でも出来たのか、とアマリアは少し心配になった。彼女の仕事だけがどんどん進み、キューテックの机の上に書類がこんもりと乗っている状況だ。
アマリアの仕事は、今のように二人が不在時の取り次ぎの他、各地の領主から届く王家への嘆願書や報告書の確認と返信がメインである。
各地の領主からの嘆願書の大半は、ダメ元での支援依頼や、ただ王家への税を払いたくない言い訳として届いているものが多い。アマリアはそれに目を通し、明らかに必要な情報が足りていないものには、再度書き直すようにとの旨を添えて返信する。残りは優先順位が高そうな順に並べ替えてキューテックに渡す。
キューテックはダブルチェックとして再度目を通しつつ、情報が足りていても内容として明らかに断ってよい物には、彼が宰相の代筆で断りの返信を書く。それらをまとめて宰相閣下に渡すのだ。
サミュエルはキューテックの判断に誤りがないか確認後、残りの件には宰相自ら直接の判断を下す。だが、稀に重要度が非常に高いものは国王陛下や財務大臣との会議で進言することもある。
アマリアがサミュエルに雇われてからは、嘆願書や報告書の処理が格段に早くなったと褒められた事もある。彼女が領地で父親のセーブルズ伯の手伝いをしていた経験が役立っているのだ。
「ただいま戻りました」
キューテックの声にハッと振り向いたアマリアの目に、毒が……キラキラしたサミュエルの顔がまともに入る。
「お、おかえりなさいませ」
「セーブルズ、留守中に何かあったか?」
「いえ、何も」
「? そうか」
挙動不審なアマリアにサミュエルが不思議そうな顔をしたかもしれないが、思わず顔を逸らせた彼女にはそれを見ることは叶わなかった。
(ああっ、もう。何度見ても飽きな……じゃなかった。眩しくて目が痛いったら!)
またもや内心とは裏腹に、アマリアはスンッと事務的に言い放つ。
「お二人のお帰りが遅かったので少々心配をしただけです」
「ああ、セーブルズさんすみません。実は少し検討すべき事柄がありまして」
キューテックが苦笑する。
「閣下が先代から引き継いでいる、例の件、またも良くない噂を耳にしましてね」
「え、例の件というと……『堕落と浄化』ですか?」
アマリアの顔がひきつる。4年前にあった一部貴族と王族の『堕落』と、それらを国王陛下と前宰相(サミュエルの父である前ドーム公爵)が厳しく罰した『浄化』。彼女もその『堕落』の間接的な被害者なのだ。
「いやいや、まあそこまでは酷くないんですが、やはり治安は良いに越したことはありませんからね。閣下と対策を練っていたんです」
「?……」
キューテックの言葉が珍しく具体的ではないのでアマリアは首を傾げかけ……すぐに思い直し返事をした。
「そうですか」
「セーブルズ、君は何も心配しなくていい。君の力を借りたい時にはきちんと言うから」
「……かしこまりました」
サミュエルのキラキラ輝く笑顔を見ないようにしながら、アマリアは素っ気なく返事をした。でも、内心で彼の気遣いには感謝している。もしかしたらこの上司は、兄づてに彼女の過去を知っているのかもしれない。だから『堕落と浄化』の件にはできるだけ関わらせないようにしてくれているのかも、と。