1.
風が吹き、頬を撫でる。
その感触に、シルヴィアはゆっくりと瞳を開けた。
「んっ……」
小さな吐息が零れ、視界が揺れた。
薄い天蓋が柔らかく揺らいでいたせいだ。
シルヴィアは一瞬、夢を見ているのではないかと言う錯覚に陥った。
昔――、まだ両親が生きていたころの自室のベッドに似ていたから。
ベッドの天蓋が、薄いレース状でそれがお気に入りだった。
夏はいいが、冬は防寒性に優れていなかったが、一年中これがいいと駄々をこねた。
しかし、シルヴィアは夢見がちな少女ではない。
これが現実で、最後の記憶がよみがえると、勢いよく身体を起こした。
「どこ……ここは……」
叔父の姿を見て動揺した。
そして、何が何だか分からない罪状をバンフォードが突きつけられて……、シルヴィアの意識は暗転した。
ごめん、と呟かれた言葉は確かにエルリックのもので、シルヴィアの意識を失わせたのは彼なのだとすぐに理解した。
「どうして……」
身体の上からずれた薄い掛布をぎゅっと握る。
考えても何一つ分からない。
それに、あれからどれほどの時が経っているのかも。バンフォードは無事なのか、それが今一番心配だった。
定まらない感情が渦巻く中、扉が開く音が聞こえた。
ノックもなかったが、それを気にするほどシルヴィアは冷静ではなかった。
姿を現したのはエルリックだ。
「エルリック様……」
「あ、起きてた? ごめんね、首のところ……痛くない?」
さすがに悪いと思っているエルリックが頬を掻いた。
そして、敵だと認識したシルヴィアが彼を睨んだ。
「あー、うん……、シアちゃんが怒るのも尤もなんだけど……」
当然だ。
突然夜に兵士と押しかけて来たと思ったら、バンフォードを誘拐犯扱いし、シルヴィアを強制的に昏倒させたのだから。
「もちろん、どういう事か、全部説明してくださるんですよね?」
「守秘義務もあるから、話せることだけね」
そう前置きし、エルリックはベッドの端に座った。
ここで、許可なく座るな――と言うのは子供っぽい仕返しの様で、シルヴィアは何も言わずに許可した。
「どこから、話したものかな……」
色々複雑な事情が絡みあっているようだ。
その色々を知りたいシルヴィアだったが、今一番知りたいのは別の事だった。
「……エルリック様……」
「ん?」
「バンフォード、様は……」
そう――……、シルヴィアは、あの時兵士に囲まれていたバンフォードがどうなったのか知りたかった。
全ては、誤解なのだから、きっと無事だと信じている。
しかし、あーと困ったようにエルリックが眉を寄せた。
「バンフォード……バンね。今勾留されてるんだ……」
「ど、どうして!」
「いや、それがね……。あの時、シアちゃんを庇おうとしてバンが兵士の一人に怪我させちゃって……」
シルヴィアは力が抜け、肩がだらりと下がった。
手で顔を覆い、身体が震える。
「どうして……、エルリック様がなんとかできなかったのですか?」
「今回の捜査から、私は外されている。バンと近い人間過ぎてね……、なんとかしたかったけど、シアちゃんの保護を名目にここに――私の家に連れてくるくらいしかできなかった」
はあ、とエルリックが息をつく。
「……シアちゃん――いやシルヴィアちゃんかな? 貴族だって言うのはなんとなく分かってた。君ってさ、綺麗すぎるんだよ色々と。でも事情ありそうだったし、バンも知らなそうなこと、私が聞くのも躊躇ってね……何も聞いていなかったことが裏目に出ちゃったな」
シルヴィアは唇を噛み締めた。
何も言わなかったのはシルヴィアで、バンフォードにもエルリックにも罪はない。
何も事情を知らないのに、突然犯罪者扱いされてしまったバンフォードに合わせる顔がなかった。
「昨日、突然入ってきた案件だったんだ。貴族令嬢が、無理矢理働かされてるって通報があって……、しかもその令嬢をずっと探していた貴族まで現れて。さすがに何かあるって思ったけど、調べる時間がなかった。ごめんね」
顔を覆って俯いているシルヴィアの頭を慰めるように、エルリックが撫でた。
「わたしが……、わたしが違うって言えば収まったのではないのですか? どうして、わたしを――……」
「バンフォードの事を告発してきたやつが、まさか簡単に引き下がるとは思えなかったんだ。もし、シアちゃんが違うって言っても、言わされてるって言われたらますますバンの立場が悪くなるからね」
「どういう……」
エルリックが難しい顔で深く、椅子に座りなおした。
「バンは優れた薬師なんだよ。本当にすごいんだ。だから、洗脳薬で洗脳されてるとか荒唐無稽な事言われても、もしかしたらって疑うやつが出てくるんだよ」
馬鹿馬鹿しいと一笑できたらどんなに良かったか。あまりにも真面目なエルリックの様子に、それが冗談ではないのだと嫌でも分かってしまった。
「悪いとは思ったけど、シアちゃんの証言はかなり危険だ。だから無理矢理昏倒させたんだ。一発ぐらいは殴ってもいいよ」
「……殴りません」
「ま、バンの事は大丈夫。あれでも一応クラーセン侯爵家の人間だ。きっとクラーセン卿がなんとかしてくれるだろう。問題は、解決に向けてバンが納得するかなんだけど」
「解決に向けて?」
「お互い誤解だったで終わらせないと、まずいだろう? ハルヴェル子爵だってクラーセン侯爵家にケンカを売りたいわけじゃない。クラーセン卿だって大事にしたくないはずだ。君の叔父上もね」
叔父――……。
「バンが何も知らなかったと言えば、それで話は終わりだ。実際何も知らなかったわけだしね。ただ、そうなると誰がこの件の責任を取ることになると思う?」
シルヴィアは、まさか……、と信じられないような顔でエルリックを見た。
そして、その顔を見た瞬間理解してしまった。
「オリヴィアさん……、まさか!」
「家政ギルドの人間が、シアちゃんを誘拐して無理矢理働かせてた――なんて事になるかもね。笑えるだろう? でも、それができてしまうのが権力なんだよ」
「どうしてそんな! 働いていたのはそんなに悪い事ですか!?」
「誘拐とでも言っておかないと、君の存在がまたハルヴェル子爵にとって不利になる。引き取った兄の娘を冷遇して、家から追い出したなんて良い醜聞だ。貴族アカデミーにさえ通わせていないんだから、逆に虐待の嫌疑がかかってくるんだよ」
「向こうがわたしを!」
「証拠はどこにもない――そうだろう?」
シルヴィアはぐっと言葉を飲み込んだ。
バンフォードが何も知らないと言えば、彼は解放される。でもその代わりに家政ギルドが処分を受ける可能性がある。
バンフォードはその事に気づいた。
だからエルリックは言ったのだ。バンフォードが納得するかどうかで、彼の処遇が変わってくるのだと。
家政ギルドがシルヴィアにとってどれほど大切な場所だったか、バンフォードはなんとなく察しているはずだ。
優しい彼は、自ら罪をかぶっても守ってくれるかもしれない。いや、そうしようとする可能性が高い。
「ほっといてくれれば……どうして今更……」
「そこは今調べてるよ、どうして今なのかね」
シルヴィアは唇を震わせた。
「わた、わたしのせいで……」
「シアちゃん……」
「わ、わたし……言うつもりだったんです。ちゃんと説明して、ちゃんとしようって……。成人になったら、貴族から平民になるから、その時に全部打ち明けようって……そう、思って――……」
言う機会ならいつでもあった。
でも、もし本当の身分を言って家に帰されたら? そう思うと何も言えなかった。
未成年は後見人の保護下に入る。
どんな扱いをされても、外に助けを求めるのは難しいのだ。
だから、成人したら言おうと思っていた。
屋敷から追い出されても、成人していればなんとかなるから。そんな打算的な考えが、バンフォードを苦しい立場に追いやってしまった。
「本当は、書類上の後見人であるハルヴェル子爵に身柄を引き渡すのが当然なんだけど、事実関係がはっきりしないからって、無理矢理私の家に連れてきた。この辺りは騎士隊長も味方してくれてね。さすがに、家族関係が良くない事は分かっているからね……。そう長くはもたないけど、少しくらい気持ちの整理をする時間はあるよ」
気持ちの整理とはどういうことだろう。
叔父の待つ家に連れ戻される、その覚悟をしておけという事なのだろうか。
「とりあえず、バンの事は心配する必要ないよ。なんだかんだ言っても、国にとって重要人物だから。家政ギルドの方も、手を打ってくれるはずだから。シアちゃん、今はつらいかも知れないけど、勝手な行動は控えてね」
エルリックが最後にそれだけ言うと席を立つ。
シルヴィアは一人になると、堪えられず涙が溢れだした。
ぽたぽたと零れる涙を一人で拭って、嗚咽を堪えた。
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