9.
シルヴィアもバンフォードも、すでに買い物の気分ではなくなっていた。
帰りたいとシルヴィアがつぶやくと、バンフォードは御者に帰宅を伝える。
ガラガラと車輪が回る音と、馬の蹄の音が良く聞こえてきた。
しばらく沈黙が続いたが、先に話を切り出したのはシルヴィアだった。
「すみません……騒ぎを起こしてしまって……」
「シアさんのせいではありません……むしろ、僕のせいです……いつも、いつも僕の事でシアさんを巻き込んでばかりです」
バンフォードと知り合ってから、色々な事があった。
でも、それがバンフォードのせいだとは思っていない。
巻き込まれているのではなく、自ら巻き込まれているのに近い。
「あとで、肩を見せてください。かなり強く掴まれていたでしょう……?」
「そんなには。バンフォード様がすぐに来てくださったので、それほど痛みはありません。むしろ……」
シルヴィアはバンフォードの拳を見た。
赤くなっていて、痛そうだ。
申し訳なさそうな顔で、その拳を見ていると、バンフォードがなぜか楽しそうに笑った。
「人を殴ったのは、初めてかもしれません……僕は兄弟もいませんでしたし。一応、エルリックに殴り方は教えてもらってはいたんですが、まさかこんなところで役に立つとは思ってもいませんでした」
「え? 殴り方……?」
「ええ、エルリックは兄上と弟君がいるので、毎日が戦争だったそうです。いわゆるケンカの仕方はエルリックが教えてくれました」
それは、また……。
ケンカとか絶対に似合わなそうなバンフォードに、どうやって教え込んだのかちょっと気になった。
微妙な顔でシルヴィアは、とりあえず頷いた。
「まあ、先ほどのはケンカと言っていいのかわかりませんが、似たようなものでしょう。店側はあの後大変でしょうが、店員の何人かが向こうに抱き込まれていたようですので、これくらいは我慢していただかないと」
不自然なくらい誰も通らなかったのは、どうやら店員がカルテット側にいたせいらしい。
なぜそんな事を知っているのか疑問に思ったが、あの状況だったらそれを疑うのは仕方がない。
シルヴィアもカルテットも、そしてバンフォードも結構な声を出していたのに、誰も様子を見に来ないのはおかしすぎる。
「エルリックには言っておきます、質の悪い店員がいると」
「エルリック様にお伝えすると、何か変わるんですか?」
「顔だけは広いですから」
顔だけ、というわけではないだろうが、知り合いは多そうだ。特に女性の。
だからと言って、男性たちからものすごく嫌われているという感じがしないのは、あの性格だからなのかもしれない。
「どこで、何があったとか……、本当に詳しく知ってます。シアさんも世間の噂で気になることがあったら聞いてみるといいですよ。詳しく教えてくれます。特に女性が絡むと、情報の質が上乗せされるみたいですね」
女性と親しいエルリックは、なかなかすごい情報網を持っているらしい。
上級騎士だから噂話にも耳を傾けていると考えられなくもないが、もうすでに趣味の領域なのではと思ってしまう。
「少し噂を流せば、きっとあの店も店員教育を見直すでしょう」
ちょっとした脅し程度で済めばいいが……。
あの店全体が悪いわけではない。
一部の店員が良くないだけ。
ああいう少し客層が高めの店は、その噂で大打撃を受けそうだった。
「エルリックがおすすめするくらいには、あいつも気に入っているのでやりすぎないように調整はしてくれるとは思います」
バンフォードはからりと言った。
すがすがしい程、憑き物がとれたような顔をしている。
「暴力は駄目だと、僕がエルリックに言う立場だったんですが……、正直殴ってすっきりしました」
はははっと笑うバンフォードには、殴ったことへの後悔はみじんも感じられなかった。
はじめはシルヴィアに気を使っているのかとも思ったが、どうやら本当に殴ってすっきりしたらしい。
「実のところ、態度で示した方が――とか言いましたが、本音では面倒だったんです、会話するのが。だから言い返さずにいました。価値がないと思ってたからです。でも、そのせいでシアさんが……」
はっきりと何か言い返せば、こんなことにはならなかったかもしれないと、バンフォードが言う。
「昔……、あの男が怖かったんです。あんな男ですが、人を味方につけるのが得意なんです。そのせいで、孤立させられて。気が弱くて小さいのもありましたが、苦手になりました。でも今は、なぜあの男に怯えていたのか本当にわかりません。こんなに簡単に相手を退けられたのに」
子供のころの苦い記憶は大人になってもついて回る、亡霊のように。
それをどうやって打ち払うか、それは人それぞれ違う。
そして、バンフォードはきっと、きっかけがあればすぐにでも過去を過去にして、未来を進むことができたのだ。
「シアさん、あなたが来てから僕は変わりました。僕を知っている人は、おそらく全員がそう言うと思います」
「そんな事はありません」
「あります。断言しますよ」
穏やかに笑うバンフォードが、シルヴィアの手を掬い上げてぎゅっと握る。
いつも受け身のバンフォードが自らシルヴィアに触れたのは、おそらく初めて。
「シアさん、今日の事は僕の不手際のせいです。もっと、きちんとしていれば、こんなことにはなりませんでした。ですから、謝罪するのは僕の方です――……すみません、それから……ありがとうございます。今日は、本当に楽しかったです」
「……わたしも、楽しかったです」
「それから、今日確か軟膏を買うっておっしゃっていましたが、買えなかったので、僕が調合します。万人受けするように調整してある軟膏ですが、個人個人に合わせることもできますので」
国民が認める薬師に個人的に薬を調合してもらえるとは、どんな贅沢だろうか。
きっと、シルヴィアにぴったりの軟膏を作ってくれるに違いない。
「バンフォード様のその言葉が、今日一番の収穫のような気がします」
シルヴィアが、顔を上げて笑った。
実際、どんなものが出来上がるのか非常に楽しみでもあった。
特別製。
これが、うれしくないわけがない。
「薬草を扱うことは、唯一の自慢ですからね」
「唯一じゃありません」
今日はまた、意外な一面を見た。
普段の彼からは想像もできない、姿を。
いつもは可愛いのに、その姿がすごく男らしくて恰好良かった。
そう言えればいいのに、シルヴィアは口から上手く言葉を出すことはできなかった。
馬車は門前で降りて、二人で屋敷までの道を歩いていく。
日差しは強いが、木々で覆われているこの屋敷は、今はまだ少し肌寒いくらい。
それでも、もうすぐうだるような夏がやってくる。
それが過ぎれば、シルヴィアの誕生日もまもなくだ。
大人になったら……。
このままここで働くのか、それとも当初の目的通り家を借りるのか。
ずっと側にいると言ったが、今思い返すとすごい言葉を吐いた自覚があった。
それはまるで――……。
「シアさん?」
「あ、はい! すみません、考え事をしてました。なんでしょうか?」
「いえ、僕は薬草ばかりですが、少し花も育ててみようかと思いまして。薬草と調合すれば、女性に好まれそうないい匂いの軟膏なんかも作れそうですし」
「それは、いい考えだと思います。香水は少し買いにくい年齢の少女も、いい匂いの軟膏だったら買うかもしれません」
どんな花がいいか、二人で話し合う。
成人しても、こうして穏やかな日常を送れればそれでいい。
今はそれだけを願っていた。
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実はこの章、この話で終わっていそうだけど、あともう一話あるんだな……