8.
シルヴィアは化粧室の中で、ふうっと息をついた。
結局あの後、少しばかりの苛立ちのまま食事をしていたが、バンフォードに絡んできた相手の事をどうでもよくなるくらいには、気持ちが立ち直った。
色々な料理を少しずつ食べて、お腹が満ちれば気分も変わった。
バンフォードの言う通りに。
おいしい料理は、それだけで人を変える。
店自体に罪はない。
そう考え気持ちを切り替えると、会話も弾んで楽しかった。
「オニオンスープはおいしかったわ。それに、貝のガーリックバター焼きも」
どれもシンプルながら、使っている素材の違いなのかシルヴィアが作ってもあんなに味わい深くはならない。
凝った料理もあったが、やはりシンプルなものほど味の違いが分かるものはないとシルヴィアは思う。
かなりの量を頼んだが、結局半分以上はバンフォードがお腹に収めていた。
料理に合わせたパンもあり、それも食べているとシルヴィアはあっという間にお腹がいっぱいになったが、相変わらずバンフォードは良く食べていた。
むしろ、いつもよりも食べているかもしれない。
無理して食べている様子がなかったので、本当に食べられていたのだろうけど、ちょっと感心した。
食事をあらかた終えて、そろそろ店を出ようかという空気になった時、シルヴィアは化粧直しに席を立った。
ローレンから、食事の後はきちんと化粧を見直すように言われたからだ。
確かに、食事の後は唇の紅は落ちるし、ソースなどが飛び散っていたら恥ずかしい。
全身を確認し、よし、と化粧室を出る。
この後は、買い物の続きだ。
とはいっても、シルヴィアの欲しいものはあと軟膏くらいだった。
シルヴィアは、この後の予定を考えながら歩いていると、廊下の先で男性が一人立っていた。
一瞬足を止めたが、何事もないように相手を無視して通り過ぎようとした。
しかし、男性の方が無理矢理シルヴィアを足止めした。
口角を上げている男性――カルテットは、立ちふさがるようにシルヴィアの行く手を遮った。
一瞬、化粧室に引き返そうかとも思った。
シルヴィアが戻って来なければ、もしかしたらバンフォードが様子を見に来てくれるかもしれない。
しかし、バンフォードが逃げることを拒んだのに、シルヴィアがこのまま逃げれば、なんとなく負けた気になった。
覚悟を決めて、一歩歩を進めた。
「申し訳ございませんが、バンフォード様がお待ちですので通して頂いてもよろしいですか? それとも、わたしに何か用事がおありでしょうか?」
「平民風情に用などあるものか」
ふんと鼻を鳴らし、不愉快そうに顔をゆがめた。
「バンフォード・クラーセンが俺の目の前にいるだけでも、気に食わないが、まさか女連れとはな……」
用事はないと言いながら、シルヴィアにカルテットが絡んでくる。
きっと、シルヴィアがバンフォードを攻撃する材料になると思っているからだ。
正直、どうしてバンフォードに絡むのか分からない。ただ気に食わないだけとは考えられないが、どうしても気が合わない人はいる。
気が合わないのなら、無視すればいい。
「なんだその目は。あの男が次期侯爵だからって怖いと思っていると思うか? あの気の弱いバンフォード・クラーセンに、怯えるとでも?」
バンフォードの敵かと思うと、どうしても厳しい目つきになってしまう。
「あなたの知っているバンフォード様と今のバンフォード様は違います。貴族アカデミーを卒業して何年経っているとお思いですか? 十年にもなります。その間、人が全く変わらないとでも思っているのですか?」
シルヴィアが言い返したことに、不愉快そうに顔をゆがめた。
そして、馬鹿にしたように言った。
「どうせ、金だろう。あんなデブに付き合う価値があるとしたら、金を持っているからだろう? いくらほしい? 俺が買ってやろうか?」
その意味が分からない程子供ではない。
「あなたは、とても失礼な人ですね」
シルヴィアは背筋を伸ばし、静かに見上げた。
「何?」
「わたしは、バンフォード様がお金持ちだから共にいるのではありません」
シルヴィアがバンフォードと共にいるのは、そうしたいからだ。
確かに、使用人として金銭のつながりはある。
それでも、もし本当に嫌ならば、一緒に出掛けることもしないし、自分を良く見せようとも思わない。
バンフォードのためにクラーセン侯爵に立ち向かったりもしなかった。
「あなたは、バンフォード様がどれほど素晴らしい方か理解する気もないのですね。目に見えるものでしか判断せず、その中身を知ろうともしない。でも、わたしは知っています。おそらくあなたなんかよりもずっと」
言い返しては駄目だと思いながら、止まらなかった。
バンフォードを馬鹿にされ、それを黙っている事がシルヴィアにはできない。
こんな事は、バンフォードは望んでいなかったはずだ。
「生意気な!」
肩を掴まれ乱暴に壁に押し付けられる。
ドンっ! と勢いよく身体がぶつかり、一瞬息が詰まり、反射的にぎゅっと目をつぶった。
「――っつ……」
「はは、女なんてな、男に大人しく従っていればいいんだよ。生意気にも俺に歯向かいやがって。どうせ、あの愚図は助けに来ないさ。いつも逃げてばっかりで」
シルヴィアは果敢にも睨みつけるが、相手はさらに調子に乗ってくる。
「気の強い女は嫌いじゃない。痛めつけてぽっきり折れるところなんて、最高に楽しんだよ」
ぐぐっと、シルヴィアの肩を押さえつける手にさらに力が加わった。
痛みに顔が歪みそうになる。
しかし、苦悶の表情を出したくはなかった。相手を喜ばせるだけだと知っていたから。
「は、放してください! 騒ぎになれば、困るのはあなたでは?」
「それなら、あのデブも困ることになるだろうなぁ?」
騒ぎになれば、きっとバンフォードに迷惑をかけることになる。
そう言われれば、シルヴィアは言葉を飲み込むしかなかった。
どうしよう……、どうしたら――。
シルヴィアが、目をぎゅっとつぶった、その時――。
突然、目の前の男性の顔に、何かがめり込んだ。
そのまま、ぐらりと倒れ込む。
掴まれた肩が解放され、シルヴィアは壁に縋り付いた。
黒い布地が、シルヴィアの視界を奪い、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
「立て」
静かな声に、シルヴィアの方が肩が震えた。
無様にも床に這いつくばっているような相手は、信じられないような顔だった。
そして、それはシルヴィアも同じだ。
黒い布地の男性――バンフォードがカルテットの胸倉を掴むと、そのまま無理矢理立たせた。
「ぐっ!」
カルテットから息苦しそうな嗚咽が漏れて、彼は、明らかに怯えたように瞳が揺れていた。
「シアさんに……何をしていた?」
未だかつて聞いたことのない、声音。
普段のバンフォードからは考えられない声だった。エルリックと言い合っているときとも違う、底冷えがするような低い声だ。
「答えろ、今何をしていたのか」
バンフォードは、相手を屈するだけの威圧を持っているのだと気づかされる。それは、まるでクラーセン侯爵のように。
バンフォードは、性格的に温和で、相手に対し強気に出ることはできないと思われている。それが貴族として、侯爵家の次期跡継ぎとしての欠点だとも言われていた。
しかし、できないのではない。ただやらないだけなのだと、シルヴィアは知った。
「そ、そこの……、女が、誘って――はは! お、お前なんか、す、かれるものか……うぅ!!」
さらに苦しそうに、バンフォードの腕を外そうともがいた。
背後にいるシルヴィアには、バンフォードの表情は見えない。
ただ、彼の発する怒気だけは確かに感じていた。
「シアさんは……シアさんは、お前の考えるような女性じゃない!! 彼女への侮辱は許さない!」
叫び声が反響し、バンフォードが再び腕を振り上げようとした。
しかし、握りしめた拳が振るわれる前に、シルヴィアが腕に縋り付き、その動きを止めた。
これ以上、シルヴィアのせいで誰かを殴ったり、傷つけたりしてほしくなかった。
「バンフォード様! もう、大丈夫です……、わたしは大丈夫ですから……」
力のこもった腕から力が抜け、胸倉を掴んでいた手が、相手から離れた。
「帰りましょう、そして、ここはもう来ない方がいいでしょう。おいしかったので残念ですが」
先ほどとは異なり、今度はバンフォードが帰ろうと口に出す。
そして、がしッとシルヴィアの腕を掴み、バンフォードが歩き出す。
その手が少し震えていたのを、シルヴィアだけは気づいた。
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