4.
それは文章問題の一つ。
ただの計算問題よりも苦手なのか、即座にアデリーンが顔をゆがめた。
「これ、文章読む気にもならないわ。わたしこういう問題が一番嫌い!」
「そう言わずに。計算問題は、必ず答えがあります。しかし、答えにたどりつく過程は人それぞれでしょう。一直線で進む人もいれば、面白い回答方法を思いつく人もいるかもしれません。一番重要なのは、合っているか合っていないかではなく、一辺倒の答えではなく己で考える力を養う、それこそが文章問題の肝だと思います」
「だから、それがね……」
考えることが面倒だと、ため息をつこうとしたアデリーンを遮り、シルヴィアはひどく真面目に言った。
「考えることを放棄すれば、それは生きていく力を失う事だと思います。貴族であらせられるアデリーン様は、何も考えずただ死んだように人形のように生きることをご希望ですか?」
シルヴィアは、己の薄い色の碧眼でアデリーンを射抜くように見る。
アデリーンは、言いかけた言葉を飲み込み、目を見開く。
そして、ふてくされた子供の用に顔をそむけた。
「な、何よ……お、大げさな……」
声に若干の震えが入った。
アデリーンは腕組みをしている手に力が入り、いつの間にか腕をぐっと掴んでいた。
「大げさではありません。一人になった時、考える力が無ければ、ただいいように利用されるだけです」
シルヴィアがそうだった。
子供だから仕方がなかったという人はいるかもしれない。しかし、自我の芽生えた十歳だ。
貴族として少なからず学んでもきた。
本当は、どこかでおかしいとも感じていたが、引き取ってくれた叔父夫婦に逆らえなくて言葉を飲み込んだ。
その結果が、今だ。
何か言っても変わらなかったかもしれない。でも、もし動き出していれば何か変わったかも知れない。
例えば、母親の実家に助けを求めるとか。
思考を放棄して、叔父夫婦に任せていれば大丈夫と言われ、考える事をやめた結果だ。
結局、オリヴィアに助けられたあと、しばらくして母の実家に手紙を書いたが、代替わりして家長になっていたのは母の従弟で、助けてくれることはなかったが。
「そ、そそ、そうだね……、わ、わわ、別れは突然だから……」
ふいに、ぽつりとバンフォードがシルヴィアの言葉を同意するように言った。
ハッとしたように、顔をバンフォードに向けるアデリーンが印象的だった。
ばつが悪いような、そんな様子に、シルヴィアはバンフォードも誰か大切な人を亡くしたのだと悟った。
しんみりとした空気のなか、アデリーンがふうと息を一つ吐いた。
「悪かったわ。もともとは、ちゃんと課題をやらなかったわたしのせいだもんね。でもお兄様、少しくらいは教えてよ。勉強だけはできたんだし」
「べ、べべ、勉強だけでは……」
「勉強だけでしょう。それとも何? 男女のお付き合いの事でも教えてくれるの?」
にやっと笑って、アデリーンがシルヴィアを意味ありげにみた。
その視線の意味を正確に理解したバンフォードが、真っ赤になった。
「こ、ここ、子供なのに、な、なな、何言ってるんだ!!」
「子供じゃないわよ。子供がどうやって生まれるかってちゃんと知ってる立派なレディよ」
「な、なな、な、なな!」
真っ赤どころか、湯気が出そうなほどのバンフォードががくりと力尽きたように、肩を落とした。
「もう、これくらいで真っ赤にならないでよ。言っておくけど、知識として知っているだけだからね? もしかして変な想像した?」
「し、しし、してないんだからな!?」
「…………してたわけね。そりゃあ、ちょっと前まで男性とお付き合いしてた話したけど、もうとっくに終わってるし、お父様も大反対してたもん。たぶん結婚はできなかったわ。素敵な男性だったけど」
確かアデリーンは十五歳だと言っていた。
まだ誰とも付き合ったことのないシルヴィアにとっては未知の話だ。
「キスもしてないのよ。今時ありえないって、友達に言われちゃった」
最近の子は色々進んでいてちょっと怖い。
「き、きき、貴族令嬢が!」
「あら、叔父様ねぇ。今時十を超えたら恋愛して、軽い友達のキス位するんだから。さすがに身体許すのは戸惑うけど……、婚約したら結婚する前に身体の相性くらい確かめるものだって卒業した先輩たちが言ってたわ」
すごい……。
貴族も意外と俗な話をするのは知っていたが、まさか十五歳の子が語るとは。
バンフォードは力尽きて、顔を手で覆っている。
「ねえねえ、シアは誰かとお付き合いしたことある? それだけ美人なら引く手あまたに思えるけど?」
アデリーンの興味津々な問いかけに、恐る恐るバンフォードがシルヴィアを振り返った。
シルヴィアは自分の容姿に関してあまり自覚はない。
貴族の家で働いていると、綺麗な侍女や使用人が大勢いたので、それに埋もれるからだ。
しかし、最近オリヴィアやギルド員たちから、夜は気を付けるように言われるようになった。
美人なのは得だと、あまり仲の良くないギルド員にはっきり言われたこともあったので、それからますます気を付けた。
美人は得かもしれないが、庇護のない美貌は欠点にしかならない。
隠すというのは手だが、この顔は両親がくれたものだ。
容姿は唯一残っている財産と言ってもいい。
それを隠したくはなかった。
どちらか片方に似たのではなく、どちらにも似たこの顔を見ると少しだけ両親を思い出せた。
「ねえ、どうなの?」
いつまでたっても答えないシルヴィアに、焦れたようにアデリーンが再度問う。
「わたしは男性と付き合ったことがないですね。今まで仕事一筋だったので。でも、成人したら少しくらいは恋というものも経験してみたいです」
なんだか少し恥ずかしい。
いわゆる恋愛話をしている自分が不思議でもあった。
なーんだ、意外! と笑うアデリーンに、どこかほっとしたようなバンフォード。
もし誰かと付き合っていたら、さすがに独身貴族男性の家に住み込みで働こうとは思わない。
ちなみにオリヴィアには出発前に、ここの主は使用人には一切手を出さないから安心よ、と太鼓判を押された。
あの時はなぜはっきり言ったのかよくわからなかった。
バンフォードの事を良く知らないとオリヴィアはいいながらも、案外バンフォードの事情を知っていたのかもしれない。
もし知っていたら知っていたで、なぜ教えてくれなかったのが謎にはなるが、彼女はいつもそんな感じなので深く考えるのはやめた。
「なんか、すっごい初々しいのね。お兄様とも合うんじゃない? どっちも奥手だとなかなか先に進まなそうだけど」
「アア、アア、アデリーン!!」
にこりと微笑むアデリーンは、バンフォードが完全に怒り出して課題を手伝わないと言い出す前に、課題のノートを顔に向かって突きつけた。
「ほら、無駄話してると、時間が経っちゃうじゃない! そんな事してる暇ないのよ、お兄様? 手伝って。特に計算問題!」
「~~~~!!」
文句を封殺されて、それでも課題を見てあげるバンフォードは、若干教え方がいつもの様子から考えるに荒い気がした。
うんうん唸る、アデリーンは次第に真剣に取り組み始める。
はじめのからかいが嘘のような切り替えの早さ。
シルヴィアは、少しだけ席を外し、新しくお茶を淹れに厨房へ向かった。
少し火照った頬を隠すようにして。