火の番
この物語は、フィクションであり、実在の人物、団体、事件等とは、一切、関係ありません。
「起きられよ。御坊。」
激しい雨音と共に、雨戸がきしむ音がして、宇慶は目を覚ました。
「何だ。お前か……。」
雨音は激しさを増していた。轟っと、音がして、どこかで、木が倒れる音がした。
「地獄の門戸にならねばよいがな……。」
連れの男は、それだけ言って体を臥した。それから後は、宇慶が、ただ一人、この暗く冷たい壁に囲まれた中で、物音と共に、囲炉裏の火の番をするだけである。
宇慶は、近江の生まれである。先年、宮城の皇尊が、天慶と元号を変えてからも、日本の厄災は止まることをなく、東国では武士が地方の国府を襲撃し、西国では、海賊たちが官船を襲っては、官吏を殺し、都へ送られる租税や他の積荷を強奪していた。
「寝たか……。」
連れの男は、鼾をかいていた。この男は、商人で、彼もまた、近江の生まれだと言っていたが、詳しいことは、宇慶も知らない。
天下の乱が、この後、どうなるのかも分からぬままに、宇慶と、この商人は、深夜、いつ崩れるかも知れぬあばら家に、こうして、細長い火が、ちらちらと流れるその周りを、有象無象の一員として、埋めているのみである。
そもそも、二人は、街道を外れた山道で出会ったのであった。そして、そのまま連れとなり、夕方から、降り始めた雨を避けて、このあばら家に泊まった。それから、一刻も経て、既に、雨は暴風雨となっていた。
「成るがままよ……。」
あばら家の薄壁は、外から吹く風を受けて歪んでいる。その轟音の中、宇慶は、商人が鼾をかいて眠っている方とは、逆の方向を、ちらっと見た。そこには、13、4歳になる小娘が眠っていた。
轟っと音を立てて木が倒れる音がした。娘の白い肌は、衣の裾から開けた両の脚から、宇慶の両の眼に、か細い囲炉裏の炎を通して、映っていた。
「南無阿弥陀仏……。」
宇慶は、そっと手を伸ばした。
「うぅ……。」
か弱い娘の声が宇慶の耳を濡らした。その声を聞くと、宇慶は、すっと両眼を閉じて、娘の体の上を覆っている袈裟がずれているのを直してやった。
娘は、この家の住人であった。二人が、偶然、遭遇したこの山奥のあばら家には、見たところ、この小娘一人しかいなかった。
「かような雨じゃ。御仏の慈悲と思い、屋根を貸してはくれまいか。」
そう言ったのは、商人である。雨風に濡れた遊行聖と商人の二人を、小娘は、その小さな頭を頷かせることで、内に入れることに了承した。家の中で、雨風に濡れた衣を乾かすため肌を露わにした二人の姿を、娘は、じっと見つめていた。
「生娘よ……。」
隣で裸になっていた商人の呟きが、宇慶の耳を、じっと湿らせた。そして、脱いだ衣を炎に当てがうと、二人は座に付いた。
「雨足が強うなっておるじゃて。隙間風も多くござる。我等は、凍えかけの身、故、寝入る時は、火を絶やさぬようにせねばなるまいな。」
そう提案したのは商人であった。
「雨が止まることを知らぬ……。」
ガタガタと揺れる家屋と、体を湿らす隙間風に凍えながら、黙って、宇慶は火の番をしている。
「南無阿弥陀仏……。」
宇慶は、旅の遊行聖である。そうではあるが、そうなったのは、つい最近のことであった。彼は、6歳で、親を無くし、乞食となった。14歳で、人を殺し、物盗りとなった。都に上った彼は、六条小路の荒れた貴族の屋敷を根城にしながら、強盗の類をして糊口を凌いでいた。
「おい。」
ある日の夜、大路の隅で、太刀を抱えて、夜の闇を見つめていた宇慶の目の前を、影とも人とも思えぬ暗闇が通り過ぎて行った。
「おい。待て。」
この頃の、強盗の手口は、通り過ぎる人影に声を掛けて殺すことであった。宇慶も、また、誰かに教わる訳でもなく、自然と、どこからかそれを身に覚えて、実行していた。
「おい。待てと言っておる。」
そのまま、通り過ぎようとする暗闇を、宇慶は追った。不思議なことに、その靄が掛かったような暗闇は、宇慶が近付く度に、離れ、その形を変えた。掴もうとしても、掴もうとしても、離れて行く靄は、その暗闇が、ふと振り向いた瞬間に、辺りを照らす後光となっていた。
「乞食か。」
後光から現れたのは男であった。その男は汚れた衣を纏い、手には鹿角の杖を持ち、首から鉦を掛けていた。
「いや。お前が、仏という者か。」
そのような存在が、この世の中にいることを、宇慶は、噂で知っていた。この月も曇に隠れたような闇夜の中で、目の前の男の周りだけは、明るく輝いている。宇慶は、そのような得体の知れない存在を、今まで見たことがなかった。それ故、今、目の前にいる乞食のような姿をした者は、世に聞こえる仏という者であろう。宇慶には、それが、有難い存在なのか、畏怖すべき存在なのか、はたまた、忌避すべき存在であるのかは、理解できない。ただ、目の前の男は、今まで、見たことがないような明るさで、輝いているだけである。
宇慶は、偶然、出会った、この聖人に付いて、阿弥陀仏と浄土信仰を学んだ。
「南無阿弥陀仏…。」
聖人に付いて学んだとは言っても、宇慶が教わったのは、それだけであった。
「南無阿弥陀仏…。南無阿弥陀仏…。」
しかし、彼には、それだけで、十分であった。遊行聖となった彼は、師の真似をして、自らも、首から鉦を下げ、手にした撞木で鉦を叩きながら、彼の宝物である六文字の称名を唱えた。
「南無阿弥陀仏…。南無阿弥陀仏…。」
彼がそう唱えると、彼の意識は虚空に消えた。そして、残るのは、仏の姿となった南無阿弥陀仏の六文字だけである。彼の口から生まれる仏の形は、言わずもがな、師である上人の姿であった。
「南無阿弥陀仏…。」
都の大路小路を、鉦を叩きながら、宇慶は歩いていた。通りには、有象無象の人間たちが、屯している。その光景は、彼が、物盗りをしていた頃と、変わることはない。しかし、その群像の中を歩く我が身だけは、南無阿弥陀仏の六文字と共に、かつて、闇の中で見た、あの神々しい光を放つ師の姿のように、真っ白な何もない空間の海に、燦然と輝いているのを、宇慶は自覚していたし、それが、また、彼の揺るぎない自信の現れでもあった。
「ぐおっ……。」
その瞬間、商人の掠れたうめき声が、虚空の海に泳いでいた宇慶の耳を驚かせた。寝返りを打った男の胸元には、白刃の懐剣が、囲炉裏の炎に煌めき、薄汚れた鞘だけが、男の傍らに転がっている。
「この男……。」
宇慶は、先ほど、己が寝入っている間に、商人が、何をしていたのかを知っていた。そして、未だ止まぬ暴風雨の破壊音の中に、立ち上る娘のか細い声音を聞いていた。自分が目覚めた時、薄明かりに現れた男の顔色と酸んだ体臭、娘の開けた衣と、眠る前に、宇慶が娘に掛けた生乾きの袈裟の乱れ。そして、今、男の懐から、怪しい輝きを見せている懐剣。男が娘に抱いた欲情の言葉。それらは、止まることを知らず、真っ白な虚空の海に溺れていた宇慶を侵蝕し、何度も、何度も、繰り返し、泥のように押し寄せては、堂々巡りの答えを宇慶の頭の中に反芻させていた。
「南無阿弥陀仏……。」
この薄壁に囚われた暗闇の中で、宇慶が唱えた六文字の称名は、仏の姿にはならなかった。ただ、それは、彼の口から、温かく湿った吐息と共に出るや否や、泥っとした粘っこい粘液となり、毒々した油のように、彼の口元から、離れず、纏わり付いていた。
「南無阿弥陀仏…。」
それでも、宇慶は、称名を唱え続けた。そして、炎が煌めく中、彼は、商人の懐に腕を伸ばし、掴んだ白刃の懐剣を握り、男の喉元をぐっと押さえた。
「南無阿弥陀仏……。南無阿弥陀仏……。」
よく分からないうめき声と共に、男は死んだ。残ったのは、囲炉裏の小さな炎と、男の寝ていた筵に滴る血潮だけであった。宇慶が唱えていた称名は、いつの間にか、消えて、辺りは、また、真っ白な、何もない空間に戻っていた。
「うぅ……。」
あばら家の外では、暴風雨が続いていた。その嵐の音は、男のうめき声も、娘の鳴き声も、宇慶の悔心も、何も知らぬ顔で、吹き続けている。
「寝るか…。」
血に汚れた懐剣を捨てると、宇慶は眠りに付いた。その瞬間、宇慶のか細い悔悛の情は消えた。その代わり、辺りには、囲炉裏の炎だけが、未だ、微かに、その命脈を保っていた。
翌朝、囲炉裏の火は消えていた。嵐も止んでいた。ただ、あばら家だけは、倒壊していた。その中で、奇跡的に命の助かった宇慶は、半壊するあばら家と、倒れてきた木の幹の中から、白い肌の小娘の姿を引っ張り出し、そのまま、手を引いて、山奥に消えて行った。消え行く二人を後に、あばら家の残骸と共に残されたのは、倒壊した木の幹に潰された、あの商人の死体だけであった。
「南無阿弥陀仏…。」
嵐が過ぎた後の静けさの中で、去り際に、宇慶の唱えた六文字の称名は、商人の死骸を、小馬鹿にするように、金銅色の仏の姿となり、倒壊した家屋の上に、六体そろって、その姿を、明るく輝かせていた。