後編
富士子
スーパーにつくまでに、運転は制服の警官に任せて、もう一度、直接タクシーのドライバーに電話をかけて、話を聞いてみた。
乗車してきたときの里美は顔色が悪くて、ガタガタと震えも来ていたようだったが、行き先が病院だと聞いて納得したとのことだった。救急車に乗ってもいいぐらいだが、中には救急車を呼ぶことを躊躇する人間も多い。あのサイレンを鳴らされて、近所的に大事になるのが嫌だと思う人は多いのだ。
分からなくもない。おかげで、救急車代わりにタクシーで病院に駆けつける人は多い。そうした旨の発言を一気に語った後、それが急に行先が変わったのでおかしいとは思ったのです。と、くだんのドライバーは続けた。
そう言えば、何かをぶつぶつと唱えていたようにも見えたが、それまではじっと閉じた目をハッと開けたかと思うと、突然に思いついたように、行先を変えるように指示を出したのだという。
こういう具合の悪そうなお客さんを乗せた時は、何かあったらいけないので、頻繁にバックミラーで客の顔を確認するようにしているらしい。言い訳とも、自慢ともどちらともとれるような口調でドライバーはそう語った後、一応気後れはするように装って、富士子に対して、詳細を聞こうとしてきた。
心配を繕った好奇心が丸出しだったので、一喝したかったが、丁重に礼を言って電話を切った。まあ、それでもしばらくは彼がこの話を自慢げに、辺りかまわず語る様子が目に浮かんだ。
うんざりするのは野次馬根性なのだ。交通事故現場で、事故見渋滞する対向車線。どうして、普通に通り抜けられないのだろうと、いつも思ってきた。
向こうはおそらく気が付いてない。交通整理をするこちらからすると、野次馬は一目で、その性向も含めてわかるのだ。あの間抜け面。間抜け面の列、列、列。
その間抜け面にも種類がある。同情に満ちた、しかし単なる好奇心。あるいは純粋な好奇心のみ。他人の不幸を喜ぶ連中。わが身に置き換えて考えている悲嘆に満ちた人の顔。これが自分でなかったことを感謝する顔。破壊された物体を異常な心理と、興奮をもって眺める連中。引き裂かれ、原形をとどめなくなった鉄の塊から、何かを感じ取ろうとする、貪欲な顔。その後で、興奮した語り口で物語られる経験談と、それを喜んで聞く人々の姿は容易に想像できてしまう。
それらの顔が、様子が、いったん心に焼き付いてしまったら最後、なかなか消え去ってはくれない。強烈な体験として、暫くはトラウマになってしまう。まあ、それは何処の、何の現場でも同じことだけれど、路上の事故と言うのは、永遠に途切れることのない観客を抱えた舞台のようなもので、一番質が悪かったのは確かだ。
そうした負の履歴を持ったうえで、聞き取りの調査と言うものは欠かせないからするのであるが、聞き取られる人々に垣間見られる隠し切れない好奇心が、その負の履歴をさらに下さげするのには、どうしようもない苛立ちを感じるのであった。
心の温度を低くする。何も感じないように。自らコントロールする。
それが出来た後で、おもむろに、
「仕方ないわよね」車の中でそう呟いて、ガス抜きをした。発言は必ずコントロール下で行う事。これが秘訣のようなものだった。
心が昂っている時は発言してはならない。そうしておいて、戒める。自分だって、こんな仕事でなかったら、きっとあの間抜け面の中に入っている。
制服警官がちらりとこちらを見る。応対の様子から、だいたいは察してくれたらしく、黙っている。
「着きましたよ」スーパーの駐車場に車を乗り入れて、警官が言った。
「有り難う。ここで待っていて。被害者の妻が現れるかもしれないから、周りを見張っていてね」そう言って、車を降りる。
いかにも田舎の小さなスーパー。最低限の品ぞろえを、山のように積み上げて地元の人々の要望に応える店。若い人たちは欲しいものは、他の店で買い。買い忘れや、急に必要になったものだけを買う。ほとんどの客層は、あまり遠くに行けない年金暮らしの老人たち。そんな人たちがつましい生活の必需品を買う店。特別なものは一切置いていない。流行り物や、最新のものとは無縁に見える。どこまでも定番商品が並ぶ棚。逆にここに並ぶ商品は不動の安定商品だともいえる。いつまでもこのままで、昔からずっと変わっていないのだろう。
その店を外から観察しながら、ゆっくりと店内に入る。特売の果物を置いた篭をわきに通り抜けて、野菜コーナーを通過すると、野菜を並べながらエプロンをつけた店員が挨拶してくる。祥子ではないなと見当をつける、少し年上のようだ。
「警察のものですが、石田祥子さんはいらっしゃいますか?」
「警察」ちょっと言葉に詰まって、「居りますよ。呼んできますね」と、奥に引っ込んだ。野菜コーナーの奥はチルド品になっている。そのさらに奥が鮮魚コーナー、その前に店員が居て、どうやら彼女が祥子のようだ。
美人だった。富士子は自分の事を美人と思ったことはない。昔は美人を見ると、自分があんな風になれたらどれだけ良いかと、想像したものだ。
しかし、この仕事について、災難や不幸と言うものは、人の見た目や優劣に関係なく降りかかるという事をいやと言うほど知らされた。そんなことが少しずつ富士子の気持ちを変えていったのだ。
富士子が自分の外見を気にしなくなって随分と経つ。そうなってしまうと、見た目を気にしないで、食べたいものを、食べたいだけ食べることに抵抗がなくなり、こうなってしまったという事なのだ。
だが、富士子にとって、食事と言うのはストレス解消の一番の方法だった。食事が終わると直に、次は何を食べようかと、そのことを楽しみに生きている。食べ物の事を考えると、おなかが空くので考えないようにしているのだが、これが止められない。
食べる事、そして自分の好きなものを料理することが大好きなのだ。だから、普通はスーパーなどに来るとついつい食材に目が行ってしまう。しかし、今日はその余裕はない。もちろん、伝えるのが辛いことを切り出さなければならないからだ。
「石田祥子さんですね。ちょっとよろしいですか」外に出るように促す。
入口の自販機の横にアルコーブになっているところがあった。そこにちょうどベンチが置かれていて、目をつけていたのだった。
「申し訳ありませんが、石田さんをお借りしますね」同僚の店員にはそう言って断りを入れた。怪訝そうにこちらを見ている。
「悦子さんごめんね。ちょっと行ってくるね。いつもごめんね」祥子はすまなそうにそう言った。
悦子と呼ばれた店員が明るく返す。
「大丈夫だよ。今日は店長もいないし。良いようにしておくよ。気にしないで」
その言葉を背中で聴きながら、富士子は先に歩いて、外に出て、祥子にアルコーブのベンチに座るように促した。
「いいお友達ですね」
まずはあたりさわりのない所から切り出す。言う方も大変なのだ。
しかしこのような時に富士子の愛嬌ある体つきは、対面者をリラックスさせるようだった。福々しいとでもいう、丸い顔は、人を怖がらせることはないのだ。また、体は太ってはいるが、もともと運動神経は良かった。それが動きに出る。体感もしっかりしている。立ち姿もまっすぐで、ある意味不思議と軽やかで、きれいなのである。
そして、声がよかった。人を落ち着かせる声の持ち主なのだ。話し方も、自然と聞き手を自分のペースに引き込んでしまう、穏やかな語りかけは聞き手をやはり穏やかに納得させる力を持っていた。
この語りで幾人の容疑者が自白したことかわからない。そのことで、心ない、やっかみ半分の悪口を言われていることも知っている。太った女性が、男性社会で、いや男性社会でなくても、どういう風に扱われるかは、自分が一番知っている。
もちろん被害者の身内をなだめる役目だって、幾度回ってきたことかわからない。富士子は自分がそれを得意だと思ったことはないし、都合よくつかわれていると感じることもあった。動揺する被害者の身内を落ち着かせたり、重要な事柄を説明するのはいつまでたっても慣れないし、慣れてはいけないと思っている。自分にとって数ある被害者の一人でも、それぞれは違うのだ。
「実はお父さんが、事件の被害者になりました。刃物で刺されて、病院に搬送されましたが、今は危険な状態です」
そう言って、祥子の膝に自分の手を乗せ、目をしっかりと見据えて、うなずきかける。
祥子はその目を見開いている。その目は、その話が初めて聞く話であることを表している。しかし、何かが引っ掛かった。なんだろう?鼓動がいつもと違う打ち方をする。
加害者が確定するまでは、純粋な被害者の身内と言うのも不確定である。それはわかってはいるが、
「それで、お母様がこちらへ向かったようなのですが、タクシーでここまで来て、そこからの足取りが不明なのです。祥子さんはお母様には会われていないようですが・・」
祥子が朦朧とした状態から、現実に戻った。父の事に我を失って、母親をさらに危険にさらすわけにはいかない。いや、危険?どういうこと?ありえない。しっかりしろ。
「不明と言うのは?」
「お父様の件で、連絡が行きまして、その際、お母様にはお父様が怪我をされて、病院に搬送されたところまでしか説明しておりません。詳細は病院でする予定でしたが、その後病院には現れず、足跡をたどって、ここに来たことが判明しましたので、こうして伺っております」
「わかりません・・・どういうことなのか。わかりません」
祥子はまた朦朧とした世界に戻ったようだった。
「病院に、我々とご同行ください。お父様の事で聴きたいこともありますし。あの車です。お仕事場には、もう少し時間をいただくようにお願いしてきますので、先に乗っていてください」
富士子がそう言うと、祥子はぼんやりと立ち上がった。富士子は、祥子が車へ向かう姿を確認すると、スーパーへ入っていった。
さっき悦子と呼ばれた女性は入り口の掃除をしていた。おそらくここから様子をうかがっていたに違いないが、二重扉の内も外も分厚いガラス製なのだ。聞こえることはないだろうと思った。
「今日はもう戻れないかもしれませんが、後で連絡するように言いますので、ご迷惑をおかけしますね」
掃除道具ごと手を振り回すようにして、大丈夫と言うサインを送りながら、悦子と呼ばれた女性が、これに応える。
「何があったか知りませんが、よほどの事でしょう。全然かまいませんよ。困ったときはお互い様だもの。田舎のスーパーですから、何とかなりますよ」
ここまで一息に言って、もじもじしている。何か聞きたそうな様子だったが、これには応えずに、
「よろしくお願いします」と、それだけ言って外に出た。
車に戻ると、祥子は青い顔をして視線を足元に固定しながら、待っていた。
「悦子さんに頼んできましたよ」と、富士子が言うと、うつろに目をあげて、口を開き何かを言いかけたが、声に出ないようだった。性も根も尽き果てたという表現がふさわしい。
富士子はこのようになった人間を何人も見てきた。数分で、幾年も年を取ってしまったように一気に老け込んでしまうのだ。精神への打撃が、肉体に及ぼす影響の大きさに、いつも驚かされてしまう。
そして、抜け殻のようになった祥子を乗せて、車は病院へ向かう。
祥子
最初の男性からの電話では、一抹の不安はあったものの、大したことはないという確信めいたものがあった。主たる問いかけは里美の行方である。里美は宗教に凝ってはいるものの、芯の強いしっかりした人物なのだ。
祥子は里美の宗教には興味はない。かといって毛嫌いしているわけではない。それどころか、里美をはじめ、この同じ団体の女性たちがいつもとても元気でバイタリティーにあふれていることに感心しているのだ。
いわば、彼女たちにとっては、宗教活動がいい意味で生きがいになっていると言っていい。とかく世間では様々に言われがちな、里美の宗教団体ではあるが、里美が活躍の場や、喜びや悲しみを分かち合える仲間を得て、そこからいいものを得ている限りは言うべきことはない。
もちろん里美にはそれこそ、うんざりするほど話は聞かされてきた。それはそれで迷惑には違いないが、少し時間を取られてしまうだけの事だし、些細な事ではある。好意から発したことなのだし、何よりも里美が居なければ、聞けなかったような話を聞けたことが有り難いと感じたこともあった。
その時は鬱陶しくても、後で知識が生かされ、見解が広がるようなときだ。中でも釈迦の生涯とその思想には感銘を受けた。
宗派の教えでは、釈迦は今世に生まれる前から、それもずっとずっと前から、これは輪廻転生を信じる宗教ゆえの話ではあるが、いわゆる遥か昔の前世において、もうすでに悟っていたという。
これはどうも、祥子には賛同しがたい話であった。宗派としては、その始祖を神格化したいのは理解できることだが、釈迦の魅力は、苦悩する一人の人間が、その一生中に成しえたことの大きさや、たどり着いた知識のシンプルかつ美しい事のすごさなのであって、それ自体で十分であるはずなのだ。それが分からない、物足りないと感じて、何かを付け足してしまうことが、実に残念な事だと思う。
朦朧とした頭で、このような時に釈迦はなんといっていたのだろうかと、思いをめぐらした。身内に不幸。これはかけがえのない大切な人だけにやりきれないものがある。
そう言えば、こんな話が有った。子供を喪い、悲しみのあまり釈迦に救いを求めたある母親がいた。釈迦はその母親に向かい、誰も亡くなったことのない家から豆をもらってくることが出来たら、その子供を生き返らせてあげよう、と言う。喜んだ母親が、村の家々を訪ねて歩く。ところが、自分よりもはるかに幸せそうに見えた家々にも、死に別れた人々が居ることに、何処の家にもいることに気付かされてしまうのだ。そうなのだ、人の不幸と言うものは誰の身の上にも起こること。逃れられない苦しみなのである。
いや、と祥子は思う。父は事件の被害者なのだと、この刑事は言ったのだ。つまり、その苦しみが、誰かほかの他人によって、思いがけず突然にもたらされてしまうという事は、また話が違う。
しかし、これに対応する話は、祥子の知識の中にはなかった。しかし、その苦しみを他人にもたらそうとした人の話なら、思い出すことが出来た。提婆達多。彼は人殺しを望んだ人である。教団のナンバーツーでありながら、釈迦をねたんで、こともあろうに釈迦を殺そうとしたのだ。
しかしその後、聖者になったのじゃなかったっけ?この辺りよくわからない。きっと改心したのだわ、と思う。けれど、加害者が改心したとしても被害者側は、釈迦ならともかく、決して許さないだろうと思う。加害者はその責めを背負ったまま生きるのか。そうに違いない。
だが、いくら考えても、傷つけられた側の苦しみを癒してくれるような話は思いつかなかった。こんな時母なら、どのように考えるのだろう。そして母は何処に行ったのだろう。自分はいま大きなうねりの中にいる。いつからこんなことになってしまったのだろう。いつになったら、これは終わってくれるのだろう。いや、父がこうなった時点で、これが始まりで、もう終わらないのかもしれない。
ずっと、続いてゆくのだわ。と、思うと、窓の外を見ながら、涙が止まらなかった。助手席に座った、女性刑事がミラー越しに覗いて、目が合った。優しい目をしている。刑事と言うのは、こんなに優しかったのだと、思った。この人たちは、きっといろいろなことを見てきている。私を癒してくれるのは、きっと仏教の話などではなく、この人のような人なのだ。この刑事さんでよかった、そう感じて、その思いが伝わればいいと思った。
病院に着いて、入り口を入ると、短髪の男性が駆け寄ってきた。おそらくこの人が私に電話をくれた刑事さんなのだろう。
「こちらです」と、言葉少なに、誘導して先に歩いていく。そして祥子は、ガラス越しに父と対面することとなった。
変わり果てたという形容詞は常套句ではある。しかし、その通りだと思った。機械につながれ、かろうじて生かされている肉体はあるが、魂は入っていないように思える。意識が無いのだ。寝ているようにも見えるが、そのような事からは全くかけ離れていた。デスマスクのようなその表情。
祥子の頭の奥で何かが光ったような気がした。
「お父様ですね?」そう、男性の方の刑事が尋ねてくる。
祥子は黙ったまま頷いた。喉がカラカラで、乾ききっている。声は出ないだろう。関節から、力が抜けてゆくのを感じる。膝が震えている。脳が何も処理しない。見えているものは、目に入ってはいるが、意味を持たないように、その存在だけが認知できるのみだ。そのうちすべてのものの輪郭がボケてきた。対象に焦点が合わなくなっているのだ。崩れてしまう寸前で、女性の刑事が肩を両手で支えてくれた。
「向こうに行きましょうか?」と、顔を覗き込んでくる。頷いて、廊下に出て、そこにあったベンチに座った。隣に座って女性の刑事が膝の上に手を添えてくれている。耳が何かをとらえるが、意味が分からなかった。
阿久根
久しぶりの聞き込みに張り切って出てきたものの、なかなかいい証言は得られなかった。現場は寂しい場所にポツンとある公園である。道路を挟んで大きな変電設備があり、そのため周囲に人家はない。いや逆だ。人家のない所に変電設備を作ったのだろう。公園は、その時の区画整理の余りの土地に、とりあえず仕方なしに作られたようだ。
だから、この公園は誰のニーズもないように見える。実際にそうなのだろう。さらに遊具は有っても、雑草に埋もれたようになっており、管理はいい加減で、一層、誰もこんな場所では遊ばないだろうと思われた。
この場所自体が田んぼや畑に囲まれており、公園の北側は道路で、人が近寄ることが出来るのが、そこだけ。南側は田んぼに水を引くための池があり、さらにその池からは水路が東西に延びていて、公園の周りを囲んでいた。さらに公園の外周沿いに夾竹桃が植わっていて、このような手入れのされない公園の夾竹桃にありがちな伸び放題の様相を呈しており、外からは死角が多い。
一方で、変電設備を取り巻く比較的大きな幅の外周道路に面してはいるものの、この道路はどこかへ行く途中の道ではないようだ。国道から入ってきて、変電設備に資材を届けるための道路とでも言おうか、わざわざここに来るのは、何処に行くのも回り道になってしまうと見えて、交通量も少ない。
鑑識が周囲をまだ探っていたが、野次馬さえ来ないような場所なのだ。発見者は外周道路を休みの日の午前中に日課でジョギングする男性。仕事の休みは不定期で、今日はたまたま休みだったそうだ。
石田雄一郎はこの場所には自動車で来ていた、今日は仕事の日だが、出勤前にここに寄ったらしい。かなり早朝という事になるが、公園の隣接駐車場に車を停めて、公園内に入っていき、ちょうど一番奥の池の手前、ベンチのそばで刺されて、草むらの中に倒れていた。
発見者がもう少し遅ければ、手遅れだっただろう。上着は車の中に残されていて、もちろん長居する気はなかったと見える。誰かにここに呼び出されて、その時に刺されたのか。その誰かも、やはり自動車もしくはバイクなどで来ていて、犯行後にはそれで現場を去ったのか。徒歩や公共の交通機関は離れすぎていて可能性は考えられなかった。
件のジョギングの男性は10キロほど走るそうだ。外周道路を回って、2キロ、その男性の自宅まで片道4キロ。それがコースらしい。その男性の自宅周辺まで行けば、人家は散見されるようになる。4キロと言えば歩いて一時間はかかってしまう。まあ走れば、24分かそこらと言うところだろう。隆二ならそれくらいだ。あいつも10キロ走ると言っていた。1時間ほどかかるそうだから、そんなもんだろう。
阿久根は首を振った。とんでもない話だ。俺だったら死ぬね。普通はそうだろう。だから鑑識は、駐車場の方を血眼で探しているが、この駐車場はたちが悪かった。いわゆる、自然な駐車場というやつで、表面を覆うインターロッキングには意匠上の穴が無数に空いている。そこから土が見えて、雑草が生えているのだ。車のタイヤが雑草を踏みつけても、倒れた雑草は元に戻り、タイヤ跡は消えてしまうそうだ。足跡もしかり、地面部分がないほど草が茂っていて、これはしんどい現場と言えた。
また、発見者は駐車場の方は見なかったと言っている。まあ、それどころではなかっただろう。その瞬間に、周囲を見回す余裕があったとは思えない。
その上駐車場でエンジンをかけた時、ここから聞こえるかどうかは距離的に微妙だった。夾竹桃は駐車場と公園の間にもあって、視覚を遮るのももちろん、音すらも遮断するようだった。発見時にはもう立ち去っていたのかもしれないし、発見者の登場で慌てて現場を離れたのかもしれないが、それはわからない。
発見時に、雄一郎は白いシャツを着ていたが、それが幸いしたようだ。発見者は走りながら、目の端に何かをとらえたような気がしたと言っている。それで、初めてその方向に目を向けることが出来たのだ。これが暗い色彩の上着を着ていたなら、目に入らなかったかもしれない。
また、これが盛夏でも、さらに草むらの背丈が伸びてしまって、目立たなかっただろう。今の草むらの背丈では、完全に隠れてしまうほどではないが、それが幸いしたと言える。
実際にその場所に立ってみて、発見場所に鑑識員に伏せてもらい、現場を見てみたが、納得だった。そちらの方を何かの目的を持ってみない限り、見えるものではない気がした。発見者がそのまま通り過ぎたとしても全く不思議ではない。それどころか、発見されたという事のほうが偶然と言えるような状況だった。
「よくもまあ、この場所を選んだものだなあ」近くにいる若い鑑識員に誰彼となく話しかける。
「こんな場所誰も来ないだろ?どうしてここなんだ?」
「暗くなると、あの駐車場はカップルの車が数台停まっているらしいですけどね」
「カップル?ああ、アベックか。だろうな」
たしかにここは穴場だ。ニヤリと笑った。俺にはもう関係ないことだな。そんな時はとっくに過ぎた。
「アベック?」若い鑑識員が不思議そうな表情をする。
「フランス語だよ。言っとくけど名詞じゃないぞ。なんて言ったかな?忘れたがとにかくフランス語だ」
これって死語か?と、阿久根は今更ながら驚いた。昔、阿久根が好きだった菓子パンにアベックと言う名の商品が有ったのだ。中学の学食で販売していて、人気商品だった。昼のチャイムが鳴ると、ダッシュで買いに行かないと、無くなってしまう。阿久根はよくパシらされたものだった。
2つのコッペパンの間に生クリームを挟んで、さらにチョコレートがたっぷりとかかっている。まあ、あれは完全におやつなのだが、教師の間でも人気が有って、その中の一人がこれはフランス語だと、教えてくれたのだ。
「まあ、昼間や早朝はずっとこんな感じなのだろう。ここに土地勘がないと、無理だな。被害者もここに呼び出されたってことは、何かあるのかもしれないな」
携帯を取り出して、富士子の番号にかける。確か、娘を迎えに行くとか連絡が有った。もしかしたら、娘が何か知っているかもしれない。
富士子
「変電所ご存じですか?」阿久根の連絡を元にそう切り出した。犯罪にはもってこいの場所だそうだ。富士子と祥子は病院から別室を借りて、事情聴取をすることにしていた。
一刻も早く犯人を見つけたいので協力お願いしますという言葉に、祥子も協力的だった。先ず話題は現場の事になった。そこは偶然にたどり着けるような、また通りがかりに行けるような場所ではないらしい。少し特殊なその場所にわざわざ呼び出された可能性のある被害者と、加害者の接点、共通点が何か見つかるかもしれない。何かその場所に意味があるのだろうか。
「知っています。公園のそばですよね」祥子が応える。少し落ち着いてきたようだ。
「お父さん、仕事の前にそこに、その公園に居たのです。この場所、お父さんはよく行かれていた場所のですか?ちょっと寂しい場所ですよね」
祥子の表情に不審な色は浮かばない。疲れた表情で、少し笑いながら、
「ええ、お父さん。釣りが好きで、この公園の裏の池、よく行っていました」
行きつけの場所。富士子はメモを取った。釣りの仲間?と横に書き入れる。
「釣りは一人ですか?」早速口に出た。
「そうですね。一人で行っていましたね」
「一緒に行ったことはありますか?現場でご友人のような方がいるようなお話はなかったですか?」
「小学生くらいのころに一度ついて行ったことはありますが、一人で釣っていたような気がします。そう言えば、ときどきSNSに写真をアップしていました」
「見せてもらえますか?」
祥子は自分の携帯を取り出して、操作するとその写真を見せてくれた。魚が写っている。大きな口で、日本の魚ではないように見える。これは何だろう?
その時隣にいた隆二が口を出した。
「ブラックバスですね。良いねは2件か、これは誰と誰ですか?」
「これは私と、お母さんです。ソーシャルと言っても、家族内だけの発信なのですよ。元々は、お父さんが凜の、私の娘ですが、様子をこまめに見たいと言い出したのがきっかけで、始めました。だから、家族だけのつながりでやり取りしています」
そう言って、祥子は少しスクロールした。なるほど、殆どが小さな女の子の姿が写ったものだった。その中に時折祥子と二人で写った写真が混ざっている。仲のよさそうな親子だった。
しかし、ある種の違和感があった。凜と呼ばれた、祥子の娘だが、普通ではない様子がうかがえた。また、お世辞にもかわいいとは言い難い。
富士子は自分の子供時代を思い出した。クラスではとことん虐められた。小学生のころから、富士子も可愛くなかったし、少し太ってもいた。男子は触ると汚いとか言って毛嫌いしていたし、女子は知らん顔をして誰もかばってくれなかった。
あの男子の顔。自分はおもちゃだった。人ではない。あのむき出しの欲望。あの時、当事者となって初めて、人間の本質に気が付いてしまったのだ。人は誰かを虐めなくては気が済まない生き物だ。
子供と言うのは、人間の本質が隠されることなく生きている。水槽の中の美しい熱帯魚が、一匹の弱った魚を見つけると、皆でいじめ倒して、ボロボロにして最後には死に至らしめてしまうように、人間と言うよりも生き物の性なのかもしれない。
それは変えられない事なのだ。あれは中学生になるまで続いた、とおぼろげに考える。生徒だけじゃない、あの英語の若い男のハンサムな先生。
最初の授業の時は、意味もなくうれしくて、先生に注目されたいと、ドキドキしたものだった。だが、先生は美人にはめっぽう甘くて、デレデレしていた一方で、あからさまに富士子には厳しかった。
教室はそうした雰囲気には敏感で、誰もが気が付いているが、それについて意見することはない。富士子の恐怖はクラス全員の、ある意味期待となる。
席順で当たる時、上機嫌だった先生の表情がこわばる瞬間。それは次が富士子の順番である。そうなると、とても授業どころではなかったことを思い出す。頭が首にめり込みそうになるほど、先生の前では小さくなった。話が耳に入らずに、英語の成績は最悪の状態になった。
幸いにもその先生が英語を担当したのが1年だけだったので、助かったが、いったん遅れてしまった授業についていくのはつらかった。その後、受験でもさんざんに苦労したが、受験が終わると、朝露が太陽の光で消え去るように英語の知識は無くなってしまった。
それ以来、英語は富士子にとってのトラウマなのだ。しかし、そんな人生でも凜の母親のような理解ある人が近くに居れば、また全然違ってくるだろうと、思う。
その凜の様子をこまめに見たいがためにだけ、SNSに登録をする雄一郎と言う人もまた、凜にとっての良い存在だったに違いない。
正直、富士子は羨ましかった。担当する被害者や、その身内に特別な感情を持つことはあまり進められることではないが、土台そのような事は無理なのだ。警官だって人間なのだ。
富士子は祥子に好意を感じていた。雄一郎に対してもそうだ。だから、出来るだけの事はしたいと、そう思った。とりあえず、場所の共通点を持つ人間に当たることにしよう。
「お父さんの行きつけの釣具屋などは心当たり有りますか?」
隆二
「ああ、変電所横ね。有名なポイントですよ。ウィードベッドのある池が隣接していてそこはメートル級の雷魚もいるからね。もとはため池だから、深くないし、木陰なんかは日中でもトップで出るから」
初老の店主は、嬉しそうにそう語った。ウィードベッドと言うのは水草で水面が覆われた場所。トップは水面を探る釣り方。
雷魚は、タイワンドジョウとも言い、英名をスネークヘッドともいう蛇の頭を持つ魚で、ドジョウのイメージはない。隆二などの年齢にとっては台湾のイメージはまさにこれが象徴する熱帯の土地だった。
台湾と言えば、今ではありとあらゆる工業製品がそのイメージを覆しているが、ロードバイクやパソコンなどが、優秀だと聞かされてもピンとこない。
ともかくこれは肉食の大型魚で、ブラックバスと同様、ルアー釣りと言う疑似餌を使用するゲームフィッシングの対象魚だ。
もちろん店主はいちいちそのような専門用語の説明などしない。隆二は自分が釣りをしていたので理解できるが、これが阿久根や富士子なら、ちんぷんかんぷんだろう。
そう、隆二は隣町の釣具店に来ていた。ここが、雄一郎の行きつけの釣具屋という事らしい。古い釣具屋だが、昔のタバコ屋のような外見の地味さとは逆に、店に入ると、いきなりヘドン、ラパラ、コーデル、などの昔からのルアーメーカーのルアーが色も形も様々に、その極彩色の色合いを競うように、所狭しに並んでいる。
だが、通常のルアー店と違って、店の品格をあげているのは、フライという西洋毛ばりの道具が多い事だ。バイスと呼ばれる万力や、ボビンなどのステンレス製の小さな糸巻きは素人が見たら、何に使うのかわからないだろうし、鳥の羽が袋に入って色とりどりに並んでいるのも、ここは何屋さんなのだろうと思わせるに違いない。
ワームと呼ばれるプラスチック製の柔らかい疑似餌に使われるオイルの発する甘ったるいグレープの香りが店内に漂うが、そこに交じってほんのりとゴム臭いのは、壁にかかっているハーディのゴム引きのフライバッグからと思われた。
ハーディは英国の古いフライ関連のメーカーである。防水のために、帆布のバッグにはゴム引きのインナーが仕込んである。これが新しいうちは、いや多少古くなったとしても、かなり強烈にゴムの匂いがするのだった。
隆二はこれで高校時代通学していた。自分も釣りが好きだったので、ルアーもやったし、フライもタイイングと言って、落ちている鳥の羽を水辺で探して、毛針をまくことまでやった。
そして、ある日、釣具屋でこのハーディのバッグを見て、その武骨さにほれ込んだのだ。高校生には高価だったが、アルバイトして手に入れた。
ところが、これを教室に持ち込むと強烈な臭いがしたものだった。いくら優れていても、場所に似つかわしくないものと言うものはあるのだ。知らん顔をして過ごしたが、教室の友人たちは隆二の机のそばまで来ると、きょろきょろと不思議そうに辺りを見回したものだった。
しかし誰もカバンがゴム臭いとは気づかなかった。きっと上靴のゴム底の匂いだとでも思っただろう。実を言うと、このインナーは取り外しが可能なのだ。しかし、そのまま使うのが彼のこだわりだった。
「そうすると、相当の人がそこに行っていますよね。今は季節的にもいい季節だし、どうでしょうね?平日の早朝と雖も出社前にちょっと竿を振りに行く人なんかもいますか?」
そういったことは珍しい事ではない。トップと言って表層を泳がせるルアーに魚を反応させようと思ったら、早朝くらいいい時間帯はないのだ。
トップウォーターと言うジャンルの釣り方は、魚が水面を割ってルアーに食らいつく、その迫力を楽しめるとあって、人気が有った。
ただ日中は、魚の食欲よりも警戒心が勝り、難易度が急激に上がるため、警戒心の下がる早朝狙いで、短時間を楽しむ、そう言ったファンも多いのだ。
これに対して昔気質の人のいい店主は、個人情報云々などと、小難しいことは言わないのだった。
「そうだねえ。うちのホームページに釣果をアップするところがあるのだけど、ここのところは上がってなかったかな。平日と言ってもほら、連休明けでしょう。小さな池だから、今ちょっと荒れているので、そのあとポイントに入る人は少ないかもね。こういう時は大きな湖なんかに行っちゃうんだよ」
「そうですか」と、言いながら、目はついついスウェーデン製のリールに行ってしまう。こいつはギアが頑丈で何年使ってもへたらないのだ。
赤いメタリックのボディが美しかった。目が釘付けにされる。店主は隆二の視線の先にある物を見て、目を細めた。こういう客を、彼はもう何十年と見てきたのだ。
阿久根
「何だ、こりゃ?」部屋に帰るなり、隆二の机の上にある赤い鉄の塊が目に入った。握りこぶしくらいの大きさで、鈍い光を放っている。
「リールだって。釣りに使う道具。スウェーデン製らしいよ」同じく先に部屋に戻っていた富士子が応える。隆二はどこかへ出かけたらしく不在だった。
「ふーん」手に取ってみる。「重いな。文鎮代わりか?それに高そうだ」
「さあ、よくわからないけど、鑑賞用らしいわよ。二万円だってさ」
阿久根の顔があからさまにゆがんだ。慌ててそっとリールを机に戻しながら、
「バカじゃねえか。それよりもどうなりました?」と、訊く。
「うん。釣具屋からはこれと言って情報はないけど、隆二にはそちらの線をもう少し追うように言ったから、現場に行ったわ。釣り道具を抱えてね。夕方から夜にかけて仕事帰りに立ち寄る釣り人から話を聞くためにね」
「仕事帰りに釣りだって?そんな奴いるのかね?」
「居るんだって」
富士子は目を開いて、両手を広げて見せる。どうやら、これは二人には共通の感覚らしい。
物好きは居るものだ。俺だったら、二万あったら絶対に釣り場になんか行かないぞ。若い姉ちゃんと酒飲んで楽しくやるけどね。
阿久根の鼻腔にふくよかなウィスキーの香りが漂ってくるようだった。身震いして、今日は早く帰ろうと決めた。盛り場に直行だ。その背中から富士子の声がする。
「里美さんの件頼んだわよ」
いけない。忘れていた。依然として行方不明のままだった。
「自宅周辺聞き込み行ってきます」
全くどこへ消えたのやら。早く俺を解放してくれ。ウィスキーが待っているんだ。グラスにはじける氷の音が頭の隅でちりんと鳴った。
隆二
いったん家に帰って着替えてきた。昔使った愛用の竿とタックルボックスを押し入れから出してきて、車に押し込み、現場に戻ったころには日が落ちる寸前だった。
この時間帯は早朝に次いで、魚の活性が上がるのだ。まあ、食べる大型魚も食べられる小魚もお互いに気が緩んでいる時間帯と言ってもいい。この時間に、言ってみればどちらも夕食をとるわけだ。そして釣り人はその夕食に似せた疑似餌を使って魚をだますと、こういうわけだ。
駐車場から公園に入ると、公園の中は思った通り街灯がついている。しかもトイレまであって、水道も使えるとなれば、普通の、周囲に何もない池とは違って、仕事の前後で釣りをするには最適なスポットと言えた。手を洗えることが何よりなのだ。そして雄一郎だって、仕事の前後に、時々ここへ来ていたのかもしれない。
雄一郎の車には、釣りの道具が積まれていた。リールにまかれたラインと呼ばれる特殊な蛍光ナイロン製の釣り糸は乾ききっていて、最近使われたような跡はないとのことだったが、だからと言って、釣りそのものに来たとは限らない。
釣り好きな人の車なんてこんなものだ。積みっぱなしで何年もほったらかしなんてこともある。いつの日か必要に、或いはその気になるかもと考えて、トランクに入れたままにしているのだ。
そういった連中が釣り場に来たからと言っても、様子を見るだけで、釣りはしない人と言うのも多いのだ。特に、ベテランになればなるほど、釣り自体よりも、釣り場の雰囲気を楽しんだり、他の人が釣りをする様子を見るだけのために池に立ち寄る人も多い。
ここに来た理由が、呼び出しを受けたからなのか、たまたま寄って、この顛末になってしまったのかは、雄一郎自身がこの場所の常連だったという理由から、わからなくなってしまっていた。
たまたま寄って、知人と会い、何らかの理由で刺されてしまったのか?しかし凶器の件がある以上は、準備されていたと考えた方がつじつまも合うのだ。
確かに、釣り道具の中にはフィッシングナイフというものもあるが、海釣りならともかく、この釣りは現場で魚をさばくような釣りではない。釣った魚はその場で放流する。だから、ナイフを携帯している必要はない。
凶器としての可能性があるとすれば、糸を切るためのはさみだが、大方こうした釣りに使われるはさみと言うのは裁縫に使われるような小さな握りばさみの類で、仮にこれで刺したとしても致命的な傷を負わせるようなものではないし、その形状から独特な傷がつくため、これではないだろう。
そのような事を考えながら、隆二はかけあがりと呼ばれるポイントに小魚を模した疑似餌をキャストした。
かけあがりと言うのは、水中でなだらかな坂になった部分である。捕食魚はここに小魚を追い込んでいって、つまりは深場から浅場へ追い込んで、逃げ場を少なくしたうえで捕食するのだ。
まだ少し仕事終わりには早いと見えて、誰もいない。バルサで出来た浮力の強いミノーと呼ばれる小魚型の疑似餌は、フィンランド製のものだった。
北欧と言う地域は、最近では、大型のホームセンターや雑貨店などでより身近になったが、釣り人の間ではもっと昔から、そうアバがこの地域を代表していたような時代からすでに、その後のテニスのボルグの時代以前から、世界でも最も優秀な釣り具の一派を生み出す土地として、それは同地域の優秀な工業製品のシンボル的存在であるボルボが感じさせる以上に、より好意を感じさせる土地だったのだ。
ミノーは朱色の背中に、金色の腹を持っていた。これが激しく回転運動をして、夕日に反射する様は、最初にこいつを見た時の驚きをいつも再現してくれる。
当時国産品や、アメリカ製でこいつを真似た商品は多かった。三分の一ほどで買える国産品は隆二の中学生時代にはありがたい商品だったが、その小さな動き、ほとんど動いていないと言えるほどの動きは、バルサ製のボディに小さなリップと呼ばれるプラスチックの抵抗板をつけただけのシンプルな造りにしては、納得できるものだったし、これはこんなものだと思っていたのだ。
それが、全く同じ外見のオリジナルモデルが、まるで別物のように振動と回転を繰り出すのを目の当たりに見て、それこそ目からうろこが落ちたのだった。
期待以上と言うのはそんなにある物ではないが、こと北欧製の釣り具に関する限り、それを裏切られることは多かった。常に期待を上回ってくれるのだ。
隆二の手の中にはスウェーデン製の赤いメタリックに輝くリールが収まっている。今日購入したのはその最新型である。この手の中の赤いリールは隆二が高校生の時に、これもまたアルバイトをして、購入したものだった。今も現役で、その滑らかさが変わることはない。
と、突然水面が盛り上がって、ルアーがはじかれた。来たな、と思って、そのまましばらくポーズと呼ばれる動きのない時間を取り、竿先を少しだけあおってトゥイッチと呼ばれる鋭い動きをミノーにさせる。鋭く動くが、移動は極力しないのがこつだ。
ガボンと言う鈍い音とともに、ミノーが水面から水中へと吸い込まれ、同時に竿に重みがかかった。そこでけっして慌てず、竿を立ててしっかりと針を魚にかける。慌てると、ここで疑似餌が魚から抜けてしまう場合もあるのだ。
十分に食わせる。またあまり十分すぎると、飲みこまれて魚を死に至らしめたり、逆に違和感を持たれて吐き出されたりする。この間の取り方と言うのは経験である。
しっかりと針がかかっていることを確認したら、しばらくは抵抗する魚とのやり取りである。
ドラッグと呼ばれる安全装置、これは釣り糸が切れてしまわないように、ある程度の力がかかると、リールが逆転して糸を吐き出す仕組みだが、それが効くほどの大物でもない。しかし、タフに粘るところを見ると、いわゆるこの釣りのメインターゲットであるブラックバスではないようだ。
「ナマズかな?」後ろから声がした。大人の男性の声。
やはりこうして、釣りを見に来る人はいるのだ。
「たぶん40センチくらいだと思いますよ」それに対して隆二も応える。
「ああ、朝ね。朝も来ます。時々ね」
釣り終わって、魚を放った後、男は隆二の質問にそう答えた。
男は隆二と同じ年代か、それより少し若いくらいだった。ベテランの釣り人と言える。
「今はね、こうして見に来るくらいだけれど、その分気軽だから、結構寄りますよ。今日は運がよかったな。来たとたんにナマズの顔を拝められて、今は少なくなったもので」
「少なくなりましたか?」
隆二の手のひらから、ナマズの匂いが立ち昇る。早く手を洗いたい気もしたが、このままでもいい気がした。
これは釣り人にしかわからない。釣った人だけがこの匂いを手に付けていられるからだ。生臭い匂いが特別な意味を持つというのは、ある意味、あのエロチックな行為の後と共通しているかもしれない。密やかな勲章。そして過去のものとなった歓喜を呼び覚ますきっかけなのだ。
「ええ久しぶりですよ。それにしても運がいい。このナマズだって、バーブレスの人に釣られるなんて、まあ、彼にとっては不幸中の幸いでしょうがね」
そう言って、男は笑った。やはりそれなりのベテランと見える。バーブレスと言うのは、かえしのない釣り針の事だ。
釣り針にはいったん刺さったら簡単には抜けないようにかえしと呼ばれる逆棘がついている。
ところがナマズなどはあごの骨が硬い為、これが刺さってしまうとなかなか抜けないのだ。元々放流するつもりではいるものの、針を抜く行為があまりにも長引くと、魚が弱ってしまって、下手をすると死んでしまう事もある。
だから、隆二は全ての針をバーブレスにしている。こうしていると針を外すときに簡単に外れるので、魚があまり弱らないうちに放してやれるのだった。その通常とは違う針外しの瞬間をこの男は見ていて気付いたのである。
もちろん釣っている最中にラインが緩むと、針は簡単に外れてしまうので、魚に逃げられてしまう確率も上がってしまう。しかしそこは腕でカバーするのである。竿にはゆとりを持たせつつなおかつ緩めることはない。魚が急にその動きを変えてもそれに素早く対応する。難易度は上がるが、しょせんゲームなのだ。生活の糧ではないのである。
「私も実はバーブレス派なのですよ。ところが、例の論文。魚も痛みを感じるとかいうやつですよ。あれを見て何だか、なんとなく釣りから遠ざかってしまって、今は見るだけです」
そう、この論文は最近になって発表されたものだ。しかし、と隆二は思う。魚が傷みを感じるなんて、わかり切ったことじゃないかと。針にかかった魚があれほどに暴れるのは痛い以外に何があるのだ?釣り人ならば、周知の事実である。偉い先生がそう言ったところで、やっぱりどころか、今更・・、と言うところだ。
だから、目の前の男の言葉は言い訳に過ぎないと思っている。何事もそうだ。夢中になる時期もあれば、冷めてしまう時期もある。
太公望はその昔、一生これで遊ぶことが出来ると言ったそうだが、そのような事はない。人間の心の移ろいやすさと言うものは、何処にだって、何にだって、ひっそりと知らない間に必ず忍び寄るのだ。
問題はそれが間違いのない事実であることに対して、殆どの人間がそれを認めたくないという事にある。好きだったものへの情熱が失われてしまう。これはその人間をちょっぴり傷つけてしまうものらしい。
もちろん失われた対象物の方は、ちょっぴりどころではない、対象物が人間ならば尚更だが、これは理解できるとして、失ったほうが傷つくというのは、何かに情熱を持っている状態でいる事を人間が好意的にとらえているからであろう。自らの移り気を恥ずべきものとして、男は少し傷ついているのかもしれない。
だから、愚にもない論文を引き合いに出して、自分を癒しているのだ。その意味ではこの論文は役に立っていると言える。
しかし、現実はもっとこすからいものだ。件の先生はきっとビーガンの食品を作る会社からでも研究支援を受けているのだろう。
男は隆二のタックルボックスを覗き込んでいる。隆二のルアーはほとんどがヘドンで占められている。オールドタイプとか言う、骨董品のような木製のものではない、そこに拘るマニアでもない。より実用的なプラスチックに切り替わった後の商品だが、それでも相当に古い。何せ軽く三十年以上は経っているのだ。
男はクレイジークロウラーと呼ばれる金属の両腕を持ったモデルを懐かしそうに眺めている。隆二のヘドン好きはこいつがきっかけだった。
金属の両腕は可動式で、キャスト時には折りたたまれている。着水して水の抵抗を受けると、そこで両腕が開き、それを手前に引いてくると、クロールをするように体を左右に振りながら泳いでくるのだ。その時にプラスチックのボディと金属の羽が交互に当たってカチャカチャと音を立てる。初めてこいつの泳ぐ姿を見た時に、頭をガツンと殴られたような気がして、一目ぼれしてしまったのだった。
釣果で言えば、こいつによく似た、ポコポコ水面で音を立てるフレッドアーボガスト社製のジッターバグの方が良いのだが、隆二のお気に入りはこのクレイジークロウラーの方なのだ。
それを言い出せば、ポッパーと呼ばれる種類のルアーだって、ヘドンのチャガースプークや、ラッキー13よりも、同じフレッドアーボガストのフラポッパーの方が良く釣れる。
どうやらこいつの履いているフラスカートと呼ばれる、プラスチック製の腰蓑が刺激的らしいと見える。
しかし、それでも隆二のヘドン好きは変わらない。ラッキー13!何というネーミングセンスだろう。
「ところで、この釣り場で事件があったそうですね?」
隆二はさりげなく探りを入れてみる。そろそろ仕事をしよう。
男はそれを聞くと驚いた。
「そうなのですか?それは知らなかった。どんな?」
この男は容疑者から外してもよさそうだ。そう思って、隆二はおもむろに手帳を出した。
変装してきたのは容疑者らしき人物が来た時に、見極めるため、警戒心を持たせないためだ。と、言い訳して、実は釣りを楽しみたかったのであるが。
「この人物を知っていますか?」
そう言いながら、写真を出した。雄一郎の免許証の写真を引き伸ばしてある。
「ああ、知っていますよ。と言っても名前までは知らないけど。ここで時々見かけて、お互いに会釈する程度です。この人も、ほとんど見る側で・・・私と一緒ですが・・」
「この人、ここへは一人で来ていました?誰かと一緒に来たことはありますか?」
「いえ、一人ですね。ここに来るのは皆ふらりと、その時の気分で来るような人ばかりだから、ぼんやりと水面を眺めたり、釣り人を眺めたりするのですよ。落ち着いた気分になりに来るのです。だから、友人と来て騒いだり、話し込んだりと言うような人は、ここには来ないかなあ。そういう人は釣具屋に行って駄弁ったり、もっとメジャーなポイントに行きますよね」
この気持ちは隆二には理解できた。一人になれる時間と言うのは必要なものだ。
反対にいつも誰かと一緒に居なければならないという人間もいる。そういう人種は理解が出来ない。阿久根がそうだった。
阿久根
本来ならば、酒を呑んで誰かと駄弁っているはずだった。行きつけのスナックのママ。そこに訪れる常連たち。仕事の人間関係では得られない安らぎがそこにはある。つかず離れずの丁度いい距離感だ。それがこの事件のせいで台無しだ。
まあ、事件だって、たまにはいい。いつも荷物運びや現場の整理や、他の課の雑用の、そのまた手伝い、そういうのばかりだと、いい加減いやになる。
しかし、いくら事件を任されたと言っても、もっとすっきりと簡単なものがいい。よくテレビのドラマであるだろう。他の部署の人間が、ややこしい事件とわかりつつ、わが方にこそ捜査権がある、なんて、担当の奪い合いが、ああいうのはごめんだ。
そりゃ難しい事件の解決は昇進の助けにはなるだろうが、昇進に魅力は感じないし、そんな事件ばかり担当していたら、時間がいくらあっても足りないじゃないか。仕事が好きならそれでもいいだろうが、人生いろいろ他にやることがあるのだ。そのいろいろのために仕事が出来りゃそれでいい。
阿久根はもう一度スーパーに行き、スーパーを中心として同心円を書くようにぐるぐる回りながら、そこから里美の自宅まで移動してみた。
スーパーの辺りは人家よりも畑の方が多い。畑と言ってもほとんどが果樹園で、それが何の木なのか阿久根には分らなかったが、農家のほとんどには大きな蔵が有って、広い庭を持ち、造りも立派な家が多いことを見れば、その果樹園がかなりな利益をもたらすことがよく理解できた。
また、人間が一人くらい誰にも知られずに姿を隠すところは至る所にありそうだ。家と家の間は十分すぎるくらいに離れている。隣同士と言っても、隣の雰囲気がすぐにわかってしまうような距離ではないのだ。
一方で里美の家は新興住宅地だった。その辺りならば、隣の家との間はほぼ通路ほどしか離れていない。家のつくりだって、農家の厚い土壁と違い、一昔前のペラペラのサイディングである。音は筒抜けだろう。
道路を挟んで、玄関が向かい合って建ち並び、大きな窓が道路側に向かってたくさんついていた。南玄関の家は当然だが、北玄関の家ですら、道路以外の三方を他の家に囲まれて、採光できるのが北側の道路だけとなれば、ここに窓をつけるしかないだろう。
路上はいつ何時みられるかわからない監視状態にある。この辺りで、おかしな動きをしようものなら、すぐに近隣に気付かれてしまいそうだ。
しかし、雄一郎は警戒心無く被害にあったのではなかったか、とするとその犯人が里美ともつながりが有る可能性はあるな、と考えた。だったら、ここで人知れず拉致するにしても、普通に声をかけて連れて行けるだろう。
それに里美本人が犯人だという可能性はぬぐい切れては居ないのだ。いい大人が緊急時に居なくなった。それだけが事実だ。
まあしかし、考えてみても仕方がない。証言も証拠もないのだし、ここはひとまず順番に当たるしかあるまい。
そんなわけで、スーパーに戻ることにした。ここが最終の目撃地なのだから、ここから始めるのが筋だろう。
車を駐車場に置いて、入り口に向かうと、一人の従業員が帰宅するところだった。エプロンをした仕事着のままだから、近くに住んでいるのだろうか、農家に住んでいるなら有り難い。集落の様子を一緒に聞くことが出来れば、手間が省ける。
手帳をかざして、自己紹介をし、時間をもらった。
女性は祥子よりも少し年上だろうか。人見知りしない、明るそうな人物だ。女性の説明では、彼女は祥子を比較的よく知っており、子供が四人いて、同じ境遇のシングルマザーなので、自然と近づきになったという事だった。
「でも、うちはおばあちゃんが居て子供の世話や食事の事も見てくれるし、私たちは離れに住んで、プライバシーも保たれて、光熱費は母屋持ちだから、実際に凜ちゃんと二人だけの祥子ちゃんと同じ境遇だとは言い難いのよね。あ、光熱費は払ってもいいのだけど、メーターが共通だし、母屋がいいって言うものだから・・・恵まれているわよね」
堂本悦子と名乗った女性はそう一気にまくし立てた。話好きなのだろう。ほっておくと延々と喋ってそうだ。
阿久根は多少うんざりとはしたものの顔には出さない。必要なことを必要なだけ喋ってくれるような人が居れば一番いいが、そんな都合の良い人はなかなかいない。口が重いか軽いか、そのどちらかだ。
口が軽いとしても、余計な事ばかり喋ってなかなか必要なことを切り出さない様な質の悪さではない。そうなってくると、阿久根には思っていることを顔に出さない自信はなかった。
だが、悦子は阿久根の知りたいことを色々知っていそうだし、何でも気軽に答えてくれそうだ。阿久根は写真をポケットから取り出す。
「この女性を見ませんでしたか?」
「あれ、里美さんじゃない?さっきタクシーで、と言っても随分前だけど、ここで降りましたよ。駐車場で会って、挨拶して、そのあと、私は裏の倉庫に行ったから知らないけど・・・」
悦子は乗り出してきた。
「ご存じなのですか?」
阿久根の心の中から、うんざりした気分が飛んでいく。ラッキーと心の中でつぶやく。不謹慎だが、まあ、刑事だって人間なのだ。
「ええ、同じ宗派の婦人支部に所属しています。里美さん、何かあったのですか?」
「ここに来たのは確かなのですが、ここからの行方が不明になっているのですよ。」
「さっき、女の刑事さんが来て祥子ちゃんを、ああここの店員を連れて行ったのだけど、それと関係あるのですか?」
「その祥子さんのお母さんなのですよ。里美さん」
富士子の奴何やってるんだ。ここに目撃者がいるというのに。危ない所だった。もう少し遅れていたら、また証言が後にずれ込んでしまうとこだ。
「そうか!そう言えば、二人とも石田だった・・・」悦子は考え込んでいる。頭を整理しているのだろう。だが、その後はそれ以上聞く事が出来なかった。
中にいるほかの店員にも尋ねてみたが、店内に里美の知人らしき人物の来店はなし。目撃者も悦子以外になし。
その他悦子からは、里美の宗教団体内の人間関係については、さして問題はないように見えた、と言う証言などを得た。里美とは、団体以外の付き合いはなかったという事。だから、里美が同僚と親子関係にあった事を今まで知らなかったという事。そうしたことを語り、最後に悦子はこう言った。
「孫に障害があるって悩んでいたけど、凜ちゃんの事だったのね・・・」
しかし、と阿久根は思う。これだけ何も出てこないと、雄一郎の傷害事件も、里美の失踪も両方ともに解決しないかもしれない。未解決事件、実にいやな響きだが、この事件その雰囲気があると、阿久根は思った。
いや、判断するにはまだ早いが、気分だった。きっと久しぶりのこんな事件で、勘が狂っているのだろうと、考えた。
単純に里美が犯人だというオチなら簡単なのだが、失踪に関与した者が居て、それが障害の加害者と同一なのか、それとも別々の事件なのか・・・そう言えば、以前隆二が言っていたな。偶然の出来事が重なる時は、必ずつながっていると。確か何とかの法則だと言っていたが、忘れてしまった。
そんな屁理屈どうでもいいのだ。傷害と失踪、どちらも頻繁に起きるようなことではない。確かにそうだが、それが繋がっているかどうかなんて、今考える事じゃない。俺は、前もっていろいろ考えてみるなんて、そんなことはしない。
これにも何か気の利いた言葉が有ったな、何とかのカミソリというやつだ。何のカミソリかは忘れた。
とどのつまり、俺たちの仕事はそのような事ではないのだ。ほおっておいても、厄介ごとは増えていくばかりなのに、それを自分から増やすようなことはしないに限る。
隆二
二つの事件。傷害と、失踪。これは関連がある可能性を考えるべきだと、隆二は思った。そうなると、キーワードは家族なのである。
家族ぐるみで、被害にあった。或いは家族の中で諍いが有った。そっちの線から追うべきなのだろうが、まだ見えてこないのだった。
現場から帰ってきた隆二と、スーパーへの聞き込みから、帰ってきた阿久根、病院から戻ってきた富士子の三人で集まってお互いに情報交換してから、他の担当班との合同会議に臨み、解散したのは真夜中だった。
隆二は家に帰ってきていた。いろいろあって、今は一人で住んでいる。阿久根は家族がいるが、富士子も一人暮らしである。
どのみち、家族と一緒に住んでいたところで、こんないつ帰るのかわからないような生活では、すれ違いばかりで顔を合わせる時間などは元々取れないのだ。
食事だって、殆どが一人で食べる。朝型の隆二は、家族と一緒に住んでいた時ですら、家族のまだ寝ている時間に一人で起きてきて、朝のランニングを済ませた後、朝食を作って食べていた。他の食事も、家族が食事する時間に家にいる事はほとんどなかった。
だから、こうして一人になっても何かが変わるという事はない。こうして、夜中に帰って来ても、同じように食事を作る。
出かけるときに、米は浸水させてある。これを圧力釜にセットして、五分間加圧する。その五分の間に洗濯機に洗濯物を放り込み、前回干したものを取り込んでしまう。五分経って火を消したら、二十分ほど蒸らすのだが、その間にシャワーを浴びるのだ。
シャワーを済ませると、野菜と肉をカレー粉とバター、ニンニクで炒めて、飯の上に盛り付け、これに具の入っていないレトルトのカレーをかける。
カレーはいろいろ作ってみたが、このやり方が一番美味かった。野菜は煮込んではいけない。炒めた方が美味いからだ。煮込んで出汁をとる必要はない。元々野菜はレトルトカレーの方に煮込まれているのだ。
レトルトの具材もだめだ。なんというか、繊維が破壊されているように思える。同じ具材が、全く別物に変わっているのだ。
スパイスの調合、塩加減、及びルーの粘度、これは脂分がどれだけ入るかなのだが、その配合比率はプロのものには敵わない。ただ香りは飛んでいるので、カレー粉とニンニク、バターでそれを直前に補填する。
米は玄米が半分に、麦が半分。これは家族の評判が悪かった。だから、隆二だけ元々別メニューだった。そういう意味でも一人暮らしは苦痛ではないのだ。健康のためとか、それもあるが、はっきり言って、食べ物くらいで効果が出るなどと言う期待はしていない。
これは純粋に、ただの白米よりも、玄米の硬さや、麦の弾力が感じられる方が、滋味があるからで、穀物を食べているという感じがより味わえるからなのだった。
同様に、パンだって、自分で全粒粉を配合して、家で焼いていた。売っているパンはほとんど空気なのである。
あれは隆二に言わせると、ふくらまし過ぎなのだ。パンのうまみはどっしりとしたクラムと、固いクラストなのであって、そのための全粒粉である。そしてトーストならば、必ず薄く切って、しかも絶対に焼くべきなのだ。
厚切りの、くちどけの良い柔らかいパンなんて、あれはパンじゃないと思っている。しかも焼かないで良いなんて、問題外だ。餅じゃあないのだから。
カレーを掻き込みながら、ぼんやりと考える。動機。合同会議でのほかの捜査官によると、あの夫婦に関しては近所でもいい評判ばかりを聞かされている。
妻の方は宗教団体に入っていたそうだが、トラブルのもとは、そこにはなさそうだという。
社会との関連は、夫の仕事に、趣味、娘を通じてのもの。仕事はもうすでに一線を引いていて、身軽な立場で勤務していたそうだ。その軽さ故か、社内では確執や軋轢が生まれるような空気はなしとのこと。
また娘の了解を得て、家の中も捜査させてもらったが、これと言った手掛かりはなし。見えてきたのは、慎ましい普通の家庭で、過度なぜいたく品はなし、ここ直近での大きな金額の金の移動もなし、宗教団体への目立った献金等もなし、いたって堅実な生活ぶりだけが浮かび上がった。
これらは全て、里美の付けていた家計簿から、簡単にうかがい知ることが出来たのだった。その健全さは、生活の健全さを表しているように思えた。外食ですら、ほとんどしていない。比較的まとまった出費は一度だけあって、娘の離婚時に生活用品を買いそろえた時のものだった。
これらもすべて、金額の横にコメントが入っていることで、一目でわかるようになっていた。何もやましいことなど、無いのだ。
思い出されるのは金遣いの荒い、隆二の元妻だった。何に使うのかわからないが、いつも金欠だった。何十万もするような高額なダイエット商品を黙って購入し、そのくせ痩せたためしがないのだ。
これは隆二の方にも責任は有った。すべて任せていたからだ。家事の嫌いなルーズな女性で、大概が外食か、デリバリー、出来合いの総菜などの食事だった。
掃除などは、滅多にしないので、いつも室内は乱雑で、床はほこりや落ちた髪の毛だらけ。隆二が見るに見かねて、休日に自分から掃除するのが、パターンになっていた。
そのくせ遊びだけは熱心で、隆二以外の家族分のテーマパークの年間パスを買い、子供二人を連れて毎月のように遊びに行き、クッキーなどの園内で売っている高価な菓子類などを大量に購入してはそれを貪り食うのだ。
今から考えると、これで堅実な生活が営めるはずがない。慢性的な金欠は当然の事だった。むろん隆二の方にも悪い癖が有って、身の回りの品に良いものを求めてしまうという独特な物欲が強かった。
文具や、時計、服などがそうで、こういったものを、とびきり贅沢と言うわけではないが、こだわって必要以上なものを求めてしまうのだ。しかも、目移りする性質だったから、一つで満足と言うわけにはいかず、ついつい多くのものを求めてしまうのだった。
まあ、どっちもどっちだ。だから、雄一郎と里美のような夫婦は、憧れだ。娘の祥子にしても、不幸にも離婚に至ってしまったが、その娘の凜との関係を聞く限り、良い母親のようだ。
それで人生なんて十分じゃないかと隆二は思った。普通だが、今となっては、いや案外昔からも、ありきたりではないかもしれない一見幸せそうな家族、そこに割り込んできたもの、それは何だろう?
祥子
どこをどういう風に行ったのか、覚えていないが、気が付くと凛と二人家に帰って来ていた。
病院の雄一郎は依然意識不明、里美は同じく行方不明のままだった。
明日もまた仕事で、仕事に行っている場合ではないが、かといって休むこともできない。
夜勤の方もまだ完全に復活したわけではないのだ。体の事を考えて、かなりそちらの方は抑えるようにしていたが。
聞くところでは、アルバイトでも休業補償はあるそうだが、自分のこの境遇がそれに該当するのかどうかは分からなかったし、六割しかもらえないという。それでは、休むわけにはいかなかった。
体も心も疲れ切っていたが、米を研いで炊飯器のスイッチを入れた。何か総菜でもと思ったが、そんな贅沢は許されないと、自分に言い訳をした。本当は買いに行くのが面倒だったのだ。
冷蔵庫には卵と玉ねぎが入っている。これで、卵どんぶりでも作ろう、と思った。母親である里美は総菜なんか買ってきたことはない。その里美の習慣が祥子にも自然に身についたものとなっていたが、最近はどういう訳か、その気にならなかった。
ついついスーパーの総菜を買ってきてしまうようになった。テーブルの上にパックのまま並べて、手抜きの食事をする。それを見て凜が笑っていることが有った。その時は何がおかしいの!と怒鳴ってしまった。あんなことも初めてだった。
里美はおせち料理だって、毎年紅白をラジオで聞きながら、全部作っていた。で、お気に入りの歌手が出てくるときだけ、火を止めて、テレビを見にリビングに来て、すぐにまた台所に戻る。こういう時、紅白はステージが短いから便利なのよね、と里美はよく言っていたものだ。その里美がそういう時は祥子に余計罪悪感を募らせるのだ。手抜き主婦。前は違ったのに。
凜は黙ってテレビを見ている。座っている手元を見ると、お気に入りのビスケットの袋がそばに置いてあった。
これは先日、祥子が急に頭がふらつき出して、病院に行った時の帰り道で買ったのだった。以前、自分で開けようとして、袋を破ってしまって、中身を床に飛び散らせ、ひどく悲しそうな顔をしたので、それ以降は祥子が開けてやることにしている。
袋がきれいに開くと、食べて中身が無くなっていても次のビスケットを買うまで、こうして袋を手元に置いているのだ。
以前ならそうした凜を見たら、また買ってくるからねなどと声をかけたものだ。それほど気に入ってくれるのが嬉しかったし、そうした気に入ったものをそばに置いている凜がたまらなく愛おしくて、ビスケットの袋まで愛おしく思えたものだった。それが今は何となくイライラする。あれはゴミなのだ。
炊飯器でご飯を炊いている間に、洗濯物を取り込んだ。畳んで、それを洋服ダンスに仕舞っていく。そして、シャツをしまう時に中身の異変に気が付いた。
洋服の一番下がくしゃくしゃになっている。汚れ物をそのまま突っ込んだようだ。取り出しながら、いやな気分に襲われた。どす黒い何かが、一面にしみ込んでいる。
すべて引き出すと、鋭いナイフが転がり出た。ナイフは同じように何かで汚れていた。何か?祥子は気が付いている。しかし、否定したかった。頭から血の気が下がって、目の前が暗くなり、身体から力が抜けた。最後に感じたのは、少しの吐き気。
床にへたり込んだまま、どれくらいの時間がたったのかわからない。もしかすると、殆ど経っていないのかもしれない。凜が見ていたテレビから、夜の最終ニュースのテーマソングが流れてきて、もう十一時なのだと気が付いた。
凜を見やると、テレビの前で、すやすやと寝息をたてていた。
この血で汚れた服には見覚えがある。ファストファッションの売れ残りのシャツ。季節の変わり目や、販売日からしばらくすると、店頭の篭に放り込まれて、投げ売り状態になっているものだ。
売れ残りと言っても、品質は変わらない。色が選択できないが、奇抜な色は最初から販売しないので変なものに当たる心配はない。気に入らなければ、買わなければいいのだ。
それよりも目に見えない福袋の方がもっと危険だ。これは目に見える福袋だと祥子は思っている。この境遇に成る以前から、祥子の服の買い方だった。節約とは違う、ある意味楽しみだったと言ってもいい。
特にこのシャツは気に入っていて、ヘビロテだった。もう一つのナイフは、スーパーで売っているペティナイフだ。この二つが意味するところは明らかだ。これで雄一郎が刺されたに違いない。問題はどうしてこれがここにあるのかだ。
誰が・・・と言いかけて、部屋に侵入されたことにも気が付いた。慌てて立ち上がり、玄関に行く。先ほどは違和感がなかった。今度は・・・。今度も違和感はない。こじ開けられて侵入されたわけではないのだ。
侵入は合い鍵なのだろうか。いつ合い鍵を作られてしまったのだろう?そう言えば、先日見たテレビのドラマで主人公が針金で鍵を開けるところを見た。
だが、それは現実離れしすぎている。鍵は入れ替わっていて、確か管理人さんの言うところではピッキング防止の最新式だとのことだった。防止と言うのは、それに時間がかかるという事なのだった。出来ないことはないが、侵入者のやる気をそぐには十分な時間と言うわけだ。
それにこの玄関は見晴らしが良すぎる。どの部屋を出ても、廊下は直線なので、目につくのだ。廊下沿いに、部屋は十以上あり、不意に誰かが出入りしていた。
居住者は老人が多く、一日中部屋にいる。いつ何時出てくるかわからない。それに小さな子供に若い母親は珍しかったので、祥子と凜はあっという間に近所の人気者になっていた。
誰彼なしに何らかの口実で話しかけてくるのだ。そこに誰か他人が侵入しようとしたら、目立つはずで、それよりも何よりも異変に気が付いたら、親切に教えてくれるだろう。
それは断言出来た。ここはまだ昔の近所付き合いの残る一角なのだ。それとも前の居住者の仕業だろうか?今も予備の鍵を持っていて、この部屋に出入りしているのか?
それもないだろう。退去時にシリンダーを変えたと管理人さんは言っていた。ただ、郵便は前の居住者の名前で時々届いてはいる。
それによると、その人は女性で、聞くところによるとこの人もかなりの高齢だったそうだ。最上階に住んでいることがきつくなって引っ越ししたのか、それとも身内の家に引き取られていったのか定かではないそうだが、これも考えても無駄なような気がした。
とにかく警察に連絡しなくては、そう思い立ち上がった。幸いあの女性の刑事さんなら、悪いようにはしないように思われた。
名刺をもらっていて、そこに連絡先が入っているはずだ。何かあったら連絡をくださいと言っていたではないか。名刺を取り出そうと、カバンを引き寄せて、中身を覗いた。
その時全く違う考えが頭の中をよぎって、そのまま動きを止めてしまった。それはあまりにもばかばかしい考えだったが、暫くすると、現実感を帯びてきた。
最近おかしい私の頭。人が変わったように、嗜好が変わって、味も匂いも以前と同じようには感じない。これはお医者さんに相談していた。軽い脳梗塞に伴う、後遺症ですと、医者は言っていた。
それよりも何よりも、凜を可愛いと思えなくなったこと、それと同様に父を以前のようには見られなくなってしまっていること。
二人とも、祥子をイライラさせるのだ。極めつけは時折、記憶が飛んでいる節があることだった。
先日も、スーパーで勤務中に何をしていたのか忘れてしまい、商品を出しっぱなしで別の事をしてみたり、商品棚の陳列をどうしても思い出せなくなっていたりと、そのたびに悦子に助けてもらっていた。
悦子にだけは相談したのだ。どうも記憶に障害があるようだと。すぐに元に戻るよ、と悦子は言ってくれたが、常に酩酊状態のような感じはどうしてもぬぐい切れなかった。
それが、時折とてもひどくなる。物事が考えられなくなり、何もかもどうでもよくなってしまう時が有った。
もしかしたら、と祥子は考える。あの公園は父のお気に入りの公園だったし、それを知っているのはごく親しい家族くらいなのだ。仕事前にあの公園に立ち寄ることを知っているのも家族くらいだろう。あそこで待ち伏せをして、私が父を刺したのかもしれない。
でも、と更に考えた。あそこに行くには私の自転車じゃ・・・と、ここにきてあることを思い出した。スーパーの配達用の車に乗ったまま、記憶を失って、しばらく走り続けたことが有ったのだ。
あまりの遅い帰りに心配して悦子が電話をくれなかったら、そのまま走り続けていたかもしれない。記憶を失ってと言うよりは、ぼんやりとした状態で、何も考えていないという方が正しいかもしれない。
体は車の運転を覚えていて、そういう昔の事は身体的なものに関わらず覚えているのだが、今自分が何をしているのかという事が、すっかり抜け落ちることが有った。
いわゆる痴呆の状態なのかもしれない。悦子の電話で、先ず悦子が記憶に蘇ると、今自分が乗っているのがスーパーの車であること、を思い出した。
あの時は、何も考えずに配達が終わったら、そのまま実家に向かって走っていたのだ。
そして朝は地産の朝採り野菜を仕入れに行く仕事が有って、変電所の方へ行くことがあるのだった。変電所に行くには国道を中に入らなくてはならないが、自動車なら数分のものだ。
あの公園に行こうと思えば、雄一郎に会うことが出来るのだ。その二つの事柄を踏まえると、朝採り野菜を引き取りに言った自分が、記憶を失い、痴呆状態のまま、公園で雄一郎に会い、そして・・・
恐ろしい考えだった。今自分の体調がおかしい事、いや、頭がおかしい事、雄一郎への見方が変わってしまった事。それらの事を考えた。
そして、時々気が付くと、凜を怒鳴っていることがあるように、雄一郎へもその異常な行動が、ナイフによる障害と言う形で現れたのだろうか?
自分は気が狂ってしまったのだ。心神喪失というのだわ、そう思って、確かに心神喪失がこのような状態ならば、これが無罪になるのは理解できる気もした。
日本の裁判では、心神喪失に対する扱いが優遇されているように感じるという、そういう意見が有った。
その理由として、昔裁判所で高官として皆に尊敬された人が、晩年に心神喪失状態となり、別人のようになって、それを見舞いに来た裁判所関係の人たちが目の当たりにしたことが原因だと、何かの本で読んだことが有った。
別人。自分が知らない間に別人になってしまうというのは、多重人格者の本でも読んだ事が有った。
しかし、と祥子は思う。それは別人、いわゆるその言葉が普通に意味するところの他人ではない。これは自分の中の別の自分なのだ。他人なら、責任は自分にはない。
しかし、あくまでも自分なのだ。だから、責任は自分にあるのだ。
十界互具、里美はよくそう言っていた。一人の人間の中には様々な人間が住み着いている。普段、表に現れる人間がいい人だからと言って、その人間が全部いい人だとは限らない。
思いが、そう里美の方へ傾いた時だった。テレビ台の上に何かあることに気が付いた。眼鏡ケースのように見えるが、眼鏡ケースではない。近寄って確かめるまでもなかった。昔から、見慣れて馴染んできたものだ。
里美がいつも肌身離さず持っていた。これは里美の数珠入れなのだ。里美がこれをここに置いていくはずはなかった。これも誰かが、里美に黙って持ってきたのだ。
そう言えば、里美が最後に目撃されたのは、スーパーだと、あの女性刑事は言っていた。もしかしたら、里美の失踪にも自分が関わっていたのだろうか?そうなると、行方不明の里美は今どうなっているのだろう?
雄一郎の方は意識不明状態だとは言え、その生存は明らかである。しかし、里美は、と考えて祥子はその結論の恐ろしさに、それ以上思い悩むのをやめようとした。だが、頭の中からその思いは消えてくれそうにない。
もしかしたら、私がお母さんを殺してしまったのかもしれない。
だが、そうだとして、遺体は何処にあるのだろう。店にはそれに適した場所が数か所あった。
倉庫の隅、段ボールの山の陰、ゴミ庫の奥、大型冷蔵庫の中、そうしたところに母の亡骸が放置されているという図は、馬鹿げた空想でしかないという思いとともに、現実なのかもしれないという恐れが入り混じったものとして、祥子を苦しませた。
それが、祥子の記憶にない状態で、起きたかもしれないという事が、確かめようのない事実として、さらに重圧をかけてくる。こんな時、誰かに相談したいが、その誰かも今は居ない。
悩めば悩むほど、気持ちの上で、物事はいつしか現実に近づいていく。仮に現実だとして、永久に見つからないというわけではない。見つかれば、私たちはどうなってしまうのだろう。
そう思って、ふと凜を見た。頭を横に向けて、すっかり寝込んでしまっている。細い首が頼りなくむき出しになって、あの細さなら、自分にだって簡単に絞めてしまえそうな気がした。
もう、どうでもよくなっていた。この嫌なことだらけの世の中を終わらせたい。
ふらふらと立ち上がって、凜に近づき、祥子はその細くて白い首に両手をかけた。
凜
目が覚めた時、お母さんは何処にもいなかった。テーブルの上に卵どんぶりが冷たくなって置いてあった。勝手に食べたら怒られると思って、おなかが空いていたけれど、暫くは我慢していた。
その日の夕方になって、もうお母さんは帰ってこないかもしれないという気持ちになって、卵どんぶりを食べた。冷めてしまって、固くなって、半分乾いていたけれど、お母さんの卵どんぶりはやっぱり美味しい。
祥子
あれから、三日たった。私にとってはあっという間だったけれど、凜にとってはきっと長い時間に違いない。
子供のころは一日がとても長かった。したいことは山ほどあっても、全部一日で出来るような気がしていた。
大人の時間は短い。やらなければいけないことにせかされて、いつも焦って何かをしているような気がしている。今はそうではないけれど、やらなければいけないことなど何もないけれど、時間はやはり短く感じる。
こうして、この瞬間はとても長いのに、過ぎた時間は思いのほか短いのだ。近づいてきて遠ざかる車の音が一定ではないかのように感じられるのと同じ、時間なんて一定のはずなのに、近づいてくる時間は遅くて、私の近くではほとんど止まっている様で、過ぎてしまうと、加速度を増して、あっという間に何処かへ行ってしまうのだ。
そう考えて、健太の事を思い出した。真夜中の殺伐とした牛丼屋で、そこだけがまるで、別世界のように森閑としていた。あの静謐な空気を纏うことが出来たなら、どれほど幸せだろう。
それはあの世に行くことで成し遂げられるかもしれない。だが、自死と言うのは困難だ。死ぬという事がこれほど難しいとは思ってもみなかった。
同様に、凜を道連れにしようとしてみたが、これもまた困難を極めた。この子に以前のような愛情は感じていないはずなのに、と思いながらも、人の生体組織を破壊するという行為は、いざとなると想像以上の拒否反応を引き起こすのだ。
第二次大戦で、近接戦闘においての発砲率が思いのほか低かったため、米軍はこれの改善に取り組んだそうだ。
おかげでベトナムやその後の戦争では、きちんと敵に向けて発砲できるようになったそうだが、精神を病むものが増えたとのことだった。
その話を聞いた時は、なんとなく腑に落ちなかった。敵が攻めてきたら、自分を守るために発砲するのは当然ではないか、しかも敵は近接戦でほぼ目の前にいるのだ。
そのような切羽詰まった状態で、引き金が引けないというのは理解しがたいものがあったが、人の身体を傷つける事への抵抗を一度でも体験してしまうと、引き金を引くというような簡単な事でも、たとえそれが戦場という異常な状態下であっても、人間と言うものは他人の身体すら、ましてや自分であればなおさら、傷つけることは生理的に無理なように作られているのだという事が身に沁みた。
しかし、父のあの姿はどうだろう?今、祥子は刃物が誰かの体に入っていく感じを想像してみて、ぞっとした。
これにも相当な抵抗を感じるのだ。本当に自分がそれをしたのだろうか。このことはずっと頭の中から消えてなくなることはない。だが、その疑問を解決させるという気持ちは弱かった。
実際に一番強い思いは、その疑問に悩まされる世界から消えてなくなること。このまま何も食べなければ、そのうちそれが可能になるだろう。
それが祥子の選んだ方法だった。走る車に飛び込んだり、電車に轢かれたり、ガスを使って、などと色々考えたが、他人に迷惑をかけるのは嫌だった。
川に飛び込むのも別な理由で、これも躊躇した。何よりも、遺体が損壊してしまうのが、父や母に申し訳がなかった。たとえ自分が犯人だったとしても、損壊した遺体を確認する父や、もし無事だとして、母の姿を想像することは、耐えがたかった。
少なくとも、凜に与えたのと同じ方法で、同じ苦しみを感じながら、その苦しみが凜に対する罪悪感に変わるのを耐えながら、そうして死んでいくのがふさわしいと思ったのだった。
それは想像以上に苦しかった。時間がかかるというのは残酷なものだ。最も残酷な刑と言われ、エクスクルーシブの語源となった十字架は同様に時間がかかるという事を思い出した。
同様に串刺しの刑と言うのも、時間がかかるという。これはあえて時間をかけて、むしろ死なないように、ゆっくりと、慎重に串刺しにしてゆくのだ。
串は肛門から入り、内臓を傷つけずに通り抜けて、口から出るという。
串刺しの刑に処されている罪人に、風邪をひくなよ、と言って上着を着せた執行者の話は有名だ。
風邪なんかで死んでもらっては困るという意味らしいが、寒い国の、あれはロシアの出来事だったかしらと、そんなことを思い出したりした。
この苦しさも、そうしたことと比べると、大したことはないような気がした。肉体に訪れる長引く苦痛は、今の精神的苦痛からの解放を意味していたので、それは一層歓迎できるものなのだった。
その気分をかき乱すものは、唯一凜への思いだった。
だが、所詮、自分の体内で息づいて、生まれ出でたもの。それが自分と言う存在とともに消え去ってしまうのだ。そう慰めても見たが、二つ身体に分かれた瞬間から、二人は別の存在なのである。
それは里美と祥子が別の存在であるのと同様、凜への責任感が苛む大きさは、次第に胸をふさいでいく。それを生きる理由にしてはいけない、と打ち消して、目を閉じた。
落ち着いた境地に至るのだ。心を平静に、と願った瞬間に電話が鳴った。
電話はあの女性刑事からのものである。
「今大丈夫ですか?」と言う問いかけに
「別に変ったことはありません」とだけ返した。
このように定期的に様子をうかがってくるのだ。行方不明の里美の事を刑事たちは全力で探してくれている。その一方で、祥子の事を気にかけてくれている。電話と言うのは便利なものだ。この冷静な対応で、今の状況が先方に知られることはない。
富士子
祥子とのやり取りの後電話を切った。目の前には隆二と阿久根が居る。
「どうですか?」と、隆二。
「変わりはないようね。仕事は休んでいるそうだし、凜ちゃんも幼稚園には行かせていないようだから、ひとまずは安心ね。ずっと家にいてくれれば、こちらも里美さんの捜索に全力を割けることが出来るから」
「しかし、なかなか出てこないですね。両方ともに」これは阿久根だ。
その通りだった。手掛かりと言うものが全くと言っていいほど出てこないのだ。殺人未遂ともいえる傷害のような重大事件においても、このようなことは何年に一度かのケースで発生する。
今の技術で鑑識が何も発見できないというのは、奇跡と言っていいほどなのだが、偶然と言うか、何というか、小さなことの積み重ねでそういったことが起きてしまうのだった。
もちろん狙ってできることではない。過去の未解決事件の中には、犯人が大胆な行動に及んだものの、目撃者の証言が決め手にならずに迷宮入りした案件も多数あるのだ。
これらの事件に関しては、行き当たりばったりな犯行にも拘らず、証拠が出ない偶然がたまたま重なったとしか考えられないのだった。
重大犯罪においては、時効と言うものはないものもあるが、実際の業務を鑑みれば、数年たった時点で、本格的な後追いは無くなってしまうものであり、もとより行方不明者の届け出と言うものは年間で八万件以上あり、そのうちの三千件ほどが行方不明のままとなってしまう。
これが毎年の事なのだ。発見に至る期間もまちまちで、殆ど八割がたが一週間以内に確認されるとはいえ、のこりは数年かかることもあり、徐々にしか確認されないのだった。
三人はスーパーの駐車場に居た。捜査本部としてはメインの傷害事件の方を主たる課で進めている。出向の三人は主に傷害事件に付随するとみられる里美の失踪を担当することとなった。
この数日間で、傷害事件当日における里美のアリバイが確定していた。当該時間に、家にあったデスクトップパソコンに里美が自分のパスワードを入力して、ネットに接続し、買い物をした履歴が発見されたのだった。
雄一郎が会社に行くときに持っていく缶コーヒーを里美はいつも箱単位でネット購入していた。今回もその履歴が残っていたのだ。さすがにこれから殺そうとする人物の缶コーヒーを購入するというのはおかしいし、デスクトップパソコンの注文データが雄弁に里美の関与を否定していた。
そういう訳で、里美の失踪は逃亡ではなく、純粋な失踪もしくは誘拐事件として考えられて、しかし本部の意向としては別の事件だとも言い切れず、同一本部内での捜査として継続されることとなった。その経緯下での特捜科の三人の振り分けである。
「毎日ご苦労様です」
ここにひょっこりと顔を出したのは店長である。人のよさそうな人物で、捜査にも協力的だったので、助かっていた。こういったことにいちいち本社の伺いとか言い出す責任者も多いが、大概の事は独断で、しかもその場で答えがもらえるというのはありがたかった。時にはこちらが気を遣う事もあったが、大丈夫ですよ、の一言で全て済ませるのだ。
「祥子ちゃんのお母さん、まだ見つかってないのですか?」
ほら来た、と富士子は思う。まあ、しかし彼はここの責任者なのだから、仕方ないだろう。
ただ、責任感から、嫌々訊いている様には見えない。むしろ好奇心丸出しで、自主的にと言った感じだが、わかりやすい人物と言うのは、この仕事をしていると、ある意味でほっとするものだ。
「それにほら、祥子ちゃんムードメーカーだったから、早く戻って来て欲しいかな、なんてね」
三人が対応に困って黙っていると、言わずもがなで言葉を継いだ。多くの人が、このような反応を示す。黙っているというのは、アクティブリスニングと呼ばれる積極的に相手から情報を引き出すスキルの一つなのだ。
まあ、美人だったしね。と、富士子が祥子の面影を思いだして考える。職場に美人が居るというのは、男性にとっては嬉しい事でしょうよ。その男性たちの美人を見るまなざしを、無警戒で見せつけられ続けてきた富士子なのだった。
男性が美人に見とれる時、その姿をどうやらほかの美人には悟られたくない様なのだ。そのたぐいの鋭さと言うものを身に着けているのは、男女ともに意識の高い系の人たちだ。しかし、そうした人ですら、富士子の前では無防備になるようだった。
「ここから近いところに住んでいましたね?買い物なんかもここで?」
見渡す限りの果樹園である。近くにはコンビニがあるが、主婦ならそこでは買わないだろう。少し離れたところにドラッグストアがあるが、おそらく食品はここで買うのだろう。
「そうですね。いつもは凜ちゃんと一緒に、ほぼ毎日来ていたけど、ここのところ見てないかなあ」
「いつくらいから見ていませんか?」
「あ、と言っても事件からだから、三日くらいしかたっていないですね。あの後心配だったので、様子を知りたかったのですが、何回か電話してもつながらないし、気になって余計に時間が長く感じられたのでしょうね」
電話なら今つながったばかりである。警察からの電話には出て、勤め先の電話に出ないというのはどう考えてもおかしかった。もうそこで勤める気がないなら話は別だが、転職とか、そうした通常の理由としてはないだろう。
では別の理由で出ないのか?
周囲を見回すと、隆二は店に訪れた客に話を聞いているところだった。
阿久根は?居た。駐車場の隅で煙草を吹かしている。
「阿久根!」
大声で名前を呼ばれて、阿久根はそれでも悪びれずに、煙草をくわえたまま近づいてくる。
普通の人にとっては、サボっているところを見つかったという罪悪感で小さくなるところだが、彼にはこの状態が普通なのだ。そうした阿久根の基準には慣れた富士子だった。
「何ですか?」
「祥子のアパート。本人確認してきて」
「わかりました」
そう言って、背中を見せる。祥子のアパートは目と鼻の先だ。歩いていける距離なので、阿久根も田んぼ沿いの県道に出て歩道を歩きだした。さっき電話で確認したばかりだとは、阿久根も言わない。煙草を吸いながら、店長との会話を聞いていたのだろう。
そう言えば、この三日間は電話で確認を取るのみだった。すぐに電話に出るし、話の内容も取り立てて何という事もなかったので、油断したのだ。
考えられる線ではないが、祥子のアリバイだって不確かなものだ。当日、日課になっている朝採り野菜の集荷に出たそうである。少しでも余計に働きたいという希望で、凜を送りに行く前に仕事を済ませて、それから保育園に行き、また仕事に戻るのだという。
その仕事、確かに当日も普通にこなしている。しかし、その経路から、現場までは往復で五分とかからない。十分くらいなら誤差の範囲だろう。その時間で犯行は可能だし、急いだあまりの凶器の滅多突きなのか。
いやしかし、これは動機が考えられない。仲のいい親子。障害のある子供に理解のある母と祖父と言うこの上ない良い関係。
だが、すべては懐疑的姿勢からの出発でないといけないのだ。真実を明らかにする。それが仕事であるからだ。
真実を明らかにするという行為は科学と呼ばれる方法論と同じである。懐疑主義。アインシュタインは光と時間を疑ったのだ。通常誰もが信じて疑わない現象。それを疑ったからこそ真実にたどり着いた。
富士子は常にこの言葉を胸に刻んでいる。実はアインシュタインが光と時間に関してたどり着いた真実と言うものには、興味がない。正直言うと、聞いたけれども良く分からなかったという言い方が正しい。
しかし、光と時間を疑うという言葉はインパクトが有った。アインシュタインの偉業は理解できないが、その疑いの尋常ではない徹底性は感じるものが有った。さらに言うならば、懐疑主義と言う言い方は、否定的な響きをもって、口にする人が多いが、それは全く違うと言える。
アインシュタインは確かに光と時間を疑ったが、同時に光と時間の異なる一面の可能性を信じたのだ。そして、それを確かめる行為が人を真実に導くのだ。
その時、一台の車が駐車場に入ってきた。これは見覚えがある。鑑識の車だ。何か出たのだろうか?現代の捜査と言うのはこの鑑識に追うところが相当に大きいのだ。期待して車を見る。
降り立ったのは、背の高い痩せた中年の男性。全身黒ずくめだ。これには理由がある。黒でないと、服の汚れが目立って敵わない仕事内容だからだ。
「黒田さん。鑑識課長直々のお目見えですか?」
ちなみに名前と服装は、本人によると、当たり前だが、関係がないそうだ。それを意味もなく、思い付きで、或いは単に、この男が身にまとう沈黙に耐えきれず指摘するのは、彼の事をよく知らない人物だけで、指摘すればしばらく口をきいてもらえなくなる。あまりにそればかり言われ続けて、いやになっているのだ。
「やっぱり」と、その黒田が辺りを見回すなりそう呟いて、富士子の方に話しかけてきた。
「ようやくね、果樹用の農薬が出たよ。不確定だったので、黙っていたが、現場から採取した土から化学物質が検出されて、分析にかけていたのだが、先ほど依頼先から返答が来てね。あの辺りは農地と言っても、周囲は田んぼばかりだっただろう、中には畑もあったが、果樹はなかった。で、今農薬の銘柄を特定しているのだが、その間にピンと来てね。ここの駐車場の土を持って帰るよ。銘柄はわからなくても、成分が一致すれば、話は早いから・・・」
阿久根
阿久根のやり方は懐疑主義ではない。彼は疑うといった事すらしない。先入観なしの総当たり。それが彼のやり方だ。
私生活では一番ぐうたらな彼だが、仕事では一番しんどい作業をする。当初からそうだったわけではない。若い時分は、とにかく効率的に物事を進めたくて、いや、人に言わせると、とにかく楽に物事を進めたくて、どのようにすれば一番楽に済むのか?そればかり考えていた。
しかし、何度もそれで痛い目にあった。結局、楽に物事を進めようとすると、かえってしんどい思いをする方が多かったのだ。しかし、そのしんどい進め方は、自分の領分の範囲に限られる。そこから自主的に、余計に手を広げようとは思わないし、それで誰かを手助けしようとも思わない。
誰からも分を超えた感謝はされないが、同時に誰からも突っ込まれることのない絶妙なバランス感覚で仕事をするのだ。その嗅覚に関しては、一流のものがある。それは生まれついてのものだと、自分では思っている。しかし、それは子供時代にいじめられて身についた処世術なのだ。
祥子の住んでいるアパートに着いた。公営の古い住宅だ。安い賃料で、低所得者、海外からの研修生や、年金生活の老人などが主な住人である。
入ってすぐのところに掲示板があり、その掲示物が数か国語で貼られている。ハングルに中国語はわかるが、中には何語かわからないような言葉もある。工業団地がすぐ近くにあるので、そこの海外研修生はここに住むことになっているのだろう。
郵便受けは入り口にまとまって設置されており、三分の一ほどに郵便物があふれていることを見るに、入居者も少ないようだ。築年数を聞けば、通常賃貸を探している若い人達の候補からは外れるし、この外観はあまりにも古めかしい。
だが、鉄筋コンクリートの物件がこの値段で借りられるというのは確かにある意味価値がある。
阿久根の家は昔からの古い民家である。長男だしずっとそこに住んできたが、若いころ、転勤した時に、世話された物件が鉄筋コンクリートの建物だった。その静かさと、暖かさには驚いたものだ。
だから、この建物の見かけ以上の快適さは予想がつく。わざわざ高い家賃を払って、お洒落だが、ペラペラのツーバイフォーの木造アパートに、すむ連中の気が知れない。ただ、これは経験がないとわからないだろう。
自転車置き場には子供用のものはない。若い日本人、子連れと言う状況は少数派で、祥子親子は目立つ存在だろうと、思われた。
少し離れたところに管理棟があり、管理会社のロゴをつけた軽自動車が一台停まっている。そのそばで、同じロゴの付いた作業着を着た老人が掃除をしているのが見えた。古い建物だが、手がよく入っていて、清掃も行き届いている。管理会社は良心的な会社のようだ。
案外、ここは住むと良い環境なのかもしれないな、と思った。その証拠に、共用スペースにはプランターに入ったネギや大葉などが置いてある。そのような事、うるさい管理会社の元では、即撤去要請が来るだろう。貧しいが、いや過度に豊かではないが、心地いい生活があると言ったところだろう。
エレベーターがないので階段を上がる。最上階は四階で、どうやらここが、一番家賃が安いようだ。息が切れてしまったのを、快復するまで少し待ってから、祥子の部屋の前に立ち、ブザーを鳴らす。
チャイムではない、ブザーなのだ。いつの製品なのかわからないが、珍しい懐かしいと言ったところか。そのプレートには素人半分な外壁の塗料がところどころにこびりついている。ろくにマスキングしないで、いい加減に塗ったようだ。
しばらく待ってみたが返事がない。部屋に不釣り合いなほど響くブザーの音が聞こえないはずはなかった。もう一度鳴らしてみる。さっき富士子が電話をかけて祥子とは話していた。あれから数分しか経っていない。
「だから携帯ってやつは・・・」
固定電話が各家庭に一台の時代なら、事は簡単だったのだ。在宅なら繋がるし、留守ならば繋がらない。簡単なことを、文明の利器はよりややこしくする。その携帯を取り出して、富士子に連絡を入れようとした時だった。鉄のドアの向こうで何やら音がする。
「・・・さん」声も聞こえた。子供の声だ。
「凜ちゃん!凜ちゃんだろ。お母さんは?」
音がやんで、静かになった。阿久根は鉄の冷たいドアに耳をつける。相変わらず静か・・いや、声がする。静かにすすり泣くような声だ。しかしこれは、子供の泣き方ではない。こんな悲しい泣き方をする子供なんているはずがない。これは泣くことを我慢しているが、悲しみに耐えきれず漏れてしまう、そんな悲痛な大人の泣き方だ。
「待っていろよ。すぐ戻るからな」
ドアの前から駆け出した。階段を走り下り、管理人のところへ向かう。息が切れて話すことが出来ない。肩で息をして、そのまま手帳を見せた。
凜
玄関のブザーが鳴った。あまりうちでは鳴らないけれど、前にお母さんがどんな音かな?って言いながら押したのだ。部屋中に響き渡る大きな音で、びっくりしたねって言いながら、二人で大笑いしたのを思い出した。
部屋が暗くて、何処に何があるかわかりにくい。手探りで、玄関に向かい、入り口にあった傘立てを玄関にぶつけてしまった。ポストの隙間から、風が入ってきて、煙草の匂いがした。おじいさんの匂いだ。
「おじいさん・・・」って呼んだけど、おじいさんはお母さんの事を聞いてきたので、悲しくなった。泣いたらいけないって思ったけれど、我慢したけれど、しきれなくて、後から後から声が出てしまった。
その後、おじいさんは何か言ったようだけれど、泣くことに、泣いてはいけないという事に夢中になってしまって、何を言ったのかわからなかった。でも、おじいさんが来てくれたのなら、安心。なんだか、とても眠い。
隆二
阿久根からの電話で、富士子と二人で祥子のアパートへ向かった。何もない所からの急展開。まあ、いつもの事だ。どの事件だって、最初は暗澹たるものだ。手掛かりなし。それが常態である。
隆二は走って、富士子は…走るのは無理だから、早歩きで後を追ってくるようだ。階段を駆け上がり、四階に着いた時、踊り場からちらりと下を確認すると、富士子がかなり遅れて歩いているのが見えた。
部屋に着くと、阿久根が部屋の前に居た。携帯で電話中だ。電話をしながら、隆二の後ろを指さす。隆二が振り返ると、そこには管理人が合い鍵の束をじゃらじゃらいわせながら、近づいてくるのが見えた。
「さっきまで、泣いていたのだが、静かになったので、救急車を呼んでおいた」
阿久根が携帯をしまいながら、隆二に説明する。二人の間を管理人が通り抜けて、ドアの前に立ち、ぶつぶつ言いながら、合い鍵を一本ずつ目の前にかざして、確認しだした。
どうやら鍵に番号が振ってあるらしいが、小さすぎて、老眼の管理人には確認しにくいようだ。阿久根はそれを見て、顔の前で手をひらひらさせる。彼も老眼なのだ。
「変わりましょう」
隆二がそう言って、鍵の束を受け取った。素早く部屋番号を確認して、鍵を差し込む、玄関を開けると、三和土には凜が丸くなっていた。
「凜ちゃん!」
横から飛び出してきたのは、阿久根だった。虚を突かれたとはまさにこのことだ。小さな子供なんて最も無関心そうな阿久根が、真っ先に飛び出すなんて。
阿久根は凜を抱えて、少し安堵したようだった。
「寝ているよ・・・」
隆二の方を下から見上げて、そうつぶやく阿久根はただの好々爺である。いつもは腹の立つことばかりだが、こうしてたまに憎めない一面を見せるのだ。その度に、隆二の心はかき乱される。憎み続けたい存在だが、どうもそういう訳にはいかない。だが、この油断が裏切られるのはわかっているのだ。
その時、凜が小さな声でつぶやいた。
「おじいさん・・・」
それに対して阿久根が応える。
「おじさん・・・だよ」
やはり好々爺だ。
後ろから、息を切らせて富士子が上がってきた。腰に手を当てたまま、凜を抱えた阿久根を見ているが,息が切れているので、声にならない。指示を出そうとしているのは長い付き合いだから、わかる。今はただ待たなくてはならない。
「阿久根は凜ちゃんと一緒に救急車で病院へ。隆二は私と一緒に部屋を」
部屋を、と言っても直接ではない。ちょうどいい具合に鑑識が来ているので、隆二は黒田に電話をかける。富士子はその間、本部へ電話を入れている。祥子の失踪。但しこれは、偽装を伴うもので、重要参考人としての指名手配が成されることとなった。
救急車と黒田の到着はほぼ同時だった。凜を抱えて、下まで降りていた阿久根は黒田と挨拶を交わすと、救急車に乗り込んで病院へ、入れ替わりに黒田が鑑識チームを連れて上がってきた。
「ここの玄関の土も欲しくてね、実はスーパーと一緒に前もって令状は取ってあった。最初は土だけのつもりだったがね・・」
黒田の後ろで荷物を抱えた鑑識官二名はまだ若かったが、息を切らしている。が、黒田は涼しい顔をしている。手に掲げた書類をペラペラさせて、中に入っていった。隆二と富士子は鑑識官から、靴カバーを受け取り、後に続いて入っていく。
部屋に入ると、強烈な臭いだった。テーブルの上に手付かずのままの卵どんぶりが一つ、空の丼が一つ並んでいる。干からびていて、古いもののようだ。
「三日ってところかな・・」黒田がつぶやく。
「これを食べなかったのだな?どうしてでしょう?」隆二が誰にともなく訊いた。
「きっと、お母さんの分だと思って手を付けなかったのよ」と、富士子がテーブルの上にしゃがみこんで、それに答える。その隣には、キャベツにケチャップをかけたものが乗っていた。
「で、丼が駄目になったので、凜ちゃんが自分で、これを作ったのだわ」それは二人分あった。それを眺めながら、隆二が言う。
「育児放棄するような、母親には見えなかったけどな。二面性か?」
「いや、変わったのよ。何かきっかけが有って急に変わってしまった」
こういった共感性の鋭さにかけては、富士子はいつも隆二を感心させた。たまに持論に拘ることもあったが、結局のところ富士子が正しいことの方が多かった。富士子は隆二とは違った目を持っているのだ。
いや、目ではなくて、脳だ。隆二は人の見方が冷淡なのである。これは自覚している。
最初の子供が生まれた時に、あまりに自分の感情が淡白で、驚いたことがある。世間一般の父親像からは程遠い。子供の溺愛などと言う感情は、理解が出来なかった。そうした人を見るにつけ、あれは演技なのだと、思ってしまう。それが自分を納得させるためなのか、本当にそう思っているのかすら、わからないときもあった。
実際のところ、本当にそう思っていたという事の方がより真実に近い。自分を納得させるという行為を引き起こすためには、それに対する事前の引け目が必要だが、引け目すらも感じないほどに淡泊だったのだと、後で気づいたのだ。
しかし、富士子は違う。彼女に子供はいないが、きっと溺愛タイプなのだと思う。人を見る目がひたすら優しいのだ。ありがちな考え方だが、弱者の見方だと、そう思う事もある。周囲からはいじめられたに違いないこの容姿が、そうさせる力を与えたのだと思う事もある。
他の人の持つ優しさと言うものに触れるにつけ、羨ましさと敬意は生まれるが、自分がそうありたいとは既に考えられなくなっている。既にと言うのは、そのように感じて、そのように努めていた時期もあったが、しょせん努めの範囲を超えることはなかったから、きっぱりと辞めてしまったからだ。それは過去の話だという事である。
そういった呪縛から逃れてみると、気が楽になった。なりたい自分と、実際の自分とのギャップに苦しむというのは、若気の至りである。
そういったことは、時折、我を通し過ぎては、それについての多少の反省をしてみるくらいが丁度いい。人には分がある。これは富士子の分野である。だから隆二は、変わったという富士子の言葉をいったん腑に落とす。
「この念珠はえらく変わっているな。随分長い。普通の念珠の倍ほどある。しかも細い」
黒田が里美の数珠ケースに目をつけて、中身を確認し、ケースごと袋に入れた。
「お母さんの所属している宗教団体の使用している念珠だと思います。信者さんは数珠と呼んでいました」
里美の所属する宗教団体から聞き込みをしていた隆二がそう答える。
「ちなみに娘の祥子は、その団体には小学生だったころに数回、里美に連れられて、行ったことがあるのみで、信者ではありません。冠婚葬祭用に里美が祥子に与えたという可能性はありますが・・」
そう言いながら、袋に入ったそれを携帯のカメラに収めた。
察した富士子が隆二に言う。
「信者さんに確認、よろしく」
隆二がそう言われて、外に出ようとした時だった。
「これは!」
奥で洋服ダンスを確認していた若い鑑識官が出した声で引き留められた。
引き返したとき、全員が開いた洋服ダンスの引き出しの周りに集まって中身を見ていた。隆二がその輪の中に入ると、目に入ったのは、血だらけのシャツ、シャツの下にはナイフ。
阿久根
子供と言うのは不思議なものだ。どんな子供でも一律に可愛いというわけではないが、これくらいの年の子供は特に、保護欲をそそるというか、何とも言えず可愛いのだ。もう少し大きくなれば、生意気になっていって、小学生の高学年や、中学生ともなると、残念ながら、個人差が出てきてしまうが、幼稚園くらいならば、どの子もそれなりに可愛いだろう。
こうした可愛い盛りの子供を死に至らしめる犯罪は、そうした年ごろの子供を見ていると想像することは難しい。不思議だし悲しい事だが、ときおり発生するのだ。
車の中に置き去りにしたとか、そうしたことはあくまでも過失である。報道になってしまうと、批判的に語られることが多いし、中にはその批判が当てはまるものもあるが、元々悪意のない、本当に不幸な事故としか言いようのない、そうしたことの方が多いのだ。
しかしながら、時には不幸な事故ではない、故意に命を奪うことが目的の犯罪だってある。ひどいのになると、自分の欲求を満たすために誘拐、殺害するなどと言う事件だってあるのだから、いくら人がそれぞれにいろいろな考えや性癖があると言ったところで、俺には理解が出来ない。
そうした奴らはこの世から、排除されてしかるべきだ。なぜなら、彼らは改心することがないからだ。いや別に改心しなくたっていい。行動しなければ、それでいいのだ。だが、悲しいかなそれは難しい事だと、阿久根は考えている。
この仕事は民間では想像もできないほど、はっきり言ってある意味ブラックな職場だ。それは何かを守るために、常に何かを切り捨てなければならず、何かの中身次第では、簡単にブラックになりうるという意味だが、まあそういった仕事ではある。
しかし、そうした仕事の中でも、世の中から排除するに相当する人間を摘発する瞬間には、溜飲が下がると言うものだ。それが唯一最上の方法で、それが出来るのは、この仕事でしかないからだ。
そんなことを思いながら、救急車は病院へ向けて走る。同乗する救急士によると、凜の状態はすぐに回復するレベルだという。今は、助けが来てくれたことで、安心して眠りについている。
おそらく一人残されて、不安で、満足に眠る事すらできなかったのだろうと、救命士は言っていた。
ふと思い出されたのは、昔見た時代劇だ。刺客の親子の話で、父親が仕事をしている間は、子供は一人で待っている。母親は居ない。しかも、宿に泊まれる身分ではなかったように思う。
と言うのも、冒頭の歌で語りが入るのだが、朽ち果てた東屋で待つ子供は、五日間父を待ちそびれ、しかもその日は雨が降り、次の日は霜が降りたという事になっているのだ。
子供は三歳である。死ぬだろうな・・と阿久根は思う。それとも、生き抜いたのか?昔の人間は強かったのかもしれない。
翻って凜はどれくらいの間、一人だったのだろうと、考えた。とにかく安ませてあげてくださいとの救急士の言葉で、ひとまず安心した阿久根だったが、いったん落ち着くと、今度は祥子の行方が気になって仕方がなかった。
この子を一人置いて、出て行ったのか、少し外出するつもりで外に出て、何らかの理由で帰れなくなってしまったのか、それとも家から拉致されてしまったのか。凜が目を覚ませばそれもある程度はわかるだろうが、まあ、それはしばらく先の話だ。
そう考えていると、富士子からの着信が入った。
内容は、祥子の家から、里美のものと思われる数珠が見つかったこと、それに血に染まったシャツと凶器と思わしきナイフが発見されたとのことだった。
入れ替わりで、あくまでも救急士による診断ではあるがと断ったうえで、凜の容態を報告すると、目が覚めるまで傍にいて、聞き取りをして欲しいとのことだった。
もし真実、罪を犯した母親に捨てられたのだったら、それを気取られないように、凜の心に傷をつけないように、話をもっていかなければならない。
「さて、どうしたものかねえ・・・」
そう、独り言ちた。いやな役割だ。全くいやな役割だ。
寝台に横たわる凜は、ひねれば折れてしまいそうな細い手足の子供だった。
細いというのは、憧れのように言われて、ある集団では全くの誉め言葉であるが、健康的にしなやかに細いというのと、ひ弱は全然違う。
凜や、阿久根の少年時代もまた、明らかに後者の方だった。このひ弱と言うのは、格好のいじめの対象となる。いじめなんて、いくら周囲が騒ごうが、無くなることはないだろうと、阿久根は思っている。
あれは人間の習性だ。いじめた方は特別な事をしているという自覚は乏しい。そうに決まっている。当たり前の行為としていじめられ、だが、いじめられた方は全然当たり前ではない。だから、いじめた方がその行為を、時とともに忘れてしまおうが、いじめられた方は一生忘れない。
いや、忘れられないのだ。出来れば、忘れてしまいたいのだが。
もっとも、詳細は覚えていない。いわば、いじめの始まるきっかけというやつだ。これは些細なことで、いじめる方は手ぐすね引いて待っているので、なんだっていいのだ。
誰かが、そのきっかけをつかんでしまうと、その空気はあっという間に伝染する。一対一なら、まだましだというものだ。だが、あのいじめる側がどんどん増えてゆく感覚、ある種の気分が病気の様に蔓延して、知らぬ顔をしていた連中が、その匂いに釣られてさらに増えていく、あの恐怖。
立ち向かう事は出来ない。立ち向かうのは、アドレナリンが全身を満たして、自分を別人に変える時。しかし、その変身も長くはもたない。あっという間に元の自分に戻ってしまって、我に返ってしまう。
別人に変わった瞬間に、一旦ひるんだ奴らは、それを見て更にその行為をエスカレートさせる。何かがぷつんと切れて、力が抜け、顔を覆って地面にしゃがみこみ、泣き出すと、頭の上からは声がする。
「男のくせに、女みたいな泣き方!」
唾棄ではない。それならばまだいい。こうして泣くしかない己の無力を叱り飛ばしてくれるのならば、心の傷にはならないかもしれない。そうではない。
彼らは、まるで楽しいものでも見ているように、人が無様に泣くさまを楽しんでいるのだ。声変わり前の高い声は、勢いよく噴き出した歓声となって教室中に響き渡る。
女の子たちは隅で固まって、ひそひそ囁いている。時々、こちらを覗き見ているあの目の色。誰かに何処かに、ここから連れ出して欲しいが、肩を叩いてくれる人は誰もいない。かといって自分からここを出るわけにはいかない。その一線は越えられない。
昔の事をぼんやりと思い出していると、車の外はいつの間にか雨になったようだ。タイヤが水を踏んで走る音が聞こえてきた。どうして、昔の事なんか思い出したのだろう。
そうだ、この子だ。この子の細い手足だ。不思議だが、同じ経験をした者同士の、心通う瞬間と言うものがある。シンパシーというやつか。勝手なこちらだけの思い込みかもしれないが、初めてその姿を玄関の三和土で見て、無意識のうちに飛び出したときには、もう感じていたのかもしれない。
しかし、この子は自分よりもっともっと過酷な運命に相対するだろう。見ていられなくなって、阿久根はフロントガラス越しに外の風景に目をやった。
信号待ちの横断歩道上には、急な雨に傘もなく、本格的な学校帰りにはまだ早いが、一足先に下校する下級生たちが大きなランドセルを抱えて、ずぶ濡れの身体を思い思いに家へと運んでいた。
食いしばるような表情で、一点前を見て早足で歩く女の子がいるかと思えば、濡れるに任せて、それが楽しい事でもあるかのように大笑いしながら、大口を開けて空を眺める男の子たちがいる。
同じ条件の下でも、人はその感じ方や、過ごし方すら様々なのだ。通りがかりらしい老人が女の子を手招きして、傘に入るように声をかけている。
思いつめたような表情だった女の子は一転、笑顔になり、しかし傘には入らずに、両手を体の前で振っている。その唇は大丈夫だよと言っているのだろう。私が傘に入ると、老人が濡れてしまうから。そのような気遣いなのかもしれず、女の子は笑顔のまま走り出した。
老人はやれやれと言う風に頭を左右に振り、その横を大口開けて空を見上げた男の子たちが通り過ぎてゆく。彼らに対して、老人は何か小言を言っている様だ。雨を飲んではいけないよとでも言っているのだろう。
ある子供は聞き分けて、老人にぺこりと頭を下げ、中にはそのまま笑い転げている子供もいる。
だからと言って、彼らに対する感情が老人の中で変わることはないだろう。彼らはどの子も地域の宝なのだ。自分の子供が、孫が、可愛い盛りを過ぎた人にとって、同じ地域に住む顔見知りの子供たちはその代替ともいえる存在である。
その姿を、自らの子供や孫の一時期の姿に重ね見て、顧みる自分に往年の姿を映し出してみる。その貴重なきっかけを作ってくれる存在なのだ。
目の前に寝ているこの子だって、そういった純粋な思いで向かい合ってくれる大人が居ないとは限らない。しかし多くの人は、その純粋な思いに、ある種の不純物が混入することを止めることはできないだろう。
それは、人間の本能だ。教育で変えられるとして、それが出来るのは、その表面だけである。この子は、そうした大人たちの裏に潜む何かに気付くだろう。いや、この子に限らず、誰もがそれに気付くだろう。
その空気の中で生きていくだけでも、辛い事のように阿久根には思われた。それが今や、無償の愛情を注いでくれていたに違いない母親の近況を考えるにつれ、気分が落ち込むのだった。この子にとっての最後の砦だったはずなのだから。
視線を窓から凜に戻すと、そこで二人の目が合った。
「起きたんだね?」
救急車のサイレンに負けないように、大声でそう言う阿久根の表情をじっと見ながら、黙ってそのまま視線を外さずに凜は頷いた。
「お腹すいたろう?」
この問いかけにも同じように頷いた。
「何が食べたい?」
目を合わせたまま、しばらく考えていた凛だったが、微かに唇を動かしたようだ。何を言ったのかはわからないはずだった。だが、阿久根には理解できた気がした。ホットケーキだ。間違いない。確信していた。
その合図に阿久根は慣れないウィンクをして見せた。きっと不細工な、意味の取りにくいウィンクだっただろう。だから、それを補うつもりで、慌てて首を縦に振ったからウィンクはともかく、意志は通じたに違いない。
その証拠に、目を見張った凜の表情は、嬉しそうな顔に変わったではないか。以心伝心。
阿久根にとっては初めての経験だと、そういう気がした。隆二のように何もかもが全く合わない人間もいれば、かちりと快音をたてて歯車のかみ合う相手もいるのだ。その心地いい回転を妨げるものは何もない。どちらかが、回れば、同じ回転数で片方も抵抗なく回る。
そのイメージのまま、ホットケーキの算段に阿久根は頭をフル回転させていた。これから行く先の病院を思い浮かべ、入手方法をあれこれ考えてみる。
近くに喫茶店が有ったから、ホットケーキくらいあるだろう。そこから出前で運ばせよう。これって、今盛んにテレビで宣伝している出前も使えるのか?何とかイーツとかいうやつだ。
いや、よくわからない奴は手出ししないに越したことはない。そうだ、看護師に頼んでみよう。それがいい。若い連中なら、パッパッと片付けてくれるだろう。
相変わらず、自分が知らないことは、手出ししない。頼めることは、極力頼んで誰かにやってもらう。その阿久根ルールに戻ってきた彼だったが、自分がその中心となって、手配する様を思い浮かべ、次に喜んでホットケーキを食べる凜を思い浮かべ、悦に入った。
いつもなら、このような事は面倒だと、文句を言いながら段取りする阿久根だったが、その違いには自分ではまだ気が付かない。
隆二
「ああ、これは里美さんのお数珠よ。間違いないわ」
隆二は依然聞き込みをした、里美と同じ宗教団体に所属する人物の家に来ていた。
彼女はこの支部の長をしているそうだ。大きな口と、大きな目、がっしりしたあごの持ち主で、何事もはきはきと自信たっぷりに話す。長をしていると言うのも頷ける人物だった。
立派な門構えのある日本家屋だった。大きな玄関には高い上がり框があり、隣接する、四畳と言っても本間の、広い前室を通り抜けると、12畳の居間に大きな仏壇が据えてある。その居間に隆二は通されている。
大きな黒檀の座卓の上にはコーヒーカップが置いてある。真っ白な飾りのないシンプルなカップは、前回伺った時のロイヤルコペンハーゲンとは別物である。前回のものはブルーエレメンツと呼ばれる上品な絵付けのシリーズ物で、隆二も買おうかどうか迷ったものだったのだったので、一目でそれとわかったのだった。
今回のカップもまた、磁器の肌が鏡の様に美しいので、やはりただものではない感じが漂ってくる。カップを持ち上げると、ソーサーの中心に交差する二本の剣が見えた。マイセンである。コーヒーも特別薫り高い。思わず、声が出そうになるほどである。どうやらここの主人は、いや奥様か、とても趣味が良いようだ。
「通常これは誰かに貸し出したりするものですか?里美さんの娘さんがこれを持っていたのですけれど」そう言いながら数珠を指さした。
質問を受けて、その女性は間髪を入れず答えた
「お数珠は個人のものだから。祥子ちゃんは祥子ちゃんのお数珠を作ったと思うけれど」
「常に持ち歩くようなものですか?」
「それはないわねえ。お仏壇のない所にはもっていかないし」
祥子の家には仏壇と呼べるようなものはなかった。
「・・・」
「あ、でも病院へ行ったって言っていたわね。雄一郎さん大丈夫なの?」
「一命はとりとめたようですが、まだ安心できない状態です」
「そういう事なら、病院へお数珠を持って行ったかもしれないわね」
怪訝な顔をする隆二に
「あ、いや、変な意味じゃないのよ。お守りとしてね。傍でお題目をあげるならそのために持って行ったのかもしれないわ。私だってそうするだろうし」
数珠を手にして、唱えるとなれば、一般的には念仏と言われるものが真っ先に思い浮かばれることが多いだろう。南無阿弥陀仏というやつである。
これは死後に浄土へ導いてもらいたいという願いが込められている。元々仏教と言うのは自力で、単独で、悟りの境地に達し、平穏を手に入れるという事だったのだが、浄土に行けば誰も彼もが平穏になれるという、周囲の環境頼みのやり方に、ある時期からすり替わっている。
つまり、念仏と言うのは死後の平穏を願ったものなのだ。まだ生きている人間に対して唱えられるものではない。その思いが有ったので、隆二は不思議に感じたのだった。
しかし、この宗教にとっては、浄土は死後の世界ではなく、この世そのものなのである。それ故の現世利益であり、浄土真宗ならば念仏と呼ばれる、この宗教のお題目は、例えば病人を平癒させるために、祈祷的に唱えられることも多い。
外に出た隆二は、さっそくタクシーの運転手に再度電話をかけた。里美が何か手にしていなかったか聞くためである。しばらくして、その結果を富士子に報告した。里美はタクシーに乗り込んだ時、やはり数珠のようなものを持っていたらしい。
それが祥子の家にあるというのは、話が合わない。里美自身か、祥子か、第三者がそれを運んだのだ。しかし、現状では合い鍵の存在はまだ認められていない。とすると現時点では祥子が可能性として高くなる。
その情報と入れ替えに、祥子の携帯電話の受信場所が判明したという事で、二人はその場所で落ち合う事になった。現状としては、状況証拠ばかりではあるが、限りなく祥子の容疑は固いように思われる。まあ、だが雄一郎が生きている限り、彼の快復を待っていればいいのだ。
しかし里美の消息が気がかりだった。雄一郎は明らかに殺害の意図で傷つけられている。その同じ意図であるならば、里美の生命が心配だった。
失踪は限りなく最悪の可能性に向かって近づいている。ただ、あまりにも出来すぎた証拠発見に、引っ掛かるところもあるのだった。
だが、聞くところでは、祥子は数日前に過労が原因で倒れたという事だった。担当医の話では、その後の経過はあまり思わしいようではないらしい。
短期の記憶が無くなる。意識が時折なくなる、嗜好が変わってしまった、と言ったような報告を患者自身より受けており、精密検査をしたと言う。
しかし、結果は、今のところ症状と原因の因果が、どうもよくわからないというのが正直なところらしい。しかしながら、原因がどうあれ、表れてくる状態は心神喪失である。正気を失う時間があるという事だ。
人間の脳は複雑極まりない。まともな脳を持って生まれたとしても、何らかの原因で、その構造が、働きが、別のものに変わってしまう事がある。現実を認識して統合すると言う働きはそれだけ精密な作業下で行われているのだ。
それを狂わせるものとして、加齢はその原因の最たるものだ。年齢を重ねれば、一部の人がボケてしまって別人のようになってしまう。しかし、若い時分だとしても、病気やケガや、精神的な原因で、脳が壊れてしまうことがあるのだ。
脳が壊れてしまうというのは、その人が壊れてしまうという事に等しい。精神分裂症が統合失調症と名前を変えてから、久しいが、この病気の厄介なところは、はっきりとその病気であるという事と、そうではないという事の境界線があいまいだということだ。
このことを利用して、無罪を勝ち取ろうと画策する弁護士も多いと聞く。そうでないようにも見えるが、実は壊れた人に、責任を問えるのか?と言う話である。しかし、そのことが実際に裁判で効果を生む確率は、驚くほど低い。逆に言えば、実は起訴すらされないと言ったほうが正しい。事件はなかったことにされてしまうのだ。
では、犯罪は、やり得なのかと言うと、そうでもない。病気と診断されて、病院に入るというのは一種、期間の定めのない懲役のようなものであるともいえる。この病院と言うのもまた曲者だ。今はどうか知らないが、昔はひどかった。実を言うと、これは国策の産んだ歪みなのである。
隆二が小学生くらいの時は、精神病の人間と言うのは、まだ比較的街中などで見られたものだ。今はほとんどそのような人を見かけることは無くなっている。だからと言ってこの病気が減ったわけではない。
隆二が話を聞いた医者は、だいたい百人に一人の割合で、精神に問題を抱えているという。その医者によると、国が中央の大都会に労働を集中させるという事を国策として始めた時期に、地方から出て行く人の、その足かせとなっている家族の中の介護者、いわゆる精神病の患者たちを収容させる施設を急ピッチで作り始めたという。
その政策以降、病床数はそれまでの三十倍となり、すべての病院の病床の四分の一を占めたというから、町中から患者が一掃されたというのも頷ける話だ。
だが、問題は急激な数の増加が、同時に質の低下を生んだという事だ。強制労働に、監禁、介護者による暴力、力でしたがわせるというやり方、これにより死亡事件が起こったのは、隆二が高校を出た歳くらいだった。
収容可能数を超える患者の受け入れ、これは金もうけが絡んでくるのだろうが、そのしわ寄せは患者に向かうことになる。大部屋での雑魚寝と言う入院スタイル。プライバシーはなく、ストレスはたまる一方。ルールの明確でない集団では、個人間の軋轢はどんどん大きくなっていく。
大部屋ではそのため、揉め事や暴力沙汰が日常茶飯事となる。これでは、健康な人ですら、病気になってしまう。確かに昔の話ではある。
現在ではどうなのか?その医者はそれに関してはあえて何も言わなかったが、入院するよりも在宅介護がいいのですよ、と言っていた。実際に在宅介護に拘り、実践しているという。
印象的だったのは、治癒と言うのは単に偶然の出来事に過ぎないのだという言葉だった。いい結果を生む偶然を奇跡と呼び変えてもいいかもしれませんが、と笑った後で、当たり前ですが、偶然なので狙ってできることではないのですよ、と言ったのだ。
隆二より少し年上のベテランの医者にして、その言いは、いかに人の脳が未踏の地であるかを表していた。
ともあれ、何よりも隆二を寒からしめたのは、誰しもが罹るかもしれないその可能性の高さと、治癒の困難さ、そしてそれに逆らえない力の大きさだった。
阿久根
凜はホットケーキを食ベている。なんとか手配することが出来た。いや、手配したのは看護師さんで、阿久根は頼んだだけだったが。
黙々と、フォークをケーキに突き刺しては口に運んでいる。小さいながらも、ナイフの扱いは慣れたものだ。危なげなく器用に切り分ける。子供用のプラスチックのナイフではない。大きな金属の大人用のものである。
はじめは心配だったが、問題ないようだ。この子は見かけによらず器用そうだ。そう言えば、ファーストフードのホットケーキはナイフがプラスチックだった。今でもそうなのだろうか?大昔に一度食べたきりだ。
あれはまだ学生の頃だったかもしれない。ハンバーガーが食べたかったのに、店に入るとそれは販売してないと言われた。何となく騙されたような気がしたが、やけくそで一番ハンバーガーらしくない商品を選んで頼んだのがホットケーキだった。
出てきたホットケーキは薄くて、思っていたのと随分違ったが、付いてきたバターが風味良く、シロップのしみこんだ生地によく馴染んで、美味しかったのを思い出した。一緒に入った友人は、イングリッシュマフィンに卵を挟んだものを食べていた。
あの当時、あのファーストフード店はそこでしか食べられないものを提供していたものだ。ピクルスなんてあそこで初めて知って、最初はこのキュウリは腐っているのではないかと心配だったが、そのようなものだと改めて知って、普通に食べられるようになった。
イングリッシュマフィンも今では田舎のスーパーでも売っているが、あの粉だらけのパンはそれまで見たことのないもので、初めて食べた時は、これは素直にうまいと思ったものだった。
そう言えばフレンチフライもあそこが初めてだった。あれは子供にせがまれてよく行ったものだ。子供が大きくなった今、ファーストフードに入るという事は滅多にない。
隆二は今でもしょっちゅう行っているようだが、やはり米の飯か、最低でも麺類を食べないと、食事をした気にはなれない。だが、この子はやはり喜ぶに違いない。
「美味いか?」
その問いかけに、凜は少し目をあげて黙ったまま頷く。
「ナイフとフォーク、なかなか上手に使えるじゃないか」
「お母さんが・・・」と言った凜の顔は笑っていた。「使っていいよって言った」
「それで食べると、美味いんだよな。何だか、いいもの食ってるって気になるだろ」
凜の顔が一瞬輝き、ぶんぶんと首を縦に振った。それを見て阿久根もにやりと笑った。
「ポテト好きか?」
その時部屋に入ってきた若い看護師は、凜の事を小さなころからよく知っている。雄一郎の代から、この一家はここがかかりつけの病院だった。もちろん娘の祥子も、孫の凜も、特に凜はその身体の事もあって、頻繁にこの病院に訪れている。祥子や、凜が生まれたのもこの病院だ。
さすがにこの看護師の年齢では、祥子が生まれた時分の事はわからないが、凜はずっと、彼女が赤ちゃんの頃から、見知ってきた。その凜が、他人と話すという事を彼女は今まで見たことがない。
しかし、話していること自体は重要な事ではないような気がした。重要なのは、話し方だ。楽しそうに話している。祥子や、雄一郎と話すようにだ。
「仕方がないなあ。ケチャップは、無いと困るだろ?」
そう言いながら、大声をあげているのは刑事ではなかったか。さっき偉そうに、看護師の待機室に現れて、ホットケーキを注文した男である。病院と言うところは、変わったことの起きるところだ。今目にしていることも、暫くは語り草になるだろう。
ケーキ刑事と、凜ちゃんの組み合わせ。どうやら、ケーキ刑事としてはポテトにはケチャップが欠かせないらしい。待機室でのお喋りのネタの一つとして、こっそりと頭の中にしまい込んだ。皆に受ける様子が、目に浮かんで、ほおが緩んだ。
看護師は凜を検温して、出て行った。こちらを見た時に少し半笑いのように感じたのは、気のせいか。もしかしたら、俺に好意的なのかもしれない。なんだか知らないが、こんな楽しい気分は久しぶりだ。
「早く元気になると良いな。そしたら、ハンバーガーとポテト食べに行こう。両方食べられるか?」
「半分・・・」
「よし、じゃあ半分こだ。おじさんと半分な」
「・・・」声が小さくて聞き取れなかった。
「ん?なんだ?」
「保育園の、浩平君」
「ああ、保育園のお友達だな。そっちの方もつれて行ってあげるよ」
飲み屋の女の子に、何か買ってやると、安請け合いするのとはわけが違う。そうした約束は右から左だが、これについては保育園の場所を誰かに聞かなくてはと、しっかりと刻み込んだ。安請け合いなら、身についたものだが、どういうわけか、今は普段の俺ではない。
祥子
空腹と飢えでぼんやりした頭に、あの刑事さんの声が聞こえてきた。確か、大門と言ったはずだ。私は発見されて、捕まったのだ。
でも、目的を果たすのは何処だってできるはず。食べないし、飲まなければ、そのうちに目的は達成されるだろう。それは強制的に阻止されるだろうか?生きる意志のない肉体を、他者が強制的に生かし続けることなんて出来るのだろうか。
いや、権利とかそういうたぐいの話ではない。単純に物理的に可能なのかどうかという事だ。今の自分に一番大切なのは、凜に与えたのと同じやり方で、この世から消えてなくなることなのだ。
向こうに行けば、また凜に会えるだろうか?魂が輪廻して、また生まれ変わってきたら、次の生で会うかもしれない凜に気が付くだろうか?タイミングによっては、同い年かもしれない。男女が入れ替わっているかもしれない。私が子供で、凜が親かもしれない。
里美が時々話していた輪廻の話を、そのまま信じていたわけではない。
だが、この体を構成する分子はどうなのか。宇宙を漂う塵は集まって星になり、星の中心で圧力と熱を受けて、より複雑な塵となり。その星に寿命が来てバラバラになると、再び集まって星を作る。
そしてある場所、ある時では、その一部が生き物の身体として、使われる。生き物はその生を終えると、また塵に帰るが、その塵はかつて星になったように、体内と言う宇宙で集まって、誰かの、何かの生き物の一部となるのだ。
或いはまた星になり、気が遠くなるような時間の中で、一瞬だけ、また生きた身体を構成する。その変遷を輪廻と呼ぶならば、その通りなのだ。
仏陀が言うよりも、カールセーガン博士が言う言葉の方により深い畏敬を感じた祥子だったが、これは同じことを言っているのだ。直観的に言った真理を証明したに過ぎない。今は特にそう思う。
そう考えながら、ほっとして、祥子の意識は消え入りそうになっている。水分は摂っていた凛と違って、祥子は水すら飲まなかったため、身体に受けたダメージは凜のそれよりも大きくなっていた。
電話に出た時まではまだ意識もはっきりしていたが、その後感覚が明らかにおかしくなって、手足を動かすこともままならないようになっていた。その普通ではない体の状態が、目的に近づいたことを示している。
ほっとしたのは、そういう事だった。このまま意識を失って、再び目を覚ますことがなければ、どれだけ良いだろう。お願いだから、このまま行かせてほしい。
男性の刑事さんが叫ぶ、何度目かの救急車と言う言葉。勿体ないからやめて欲しい。こんな場合の費用はだれが払うのだろう?税金だったかな?それでも勿体ない。迷惑をかけたのは私なのだから、私が責任持つから、余計な気を使わなくてもいいから。
「凜ちゃんは保護しましたよ。元気です。だから、お母さん。しっかりして!」
周囲の騒ぎの中で、その声は、あの優しい女性の刑事さんのあの声は、ようやく耳に飛び込んできて、頭の中で初めて意味を成した。
一番聞きたかった言葉。
胸が激しく痙攣して、それに押し出されて、小さな声とともに涙が出た。頬を伝う涙が、温かい。その温かさが、胸の痛みを和らげる。
「・・・ね」
「・・・・」
柔らかい手が背中をさすってくれている。この人が刑事さんでよかったと、再び思う。
「ごめんね・・・」
背中をさすっていた手が、肩に回り、祥子の肩をしっかりとつかんだ。
遠くにサイレンの音が聞こえる。
富士子
救急車を見送って、それを追いかけるために、自分の車に戻る途中で、電話が鳴った。
鑑識からだった。黒田が、前置きなしでいきなり話し出す。
「例の農薬だがね、濃度が濃すぎるのだよ。スーパーや祥子のアパートから出たやつだけどね、で、当然、祥子の靴の裏にも付いていたが、靴裏よりも、地面から採取した方が濃いのだ。あり得ないだろう?」
「農薬をまき散らした本人は別にいる。それは、ひょっとすると農家がらみですね?」
「その可能性は高いね。実際に、任意で近くの農家の靴を借りたのだよ。その裏に付着した土が落ちると、同等の濃度になるね。スーパーと農家は繋がるかい?」
一人思い当たる人物がいた。祥子のスーパーに勤める、先輩のアルバイトである。確か、悦子とか言った。阿久根が一度接触して、聴取している。実家は農家だと言っていたはずだ。
「隆二!」
二人は車に乗り込んだ。向かう先はスーパーである。とりあえず、悦子の身柄を押さえて、それから話を聞くことになるだろう。
隆二
「炭焼き小屋だって?」阿久根が素っ頓狂な声をあげた。「そんなもの、今でもあったのか?」
「今は使ってないよ。正確には炭焼きの窯に付属する物置小屋だ」
隆二はそこに行き、悦子の証言で里美を救出したのだった。警察に呼ばれて出頭した悦子は、素直に全てを話したのだった。事件は一段落し、解決に向かっていた。そうした場合に、こうしてお互いに事件を振り返りながら、情報を交換するのはいつもの事だった。
「山の中か?」
「そうだな。かなり深い山の中だ。しかも原料の木が傾斜地に生えるので、小屋も傾斜地にへばりつくように立っている。道路からそこまでは簡易型の小型モノレールでしか行くことが出来ない。モノレールはその持ち主しか動かせないから、他人は近づかないし、今は家人にしたって誰も用がないから、近づかない。大声を出しても誰も気づかない。食事は本人が運んでいたそうだ」
「里美は生かそうとしたのだな。何故だ?」
「同じ宗教団体だからだとさ」
「罰が当たるとか?」
「そうだ。里美は中でも、いわゆる信心が厚いというそうだが、周囲の認める熱心な信者だったらしい。その里美に何か害をなすことは、自分が今まで積んできた功徳が無駄になると考えたそうだ」
「他はどうなのだ?雄一郎は刺されて、祥子は被害者にされて、もう少しで凜は餓死するところだったのだぞ」
「人の機微は理屈じゃないのさ。思いつくままに犯罪を重ねたが、その時点でもうすでに、正気を失っている。いずれにせよ、雄一郎の意識が戻れば、自分の犯罪であることがばれてしまうし、拉致監禁した里美の方も手に余ってしまって、死にたくなるほど困り果ててしまったそうだ。連行した時は車に乗るなり、勝手に自白しだして、着いた時には全部聞かされていたよ」
「罪の意識か?」
「それがそうじゃないのだな。罪の意識じゃあない。自分の事が心配だったのさ。素直な自供が有利だという計算もあるだろう」
「自分勝手な!」
「その通りだよ。里美を生かしたのも、自分の為だからな。この誘拐にしたって、計画的だったのさ。全体としては、深くは考えてなかっただろうが、たまたま仕事終わりのスーパーでかち合ったので、これ幸いと、その場が犯行現場になった。でも、機会を狙って普段から睡眠薬を用意していたのだ。駐車場で会うなり、落ち着くためにとか言いながら、睡眠薬の入ったお茶を飲ませている。あとは車に乗せて、炭焼き小屋に直行だ。炭焼き小屋も最初からそのつもりだった。むしろ炭焼き小屋と言う特殊なものが自分の家の資産としてあったからこその、この計画だったのだ」
「動機は何なのだ?」
「悦子は、祥子に紹介した牛丼屋の店長と男女の中で、再婚の予定もあったが、それが駄目になったらしい。その時期がたまたま祥子を紹介した後だったので、疑心暗鬼が祥子に向かってしまった。だから祥子を苦しめるために全てを計画したのだ」
「だったら、祥子一人を狙えばいいだろう?周辺の人物を狙ったのは・・・」
「そうだ。苦しめるためさ。死んでしまえば、苦しむことはないからな。自分が不幸になって苦しんでいて、そのきっかけを作った人物が、苦しみのない世界に行くことが納得できなかった。悦子は言っていたよ。この苦しみは現世のモノとは思えない。しかも終わることはないと確信できるほどだとね」
「失恋の痛みってやつか?そんなもの直に治ってしまうのになあ」
それは傷を負わせた相手に拠るのだと、隆二は思う。或いは二人を取り巻く状況がそれに輪をかけるのかもしれない。いずれにせよ、それは本人にしかわからない痛みなのだ。
祥子が倒れて以来、時々祥子の様子がおかしいのは悦子としては気付いていたという。そのことに関して、例の牛丼屋の店長が悦子にしつこく聞き出そうとした。
きっと、店長にしてみれば、他意はなかったのだ。或いは、本当に好意を抱いていたのか。それもきっと本人にすらわからないのかもしれない。それは、結婚の話が無くなった後でもまだ続いた。傷心の心に塩を塗るようなものだが、その無神経さが、或いは必死さととられたのだ。
「自分が自分でないような。もう一人の自分がいるような気がしていました。あまりに辛くて・・・」と、悦子は涙ながらに語った。
源氏物語に出てくる六条の御息所と言う人物がいる。失恋の痛みと、プライドを傷つけられた悔しさから生霊になった。別の人格が居て、本来の人格とは違うことで、本来の人格ではできないことをする。
また、別の人格の存在そのものが、本来の人格が完全に破綻するのを食い止めるのだ。人間の精神における自己防衛の方法なのかもしれない。いや、その時点で本来の人格は破綻していると言えるのかもしれない。
しかし、もう一人の自分なのだ。自分が変わるわけではない。本来の自分は、もう一人の自分を冷静に観察している。その部分は残したままなのだ。それを感覚的にとらえて、生霊になったという言い方は、とても優れた言い方だと思う。
実際、御息所は我に返ると、自分の身体に悪霊退散用に焚かれる護摩の香りがすることに気付いて初めて、別人格に気が付くのだ。
そして御息所もまた、直接の人物に仇をなすわけではない。最も主たる人物のその周辺人物へと害は及ぶのだ。そして、そのことで本人が苦しむのを目的とするというところは一緒だった。
「そりゃあ、本人迄被害に合わせたりしたら、後でそいつが戻ってこられなくなるだろう。保険だよ。賭けと言ってもいい。あわよくば、どこかで元さやなんてことも考えているのさ」と阿久根は言った。
確かに、その通りだ。その淡い希望が、行為を後押しするのだ。
人間の恋愛感情というやつは厄介だ。焦がれるというのは、つまり恋というのは、ありとあらゆる災難の元だ。それは自己中心的で、それ故に近視的で、目先の事を考えない。欲しいものは欲しい。手に入れたい。独占したい。それは単なる欲望に過ぎないが、対象によって強弱はあるものの、人の行動を完全に支配する。
性欲は強力にこれをバックアップするから、問題はさらに大きくなる。これはどちらがどちらという事もない。どちらかがより大きい場合もある。性欲の方が大きくて、それを恋と勘違いしているようなことだってある。いや、生体組織はかなり狡猾で、肌を合わせると、恋している時と同じホルモンが分泌されるのだ。
人は小さなことで言えば、嫉妬してそれが故に相手を傷つけてみたり、その結果その人を失ってみたり、或いは、不倫をして、すべてを失ったり、計画に無い子供を作ってしまって、計画に無い不幸な結婚をせざるを得なくなってしまったり、その挙句が不幸な家庭だったりする。
それは全て、根っこは同じなのだ。この衝動は、人を狂わせる。正常な判断力を完全に奪ってしまう。普段は常識のある人が、非常識な人物に入れ替わってしまう。
そして、この衝動はあまりに大きすぎて、多くの人が抑えることが出来ない。危険だが、その最中で危険だという自覚はない。世の中が表面的に作ったイメージに酔っている。或いは意図して、表面しか見ないようにしている。自己中心の恋が、利他の愛に熟成するまで、待てないのだ。
むしろ自己中心のその心を、利他の精神に表面上だけ置き換えて、ごまかそうとする。だから、その果実は多くが、途中で木から落ちてしまう。
それで終わりならばまだいいが、その実現しない甘美さにあこがれて、果実の無くなった枝をうっとりと羨望を込めて見ていたりする。または、果実でないものを果実と思い込んで、再び衝動に支配されたりもする。
だが、皮肉だが、真正な果実でない偽りの衝動は、かえって真正の悲劇を生まないものだ。それは偽物であるがゆえに、偽物なりの弱い誘惑を仕掛けるが、そうした弱さには人は抵抗できるのだ。自分と言うものをしっかりと保持できる。常識に沿った行動をとることが出来る。
その経験が人を騙すこともある。騙された当人は、自分が意志の力の強い人間だと、勘違いをしている。その勘違いのまま、真正の果実に出会ってしまったら、おしまいである。
悲劇は余計に大きくなってしまうかもしれない。意志の強い自分がよろめくくらいの恋ならば、これは貴重なものだと思い込んでしまう。何物にも代えがたいものだと、思い込んでしまう。何を犠牲にしてもいいものだと、自分を納得させてしまう。
実際に、何もかもが優先順位を下げられて、過小評価されて、事実犠牲にされてしまう。気が付くのは時間がたってからだ、この経過は単にホルモンの減少に過ぎないが、自己の変化に戸惑いながらも、うっすらとそのことには気が付いている。恋が冷めたというやつだ。
すべての事に、行動に、心理状態に、説明は求められ続けるが、腑に落ちる理由はほかに見当たらない。仕方がない。このようにして人類は繁栄してきたのだ。
造物主は居ないが、もし仮にそれに最も近似な存在を選ぶとしたなら、種族としてのありようそのものがそうだと言えるのではないか。その絶対的なルールには逆らえないだろう。それとも逆らう事は出来るのだろうか?やはりそれは勘違いに過ぎないのだろうか?
こうした思考は隆二の頭の中で、いつも堂々巡りだった。所詮他人の心の中、いや頭の中は覗けない。その種類や、外郭は理解できても、その強さまでは理解が及ばない。前者の二つは、重要ではない。どのような思考も、すべての人にある物だ。問題はその強さなのだ。
少量だと、または適量だと、薬と呼ばれたり、必須と呼ばれたりするものが、強すぎると、それは多すぎたり、濃すぎたりすると、すべからく毒となってしまうのと同じに、強すぎる思いは害をなすものだ。しかし、その肝心なところが、最も理解できないところでもある。理解したつもりでいることはできるが、しょせんつもりに過ぎないのだ。
「家の合い鍵は簡単に手に入ったらしいな」阿久根の言葉で現実に帰る。
「俺もあのスーパーに行ったが、田舎の従業員ロッカーなんてものは何処も一緒だな。鍵なんてないのさ。特にこの辺りは、相当にルーズだよ。まあ、おおらかと言うかなんというか、トートバックから財布がのぞいたままで鞄を置きっぱなしにしてみたり、玄関が開けっぱなしで、家主が居ないとか、当たり前だもの。その延長でああいうところも本来とるべき対策は何もしていない。ちょっと借りて、配達の途中で会い鍵を作られ、元に戻されたとしても、誰も気が付かないね。鍵は中途半端なものでね。ピッキング防止機構付きのシリンダーだと、鍵も当然いいやつは、メーカーで登録したオーナーしか複製できないのだが、そこまでのものではなかったらしい。ホームセンターで複製できるレベルさ。合い鍵の線で、ホームセンターも当たったが、合い鍵の作成なんて、殆どの人が詳細には覚えていないものだ。きっちりと捜査済みのホームセンターがそれに該当していたよ。業務がどこも煩雑だからな、ああいうところは。まあ、あるあるだな」
「マンションへの侵入の方はどうだ?」
「それなのだが、元々あのスーパーは一人暮らしの高齢者向けに配達をしていた。スーパーの制服で現場の廊下や階段ですれ違っても、誰も不審には思わない。それどころか、悦子は配達の常連だ」
「聞き取りで、何も出ないはずだな」
「変わったことが何もないという事に、逆に少し注意すべきだった。まあ、事後だから言えることだし、次回に生きるかと言うと、それは無理だろうがね。ところで、雄一郎さんの具合はどうだい?」
「ああ、いいタイミングだったよ。自供の後だったからな。せっかく証言できるまでに快復したが、思い出したくもないだろう。こっちから簡単に報告して、それで終わり。あとは凜ちゃんが“看護婦”代わりさ」
悦子は以前、店で雄一郎に出会っている。雄一郎が退院後の祥子を心配して、こっそりと様子を伺いに来たという事だった。その時に応対したのが、悦子だ。
悦子の事は祥子が、頼りになる先輩がいるという内容で、雄一郎には話していた。その後の雑談として、悦子が祥子から聞いていた雄一郎の趣味の釣りの話となり、変電所の池の話をしている。悦子はその時に、私も釣りに興味があるからと言って、一緒に朝の釣りを見物する事を約束したらしい。
「その約束をした時も、特に何かをしようなんて考えていませんでした。頭の隅に何か悪い考えが有ったのは確かですが、約束した後で、売り場のナイフを見て、それを手に取ってしまったら、次の瞬間にはポケットに入れていました。約束の日時になって、その場所に行くと、雄一郎さんが居て、誰も他に居なくて、雄一郎さんが誰もいないね、って言うのを聞いたら、それがきっかけになって、頭が真っ白になって、気が付くと目の前に、雄一郎さんの信じられないという表情が見えました」
悦子はそう言うと、言葉を少し切った。考えている。それはたくらみを思いつこうとする人の表情ではない。自分が夢中になってしてしまったことを、その場では衝動的に行動して、無意識化の中での行動の詳細を必死で思い出そうとしている人の表情だった。
「その目が怖くて、早く消えてほしかった。だから、何度も刺しました。雄一郎さんはショック状態で最初から最後までされるがままになっていました」
後日、雄一郎はこの件について語った。ナイフが体に入ったのはわかったという。それは最初、痛くはなくて、それよりも目の前の女性が、泣きながら自分を刺して来ることが、あまりに理解できなくて、そのことばかり考えていた。
だから、その女性の表情を読み取ろうとして、相手のあまりの思いつめ方に圧倒されながらも、その顔から目が離せなかったのだという。かつて、あのような表情を見たことがない、と雄一郎は語った。
自分は被害者かも知れないが、あの表情を見て、あの感情の大きな表出に触れてしまったら、不思議と恨めないのだと言った。
「不思議ですよね。自分でもよくわからないのですよ。そのうち身体から力が抜けてしまって、立っていられなくなって、ロードバイクで無理して、ハンガーノックになったみたいになりました。で、一度は意識が無くなったのですが、だんだん痛くなってきて、目が覚めて、呻いていたら、誰かが近づいてくるのが分かりました。その人が救急車を呼ぶのが聞こえて、その後はほっとしたのかもしれません。憶えてないのですよ」
雄一郎はもう一つの趣味であるロードバイクに例えた。ハンガーノックと言うのは、体力の限界が来て、意識を失う事を言う。
わずか数時間で、一日に必要なカロリーを使い果たしてしまう競技である。筋肉を収縮させるのに使われる各種のイオンと、それを基に戻すためのATPの枯渇、そこから生まれる乳酸の蓄積と、そうしたものが重なって、通常ではなかなか体験できないことが、素人ですら割と頻繁に起きる競技である。
「どこかで蝶が羽ばたいて、どこかで嵐になるという話が有るでしょう。嵐に吹かれて被害にあっても、蝶を恨むわけではないし、だって、蝶は羽ばたくのが自然でしょう?その間の仕組みを恨むわけでもない、もちろん嵐自体も同じです。些細なことが、だんだん必然的に大きくなっていって、最後には誰にも止められないものになってしまう。そうした嵐の被害にあった、と言う感じなのですよ」
あの表情に嵐を見たとは言わなかった。そう思ったのだが、言わなかったのだ。この思いはまた、時間がたてば、変化するかもしれない。犯人を恨むようになるのかもしれない。
この被害者が自分の家族だったら、確実に恨んだだろう。だが、自分自身だと、どうも話は違うのだった。幸いにも、その家族にも手は伸びたが、無事に済んだ。そこに一抹の複雑な思いはあったが、打ち消せる範囲だった。
しかし、自分の感情すらもどうにも理解できないのだ。人の事がどうして理解できるだろうか?その思いが無くならない限り、恨むことはできないような気もした。
「いつもこんな調子なのですよ。言っていることがおかしいでしょ?」
そう言ったのは里美である。里美は何日間か、炭焼き小屋で過ごして、監禁はされたものの、無事だった。今は雄一郎のそばにいて、付き添っている。口から出る言葉の内容とは裏腹に、非難の調子はない。良くある仲のいい夫婦の典型の形である。ただ、里美の方はあまり悦子の事を語ろうとはしなかった。
「あまり話したくはありません」
そう言って口をつぐんだなりだった。事実の確認は最低限度で行われ、もっぱら隆二が語って、それを認めたり、訂正したりと言う形で行われた。
もし、雄一郎や、祥子、凜にもしものことが有ったなら、私があの子を殺してやる、と言う言葉は何度も出かけたが、口には出さずにいた。それには黙っているのが一番だった。何かを話していると、不意にその言葉が、それまで話していたことを押しのけて、口から出そうになるのだ。
「それで、お前は凜ちゃんを保育園に連れて行ったのだろう?どうだったのだ?」
書類をまとめながら、隆二が阿久根に訊いた。
「ああ、友達に会いたいっていうんでね。一緒に行ってきたよ」
阿久根はそれだけ言って、空のコップをもって給湯室に行った、コーヒーを淹れに行くのだろう。
阿久根
凜の手を握って、保育園に入っていった。このような事は、わが子ですらほとんどしたことがない。もっとしておけばよかったと、後から気が付くのは、何もかも同じである。それが出来なくなってからの事で、これもまた例外ではない。孫にはまだ早いし、だから、今回の事は少し楽しみでもあった。
「浩平君いるかな?」
居るに決まっているだろうが、何か話しかけたかったから、そう訊いた。
それに対して、凜は少し恥ずかしそうに頷いて返す。
また、やってしまった。凜に対しては、イエス、ノーで答えられる質問をすると、このように頷かれるか、首を横に振られるかしかしてくれないのだ。だから、それ以外の何かの言葉で返せるような質問をしなくてはいけない。
いけない、と言うのは単に阿久根の考えである。この子と意思の疎通をするにあたって、言葉でやり取りをするのがいいと思われたし、単純にその声が聞きたいというのもあった。むしろ、後者の方が大きかったかもしれない。
「浩平君、何で遊んでいるかな?」
「・・積み木・・」
よしよし、この調子だ。
「浩平君は積み木で何を作るのかな?」
「・・・・」
あれ?この質問は少し難しかったか。そう思っていると、斜め下から小さな声が聞こえてきた。
「ん?なんだ?」
「浩平君は私が作っているのを見ているの」
はにかんでいる様だ。消え入りそうな声でそういった。その表情までは読むことが出来ない。
「そうか、そうか」
思いがけない会話の進展具合に、つい顔がほころんでしまう。世の中の爺連中が孫にべったりで、孫の前だと心が溶けるような気がするなんて、バカなこと言うんじゃあないよ、なんて思っていたが、こんな感じなのだな、とわかったような気がした。
いや、気がしたどころではない。確信したのだった。これは堪らない。何物にも代えがたいとはこのことだ。
「凜ちゃん久しぶりー」
保母さんたちが、こちらに気が付くと、手を振ってくる。手を振り返す凜と保母さんを交互に見ながら、保母さんってこんなに若かったっけと、少し驚いた。まるで、子供が子供を世話している様だ。もっと大人が面倒を見ていたような気がするのだが、と思いながら、自分が年齢を重ねたのだという事に気が付いた。
そう言えば、自分が幼稚園の頃は保母さんなんて、全部おばさんに見えたもの、と思い出す。それにしても、こちらに向かって手を振る若い女性と言うのはなかなかに良いものだ。自分に振っていないのはわかる。もちろん凜に振っているのだが、なんだかいい気分だ。やはり、もっと来ておけばよかった。
その時、するりと凜の手が抜けていった。凜がかけ出した先には、積み木が積んである。ちょうど教室の隅のそのコーナーは、スポンジのシートが敷いてあって、大きなスポンジブロックがそれを取り囲み、同じくスポンジの塊がたくさん積み上げてあった。
もう、積み木といっても、木ではないのだ。その二メートル四方ほどの空間に、何人かの子供が遊んでいる。あの中の一人がきっと浩平君なのだろう。阿久根はちょうど教室の対角から、その様子を観察していた。
流石に幼稚園だけあって、壁や天井にたくさんの飾り付けがしてあった。天井からは色とりどりの折り紙で作られた紙の鎖が波のようにぶら下がり、壁には大きな字で、あいさつしましょう、とか、なかよくしましょう、とか書いてある。挨拶しましょうの言葉の下には、挨拶している子供たちが描いてあって、仲良くしましょうの下にはやはり、仲良く遊ぶ動物たちが描いてあった。
もう一度、凜へ目を戻すと、凜は一人で積み木を積み上げていた。周りの子供たちはそれぞれが、それぞれに遊んでいて、凜に話しかける子供は居ない。壁に向かって一人で、しゃがみこんでいる凜は、後ろから見ると、よくわからないが、何かを一生懸命に説明しているように見える。その先の壁には、男の子の絵が描いてあった。阿久根は通りかかった一人の保母を呼び止めた。
「浩平君と言うのはどの子ですか?」
その保母は、けげんな表情で首をかしげる。
「今は、浩平君と言う子はいないですね。何年か前にはいましたが、かなり前の事ですよ」
「凜ちゃんはいつもあそこで遊んでいるのですか?」
「ああ、あそこは凜ちゃんの特等席です。いつもああやって何かをつぶやきながら、積み木を積んでいます。近づくと黙ってしまうので、何を言っているのか分からないし、聞いても答えてくれないのですよ」
そう言いながら、保母は屈託なく笑った。つまり、浩平君と言うのは保母さんたちにも秘密の友達なのだ。
阿久根はその場に立ち尽くして、動こうとしなかった。
隆二に保育園の事を聞かれた時も、そのことは語らなかった。今でも、誰にも言わずにいる。
富士子
「頭部外傷後精神障害?」
何となく予感はしていたものの、そういう病名があるとは知らなかった。祥子から話を詳しく聞くにつれ、倒れてからの気分の変化や、嗜好の変わり様、攻撃性の増加など、そうしたことに悩んでいたと打ち明けられたのは、ごく最近の事である。
今、富士子は祥子の病室に来ていた。ベッドの横に腰掛けて、祥子は体を起こし、互いに向き合う形で話をしている。
「そうなんですよ。ようやく病名が確定しまして、脳梗塞や、怪我、後は何でも、ある種のビタミンが不足しても、罹るらしいです。あ、そうだ、脚気と関係があるとか言っていました。英語ではトラウマ何とかかんとかって言っていましたけれど、これはすっかり忘れました」
祥子はすっかり明るく元気になった。退院の日も決まって、早く働きたいと、こぼすくらいに快復した。
「だから、治療方法があるんですよね。病気だから。薬を飲んでしばらく様子を見ていくという事でしたが、自分の気持ちがコントロールできていないと感じるよりは、薬を飲むくらい何でもありません」
何よりも祥子が明るいのは、凜を再び以前の感情で見られるようになったことだと、感じた。数日前、阿久根に連れられてやってきた凜は、最初おどおどしていたが、すぐに祥子の変化に気が付いたようだった。祥子に飛びついて甘える凜を見ながら、
「やっぱり、お母さんが一番だよな」
阿久根は、嬉しさ半分と悔しさ半分でそう呟いた。彼に対しての凜がなつく様には、驚いた祥子だったが、その彼から改めてそう言われると、とても嬉しそうだった。
阿久根と凜にどのような接点が有ったのか、富士子には予想もつかない。思いもしない展開だった。隆二もまた黙って事の次第を見ていたが、内心の驚きが垣間見えるほど動揺していた。仲良くおどける阿久根と凜と眺めながら、ひたすら冷静を取り繕うさまがおかしかった。
蓼食う虫も好き好きと言う言葉が、頭に浮かんだが、この言葉はよほど相当する両者ともに仲が深くないと使えないと思いなおして、すぐさま打ち消した。阿久根には丁度いいけど、凜ちゃんには失礼よね。
こんな場合は何て言うのだろう?蓼食う虫も好き好き?いやいや、同じだから。もうその言葉しか頭に浮かばなくて、考えるのをやめた。
「ソウルメイトなのかな?」そう呟いた祥子の言葉が耳に入ってきた。
「?」
「いや、阿久根さんと凜なんですよ。あの二人とても仲が良くって、今日も連れだってドーナツ食べに行くんだって。富士子さん来る前に、さっき一緒に出て行ったんですよ」
それは、初耳だった。確か今日は別件で聞き込みに行っているはずなのに。そう思って、心の中で舌打ちしていると、考えていることが顔に出たのかもしれない。慌てて祥子が次のように言った。
「怒らないでくださいね。凜が一方的に約束させたみたいだから。私も嬉しいんです」
「・・・?」
「凜は、ご存じの通り人見知りが激しくて、私の母ですら、心を開こうとはしません。私や、父にだけは少し自分を見せてくれますが、それはまだまだだったんですよ。彼女は、凜は私たちに合わせてくれているだけで、それは一部分なんです・・・。いや、一部分だけだったんだと、気が付いたんです」祥子はそう言って、うつむいた。
「どういうことですか?」
「阿久根さんとは、喧嘩するんですよ。あの凜が、むきになって、自己主張して」そう言って、顔をあげた祥子は、おかしくてたまらないと言った顔をしていた。
「いや、それは・・・」
違うと言いかけて、言葉を濁した。あれは単に保育園と同レベルなだけで、表面は爺だけど、中身は子供だから。大人同士の普段の生活においては、粗大ごみ的な存在だが、そんなものが役に立つことがあるならば、天の配剤というやつは人知を超えたところで、適用されるとでも言うべきだろうか。
どちらにせよ、普段は自分を出すことのない消極的な子供から、何かを引き出すとなれば、大いにその持ち味を役立ててくれればいい。
「今日もね、イチゴジャムとチョコレートで喧嘩していました。凜は、どうしたわけかジャム食べないんですよ。阿久根さん、ジャムンチョならいいのか?って聞いていましたけど、わからないですよね。凜にも知らないよって言われていました」
「・・・」
そう言えば、昔そういう名前のアイスクリームが有った。チョコレートコーティングのバニラアイスにジャムのフィリングが入っている。ジャムンチョはナッチョコと言う名のアイスとコンビで、こちらは名前を変えて今でもある。クランチタイプのチョコアイスだ。
そう言えば、ジャムンチョは早々と無くなったはずで、少数派だったのかもしれない。
阿久根は嗜好が子供並みで、しかもちょっと変わっていた。ケチャップやジャム、人工甘味料や人工着色料を使ったようなレトロで、ゲテモノまがいの、今の子供が見向きもしないような駄菓子などが好きなのだ。
きっと子供のころ叶わなかった欲望を今満たしているのだろう。ジャムと言えば、オレンジジャムをチョコレートでコーティングしてダイジェスティブビスケットに乗せたクッキーは最近見ないが、あれは何処に行ってしまったのだろう。
マクビティの新作は絶やさずチェックしているが、見なくなって久しい。あのジャファケーキは、もう手に入らないのだろうか?そう考えると、急にどうしても食べたくなった。まだあるのだろうか?似たような商品は、ロッテから出ていたような気がする。家に帰ったら、ネットで探して取り寄せよう。
そんなことを考えていると、阿久根と凜が楽しそうに大声で何か話している声が、廊下の奥から聞こえてきた。なるほど、ああいう感じなのか。納得して、祥子と目を合わせ、互いに笑いあった。今日のところは大目に見よう。
悦子
どうしてこうなってしまったのだろう。良くわからない。本当なら、今頃は健太と一緒に幸せな家庭を持っていたはずだったのに。
それよりも、もっとわからないのは、健太の心変わりだ。これはもう何度も何度も一人で考えたことだ。確かに彼は随分と年下だし、私がリードしないと、何も起こらなかったはずだ。だから、押しすぎたのかもしれない。
彼としては、それで流されてしまったのだろう。優しい人だもの。私の想いを断れなかったんだ。でも、無理に押し切ったわけじゃない。ただ、今から考えると、どうしてあれほど夢中になったのかすら、よくわからない。
冷静に考えると、店長とはいえ、任され店長に過ぎず。本来なら社会人としては頼りないアルバイトの彼との将来なんて、長い目で見ると上手くいく気がしないもの。何もかも犠牲にして、人に迷惑をかけて、子供達の人生も無茶苦茶にして、そんな値打ちがどこにあったのだろう。
失ったものの大きさを、悔しさのあまりに見間違えたとしか考えようがない。こんなことに全てが終わってから気が付くなんて、もう少し我慢して居れば、行動に出ることもなかっただろうに。
あの時の私は普通じゃなかった。気が狂っていたとしか言いようがない。何も普通に判断することが出来なくて、祥子ちゃんのお父さんを何気なく呼び出して、その興奮で頭の中が沸き上がっていて、自分が何をしようとしているのかもわかっていなかった。
それが何らかの弾みがついてしまって、夢中で刺してからは、もう戻れなくなってしまった。
出来る事なら、あの瞬間に戻りたい。祥子ちゃんのお父さんが居て、朝の公園でただ挨拶を交わすだけにして、眠たくないですかなんて言いながら、釣りの話だけ聞いて笑って、終わることが出来たなら。
目を閉じると、その場面だけが淡い希望のように、心に映るんだ。目を開けたら、その続きが現実になっているんじゃないかと、それだけはいつも念じて目を開けるけれども、何も変わってはいない。
あの行動を起こした時の強い狂気は、その後は私から逃げるように無くなってしまって、今、私を強く保ってくれるものは何もない。こんな無責任な事ってあるかしら。させるだけさせておいて、後はサヨナラって。どうせなら最後まで、あの狂気のままで・・・。
いや、そうじゃない。今私は少なくとも、元の私なんだ。償いは、それでないと出来ないもの。償いなんて、出来るかどうかわからないけれど、出来ないかもしれないけれど、これは元の私でないと、ダメだから。そのための小さな一歩なんだよね。
健太
悦子さんには本当に悪いことをした。料理は上手だったし、面倒見が良くて明るくて、年齢は少しばかり上だけど、それはそれほど気にはならない。
何せ、セックスがああだもの。あれには、参った。あっちの方が良すぎると、何もかもが良く見えてしまうんだよな。悦子さんが好きなのか、悦子さんとのセックスが好きなのか、わからなくなってしまう。
でも、どんなにいいセックスでも、飽きてしまうってことがあるってことも、新たな発見だった。以前読んだ“チャタレイ夫人の恋人”では、性の相性が全てだと書かれていたけれど。現実はそうはいかないようだ。いや、あれは登場人物の台詞に過ぎないものだった。あくまでも、あの彼の個人的意見だ。
しかし、そうなるとやはり、その人自体の粗も見えてくるんだ。結局のところ、セックスは目を曇らせるってことなんだよ。判断力が鈍るんだよな。次に付き合う人とは、ぎりぎりまでセックスしないで、そのあたりを見極めた方がいいな。
純粋にその人と合うのかどうかを判断して、それで納得いったらセックスする。これが、やはり昔から言われているように、一番硬いやり方だ。
でもその上で、セックスの相性が悪ければ、ショックだよ。振出しに戻ってしまう。ここで、妥協するか否かが難しい所だ。そこまで贅沢を言える分際でもないし。あっ、お客さんだ。
隆二
蝶が雨上がりの路上で羽ばたいていた。隆二はふと、雄一郎の言葉を思い出していた。この羽ばたきが、どこかで嵐になるのだろうか?小さな、とるに足りないことが積み重なって不可避な嵐になるのだろうか?
日常の人のありふれた営みが、偶然にも絡み合って、しまいには解けなくなるのだろうか?事件のきっかけなんて、どれも下らないものだけれど、それは他人の言いであって、本人にしてみれば、死活問題なのだ。
自分にしか理解できないその感情の昂りを密に抱えながら、抑えられる人と、抑えられない人が居て、同量の圧に耐えられる脳を持つ人と、それに耐えられない脳を持つ人が居て、或いは、圧を自ら、より大きくしてしまう人が居て、望んではいないのに自滅してしまう。
外圧は等しいはずなのに、それを感じるやり方が人によって異なる。ある人は軽くいなすことが出来るかもしれない。がっしりと受け止めてしまって、逃げられなくなってしまう人。受け止めた後で、薄れてしまう人。いつまでも、それを抱えて生きる人。その受け止めたものを育ててしまって、大きくしてしまう人。そこからエネルギーを得る人もいるだろうし、上手に利用する人もいるだろう。
だが、利用しているつもりで、コントロールできなくなってしまい、その価値観の怪物的な力で支配されてしまう人もいるだろう。そうした人が、犯罪者になってしまうのだ。抗うことなんて出来ないだろう。
そう、身体は脳の奴隷に過ぎないのだ。
了