前世の記憶
ことの始まりは、今年の頭に起こった異常な現象だった。
年が明けると同時に、夜空に輝く月に巨大なひび割れのような物が浮かび上がったのだ。
大きく弧を描いて天体の表面を横断する太い線は、たちまち大騒動を引き起こした。
天変地異の前触れだとか、月に棲む魔物の仕業だとか、突拍子もない様々な噂がいっせいに飛び交う。
不安にかられた連中や、混乱に乗じて稼ぎを増やそうとした悪党が、揉め事や言い争いをさっそくあちこちでおっぱじめる事態となった。
しかし敬愛するヴァルトルーデ女王陛下は、この状況に迅速に対処してみせた。
まずは魔導研究院や、国教である神明教に原因の解明を命じる。
偉い学者様や神官様がいろいろと古い文献をひっくり返し、角を突き合わせて出したのは、これは吉兆だという結論だった。
折しもこの神聖ヴィルニア王国が、ちょうど建国五百年目の節目であったのも幸いした。
すぐさま大々的に女王がよき兆しであるとお触れを出し、パニックはまたたく間に収束する。
実際のところ月の異変も、すぐさま何かの問題が生じたわけではないので当然の帰結であった。
見上げた空に少しばかり変わったことが起きたとしても、自らに関わりがなければ気にしなくなるのが人間という生き物である。
異変は月の微笑みと名付けられ、大半の人間はまたたく間に日常を取り戻していった。
そして俺はそんな流れに逆行し、常なる日々に二度と戻れなくなっていた。
なぜなら、あの月を見て思い出してしまったからだ。
この世界が、やり込んだことのあるゲームそっくりだということを。
俺の前世といっていいかは分からないが、どうやら以前は日本人であったらしい。
兄弟姉妹は居らず、平均的な親のもとで平均的な日々を送る。
無難な学生時代に、無難な就職先。趣味も無難にゲームと映画鑑賞。
言われた仕事はそつなくこなすが、積極的に動くこともない。
友人もそれなりに居たが、本心を晒せるほどの親友や恋人はいない。
思えば波風のない人生だった。
親がどうなったのか、自分の死因だとかは記憶が曖昧だ。
辛いことだからだろうか。
逆になぜかハッキリ覚えているのは、好きなゲームの内容だった。
その中でも一番思い出に残っているのが、ドラゴニア・クロニクルという作品である。
通称ドラクロで親しまれ、ジャンルはモノづくり系シミュレーションRPG。
舞台は中世風で、剣や魔法でモンスターと戦うお馴染みの世界観だ。
錬成術士という錬金術士っぽい職業の主人公が、各地で素材を集め様々な品々を作って依頼をこなしていくゲームである。
一作目は家庭用コンシューマ機の初期世代の後期発売なので、かなりレトロな部類に入る。
数年後に第二世代機で続編。こちらもなかなかにヒットしたらしい。
その後、メーカー自体は大手に吸収されブランド名だけ残りつつも、シリーズ自体は最新機種まで続いている。
その中でも屈指の名作と評判高いのが、俺も遊びまくった第二作目だ。
十六歳になった主人公が、辺境の村で錬成術士として工房を開くところからゲームは始まる。
そこから畑を耕して鶏や牛を飼ったり、薬草園を造ったりとスローライフを売りにしながらも自由度が高く、選択によっては様々なルートへ分岐していく。
村発展ルートで村長の娘と結婚する王道エンディングや、王都の大きな工房の主となる富豪エンディング。
はたまた錬成術を極めホムンクルスと添い遂げたり、錬成術の学校を作るアカデミー学長エンディングなどなど。
しかしながら一番有名なのは、世界を滅ぼす巨大な龍と戦うエンディングである。
このルートが一言でいえば、超難関なのだ。
ドラクロシリーズでは仲間ユニットの育成が可能なのだが、それらを全てカンスト近くまで育て上げ、最強の武器と防具を揃えていかなければ隠しボスとの勝負にならない。
当初はクリアの報告がなく、人類が滅んでいくのを見届けるためだけの鬱エンドと思われていたほどの難易度だった。
ほのぼのとした育成ゲームが、一転して血なまぐさい人間同士の争いを描く本格戦略SLGに変わってしまうのだ。
この毛色が違いすぎるルートが、一部の層に多大な人気を博したというわけである。
別ゲーとも言えるねじ込みに関しては、このゲーム制作を最後に業界から姿を消したディレクターの置き土産との噂まであったりもする。
その辺りの事情はさておき、まことに信じ難いことだが、この世界は人種や歴史、地形や名称など、あらゆる要素がドラクロ2と一致していた。
そして至極厄介なことに、最難関ルートを進行中でもあるようだ。
その証拠が、空に浮かぶあの月である。
あれは微笑みでもなんでもない。
龍の目玉が開きかけているのだ。
三年間かけてゆっくりと目覚めた龍は、凄まじい破壊の光を撒き散らし世界を火の海に変えてしまう。
資源を巡って争い合っていた各国が無残に滅びゆく中、敵対していたはずの相手と主人公たちが力を合わせて最終決戦に挑む。
という熱い流れなのだが……。
記憶が戻った当初は、めちゃくちゃ興奮したものだ。
好きだったドラクロ2そっくりの世界なのだ。
見慣れた風景にドット絵の面影を見出して感動したり、気にもかけず扱っていた錬成用の素材の数々に改めて懐かしさを覚えたりと。
で、丸一日浮かれた後で、湧いてきたのが疑念だ。
時代や国が異なる生まれ変わりはまだしも、架空のゲームの中になんてのはまず信じがたい話である。
誰かの仕組んだ壮大な悪戯か、俺の頭がとうとうおかしくなったのかと。
しかし地球には存在しなかった鬼人やら獣人やらに、錬成を含めた魔法の数々を考えると仕掛けの範疇に収まるとも思えない。
他にも決定的なゲームらしさもあって、そこら辺は素直に受け入れることにした。
ずっと考えたところで、ハッキリとした解答を得られるというわけでもないしな。
そして最後に状況に改めて気づき絶望した。
散々遊び尽くし、攻略本も端から端まで読み込んだから分かっている。
…………今からじゃ間に合わないのだ。
初期の初期から仲間やアイテムを育てておかなければ、凶悪なラスボスにまず勝算はない。
月に目覚めの印が現れてからだと、見逃した重要イベントも多すぎてリセットボタン必須のレベルである。
むろんゲームそっくりであっても、この現実がドラクロ2と完全にシンクロしているとは言い切れない。
現にゲームでは夢と希望にあふれる十六歳の少年スタートであったが、今の俺は仕事に倦み疲れつつある二十六歳である。
他にも細かな差異があるので、ただ似ているだけという可能性も十分にありえる。
ただしその場合だと、余計に希望がない。
画面の向こうに居られるからこそ、主人公は主人公であり、主人公たりうるのだ。
現実化したこの世界では、俺は一介の錬成術士に過ぎない。
華々しく戦いに赴いたり、格好いい演説や説得で名だたる人物たちを仲間に加えたりとかできる気がしない。
やる気も起きない。
だからといって、何もやらずに座して滅びを待つ気もしない。
しかしどこの世界でも当たり前だが、何を言ったかよりも誰が言ったかが重要視されるものだ。
ただの錬成術士でしかも汎人種である俺が、龍が目覚めて世界が滅ぶと言って回ったところで、信じる人間が誰も居ないのは明らかである。
その上、ソースはゲームの内容だしな。
俺だって、絶対に信じない。
そこで無名の市民でもやれることを考えた結果が、あちこちの酒場でこっそり噂を流すことだった。
まずはあの月が、よい兆しという馬鹿げた印象を払拭する必要がある。
噂が広まりやすい酒の席は、ぴったりというわけだ。
たかが飲兵衛の与太話と侮るなかれ。
この娯楽の少ないドラクロ世界における酒場は、情報交換の場として非常に優秀なのだ。
ゲームでも重要な施設だったのは納得である。
月に異変が起こった一年目は、ゲームだと酷い凶作に見舞われていた。
今から不吉だという噂をばらまいておけば、すんなりと受け入れられるに違いない。
さらに二年目には疫病が大流行し、三年目には各地で大災害が起こるはずだ。
一年目で危機感さえ持ち合わせていれば、現実的な対処を早めに取ってくれるだろう。
あとはこの先で発生する予定の災害を逐次、吹聴していけばいい。
噂が当たるとなれば、信じる人間も増えより広まりやすくなる。
そこまでいけば、後はこっそり滅びの龍の噂も混ぜていくだけだ。
国が状況を把握しようと動き出した時点で、もう個人の出番はない。
ゲームでは二十人のチームで倒せた相手だ。
本気になった各国の軍隊なら、そこそこいい勝負になるかもしれない。
…………いや、おそらく無理だろうな。
リアルだと全長、数千キロはありそうだし。
だがゲームの知識があれば、俺もできるだけ人的資源が減らないように立ち回るくらいはできるはずだ。
そのための力も得られたことだしな。
と、そこまで絵図を描いていたのだが、一番最初の段階でいけ好かない同僚に足をすくわれてしまったというオチである。
まあ、不確定要素だらけで最後まで上手くいくとは元から思っていなかったので、こんなものかという気持ちも大きいが……。
それに次の取っ掛かりも、見つかったことだし。
実は工房を開くように命じられた僻地の村。
なぜかすっかり忘れていたが、なんとそこはドラクロ2での初期スタート地点となる"はじまりの村"であった。
そして今の俺のレベルだと、村のそばにアレが現れる条件を満たしているはずだ。
だったら、まだなんとかなるかもしれない。
あれこれ考えごとをしているうちに、俺はいつのまにか下宿先に着いていた。
ちらりと後ろを確認してから、素早く中に入る。
「あら、おかえり。どうしたの? 今日はずいぶんと早いわね」
声をかけてきたのは、三角に尖った獣の耳を持つ獣人種の女性であった。
冬の盛りだというのに肩が剥き出しになった色っぽい給仕の服を着ており、それがまたよく似合っている。
名前はエンニ。一つ年上の古馴染みで、俺の下宿の女将でもある。
下宿先のこの家は一階で食堂を経営しており、数人の客がテーブルで食事中だった。
お昼時を過ぎたせいか、店内は比較的空いている。
「急に地方に出向することになってな。オッリは?」
「また、いきなりな話ね。中で一息入れてるわよ」
頷いた俺は、奥のカウンターへと向かう。
首を伸ばして調理場を覗き込むと、白いエプロンを着けた熊のような大男が、ちょうどジョッキを傾けているところだった。
丸みを帯びた獣の耳の主は、三歳年上のオッリ。
こちらも俺の古い付き合いで、妻のエンニと子どもたちでこの下宿屋兼食堂を経営している。
「…………どうした? 兄弟」
口の周りに麦酒の泡をつけたまま、オッリは心配げに尋ねてくる。
血は繋がっていないが、俺とオッリとエンニは同じ孤児院の出身だ。
兄貴分のオッリは体が大きい割に繊細で、普段は人前では進んで話そうとしない男である。
その分、料理の腕は抜群であったが。
「例の酒場巡りがバレた。で、ほとぼりが冷めるまで、ど田舎の村に行くことになったよ」
「そうか。大丈夫か?」
その問い掛けには、俺は小さく息を吐いた。
事情に関しては二人にある程度話はしておいたが、巻き込む気は毛頭なかった。
しかし結果的に、多大な迷惑をかけることになってしまった。
これも全て俺の迂闊さが招いたことだ。
「騎士団に目をつけられたらしいが、後をつけてくるような奴はいなかったな」
工房を出てしばらく立ち止まったり、後ろを何回か探っていたのは尾行を警戒してだ。
俺の言葉に、オッリは小さな目をさらに細めた。
「そういえば、朝から三回ほど通りで同じ顔を見かけた。黒い耳をした同族の女だ」
「こっちを張っていたのか。……本当にすまない」
「気にするな」
ジョッキの残りを一気に飲み干したオッリは、難しい顔のまま言葉を続けた。
「すぐに発ったほうがいい。荷物はどうする?」
「急いでまとめる。部屋のこともすまないな」
「それも気にするな」
階段を駆け上がった俺は、扉を押し開け自分の部屋に飛び込んだ。
大量の素材を扱う錬成術士は、普段から整理整頓を心掛ける必要がある。
そのおかげで、荷造りはすぐに終わりそうだ。
まず机に向かった俺は、きちんと並べてあった錬成用の器具と教本を片っ端から仕舞い込む。
次はクローゼット。
服を揃える趣味はないため数着しかないが、残さずまとめて荷物に加える。
ついでに替えの靴と下着と靴下も収納すると、棚は綺麗に空っぽになった。
ベッドや机、椅子などは、そのまま置いていく。
せめてもの迷惑料である。
出ていく寸前、思わず振り返ってしまった。
十年以上もこの部屋で過ごしてきたのだ。愛着がないわけがない。
しばし思いを馳せた後、俺は首を横に振って扉を閉めると階下へ向かった。
一階に戻ると、エンニが両手を広げて待ち構えていた。
頭をギュッと抱きしめられる。
「迷惑をかけて悪かったな。もし騎士団の誰かが来たら、俺と関わりはないとハッキリ言ってくれ。あと部屋の物も、好きに使ってくれ」
「バカね。謝ることなんてないわよ。それでいいって思ってやったんでしょ。じゃあ胸を張りなさい」
「昼飯まだだろ。ありあわせですまんが持っていけ」
何気ない優しさのこもった二人の言葉に、俺は奥歯を強く噛みしめた。
差し出された包みを手品のように一瞬で仕舞い込むと、オッリたちは目を輝かせて笑った。
「こっちだ。ついてこい」
調理場の床にある地下貯蔵室の扉を開けたオッリは、静かに俺を手招きした。
大きな樽や麻袋の合間を抜けると、奥の壁に目立たない小さな木の扉が現れる。
「この先は下水道に繋がってる。行けそうか?」
「ああ、それなら大丈夫だ」
王都の地下水路は、スライムたちの棲家で有名である。
磁石付きの白照石のランタンを取り出した俺は、手早く魔物忌避薬を錬成した。
「落ち着いたら必ず連絡するからな」
「分かった。三食きちんと食えよ」
「子どもたちにもよろしく言っといてくれ」
俺の手を固く握ったオッリは、大きく頷いてみせた。
スライム除けの薬を使ってから、下水道を西へ向かって進む。
ゲームだと王城へ侵入するイベントステージだったりするが、浮かれる気分には全くならない。
酷い臭いがする上、痺れるように冷たい汚水に膝まで浸かりながら、俺は黙々と歩を進めた。
三十分ほど歩いて、ようやく上に通じる梯子を見つける。
外に出ると見知った路地裏だった。
長靴を手早く<浄化>してから、今度は消臭薬を錬成し、全身にまんべんなく振りかける。
さりげなく人ごみに紛れ込んだ俺は、西門前の乗合馬車の停留所に無事たどり着けた。
幸いにもこっちの門には、騎士団の監視は居なかったようだ。
俺のような小者にまで、そうそう人員を割けないのだろう。
特にお咎めもなく、馬車は門を抜け王都の外へと走り出す。
腰に響いてくる振動に安堵していると、空きっ腹がいきなり音を立てた。
胃袋が昼飯を食べていないのを思い出したようだ。
アイテム一覧から包みを取り出して広げると、サンドイッチが出てきた。
俺の大好きな玉子サンドだ。
かぶりつきながら、包みの底に何かあることに気づく。
それは数枚の銀貨だった。
オッリたちの食堂の十日分ほどの稼ぎに当たる。
バルナバス工房長や、オッリとエンニ、あいつらの子どもたちはドラクロ2のNPCとして登場しない。
テキストだと、王都に暮らす人々の一言に括られてしまう存在だ。
それでも皆、当たり前にこの世界で生きてきて、俺と関わってくれた大事な人たちなのだ。
様々な思いが一気にこみ上げて目頭が熱くなった俺は、最高に美味い玉子サンドを呑み下して、自分に言い聞かせるように呟いた。
「絶対だ。絶対に助けるぞ……」
今さらながら、本気でそう思った。
こうして俺の無難だった人生は、一転して波乱に満ちた転機を迎えることなった。