転職のすすめ
「これすごいわね。泡立ちも驚きだけど、この甘い香り……。うーん、たまらないわねぇ」
恍惚とした顔で石鹸を泡立てる美女のしどけない姿に、ハンスは安堵の笑みを浮かべた。
汚水にまみれた格好で訪れた時は、眉尻が少々持ち上がり気味であったが、すっかり機嫌はよくなったようだ。
薄衣を押し上げる豊満な胸をさらに突き出した女性は、泡まみれの手で振り返ると、ハンスへ意味ありげに動かしてみせた。
「ねえ、本当に洗わなくていいの?」
「はい。私は届け物をお渡しに来ただけですから」
「ふーん。ま、お代はいただいたし、それならそれでいいけどねぇ」
艶っぽく尻尾を動かした女性は、泡をたらいの湯で洗い落とすとハンスへ向き直った。
小さめの顔にくびれた腰つき。
身にまとうのは、薄く丈の短い衣一枚のみだ。
そのせいで褐色の肌があちこち大きく露出しており、まとわりつく白い湯気との対比がなんとも魅力的である。
もうもうと立ち込める熱気を、衝立で仕切ったそう広くない空間。
ここが、彼女ら湯女たちの仕事場であった。
花街の一角。
湯屋と呼ばれるこの浴場は、男性に大人気の場所だ。
見目麗しい女性たちが丁寧に髪や体を洗ってくれるだけなく、銀貨や金貨を弾むともっと大人なサービスも受けられるという形を変えた娼館の一種である。
そして彼女たち魔人種の女性の多くは、天性の美貌と異性を魅了する特性を持ち合わせるため、こういった業種では引く手あまたであった。
もっとも彼女たちも望んでこのような仕事に就いたわけではなく、大半は本国で暮らせない何らかの事情持ちだ。
ちゃんとした奴隷制がある帝国とは違い、王国では建前上、奴隷は居ないこととなっている。
が、実質奴隷のような扱いを受ける子も少なくなく、法での加護がない分、酷い有り様になっているケースも多い。
その辺りの事情を知るノエミは、前々からそれとなく手助けをしており、今回はとうとう引き抜きに動いたという話である。
ただしこういった場所では、ならず者どもが幅を利かせているのがお約束だ。
そこで見つからずに接近する方法としてハンスが選んだのは、王都の地下に張り巡らされた下水路であった。
ニーノも王都を抜け出す際に使っており、一応の保証はある。
またスライムや大ネズミなど魔物の巣窟と化している上、汚く臭いので腕に覚えがある者でもよほどのことがない限り立ち入ることもない。
が、<旋風>で高速移動が出来て、スライム程度なら軽くあしらえるハンスにとって、またとない移動経路だった。
ニーノのくれた地図は一部しか載っていなかったため、二時間以上さまよう羽目となったが、無事に花街の路地まで誰にも見つからずに来ることができたというわけだ。
ノエミが手紙を渡すよう指定した相手は、この辺りの湯屋で働く魔人種の湯女たちのまとめ役と言うべき女性だった。
手土産にするようにと言われた蜜蝋石鹸のおかげか、ここまではすんなりと進んでいる。
あとは色よい返事をもらうだけであるが……。
封を切った手紙へちらりと視線を落とした女性は、しばし考え込む顔になった。
それからハンスの目を覗き込みながら、悪戯っぽく笑みを浮かべて尋ねてくる。
「ねえ、ここに書いてることって本当なの?」
「どれのことですか?」
「食事が美味しいとか、給料がすごくいいとか」
「ええ、それは保証いたしますよ」
「でもそこって、すごく田舎じゃない?」
「はい、とても田舎ですね。でも穏やかでいい場所ですよ」
手紙に関してはノエミが使う符丁が忍ばせてあったので、まず間違いなく当人の出した物だろう。
ただ問題はその綴られた内容であった。
にわかに信じがたい条件ばかりが、ずらりと並んでいたのだ。
しかも目の前の男は、軽く肯定するだけで根拠を示そうとはしない。
「そんな田舎なのに、この待遇って厳しくないの?」
「まあ、ちょっとした事情がございまして」
「ふーん、あと肝心の仕事の中身が書いてないんだけど」
どうせやることは、あまり変わらないだろう。
そう思いながら問いかけると、ハンスは満面の笑みを返してみせた。
「はい、まだ詳しくはお教えできませんが、やりがいのあるお仕事ですよ」
胡散臭いこと、この上ない言葉だ。
ここじゃ、子どもだって騙せないだろう。
だが、逆にそれが女性の興味をそそった。
この場所で、彼女は様々な男に触れて会話してきた。
だから、男の嘘もさんざん聞き飽きている。
しかしながら、ハンスのような真顔で屈託なく嘘を吐くような男は初めてであった。
理性では怪しすぎると分かっているのだが、感情がどうにも信じてみたい気持ちへ揺れてしまう。
「むむむ、あのノエミさんが陥落したのもなんとなく分かるわねぇ」
ノエミの手紙の最後だが、おかしな警告で締めくくられていた。
手紙の配達人へは余計なサービスはいっさい不要であり、もし手を出した場合はこの話はなかったことになると。
もう一度、ハンスの目を覗き込んだ女性は、深々と頷いて言葉を続けた。
「うん、分かった。この話、乗らせてもらうわ」
「ありがとうございます! では、アルヴァレス商会はご存知ですか?」
「知らない人間を探すほうが難しいわよ」
「あちら様に話は通してありますので、入口で私の名前を出していただければ大丈夫かと」
「本当に本当の話っぽいわね……」
まあ騙されたところで、今さら失うものもそうあまりない。
ハンスが立ち去った後、女性はふたたび残された石鹸に手を伸ばした。
この見たこともない素晴らしい品も、手紙を信じる後押しとなってのは間違いない。
甘い香りを吸い込みながら、美貌の湯女はおかしそうにつぶやいた。
「ふふ、足を洗うきっかけが石鹸なんて、なんとも皮肉なお話ねぇ」




