頑張る少女
窓から差し込む暖かい日差しに、カウンターに向かっていたミアは大きく背を反らせて腕を広げた。
まだ三月半ばであるが、今日はすっかり春めいた陽気である。
森近くの野っ原も、気の早い野草たちがそろそろ芽吹き出している頃だろう。
まだ少し肌寒い風を浴びながら、新しい季節の訪れを見つけつつ散策する。
毎年、この時季ならではの楽しみだ。
だが今年は、そんなことをしている余裕はなさそうである。
一つ目の理由は実家の大繁盛だ。
地下迷宮で何かしらの仕事を手伝えば、報酬として現金が得られるようになったのだ。
ただしそれがすぐに使える先は、この酒場かハンス叔父さんの行商馬車だけである。
さらにここは迷宮で採れた数々の品がまっさきに入ってきて、お披露目される場所でもある。
先日も大きな卵で作った巨大オムレツで、大好評を博したばかりだ。
そんなわけで昼間は手が空いた奥様たちが噂話をしに集まり、日が暮れるとひとっ風呂浴びてご機嫌な一家が夕食を楽しみにきて大賑わいとなり、夜も更けてくると硬貨を握りしめた若い衆が酒を浴びるように飲みに来る場所となっていた。
おかげで給仕を務めるミアも、てんてこ舞いな毎日だ。
そして二つ目の理由は、目の前に広げられている分厚い書物である。
題名は魔法陣図説入門編。王都で一番分かりやすいと評判の本らしい。
この本を解読して、魔法を使えるようになる。
それがミアの目下の課題であった。
ただ読み書きに関しては母親にある程度教えてもらっていたものの、こんな本格的な内容を読み解くには程遠いレベルである。
当然知らない単語や堅苦しい言い回しばかりで、最初のページですっかり諦めかけたほどだ。
そこへ救いの手を差し伸べてくれたのが――。
「ねー、おじいちゃん。これ、どういう意味?」
「ほほう、これか。これは魔素の流れやすい道筋を示したものじゃな。お主に得意な火の魔素は、ほれ、その三つ目の拡散型じゃ」
一目見ただけですらすらと答えてみせたのは、腰まで届くほどの長い白ひげをたくわえた老人であった。
酒場の隅が定位置であったオイゲンのおじいちゃんは、王国の公用語は読み書きできないくせになぜか魔法陣に詳しかったりしたのだ。
不思議に思ったミアが理由を尋ねたところ、自慢の顎ひげと同じくらい人より長く生きてきたおかげらしい。
あからさまにはぐらかした答えであったが、少女にとってはそれで十分であった。
大切なのは呑んだくれの常連の老人が、この難解な書物を紐解く手助けとなってくれている点である。
「なるなる。じゃあ、こっちのページの魔素の流し方って……」
「うむ、拡散型は循環路を作るのが難しいからのう。もう少し先に、連繋の見本図があるはずじゃが。ほれ、これじゃ」
「あー、これか。ここをちょっといじって、さっきのと重ねると……。うん、いい感じ!」
勉強を始めるまで全く知らなかったことだが、魔法陣というのは使う人によってちょっとずつ違ってくるものらしい。
得意な魔術や魔力の量など、一人一人で違うのだ。
それぞれに合わせて調整し細部を変えていくのも、考えてみれば当たり前の話である。
さらに魔法を放つ対象との距離や数なども、毎回同じではない。
その場その場で、最も適した自分専用の陣を作り上げる。
それが出来て初めて魔法士と名乗れるのだそうだ。
そのために大切なのは様々な魔法陣への理解と、正確なそれらの組み合わせとなる。
もっとも理解とは別に小難しい文章を、一言一句覚えることではない。
何がどうすれば、どう動き、どんな結果になるかである。
そして老人の大雑把なようで的を得た教え方は、感覚的なミアにはぴったりであった。
「よーし、ここもばっちし! どう? おじいちゃん」
「ふむふむ。そうじゃのう、あと少しといったとこじゃな。うん、よく頑張っとるのう」
「やったー!」
褒められて素直に喜ぶ少女に、オイゲンは片方の眉を持ち上げながら尋ねる。
「そこまで楽しみな場所なのかのう? 迷宮とやらは」
「うん、いろいろ大変だったりもするけど、サイコーに楽しいよ!」
とびっきりの笑みを受かべたミアは、老人とは反対の側に座る見慣れない客へ視線を向ける。
「それにほら、面白い子もいっぱい居るしね」
少女の横に座っていたのは、頭に白い皿を載せ亀の甲羅を背負った青い肌の子どもだった。
塩漬けの翠硬の実を囓っては、豆リンゴ酢に蜂蜜を混ぜた物を一口飲んではクパーとため息を漏らしている。
どうやら酸っぱいものや青い野菜が好物らしい。
懸命にカップにくちばしを差し込むその可愛らしい姿にもう一度笑みをこぼしたミアは、背後を行ったり来たりしていた猫耳の友達へ声をかける。
この村の騎士と名乗る獣人種の少女は、訓練と称して先ほどから石そっくりの大きな蛙にまたがっていた。
馬がいないので仕方がないそうだ。
「にゃあ、もっと速度上げるにゃ! お前ならきっとできるはずにゃ!」
「ねー、ティニちゃん。今日は迷宮行かないの?」
「にゃ? 今日はお休みにゃ。みんなあっちで難しいお話ししてるにゃ」
「そっかー。あたしも早く見に行きたいなぁ」
そう呟くミアに、ティニヤは首を横に振りながら言葉を返す。
「うちはもっとのんびりしたいにゃ。あとミアみたいにオシャレもしたいにゃ」
「へへ、ありがとう」
本日の少女の格好は、若草色の上着にタンポポを思わせる黄色いスカートだ。
春の草花を見に行けないなら、代わりに服装で気を紛らそうというアイデアである。
「じゃあ、もうひと頑張りしよっと!」
そう言いながらミアは、再び難しい書物のページへ視線を向けた。
ただし先ほどとは違い、その頬は緩んだままであった。




