突然の辞令
「ニーノ君、ちょっといいかね」
バルナバス工房長の呼びかけに、今日の作業が記された紙を作業机で再確認していた俺はすぐに顔を上げた。
薄々覚悟はしていたが、いざとなるとこみ上げてくるものがある。
静かに席を立ったつもりだが、同僚たちの不躾な視線がいっせいに集まってきた。
この王立錬成工房に勤めて十年近くになるが、俺はいまだに基本の錬成術しか習得できていない。
いや、正確にはできていなかったのだが、今となってはどうでもいいことである。
まあ、そんな下っ端の職人に、忙しい工房長が直々に声をかけたのだ。
気になるのも仕方がないだろう。
もっとも今から交わされる会話は、昇進や栄転だとかの美味しい話でないのはほぼ確実であった。
めったに話す機会がない俺を直々に呼びつける時点で、心当たりは一つしかない。
ため息を漏らしながら、工房長に続いて彼の部屋に入る。
背後で閉まった扉の音に、慣れ親しんだ作業場から隔てられた実感が湧き、今さらながら気持ちが揺らいだ。
この期に及んで後悔したところで、もう遅いのは分かっている。
しかしながら薄々無理だと思っていても、やらなかったほうがもっと後悔するだろうとも分かっていた。
反省すべきなのは、そのやり方が少々リスクが高すぎた点だ。
「座りたまえ」
「はい、失礼します」
部屋の主に促された俺は、高そうな革張りのソファーに腰を落ち着けた。
沈み込むような弾力だが、心はちっとも弾んでこない。
黙ったまま視線を投げかけてくる上司の顔を、俺は改めて見つめ返した。
名うての錬成術士であるが、その紳士然とした格好からは職人と気づけない人間も多い。
愛用の片眼鏡の奥に佇む知性に満ちた灰色の瞳に、高い鼻筋と整えられた口ひげ。
歳のせいで頭頂部はかなり薄くなってきているが、その代わり額のやや上から白く突き出た一本の角が目立つ。
鬼人種。
光の加護を受け、この神聖ヴィルニア王国を統治する種族だ。
癒やしの力を宿すその体は大柄で、病気にも強く長寿である。
おまけに美男美女も多い。
そのせいか、俺のような加護のない汎人種を露骨に見下す輩も多い。
しかしながら目の前の人物は、そんな態度を一度も見せたことはなかった。
今もバルナバス工房長の俺に向ける眼差しには、労るような親しみがこもっている。
それと、たっぷりの同情も。
「今年で十年目だったね」
「はい。よく覚えていらっしゃいましたね」
俺の勤続年数を言い当てた工房長は、当然だと言わんばかりに頷いてみせた。
「私が工房長になった年だからね。君が正式にここの職人になったのは。……あの時は本当に大変だったな」
平民上がりのためか、就任時のバルナバス工房長への風当たりはかなり強かった。
あらぬ噂を立てられたり、次から次へと覚えのない苦情が舞い込んできたりと。
しかし叩き上げの職人ゆえその腕前に疑いはなく、また部下への指導も丁寧とあって、できあがった品々の評判はすぐにそれまで以上となったが。
当時の俺は十六歳で、登用試験にギリギリ受かったばかりのひよっこだった。
しかも汎人種で将来的な芽はほぼないため、雑用係のような扱いは変わらぬはずであった。
けれども工房長は分け隔てなく、俺にまでみっちりと基礎から仕込んでくれた。
この人の下で働けたことは、本当に幸運だと感じたものだ。
で、期待に応えようと頑張ったせいか、俺は六魔石全ての基本錬成を使いこなせるようになった。
これで恩もちょっとは返せたのではないかと、密かに自負している。
「君が居てくれて、心の底からありがたかったよ。それは今も思っている」
「俺のほうこそ忙しい中、一から指導してくださってお礼の言葉もありませんよ。……それに便利屋ですからね、俺は」
自嘲じみた笑いを浮かべると、工房長は首をゆっくりと横に振った。
だが肯定と否定のどちらも、口にしない。
工房長もその点に関しては、どうしようもないと分かっているからだ。
俺たちが日々を過ごすこの大地は、太古に死んだ巨大な龍の遺骸からできていると言われる。
その龍の万物を支配する力が転じたものが、魔素と呼ばれる素子だ。
魔素はあらゆる物に存在し、様々な現象を引き起こすことができる。
そしてこの工房で行われる錬成とは、その魔素の結晶である魔石を用いて、万物に干渉し変成させる行為であった。
もちろん必要な器具を揃えれば、人の手でも同様の加工は可能だ。
だが魔石を使った錬成には、大きな利点がいくつも存在した。
その中でも特筆すべきは、膨大な手間と時間が大幅に省けるという点である。
普通に作るなら不可欠となる個々の作業に対する熟練が、錬成ならばいっさい必要とならない。
素材に対する知識と魔石の扱いだけ上達すれば、多くの品が作り出せるのだ。
それでいて、できあがった品物には一定以上の品質が保証されているときた。
ただ材料と魔石と、それを扱える錬成術士さえ居ればいいのである。
これほど便利な製作手段はそうそうないだろう。
そんなわけで需要の高い薬品や紙などの日用必需品は、今では錬成の品でほぼ流通が占められているほどであった。
よいことずくめの錬成であるが、むろんそれなりの欠点も存在する。
まず術士になるためには、繊細な魔力の操作が不可欠である点だ。
これが意外と難しい。
一般的な魔術や魔法は、瞬間的な魔力の放出量が重要視されるため、全く逆の使い方となるのだ。
分かりやすく言うと、燃え盛る火を消すにはコップ一杯の水よりタライでぶっかけたほうが早い。
しかし器に適量の水を注ぐには、タライよりもコップでやったほうが正確で確実だという話である。
その点でいえば俺のような汎人種は、生まれつきの加護がないため魔力がもとより少なく非常に有利ではあった。
だが話はそう簡単ではない。
上位の魔素の力を引き出す錬成の習得は、加護を持つ人種しか無理である。
というのが、錬成術士の業界の常識であった。
なので十年近くこの仕事に従事してきた俺が、いまだに下っ端扱いなのも仕方がない話といえよう。
ならば加護持ち向けの仕事かといえば、それもそう単純ではない。
加護を持つ種族は、その強い護りゆえに自分の加護にあった魔石しか使いこなすことができないのだ。
具体的には鬼人種であるバルナバス工房長の場合、光の加護があるため光属性の白魔石を使った錬成しか行うことができない。
その点、俺は初級の錬成術であれば、六色の魔石全てで行うことが可能である。
ちなみに汎人種であっても、普通は二、三色の魔石までが限界だったりする。
話を戻すと、素材の下準備は器用貧乏な汎人種にやらせて、高度な仕上げなどは加護持ち様の出番というわけだ。
これこそが、俺がなんでも屋や便利屋と呼ばれる所以だった。
「君の支えがなければ、この工房はまともに回らなかっただろう。少なくとも、私はそう思っている」
「買いかぶり過ぎですよ、工房長。ですが、そこまで言ってくださると本当に嬉しいですね」
「…………だからこそ、だからこそ惜しい」
急に声のトーンを落とした工房長は、重苦しい表情を浮かべて言葉を続けた。
「私にも多少の伝手はあってね。どうやら龍槍聖騎士団の連中が、この一月ほどあちこちの酒場で穏やかならぬ噂を振りまいていた人物に目星をつけたようだ。数日中には扇動罪の容疑者として逮捕に動くと聞かされた」
「そう、……ですか」
やはり、バレてしまっていたか。
逮捕という今までの人生に無縁であった言葉に、俺は思わず生唾を呑み込んだ。
「君がどうしてそんな振る舞いに及んだのかは、私には理解できない。だが、君の性格からして、そうせざるを得ない理由があったのだろう」
「申し訳ありません。とんだご迷惑を……」
うなだれる俺に対し、工房長は静かに息を吐いた。
外した片眼鏡をハンカチで拭ってから、小さく頷いて話を続ける。
「私とて手塩にかけて育てた弟子が、牢獄につながれるのはさすがに忍びない。そこでだ」
差し出された紙を立ち上がって受け取った俺は、その記載された辞令に思わず目を見張った。
「これは?」
「南西の国境近くにある名もない小さな開拓村だ。そこの村長が私の古い知り合いでな。前々から村に錬成術士を欲しがっていたんだが、どうかね? ほとぼりが冷めるまで、美味い空気でも吸ってのんびり角を伸ばすのも……、おっと失礼した。まあ、こう忙しいと田舎暮らしもそう悪くないと思えるがね」
仮にも名誉ある王立錬成工房の職人がこんな辺鄙な場所で工房を開くなど、とうていありえない話である。
しかし身を潜めるには、絶好の僻地であるのは間違いない。
それにおそらく形だけ赴任しておいて、追手がかかるなら、そのまま消息をくらませろという計らいもあるのだろう。
「君に去られるというのは大きな痛手だが、十年というのも大きな節目でもある。これを機会に、独り立ちしてみるのもいかがだろうか?」
押し黙ってしまった俺に、工房長はそれとなく諭すように話してくる。
本来であれば厄介な揉めごとを起こすような部下は、問答無用で首にするか、とっとと官吏に引き渡したほうが楽であろう。
正直なところ、俺はこの部屋に呼ばれた時点で、そのどちらかに違いないと考えていた。
しかしこの師匠は、火の粉が降りかかりそうになっても、真っ先に弟子の心配をしてしまう人なのだ。
本当にありがたくて涙が出そうだ。
ただ俺が言葉を詰まらせていたのは、言い訳や断る口実を考えていたせいではない。
辞令書に記載されていた村の場所に、目を奪われていたためだ。
工房長の申し出は完全に予想外であったが、それ以上の驚きがそこには記されていた。
まさか。
まさかここで、こう繋がってくるのか。
大きく息を吸い込んだ俺は、深々と頭を下げて返事をした。
「わざわざ、こんな俺のために手を回してくださって、なんとお礼を言えば……。ぜひ、お受けさせていただきます」
「そうか……。それは何よりだ」
安堵した笑みを浮かべる工房長へ、俺はちらりと右上を見てから急いで言葉を続ける。
「向こうで一段落ついたら、必ず連絡いたします。お忙しいとは重々承知しておりますが、そのうちゆっくり話せる機会があればと願っております」
やや早口になった俺を探るかのように、工房長はわずかに目を細める。
だが詮索はせず、軽く頷くだけに留めてくれた。
「必要な物は好きなだけ持っていくといい。君の健闘を心から祈っておくよ」
「長らくお世話になりました。最後までありがとうございます」
お礼を口にしながら、俺はもう一度手元の書類に目を落とした。
神聖ヴィルニア王国の南西の国境沿い。
龍背山脈と龍腕森林が重なる分領の地。
そこは俺の記憶が確かならば、"はじまりの村"があるはずの場所であった。