このちっぽけなぼくたちに、何かできることはあるのか。
能動的に並行世界に干渉できる装置を作る。凛紗がそう意気込んだあの日から、何年経っただろうか。
本当はそう言いたかったけど、凛紗がそれを現実のものとするのはずいぶんと早かった。ぼくも凛紗もまだ、大学を卒業していない。こんなものは、あとどれくらい生きることになるかも分からないぼくならともかく、凛紗の人生の集大成として完成するような技術だと思っていた。
「私の”創生”があれば、もっと早く完成していたかもしれないがな。あいにくここは虚構都市ではなくなってしまった。その時に私が普通の人間とほぼ同等になった影響で、あの能力も失われてしまった」
凛紗の話は今でも、ぼくの中で半信半疑だ。東京というこの街を虚構の概念が覆っていて、体力も何もかも、データで管理されていたという事実。そして全て、一人の男が裏で糸を引いていたという話。”作られた人間”である凛紗は、そんな虚構の世界で自分に蓄積されたデータを使って、あらゆるものを作り出すことのできる能力を持っていた。”創造”して”生き抜く”なんて、何とも含みのある名前だ。
「私の身体に流れているのはいまだに人工血液だし、それを作り出す組織も限りなく人間のそれを真似したものにすぎない。見た目から何から人間そのものだというのに、何一つ人間と完全に同じところはない、というわけだな。私自身も、不思議な気分になる」
ぼくはもう、この地球でたくさんの時間を過ごしてきた。前の世界で地球に降り立ってから旅立つまでより、はるかに長い時間。密度が濃いのはどちらかと問われれば、もちろん前の世界の方だ。凛紗のいるこの世界は人類滅亡の危機には瀕していない。いつも通り朝がやってきて、学校に行き、ご飯を食べて。帰ったら各々の時間を過ごして、眠りにつく。そうして起きたら、また平和な朝がやってくる。乗ろうとしていた電車が事故で止まっていたり、絶対に単位を落とせない講義の試験でしくじってしまったり。そんなことを平和じゃないと言うのは、いくらでもできる。でも、密度が濃いかと言われれば、そういうわけではないだろう。そして密度が薄いからダメというわけではない。平和だからこそ、見えてくるものもある。
「それでも、すごいことだよ。覚えているかい? 並行世界なんて概念が、フィクションでは使い古された概念だって、凛紗が言っていたこと」
「ああ。あれがほんの数年前のことだとは、私も思えない」
凛紗が指示して設立した研究所。その中に、病院で見るMRIほどの大きさの機械が鎮座していた。それが並行世界に飛ぶことができる装置らしい。ヘッドホンを装着して、座ってじっと待っているだけ。
「確かに並行世界に飛ぶことはできる。この世界と近いところにあり、また帰ってきやすい世界に飛べることは、実証済みだ」
「近い、というのは?」
「過去に存在した、歴史を変えうるような大きな転換点。そこで同じか、あるいは差が出ない似たような道を選んだ世界、ということだな。例えば実験的に私が行った世界では、イユは今のように文学部ではなく、経済学部に進んでいた。しかしそれは大した差を生まなかったようだ」
凛紗の言うことには納得がいった。ぼくは大学という場所に行って、今を生きる人間たちと一緒に何かを勉強できる、ということがすごく嬉しかった。この瞬間を大切にしなければならないな、と心の底から思えた。実際に何を学ぶかというのは、ぼくにとって二の次だったのだ。だからその道が違っても、あまり変わることはなかった。
「……ところが、だ」
かと思えば凛紗は深刻な顔をして、付け加える。
「これは何度も言っていることだが、時間の流れは世界によって少しずつ異なる。さっき言った、私が行った世界でも、ここより一年ほど遅れていた。近い世界だから、この程度の差で済んでいるのかもしれない。そして、その世界のどの時間に飛ぶかまでは、私たちは選べない」
「……ぼくは、それでもいいよ」
これ以上、ぼくが降り立った地球が遭ったような悲劇を、生み出したくはない。人類が食物連鎖の頂点だとか、そんな人間が環境を破壊していて、地球にとってよくないだとか。そんな大きな話をしているのではない。実玲一人さえ生かしてやれなかったぼくに、そんな大層なことができるはずもない。ぼくはただ、目の前にいる人が死にそうになっていたり、助けを求めているのなら、助けないといけない。そう思っているだけだ。すぐ近くにいる人を助けられないようでは、世界の悲劇を食い止めることなんて到底不可能だ。
「……イユならば、そう返事するだろうと思っていた。あいにく、私も同意見だ。どうやら私は、世界を揺るがすような大きな出来事に首を突っ込むのが好きらしい」
救世主になるだなんて、気負う必要はない。ぼくは実玲のように純粋で、ただまっすぐに世界を見つめている人間が、ひどい目に遭うのを見たくないのだ。それはぼくがそもそも会いに行かなければいいとか、そういう次元の話ではない。ぼくの知らない場所で、誰かそういう人が苦しんでいるのなら、そしてその世界に行くための手段があるのなら。ぼくは、このちっぽけな、弓依から受け継いだ身体で、できることをする。
「行こう。私たちがこのちっぽけな手を、差し出してもいい世界を探しに」
ぼくは凛紗と隣どうしに座って、ヘッドホンを装着してその時を待つ。映画で見るような装置だった。やがて脳に微弱な電流が流れるとともに、視界がだんだん白んでゆく。
「……うん。行こう、凛紗」
ぼくは流れに身を任せるように、そっと目を閉じた。