序章
初めてなので、色々と拙い点が多いと思います。「おかしい」とか、「納得いかない」とかがあった場合には、ご指摘いただければ幸いです。
沈み行く橙と追いかける群青──夕暮れの天蓋を彩るように、微かな無数の煌めきたちが見え始める頃。
ゴォーン……ゴォーン……
教会の鐘が厳かに二回。街中に響き渡った。街の背後に聳えるイニ・シェの山から、夕日を背に幾羽もの鳥が飛び立つ。
彼らが群青に紛れて見えなくなるのと殆ど同時。教会の向こう側にある職人ギルドから仕事終わりの人々が吐き出されて、その大半が教会を通り越して中央広場へと引き寄せられていく。
そうしてすぐ。昼を過ぎた頃から客足がめっきり途絶えていたそこは、途端に盛況となった。
──とはいえ九割九分九厘がむくつけき男共なので、屋台の食べ物屋位しか懐は暖まらないだろう。
「……はぁ、昼を過ぎたら見込みは無いってぇ噂、本当だったみてぇだなぁ」
屋台とは反対の側に売り場を確保していた、装飾品売りがそうぼやいた。まだうら若い青年である。
そろそろ宿へ帰って明日の準備でもするか──そう呟いて店仕舞いを始めたが。
「おいおいお前さん、折角珍しいもの商売してんだ、もう少し待ってもいいんじゃねぇの?」
そう声をかけてきたのは、隣で風呂敷を広げている厳つい親父だった。朝一番で店を広げた青年の良き隣人であり話し相手となってくれて、すっかり旧知の仲という心持ちがする。
「いんにゃぁ、この手のモノは男相手に売れるたぁ思えねぇからさ。親父んとこはそうでもねぇかもだけど」
因みに親父の売り物は、有り体に言えば葉っぱである。勿論唯の木葉ではなく、ハーヴ等の香辛料から、葉巻に遣うものまでと多様。昼でも夜でも一定に需要はある。
その親父は、青年の台詞に首を振った。
「あんた確か、わざわざセルヴィアから来たんだったろう? 今日からだよな、売り始めたのは」
「──うん? そうだけどよぉ。それがどうかしたのかい?」
「それなら尚更だ、此処で帰っちゃあ勿体ないぜ」
「…………?」
此処からはお楽しみな? と悪戯っぽく笑みを浮かべ、それきり一向に口を開こうとはしない。怪訝に思う青年だが、他ならぬ彼の助言(?)と言うことも手伝って、あと一時、暮れ三つ位までは待ってもいいだろう、と片付けかけた品を再び御座の上に並べ出す。
暫くして。男共で賑わう屋台をぼんやりと眺めていた時であった。──軽く腹拵えを済ませて広場を出た男たちが、オオォッ、とざわめいたのを耳にした。
何だと後ろを振り向いたが、どうやらここから見える位置に無いらしく、解らない。それでも気になるのが人の性というもので、どうにかこうにか首を伸ばして見えないかと模索していた。
そこへ。
「おい、前だ、前!」
隣の親父から脇をつつかれる。
うん? と肩越しに視線を遣る。人影があった。どうやら、願ってもない客のようだ。こんな時間に来るとは、と意外に感じながらも身体をそちらへ向ける。
「おっとぉ、いらっさい。何、を──」
そこから先は、一旦口腔内で塞き止められた。少しした後、声にも成らない感嘆となって、唇から零れ落ちる。
意識の全てを持っていかれた。視線が固定して動かせない。……見たことの無い、完成された“美”が、目の前に佇んでいた。
年の頃は、未だ二〇にも過ぎないのではなかろうか──白いシャツに細身の黒いスラックスという、男装の麗人。
何よりも目が惹き付けられるのは、丁度彼女の後方に姿を見せつつある今宵の望月と同じ、紅蓮の髪と瞳。その上で整った鼻梁が、柔らかな輪郭が、……顔のパーツでさえ、いちいち視神経を魅了してくるのだ。
青年は、昼間の客──当然ながら、主に女性──に対して散々繰り返した様なお得意のセールストークを、一席打つことすらできずにいた。垂れ下がった紅の一房が、彼女の黒手袋で掻き上げられるのを、呼吸すら忘れて見上げている。
一種の緊張状態の中、ややあって彼女が一つの品を手に取る。この辺りではお目に掛かることの少ない、翡翠を遇った髪飾りだ。青みがかった緑色が、花弁をモチーフにした鉄細工の台座に填め込まれている。
「申し訳ございませんが、同じものをもう二つ、頂けませんか」
凛とした、通りの良い声だった。その声が耳朶に触れ、頭に甘く染み込んで行く。
「……ぁ、ああ、へぇ。もう二つ、もう二つね。──あ、ありやした、これで?」
どこかぎこちない動きのままに、青年は後ろに置いてあった補充用の袋を漁る。目的の品は直ぐに見つかり、震える手で少女に差し出した。
「ええ、有り難うございます。……お幾らでしょうか」
微笑んだ。柔らかく。
その柔らかさとは裏腹に、それは脳髄までとろかす様な魔性を孕んでいた。周りの者ですら数瞬の間、金縛りにあった様に硬直していて。だと言うのにどうして、その微笑を直視してしまった男が無事であると言えるか。
当然、答えは否である。
彼女の瞳に魅入った様に、──いや、いっそのこと魅入られた様に、と言う方が適切だろうか。半開きの口から、感嘆の吐息諸共魂まで抜き取られた如くに呆然と、彼は彼自身の時を止めていた。
「──あの、」
暫くして、躊躇いがちに声が掛かる。それで、周囲の男たちはハッ、と我を取り戻した。そうして、未だ惚けたままの青年を何とか目覚めさせるべく必死に小突き始める。
それで、ようやっと彼は自失から引き戻された。
「……ッ、す、すいやせん、えーっと」
「おい馬鹿、値段だよ、値段」
「あ、っと。銀貨二枚でやす」
支払いは、何事もなく──互いの手が触れあったことにより青年が再びフリーズしたこと以外には、何事もなく終わった。
少女は、髪飾りの一つをその場で着ける。「……大丈夫、みたいですね」収まりを確かめる様に首を軽く振ると、フリルの遇われた襟を整えてから一礼して、その場を立ち去る。
市場から、少しの静寂の後、爆発した様に興奮が吹き出した。