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Distance

作者: 相鎚 望

「ラーメン一つください」

 またひとりで来ちゃった

 心の中でつぶやき苦笑いする私。

 小学生の頃、家族で映画を観た後決まってこの小さな中華食堂へ来てラーメンを食べた。当時の私はこの店以外でラーメンは食べた事が無かったのでこの店のラーメンが特別おいしいラーメンなのか普通のラーメンなのかそんな事は考えずに喜んで食べていた。小学校を卒業してからは家族で外出する機会も減りこの店へもめっきり来なくなった。その代わり恋人や友人とこの店以外のラーメンならたくさん食べた。高校生の頃は初めての彼氏に勧められて背脂が振りかけられた豚の餌のようなラーメンを食べたり、大学生の頃は気の合う友人と蛤の乗ったおしゃれな塩ラーメンを携帯電話で撮影しながら食べたりした。私は太りにくい体質であるのをいいことに同年代の女子より余計にラーメンを食べたと思う。大学を卒業し就職してしばらくした頃私は初めてひとりで映画館へ行き映画を観た。その帰り道、この定食屋を懐かしく思い寄ってみることにした。ひとりでラーメン屋へ入ったのもこの時が初めてだったと思う。無口で無機質な店主やとても綺麗とは言えない店構え。とても綺麗とは言えない客層。それらは家族で来ていた頃と全く変わっていなかった。ラーメンもまた変わらずおいしいままだった。様々なラーメンを経験してもここのラーメンはおいしいと思えた。それ以来たまに私はこの中華食堂へこうしてひとりでラーメンを食べにきている。

 

 調理をする音やテレビの音、他の客の話声がする店内、私はスマートフォンをいじりながらラーメンを待っている。缶に入った胡椒を振る音がして私は丸めていた背筋を少し伸ばしカウンター越しの厨房を覗き込んだ。店主が振り下ろした缶の先にはラーメンが一杯。きっと私のラーメンだ。他の客のラーメンの可能性も有るのであまり期待しないようにしているが唾液がじわっと口の中に分泌されたのがわかる。

「はいおまたせ」

店主は無表情で私の目の前のカウンターの台にどんぶりを置きそそくさと厨房の奥へと戻っていった。

「ありがとうございます」

すでに声の宛はいないが私は小声で礼を言いながらどんぶりを両手で持ち台から降ろした。ふちが大きく広がり底は浅いどんぶり。ラーメンの温度は下がりやすい。熱々よりか適度な温度の方が好みの私にはうれしい。このどんぶりもあの店主のこだわりだろうか。それとも適当に選んだだけだろうか。毎回気になるが聞く勇気は無い。

 レンゲでスープをすくい口元に持ってくる。そこで一旦手を止める。スープを文字通り眼と鼻の先にしながら、口をちょうどいい大きさに開きながら私は手を止めて神経を口の中に集中した。

 めちゃくちゃよだれ出とるやん

私は決してマゾヒストではないがおいしそうな物を食べる時、自分で自分に ‘待て’をして唾液が口にじわっと広がるのを楽しんでいる。これを私は‘セルフ待て’と呼んでいる。友人や恋人にもこの‘セルフ待て’を勧めたことがあったが意味が分からないだの怖いだの言われたから最近はひとりでこっそり楽しむようにしている。

透き通った醤油ベースのスープからは醤油と豚の油が絡み合った香りがする。適量の胡椒が鼻の奥をくすぐるのも分かる。私は‘セルフ待て解除命令’を己の右腕へ下してスープを一口すすった。おいしい。「おいしい!」と声に出したくなる。不用意に言葉を発せないのはひとりで外食することにおいてデメリットかもしれない。割り箸を割って軽く麺をほぐす。少し柔らかめに煮てある細いちぢれ麺。程よい温度になったスープとよく絡み合っている。麺をすすると無抵抗に口の中いっぱいに麺が入ってくる。口の中がおいしいもので満たされるのはとてもうれしい。いくらほうばって口の中いっぱいにもぐもぐしても気にならないのはひとりで外食することにおいてメリットかもしれない。また一人で来ちゃいそうだなと口をもぐもぐさせながら思っていた。


 私の名前はみゆき、26歳で病院で事務をしている。私には付き合って半年になる彼がいる。彼とは友人の紹介で知り合った。ここ数年男の気配が全く無かった私を見かねて学生時代の友人の由香が場を設けてくれたのである。彼の方は3つ歳上の29歳、私と同じで久しく恋人がいなかったらしい。彼に対しての第一印象は可もなく不可もなくといったところだった。おそらく向こうもその程度にしか思っていなかったであろう。もしかしたら今でも互いにそのくらいにしか思っていないのかもしれない。半年前、当事者達よりも由香の方が盛り上がって半ば無理矢理に交際はスタートした。

 孝介さんとのデートは月に二回ほど。デートの内容は映画を観て外食をするか映画を観ずに外食をするかといった具合。食事をしながらどこか遠出をしようかと話すこともあるが実現はされていない。食事を終えるとそれぞれの家へ帰宅するという何とも淡白なデートだ。3回目のデートで例の中華食堂へも行った。孝介さんは思いのほか気に入ってくれてラーメンをおいしいおいしいと言って食べていた。しかしながら私はひとりで食べている時の方がおいしいなと感じたのを覚えている。別に孝介さんの前で緊張していた訳ではないがラーメンを上品にすすらなきゃとか、顔をどんぶりに近づけすぎないようにしなきゃとかそんな事を考えていたのだろう。とにかくいつもよりラーメンが味気無かった。

 学生の頃は人並みに恋愛経験を積んだ方だと思う。初体験も高校一年の時に済ませている。その後も片手で数えるほどではあるが経験した。恋人が奥手なら私から積極的に攻めた事もあった。高校3年の冬に誰もいない駅の待合室でキスをせがみ嫌われた事も今となっては良い思い出である。

 この半年間の孝介さんとの交際は甘酸っぱいと言えば聞こえはいいがまるで中学生のような交際だ。未だフレンチキスぐらいしか済ませていないのだ。しかも2ヶ月前の私の誕生日に一度したきり。なぜか私の方も今回は積極的になれない。4年と少し恋人がいない間に自分は学生から社会人になり周りの人はちらほら結婚していった。大人になるとはこういう事なのだろうか。孝介さんは私と一緒に居てたのしいのだろうか。そもそも私自身は孝介さんのことを好きなのだろうか。

 孝介さんに積極性がないわけではない。会おうと誘ってくれるのはいつも孝介さんだし、あの一度きりのフレンチキスも孝介さんの方から仕向けてきたのだ。しかしこの距離の縮まらなさである。やっぱり私の事はさほど好きでは無いのだろうか。それとも実は私の事をすごく大事にしてくれているのだろうか。そうではなく大人の余裕という物なのだろうか。はたまた孝介さんは世に言う草食系男子という生き物なのだろうか。

 最近、物事をあれこれと複雑に考える事が増えてきた気がする。正直ちょっと疲れる。


「嘘でしょ由香!あんた彼氏の前でおならするの!?信じられない!」

恵子が眼を丸くしながら言った。

「当たり前じゃん!あたしは結婚も考えているんだから。これから家族になろうって人の前でおならの一つもできないでどうするのよ」

「でもおならはなんか超えたくないラインだな。なんでもありになったらいやだな私は」

恵子も由香と同じく学生時代からの友人である。ちなみにこの恋人の前でおならをするかしないかの件は学生時代から何度も言い争っている。

「そんなこと言っていられるの今だけだよ。ねえみゆき。みゆきも孝介君の前でおならするでしょ」

由香が私に同調を求めてきた。

「私はどちらかと言うと彼の前ではおならはしない派かな。そもそも友達の前でも抵抗あるし」

「そうだった!いまみゆきはプラトニックな恋愛中だもんね。おならどころじゃないもんね」

由香がおならそっちのけで私をからかいはじめた。恵子もうれしそうに続けた。

「みゆきその後どうなのよ。進展あった?」

「あたしだって好きでこうなってるわけじゃないんだから。いいの今回はゆっくりで。お互いに久しぶりの恋人なんだし」痛いところを突かれてちょっと不愉快だったが悟られないように笑顔を作りそう答えた。すると由香はさっきまでニヤニヤと人の弱みに付け入り楽しんでいたのに急に神妙な面持ちになりカフェラテの入ったカップを両手で持ち中をのぞき込んでいた。

 彼女達とは2ヵ月に1度くらいのペースでこうしてランチをしたりお茶をしたりしている。由香には2年くらい付き合っている半同棲している彼氏がいるのだが最近うまくいっていないらしい。彼女は言動に似合わず繊細なところもあり今日はその相談がしたいという事で招集がかけられた。ため息をつき由香が口を開いた。

「もしかしてあたしが平気でおならするのが嫌で最近ヨシ君素っ気ないのかな...」

「まあおならが直接の原因じゃないにしても新鮮さが無くなって空気みたいになっちゃってるのはあるかもね」

恵子がそう答えると由香はさらにうつむいた。

「でも付き合い始めの頃はあたしのおならも愛おしいって言ってくんかくんかしてくれたのよ」

「なにそれうけるww」

わたしと恵子はうつむく由香にかまわず腹を抱えて笑った。

「じゃあ決めた。あたし新鮮になる。新鮮になってもう一度ヨシ君にときめいてもらえるようになる」

眼を輝かせながら由香が閃いたように宣言する。

「ヨシ君が素っ気なくなる度に新鮮に生まれ変わり続けるの?それって大変じゃない」

私の言葉になにやら由香は考え込んでいた。ちょっと理屈っぽいこと言い過ぎたかなと不安になっていると由香の口が開いた。

「それが愛だよ愛。そうやって繰り返して、いずれあたしがヨシ君に飽きたら今度はヨシ君の番。ヨシ君が新鮮に生まれ変わって私をときめかせてくれるはず」

そんな理想論...と言いかけて私はやめた。互いにときめかせたくなくなったらどうするのだろうかと思ったのだ。きっと由香はそのときはそのとき考える等と身も蓋もない返答をしてくるのだろう。私は決して由香が嫌いな訳ではない。しかし違う生き物なのだとは強く思う。何があっても私みたいにじめじめとあれこれ複雑に考えたりせず気持ちを切り替えて自信を持って生きていけるのだろう。次に会う時には良い報告待ってるよと恵子が言うとその話題は終わった。次の話題へ移るまで少しの沈黙の間、私は来週孝介さんと映画デートの約束があったことを思い出していた。憂鬱とまでは行かないが全くワクワクしていない自分がいた。


 約束の時間の午後6時に10分遅れて私は集合場所の駅前ロータリーに到着した。

「ごめんなさいちょっと仕事残っちゃって」

「平気平気。俺も5分遅れて到着したんだよ」

私達は足早にシネマコンプレックスへと向かうと今流行っているというアメリカ産の超能力SFヒーロー映画のチケットを購入した。どっちが観たいと言ったのかは覚えていない。実はどちらも観たいとは思っていなかったら滑稽だなとチケットを眺めながら考えていた。すると孝介さんが心配そうに話しかけてきた。

「どうしたのみゆきちゃん。お仕事お疲れ?」

「ううん。大丈夫だよ。映画楽しみだね。これ観たかったのよ。なんか朝の情報番組でとりあげられててさ」

「みゆきちゃんそれこの前電話で言ってたよ。やっぱりちょっとお疲れなんじゃない?」

そう言うと孝介さんは温かい眼をして微笑んできたので私は照れたように笑った。

 シネマコンプレックスに着くと2人とも小腹が空いていたのでドリンクに加えてポテトも注文した。約二時間の映画。観る前はさほど興味はなかったが観始める見入ってしまった。

 映画デートは話も出来ないしいちゃいちゃもできないから嫌だなんて思っていた学生時代が懐かしい。今では変に間をつながなくて済む映画デートが一番良いと思うくらいだ。彼も同じように思ってるいのだろうか。そうだとしたら私達っていったいなんなのだろう。でも決して孝介さんの事は嫌いではない。真面目だし、優しいし、おとなしいけど時折ユーモアもある。見た目だって悪くないし名の知れた企業に勤めているので将来だって心配ない。私にはもったいないくらいだ。ただ距離が全然近づかない。若い頃の恋愛経験が何の役にも立たない。プラトニックとか草食系とかとは違った問題がそこにはある気がする。エンドロールを見つめながらまたあれこれと考えてしまっていた。

「今日は何食べる?おれ久しぶりにあそこのラーメン食べたいな」

シアターから出ると孝介さんが尋ねてきた。私は先週食べたばっかりだったけど、珍しく自分の食べたいものを主張した孝介さんの案を採用する事にした。

「いいね。最近すごく寒いからあたしもラーメン食べたいなって思ってたよ」

「じゃあ行こっか。お手洗いは大丈夫?」

「うん」

 

 シネマコンプレックスを出ると身震いがするほど気温は下がっていた。11月も下旬にさしかかり道行く人には厚手のコートをまとう人も大勢いた。大通りをしばらく歩いた後人通りの少ない路地裏へ入っていく。空気が冷たく風もほとんど無いせいで私達の沈黙がより鮮明に意識された。お互いポケットに手を入れながら歩く。一歩先を行く孝介さん。寒いねなんて互いに2回ずつくらい言い合ったころだろうか。私は何かにつまずきバランスを崩したがなんとか踏ん張り転倒せずに済んだ。しかしその瞬間肛門にガスの抜ける感覚がした。頭が真っ白になり音が鳴ったかどうか分からなかった。前を行く孝介さんが振り向く姿がスローモーションのように見えた。気づかれている...てことは‘音’出たんだな。嫌な汗が脇から脇腹をつたう感覚。頭のてっぺんから体の側面を微量の電流が流れるような感覚。おならでちゃったんだな。孝介さんにも聞こえちゃったんだな。恥ずかしい。振り向き終えた孝介さんが立ち尽くしながら優しい眼で微笑んでいた。

 

 ぶりびちびちびちぃ

「ポテト食べたからかな。おれもでちゃった。へへへ」

私も顔を赤くしながら笑ってしまった。


 その日のラーメンはひとりで食べている時のそれにちょっと近づいた気がした。いずれひとりで食べている時と同じように美味しく感じられるのだろうか。この先もっと孝介さんとの距離は近づいていくのだろうか。さらには互いが互いを空気のようにしか感じられなくなる日もいつかは来るのだろうか。僅かばかり近づいた孝介さんとの距離に私は大きな期待と微量の切なさを感じた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 表面は普通を装っているけれど、頭の中では様々なことを常に考えてしまう癖があり、現状を悪くはないけど決していいとも思っていない…そんな主人公の複雑な心境が上手く描写されていたと思います。少し…
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