愛と欲望の渦巻きに火が点された。
漆黒の瞳。そして、腹はゼブラだ。
俺は蚊になってしまった。
何ということだ。此の世で最も嫌いなモノを選ぶとすれば、真っ先に挙げるであろう、あの憎き、蚊に。
硬く刺々しい外皮と細く鋭利な口の針、どこまでも軽く薄く、そして力強く大気を掴めそうな羽を持った姿。目覚めれば毒虫になっていたのは有名な文学作品だが、そしてその作者名に二文字「カ」が付加されていたと記憶しているが、俺は巨体の虫ではなく矮小な虫けらとなってしまった。
一体なぜなんだ、俺は俺でなくなるのか、などという懊悩は不思議と沸き起こらない。かといって、ヒトとしての矜持を失った訳でもない。思考も至って明瞭だ。
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」
日本国憲法第十九条だってそらんじる事ができる、我ながらすごい蚊である。
ところで、俺は死んだのか?
仏教徒の端くれとして輪廻転生という言葉くらいは知っているが、俺がこのような異形で「今」存在するということは……あまり考えたくはないが、何らかの理由で俺はヒトとしての生を終えたのだろう。そのあたりの記憶がないのがもどかしく、かなり寂しい。
しかし、自らの存在意義に拘泥する以前に、何というか、蚊が太古より受け継ぎしDNAが俺の心を突き動かす。お前の居場所は大地ではない、背中の羽で重力の鎖を断ち切れなどと空への欲求が掻き立てられ、妙にウズウズする。いや、それよりももっと大きく、どす黒い「意志」が深い心の底から沸き起こる。
血が吸いたい。
それも、
人の血が、吸いたい。
遺伝子の螺旋に渦巻く欲望を腹に抱え、俺は蛍光灯に輝く二枚の羽を震わせた。
プ~ン。
うっ。こんな姿になってすらこの羽音には虫唾が走る。っと、俺はいま虫だったか。
激しい嫌悪感と自在に空中を飛びまわれる高揚感が小さな身体の内にない交ぜになる。
それにしても、眼下に広がる光景はどこかで見たことがあるような……マンションの一室、台所のようだ。テーブルには読みかけの新聞と白いヤカン。おいおい、ポテチの袋が開きっぱなしじゃないか。キャラクターもののプラスチックのコップには、かすれた油性ペンで見慣れた名前。そうすると壁にはあの写真が……やはり、あった。
まぎれもない、ここは俺の家だった。
カレンダーの横にピン留めされたキャビネ版の印画紙には、家族五人がヒマワリの下で満開の笑顔を咲かせていた。
俺は、あの笑顔をどこに置き忘れたのだろう。
おいしそうなニオイが漂ってくる。低空飛行となっていた俺は背中に力を入れ直し、空気を掴み、再び上昇した。
ニオイ? いや違う。ヒトであった時の感覚からすれば、これは人間が知覚できるレベルのニオイではない。俺の頭部に付いた器官の反応がビビットに脳髄に焼き付けられる、そう、言うなれば分子のニオイだ。
呼気に含まれる微量な二酸化炭素。皮脂から発生する特定の化学物質。ああ、このCO2はスイーツのような香り、垢にまみれた汗腺から放たれたこの物質は肉汁あふれるステーキの香ばしさ。そして、このカオリは……
これは、愛しき我が妻のニオイだ。
寝室への扉は五センチばかり開いていた。流れ来るニオイに身悶えする。台所を遊覧飛行していた俺は、扇風機の豪風をものともせず、まっすぐに扉の隙間へと飛び込んだ。
生涯で一人、愛した女。相変わらず寝相が悪い。そしてそれは三人の子供たちも同じだった。全員が違う方向ながらも、うつ伏せになり右脚を上げた、同じようなポーズを取っているのを上空から微笑ましく眺めた。
想いの詰まった濃厚な甘いニオイに蚊としてなのか、ヒトとしてなのか理性を失いそうになりながらも、柔らかな二の腕に着地した。台所からうっすらと差す光に肌理の細かな肌が露になる。黒光りするカギ爪でそっと撫でたが、何も感じることはできなかった。
とはいえ、ここに刺すのは気が引ける。白く、これ以上にない柔らかな二の腕が蚊に刺された時の痒みと腫れは想像したくない。おまけに刺された痕も赤く目出ってしまうだろう。
俺は飛び上がった。羽音は相変わらずうっとうしく、誰かが目を覚ましてしまうことを心配したが、幸い末っ娘が眉をしかめる程度にとどまった。肘の先辺りにたどりつく。ここならば刺してもそれほど痛みも痒みも感じないはずだ。皮膚にしっかりと四肢、いや六肢を食い込ませ固定する。
ごめんね、恵ちゃん。
でも、いただきます。
ああっ、妻が身体に入ってくる。蚊ではあるが理性と倫理観がドクドクと溶解する。性の求めるままに膨れゆく腹部が蕩けそうな感覚に溺れる。そして、ふと気が付いた。確か、蚊って血を吸うのはメスではなかったか?
まさか、
俺はオンナだったのか!
妻の体を吸い上げていると得も言われぬ背徳感に襲われ全身がうち震えた。と同時に、蚊の母として古代よりのDNAを次代に紡ぐ使命感がにわかに沸き起こった。
腹と心を満たしたオレは、静かに針を抜いた。愛しき者を傷つけてなお満たされてしまったオレは、意を決して妻の元を飛び立った。
きっと、生前のオレはキチンと別れを済ませたのだろう。彼女と幼き彼と彼女らの安らかな寝顔は、そのことをしかと伝えていた。飛び去りながら、そんなことを思った。
妻の口元が緩み、ニコリと笑った。
そして、左肘をガリリと掻き毟った。
重たくなった身体でゆらゆらと台所へと戻る。先程は気がつかなかったが、居間にはオレの仏壇が置かれているようだ。自分で自分を拝むのには抵抗があるが、これがきっと最初で最後だろう。どこかにとまって休みたい気持ちを抑えて、ゆっくりと羽を動かした。
仏壇は質素だが黒檀の材質は最上のようだ。さすが、我が妻。よく分かってらっしゃる。暗くてよく見えないが、位牌の前に小さな遺影が飾られている。どんな写真を使ったのだろう? もう少し近づかないと判然としない。
あっ、あの仄かな赤い光は……夜中だというのに線香が付いたままじゃないか! お参りしてくれるのは嬉しいのだが、夜半まで火を付けたままなんて。まったく火事にでもなったらどうするんだ。って、あっ、いかん。こっ、この臭いは……これは……まさか………そう、か………
「でっかい蚊やで」
小六の長男が仏壇の前に落ちていた漆黒の死骸をつまみあげた。もはやぴくりとも動かず、六肢を空に向けて伸ばしたままの姿であった。
「うわっ、いっぱい血ぃ吸うてるわ。誰か咬まれたんちゃう?」
早朝からいまだ声変わりを迎えぬハイテンションな呼び掛けが響く。母は寝ぐせに跳ねた髪を指先でクルクルといじっていた。どうやら、ご機嫌なようだ。ガリリと左肘をひと掻きしてから、優しく答えた。
「お父さん蚊が嫌いやったから、お線香の代わりに蚊取り線香あげといてよかったね」
遺影の男は、最高の笑顔だった。