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作者: 森田 享

   石



 ――岩である私も、やがて砕かれて石になり、いつかは砂の一粒に成ってしまうのだな、と思っていた……。


 うねるような急流。その川は野性そのものである。

その流れが最も早いところで私は、じっと堪えている。私は、もう百年も、その川底で、そうしていた。けれども、もうそこには、そのまま留まっては居られないような気がしている。岩である私の身は、以前よりも大幅に小さく成っているからだ。私は自分が、そんなに硬く重い体をしていない事を思い知らされてきた。

そもそも、岩として、もっと硬く重かったならば、私は、ずっと山に居られたのだ。

私は、断崖の頂点に燦然とそびえる巨岩に成りたかった。そして、神秘的な奇岩として、いつまでも、人々の口にのぼるよう存在に成りたかったのだ。決して谷底で砕け散って、渓流に削り洗われ、果ては川底の小石の一つに過ぎないような、そんなものには成りたくなかった。ましてや、全く光も届かない暗い闇に包まれた海底の砂の一粒として、永久に埋もれてしまうなどとは、考えたくもない自分の末路だった。


 あれは、いつの頃だったか、遠い昔のことで、今ではもう、はっきりしない。

私は、もっと大きな岩であった。あるとき、豪雨が続き、大水で私のいた山が崩れた。私は動くまい、と堪えていた。私の背には長年、連れ添っている大きな松の木があったし、草や苔もあったから、一蓮托生という思いもあって、そこに留まるべき意思を強めていた。

なんとか、ここに留まり続ける手段はないものか、と思案したが、思っていた以上に自分の置かれている状況は厳しかった。物事は、いつも気づいたときには、もう既に遅過ぎることばかりで、私の土台は完全に侵食されていて為す術もなかったのだ。

私は死力を尽くして山にしがみ付いていたが、ついに鉄砲水に削り出されて、深い谷へと落ちていった。私の背中から剥がれ落ちた松の木が、その後どうなったかは知らない。

山から転がり落ちるとき、私の身は砕けて、他の岩とぶつかり合いながら、谷底の川の激流に吞み込まれていった。これ以上は砕けることはできまい、と思われるのに、否応なく私の体は激しい外圧によって、どんどん小さく砕けていくしかないのだった。

水勢に押し出されて、そのまま水の中を転がり落ちていくと、大きな滝があって、なんと私は深い滝壺の底へ落ちた。そして滝壺の中で、水の轟音を、ただ際限なく聞き続けることになった。


 ほぼ等間隔で半永久的に反復し続ける滝の落水の音は、いつしか無音に感じる。

情け容赦なく山から落とされ、谷川を流され、目まぐるしかったその時を、滝壺の底に留まる事となった私は、ただ思い返すことしかできなかった。闇に近いような青い静止した水の中で、初めて今まで私を翻弄し続けた流れる水の輝きを思った。その活き活きと溢れるような明るさと、清らかさを憧憬していた。けれども、そんな心躍る渓流や、この物悲しい滝壺という場所も、いつか私は離れるしかない、という諦めの気持も浮かんでいる。

 そして、今度は、ほんの弱い水勢によって、私は簡単に流されて、また川を転がり落ち始めた。自分の身が、いつのまにか、そんなに小さく軽くなっていることに落胆する。

自分は、もう本当に小さな石だった。


 それから、川の急流を、ずっと転がりながら落ちて来て、私は今この川底に留まっているが、そうしている間にも他の石とぶつかって、私の体は、どんどん小さくなってゆく。

私が、この水の勢いに堪えられるのは、あと百年もないだろうな、などと思う。いや、いっそのこと今すぐ堪えることも辞めてしまおうか、とも思う。結局こんな風に思い悩み続けるのは、大きな岩であった頃と、小石となった現在も、何も変わらず同じなのだ、ということに驚いた。

 川の底で、石や小石に窮屈に挟まれて、ただ水の流れに洗われ続ける日々。水が、自分にだけ理不尽にも激しく当たってくるように思われて仕方がない。ある日、私は堪らずに、水に訊いてみた。

「なぜ、そんなに必要以上に、私にだけ強くぶつかってくるのだ? 少しくらいは避けて通ってくれないか」

 しかし水は、問いに答える前に、遥か下の方へ流れて行ってしまうだけ。それでも、私には、目の前にある石の窪みの中に入り込んだ水の気泡の弾け続ける音が、こんな風に聞こえた。

「お前にぶつかるしか道はない。私も色々なものに押され、ぶつかられているのだから」


 また百年くらい経って、さらに小さな石に成っている私が、まさに押し流されん、とするとき、目の前の岩の窪みに弾ける気泡の音が、こんな事を言ったように思われた。

「いつかお前に会ったことがある」

 私は思わず応えていた。

「いつのこと? ここで? あの時の水かな」

「いや、遥か昔、もっとずっと上の方で」

「滝壺の中で?」

「もっと上の山の、松の木の根元で」

「ああ、あの松の……」

「また会えるかな? 私は、いつかまた、ここへ来るかも知れないから」

 私は考えてみたが、こう応えるしかなかった。

「たぶん私は、その時もう、ここには居ない」

「どうして?」

「もう、君たち水の勢いに身がもたない。間もなく私は下へと流されて行くと思う」

「下へ? そうか、お前は海へ行くのか。海の底は、暗くて静かなところだよ。これ以上は無い、と言うくらいに寂しさに満ちているけど、悪くはない」

「君たち水はいいな。また、この光の世界に戻って来られるんだから。私は、海の底の暗黒に落ちたが最後、二度と再び光を見ることはないだろう。私の行く海の底は半永久的にそのままで、隆起して地上に出て来るなんてことは、まあほとんど無いのだから。私は、海なんかへは行かずに、せめて、このまま地上の小石で居たいんだ」

私は、自分が巨大な岩ではなくなった事には諦めが付いていたが、石としての自分には、まだまだ執着していた。やがて砂粒に成ってしまうという運命を、どうしても受け入れられなかった。

水は、私のその執着が意外だったようで、

「ずっと地上の石のままで居たい? 川から、どこか湖や池に流されて、その水辺に滞った方が良かったのかい?」

「そうだな」

「沼でも?」

「ああ」

「それなら、この川の下の方で、どこか沼のような淀みを探して、そこに上手いことはまって、少しでも海へ流れて行くのを遅らせてみるといい」

 水が、嘲笑と共に流れ去ったように思った。


 案の定、私の小さく軽くなった体は、再び流され始めた。

ほとんど水の流れに浮いたようになって、勢いよく転がってゆく。無駄と分かっていても、私は無意識に何か自分を止めてくれる物を必死に探している。

それからは何事もなく川を転がり落ち、体が少しずつ削り取られ、小さく成っていくだけの、さらに単調な日々が延々と続いた。流されながら私は、今となっては、はっと眼が醒めるように大水を浴び、濁流によって山から削り出されてから、明るい激流の中で無我夢中にもがき、ようやく滝壺の底に落ち着いた頃の自分が一番幸せだった、と思い返していた。けれども、そこも、やはり山の頂きと同じように安住の地ではなく、やがて離れなくては為らない場所だった。ただ水の流れに身を任せて、その場を去って行くしかなかった。どんな事をしたって、決して留まり続けられはしなかった、と思う他はない。


さらに川を下って行くと、不自然に、作為的な感じで水の流れが堰き止められている所があった。たしかに、その意図どおりに、多くの水が流れを止め、淀んで、しばらくの間は留まっている。しかし例え、どんなに大きな堰を作って、水の流れを止めて見せたとしても、水は後から後から流れてきて、堰の中の水は溢れ、必ず元の水では無いのだから仕方がない。私も二度と再び、元の大きな岩には戻れない。ただ、どんどん流され削られて、ほんの小さな石の一つになり、やがて暗い川底か、果ては無限の海底に埋もれて、水の下の砂の一粒と成るしかない。ようやく、この頃は私も、この事を覚悟している。


 川の上流で私は、我武者羅に流されていた。暴れ、無駄に動き回り、苦しみ悩んだ。

 中流で、私は、どうにか落ち着きを取り戻し、冷静に行動してみたが、やはり流されることを止める手立ては見つからなかった。流される川の流れを、自分の力で変える事など、できはしなかった。流されてゆくと決まった川で、目にするもの、耳にするもの、触れるものを、ただ感じているだけのことだった。

 下流で、私は、このたった一度きりの流されて行く過程を受け入れて、満足しよう、と思った。かつては大岩であった自分が、石ころと成り、やがて塵のような砂粒と消えてゆく。一滴一滴の水が合わさって海に成るように、砂の一粒一粒が合わさって、大きな海を支える暗黒の海底に成らねばならない。

 ――私の最後は近い。


そして大河に、ゆったりと流されていた砂粒の私は、ある日、潮の香りを感じた――。





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