夏の日
それから、私は花を買って、家に帰った。
帰り道、太陽は容赦なく肌を照り付け、足元からは地面に溜まった熱が靴底を通り抜けて足の裏を焼き付けるようだった。皮膚の表面には水滴がいくつも溜まっていた。
家に着き、買ってきた花を空になった水瓶に生けた。花の名前は知らない。ただ、淡い黄色が涼し気で良いと思った。
コップ一杯のサイダー(あまり冷えていなかった。ので、あまり美味しいと思えなかった)を飲んでから、シャワーを浴びて溜まった汗を流した。身体中から汗を流すこの時が、私は最高に気持ちがよくて幸せに思う。
シャワーを浴びた後は、リビングの椅子に座って、しばらくぼおっとした。窓を開けると、心地よい風が部屋の中に入ってきて気持ちが良かった。窓の外には、一面に名の知らない黄色の花が咲いていた。遠くで蝉が泣いているのが聞こえた。あまり聞き慣れない鳴き声で泣いていた。朝食の残りのサンドイッチを食べて、私は時計を見た。午後三時過ぎだった。こうしている暇じゃない。早く、行かなければ。残りのサンドイッチをミルクで流し込んで、歯を磨き、髪をとかす。そしてもう一度薄く化粧をした。
「行って来ます」
誰も居ない家にそう言い残して、私は家を出た。
自宅から、アルバイト先の孤児院までは、歩いて十五分ほどだ。孤児院のことを、私たちは〈ホーム〉と、そう呼んでいる。私たちとは、私と、そこで働く皆と、そこで生活をしている子ども達のことだ。
孤児院については、何十年も前に建てられたということ以外、何も知らなかったし、聞いていなかった。私もそれ以上、何も知りたいことはなかった。
「こんにちは」
「ああ。おはよう」
廊下で、いづみさんに会って挨拶をすると、相変わらず漂々とした返事を返された。いづみさんは、国立の大学を卒業してから孤児院の職員になった。事務員として、ホーム(ここ)で働いている。頭がよくて、気が利いて、いつも漂々としていいて無口だけれど、優しくて、子ども達から慕われている。
「今日、三つ編みじゃないんだね」
「はい。時間がなくて」
私はなんだか少しだけ恥ずかしい気持ちでそう答えた。
「糸島作の送別会、三日後だね」
すれ違い様に、彼は言った。
「いい送別会にしよう」
そう言って彼は応接室に入って行った。
糸島作。その名を口にすると、妙に懐かしい気持ちになる。けれど、それが何故なのか、私は何時になっても分からなかった。
四回目のノックで、その部屋の主はドアを開けた。機嫌が良さそうでも、不機嫌そうでもないような雰囲気に、私はほっとした気持ちになった。
「入るね」
そう言って彼の部屋に入ると、私は部屋を見渡した。部屋の隅に段ボールがいくつか積んであった。ベッドのそばの壁に貼ってあったいくつもの写真やポスターは、きれいに剥がされていた。
「もう、すぐなんだね」と、私は言った。
彼は「うん」と言って、頷いた。その声が、ひどく寂しく聞こえたのは気のせいではないだろうと思った。
「最初から殺風景な部屋だった」
そう、彼は言った。
「そうかな。そうでもないよ」と私は言った。すると彼は、「ハナが、ポスターとか写真を飾れって言ったんだよな。それで、随分変わったよ。にぎやかになったと思う」
彼はそう言って、天井を見つめた。
「私、好きなの。壁に、ポスターとかいろんな物を貼ったりしてにぎやかにするの。それがお洒落だと、自分では思ってるのかもしれないけど」
そう私は私の部屋を思い浮かべて言った。
ベッドの側には何枚ものポストカードや写真が飾ってある。本棚の側の壁には世界地図が飾ってあり、死ぬまでに行きたい国に赤いペンで印を付けてある。ドアにはウィノナ・ライダーの若い頃の写真と、最近好きなフランス女優の写真が貼ってある。
「写真を部屋に飾る時って、壁に穴を空けるでしょ。もしかしたら私、その行為が好きなのかもしれない」そう言うと、彼はきょとんとした顔をしてこちらを見た。
「壁に穴を空ける時って、気持ちよくて好きなの。こう、サクっていう感じが。すごく好き」
私がそう言うと、彼は小さく笑って言った。
「お前、やっぱり変わってるよ」
私は彼のその言葉に「そう」と頷いた。変わってると言われることは何度あったけれど、その度に私は落ち込むのだ。けれど、彼にそう言われると、私は落ち込むどころか、なんとなく恥ずかしくなって、嬉しくもなる。
「ねえ、今日、私九時までなの。だから、夕ご飯一緒に食べれる」
「そうか。子ども達も、喜ぶな」
その言葉に、私は笑った。
「さくちゃんも子どもだよ」
「何言ってんだ。おれはもう十七だ。もう大人だよ。それに、大人になったから、ホーム(ここ)を出て行くんだよ」
彼の言葉に、私は「そうだね」と返した。
「寂しくなったら、いつでも戻っておいで」
そう言うと、彼は「寂しくなんかなんねえよ」と言って、窓の外を見た。彼は何を見ているのか、私は彼の目線を辿った。彼の目線の先にあったのは、黄色い花と、澄んだ青い
空とそこに浮かぶ白い雲だった。
夕食を食べ終えると、私はいづみさんと他の職員さんやアルバイトの子達と、作ちゃんの送別会の打ち合わせをした。私は料理と部屋の装飾担当だった。
「じゃあメニューは、ハナに任せるよ。彼の好みを一番知ってるの、ハナだから」
といづみさんが言ったので、皆それに賛成した。私は断る理由も見当たらないので、「はい」と返事をして了承した。
打ち合わせはスムーズに話がまとまって、三十分ほどで終わった。時刻は午後九時四十分ほどだった。
「待って。一緒に帰ろう」
玄関で靴を履いている時、そう声をかけられた。振り向くと、その声の主であるいづみさんがいた。
「少し遅いから」
そう言って、彼は私の隣に座って靴を履き始めた。程よく艶のある、けれど上品で媚のない黒い靴は、彼の雰囲気にぴったりだった。
「今日はこれで上がりなんですね」
「そう。遅番はだいたいこれくらい。ハナも、今日は残業お疲れ様」
「いえ」
いづみさんとこうして一緒に夜帰るのは、いつぶりだろうか。私がまだここに入りたての頃以来な気がする。
「大丈夫?」
そう声をかけられて私ははっとする。「一体何が?」と心の中で思ったけれど口には出さなかった。そして私は「大丈夫です」と小さく返事をした。
「今日、何か元気がないから。疲れてるみたいで」
そう彼が言ったので、私は「暑さのせいですよ」と答えた。
「毎日暑いから。なんかバテちゃって。夏って、苦手なんですよね」
そう言うと、いづみさんは「俺も夏は苦手だなあ」と言った。私はその言葉がすごくよくわかる気がした。彼に夏は似合わない。冴えた、澄んだ空気の冬のほうがよっぽど彼には似合う気がした。
「でも、夏のおわりは好きなんです」
「夏のおわり?」
「夏のおわりの、あの湿気た空気と土と草の匂いは、好きなんです」
どことなく哀しく寂しい気配を漂わせる、あの空気は、子どもの頃からなんだか好きだった。
「そう。じゃあ、今もする?その、匂い」
私は彼の言葉に、小さく頷いて、深呼吸をした。湿気た土と草の匂いがする。昼間は熱い。けれど、夜は、秋の空気がだんだんと侵食し始めている。
「明日は早番?」
「はい。…あ、でも、送別会の準備があるので、ちょっと残るつもりです」
そう言うと、いづみさんは「そう。ご苦労様」と言ってくれた。
「お疲れ様です。おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言って彼は、アパ―トの階段を上って、部屋に帰って行った。
送別会を明日に控えた夜。こっそりとホームから抜け出した作ちゃんと一緒に、私は近くの丘へと向かった。星を見るために。前から私は、星を見たいと言っていたのを彼は忘れずにいてくれたのだ。
林を抜けて、二十分ほど歩いて丘まで辿り付いた。歩いている間、私たちはお互いに無言だった。
「汚れるよ」
そのまま地面に寝そべろうとした私に、彼はタンクトップの上に着ていたシャツをくれた。
「ありがとう」
私はそれを身体の下に引いて、仰向けになって空を眺めた。
「作ちゃん星座に詳しい?」
「いいや全然」
そう言って彼は私の横に仰向けに寝そべった。
「私も。理科で習ったけど、全然覚えてないの。オリオン座とか、夏の大三角形とか、それくらいしかわからない」
「俺も。でも、どれが夏の大三角形とかオリオン座とか、見ても分かんないんだ」
「星にも、名前があるのね」
「ああ。そうだな」
でも、と彼は言った。
「ホームには、自分の本当の名前を知らないやつなんてたくさんいるさ」
そう言った彼の声音はひどく哀し気だった。
「あの星を集めて、」
「うん」
「自分の胸に飾ったら、どんなに綺麗だろうって、いつも思うの」
手を伸ばしたら、時々星が掴めるんじゃないかと思う時がある。その星を、手の中に収めることができるのではないかと。銀色に輝く星も、金色に輝く星も、青白く輝く星も、全て。
「そんなこと、考えたこともないよ」
「それを、作ちゃんにも飾ってあげたい」
私がそう言うと、彼は困ったように笑った。
「好きだよ。作ちゃん」
他の誰でもなく。あなただけが。
彼はまだ困ったように笑っていた。私はその顔を見て泣きそうになる。たまらなく切なくなった。
「そんな顔、するな」
そう言って彼は私の頬に触れると、触れるだけのキスをした。彼のキスはしょっぱかった。彼が離れてしばらく経ってから、私は泣いているのだということに気付いた。
送別会の日は、あっという間に訪れた。
私は雑用が忙しく、彼と会話を交わす時間はなかった。
作ちゃんは何度も、スピーチで「ありがとう」と言っていた。彼はこのホームでの最年長者にして人気者だった。ホームの全員が、彼との別れを惜しんだ。小さい子達は、彼に縋りついて泣きじゃくっていた。「行かないで」その言葉を、今日何回、耳にしただろう。
この会が終れば、彼は明日、ここを出て行く。明日、ここを出れば、彼はもうホームの一員じゃなくなる。そのことがとても寂しかった。せめてあと一年いればいいのに。そんな言葉が頭の中に浮かんでは消える。彼を留める理由なんて、私は持っていないのに。
「実感ないね」と、いづみさんが声をかけてきた。
「彼、一番長くホーム(ここ)にいたから。寂しいよ」
私は彼の言葉に「そうですね」と小さく答えた。
消灯時間を過ぎて少しして、私は今日だけ借りている部屋を出て、彼の部屋に向かった。
「作ちゃん」
四回目のノックで、彼はドアを開けた。一瞬、驚いたような顔をして、彼は私を部屋に招き入れてくれた。
「どうして」と、彼は言った。
「今日だけ。泊まらせてくれって、マザーに頼んだの」
そうだ。彼と丘に星を見に行った日に、私はマザーにお願いをしていたのだ。一日だけ、特別に私をホームに泊めてくれないかと。理由は言わなかったし、マザーも何も聞かずに、黙って私の要求を受け入れてくれた。
「ごめんね。起こしちゃった?」
「いや。寝れなくて…さ」
そう言う彼の横顔は少し眠そうだった。私は、殺風景になった薄暗い部屋の中を見渡した。そして次にこの部屋にはどんな人が入ってくるのだろうと考えた。写真やポスターを沢山貼って、にぎやかな部屋にしてくれる人だったらいい。
「作ちゃん」
「ん?」
「身体に気を付けて」
「ああ」
「無理しないでね」
「うん」
「作ちゃん」
作ちゃん、作ちゃん。壊れたように何度も彼の名前を呼ぶ私を、彼は優しく抱き締めた。
涙で彼の服が濡れたけれど、そんなことはどうでもよかった。私はこんなにも彼のことが好きだったのだ。いつかは彼がここを出るということを分かっていたはずだけれど、分かっていなかった。離れるということが、こんなにも切ないということを私は分かっていなかった。覚悟はしていた。はずだった。彼がここを出て行くと噂を三か月前に聞いていた。その時から、分かっていたはずだった。
嗚咽を漏らすのを堪えながら、私は静かに泣き続けた。涙は途中から、だんだんと小さくなっていった。私と彼の膝元には、小さな小さな海が出来ていた。
私の呼吸が落ち着くまで、作ちゃんはずっと私の背中を擦り続けていてくれた。それは信じられないくらいに優しい手付きで、なんだかとても切ない気持ちになった。
「会いに行くね」
「うん」
「寂しくなったら、すぐホーム(ここ)に戻っておいで」
私がそう言うと彼は小さく笑った。
「ありがとう」
そう言った彼の目元が、微かに光った気がしたのは、気のせいだろうか。それから、私たちはホームでの思い出の話をした。そして話し疲れたら、私たちは彼のベッドで一緒に寝た。身体を密着させているだけで十分に温かかった。
そしてその次の日の昼に、彼はホームの人たち全員に見送られながら、ホームを出て行った。私は、彼の姿が本当に見えなくなるまで見送った。私は泣かなかった。
「彼は大丈夫」
そう言ったいづみさんの言葉を私は信じたい。大丈夫だ。彼なら。きっと。大丈夫。
彼を見送って自宅に帰る前に、私は花を買った。名前は知らない。オレンジ色の、彼みたいな花を。