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<第四九章 専門学校>

 年が明けて昭和八年になった。

 今度の年末年始、宮鳴の兄妹は田舎に帰らなかった。


「去年帰ったから、今年はいいんだ。

 それに帰ったら、やれ嫁を取れだ、店を継げとうるさいからな。

 俺は東京のほうが性に合ってる。

 このままずっと東京に居ようと思うくらいだ」


 とあきれるようなことを正一が言う。

 本当にそれで良いのかと俺は思う。

 正一は俺より四歳上だから今年で数えの二十六歳。

 この国なら結婚していてもおかしくない年だ。


「正一は良いとしても、ハナにいつまでもこの家の家事をやらせるのはまずいのじゃないか」

「ハナはまだ二十歳だ。結婚は早い。

 それにハナも東京のほうが良いに決まってる」


 正一がどんどん都会の毒に染まっている気がする。

 最初の頃はもう少し真面目な男だと思っていたのに。

 ハナはハナで、


「将来は親が決めることですから」


 と控えめというか、自分の気持ちを主張しない。

 俺のほうが心配になってくる。



 世の中はというと年が明けて来年度予算が成立したところで内乱未遂の責任を取って内閣が総辞職した。

 昨年末のあの事件は世間で海軍向島事件と呼ばれている。

 向島の料亭で逮捕されたからだ。

 内閣総辞職だから当然海軍大臣も辞職し、それに合わせて海軍の軍令部総長も辞任し予備役に編入された。

 これは与党内の反総理大臣派閥の動きも関係したと言われている。

 この総辞職の結果、憲政の常道として野党が政権を握ることとなった。

 俺としては与党も野党も関係無いので、好きにやってくれという感じだ。

 戦争さえしないなら誰が政権を握っても変わらない。

 ちなみに、向島事件はまだ軍法会議が開かれていない。

 毅によると、海軍は求刑をどうするか世論の様子を見ているのだろうということだ。

 この辺のことは年始のあいさつに来た毅に教えてもらった。


 そして国内情勢・世界情勢の混迷で俺の日常も変わりつつある。

 まず毎朝の書類配達の宛先が増えた。

 これまでの諸外国の他に、日替わりで台湾、満州、朝鮮が加わった。

 そして毅から今年はモスクワへ行ってもらうと予告されている。

 第一次五ヵ年計画の終わるソ連の情報収集を密にする必要があるというのだ。

 他にドイツではアーリア人至上主義のヒトラーが首相に就任したし、イタリアはヨーロッパの火薬庫と言われるバルカン半島のアルバニア支配を進めている。

 フランスは政治経済が不安定なまま。

 アメリカは不況のまま民主党政権へ移行し、ますます日本への圧力増加が予想される。

 イギリスはアメリカよりはましだが広大な植民地を支配するのに手いっぱいで、世界秩序を維持する力は無い。

 世界はどんどん危険な方向へ進んでいる気がする。


 それと海軍から連合艦隊司令部への書類配達を依頼された。

 だがこれは丁重にお断りさせてもらった。

 船への転移は魔法技術的に困難なためだ。

 船は波で揺れるし、沖合に停泊していると日によって微妙に位置がずれる。

 転移は固定目標じゃないと難しいのだ。


 毎日の生活だと午前の仕事である研究の手伝いは化学物質や合金の実験が減った。

 それだけ日本の技術水準が上がってきているのだろう。

 代わりに石油関連の実験が増えている。

 高品質ガソリンの作成やその収量増大の実験で試行錯誤している。

 最初に行った時には掘立小屋しかなかった陸軍の燃料施設にちゃんとした研究室が建てられて、そこで実験を繰り返している。


 午後からはひたすら金鉱石の処理を行う。

 関東以南と朝鮮の鉱山探査がほぼ終わり中断されているからだ。

 だが年内に仙台、北海道、台湾に国営飛行場が整備されしだい再開する予定になっている。

 朝鮮でタングステン鉱山を発見したこともあり、まだまだ続けるそうだ。

 開発が進んでいる本州と比べて北海道は新しい鉱山が発見されるに違いないと期待されている。

 また飛行機に乗らないといけないかと思うと気が重い。


 さらに冬明けには満州と陸軍燃料廠の空間連結が予定されている。

 満州と燃料廠は高さが調整され少ない体力で連結できるようになっている。

 教授が考えている油送管はまだ準備できていないので、当面はドラム缶を転がして輸送するそうだ。

 こんな感じで今年は新しいことが色々始まる。


 始まるものがあれば終わるものもある。

 静子の授業が三月末で終わる。

 当初の予定の三年が経つのだ。

 そのせいで静子が殺気立っている。

 責任感の現れなのだが、相手をする俺には迷惑な話だ。

 静子には三年間色々教えてもらった恩義を多少は感じている。

 最初の頃は次郎も英語の時間に顔を出していたのに、すぐに顔を出さなくなった。

 二人きりなった時間でいえば次郎の次に長い。

 世界一周の船旅で静子が死にそうな顔で夜這いに来たのは今となっては良い思い出だ。

 俺はもう少しの辛抱だと我慢している。

 そして三月三十一日、ついに最後の授業の日が来た。



「今日は今までの成果を調べるため試験を行います」


 静子が数枚の紙を俺に配り、とてもまじめな顔で言った。


「義雄さんならきっとできると思います。

 全力で頑張ってください。

 時間は一時間です。

 それでは始めてください」

「えっ、ちょっと待って、そんないきなり」

「もう、試験は始まっています」


 今まで、五分や十分の簡単な試験はやったことがあるが、こんな本格的な試験は初めてだ。

 静子を見ても、苦情は受け付けないと硬い顔をしている。

 仕方が無い。やるか。


 試験は漢字の読み書きや、ことわざ、慣用句を答えるものが大量にある。

 もう三年も日本で暮らしているのでだいたい覚えている。

 俺はどんどん進めていった。


「そこまでです」


 一時間後、俺は鉛筆を置いた。

 静子が採点するのを何とはなしに見ながら待つ。

 辛いこともあったけど、これでようやく終わりだと思うと感慨深い。

 静子のおかげで新聞を読めるし、ラジオも聞ける。

 後でお礼の一つでも言おうと思っていたら、何やら静子の様子がおかしい。


 最初は鼻をすすっていたので風邪かなと思った。

 すると、うっ、うっとすすり泣きだした。


「どうした、静子。

 結果がそんなに悪かったか」

「いえ、違います。良くできてます。

 国語で中学校程度の学力は十分あると思います。

 これで、本当に私の授業は終わってしまうんだなと考えたら……」

「今日までありがとう。世話になった」


 俺は頭を下げた。

 すると静子はカバンから何かを取り出した。


「いたらない点もあったと思いますが、三年間私の授業を受けて頂きありがとうございました。

 これはこれまで私の授業を聞いてくださったお礼の品です」


 静子が涙ぐみながら一冊の本を差し出した。

 それは携帯に便利そうな小型の英語の辞書だった。


「父と相談して決めました。

 これから義雄さんは英語が必要になってくると思います。

 ぜひこれを役立ててください」


 英語を学ぶ気はないので有難迷惑だが要らないとは言えない雰囲気だ。

 本棚に置いても邪魔にはならないので、ありがたくもらっておこう。

 ひょっとして、科学の勉強で使うことがあるかもしれない。


「義雄さんはこれからこの時間はどうするんですか」

「正式にはまだ決まっていない。

 当面は高原先生の科学の授業時間を長くすることになると思う」


 すると突然静子が本格的に泣き出した。


「うらやましい。

 私、私なんか、明日から何もやることがないんです。

 いかず後家です。家族のやっかいものです。

 これから何をすれば、どうすればいいんですか」


 そんなことを言われても困る。

 父親とでも相談することだ。

 だいいち静子の授業は俺が言いだしたことではない。

 まだ二十歳そこらのはずだから、これからどうとでもなると思う。

 だが華族には華族の、俺には分からない事情があるのだろう。

 静子はいっこうに泣き止まない。

 しくしく、しくしく、静かに泣き続けている。


 俺は途方に暮れて何もできない。

 なんと声を掛けて良いか分からない。

 ただ、静子の側に居ることしかできない。


 そのまま何分たっただろう。

 もうハナを呼んで何とかしてもらうしかないと思い始めた時だった。

 事前の連絡無しで毅と教授が揃ってやってきた。

 教授はまた変装のつもりなのか変な格好をしている。

 肩掛けが付いた変な外套に帽子をかぶっている。

 何を狙っているのかさっぱり分からない。


「静子さんに話があってね。お邪魔したよ」

「席を外しましょうか」

「義雄君には直接関係ないんだが、君の稼いだ金が使われることでもあるし、一緒に聞いてもらおうと思ってな。

 それに君も静子さんの将来のことは気になるだろう」

「まあ、そうですね」


 正直言うとそれほど気にならないが、いいえと言うと人でなしとか思われそうなのでうなずいておく。

 そこで教授が静子に向き直った。


「静子さん」

「はい」

「学校を作ってみないか」

「へっ」


 静子がキョトンとする。

 鳩が豆鉄砲ってこんな顔を言うのだろう。


「国内初の女性だけの数学専門学校を作ろうと思っている。

 静子さんにはそこで働いてもらいたい」

「はぁ……」

「だが君の年齢でいきなり理事長とかの高い役職と言うのはいろいろまずい。

 最初の内は英語教師をしながら実務の取りまとめ役をしてもらう。

 そしてゆくゆくは校長をやってもらう」

「でも、なぜ、私を。

 それに、なぜ、女性のしかも数学の学校を」

「私は男女平等などと大層なことを言うつもりはない。

 女性が男性と同じ権利を欲するなら戦って勝ち取れば良い。

 これはそんなたぐいの話ではない。

 人口で米ソ支那に劣る我が国がこれまで以上に発展するためには女性の力が絶対に必要なのだ。

 人間の半分は女性だ。

 この力を使わないのはもったいない。

 女性に頑張ってもらわなければ到底他の大国に追いつくことなどできない。

 それに戦争ともなれば男は兵隊に行ってしまうからな。

 学生が女性となると教える方も女性のほうが都合が良い。

 女性だけだと便所も一種類で良いし、色恋沙汰も起きん。

 それに食事の支度も掃除も全部自分達でできるから余計な金が掛からん」

「はぁ」

「それと数学だ。

 これからの時代もっともっと数学者の数が必要になる。

 それもただひたすら毎日計算するだけの根気が必要な作業をやる人間が必要だ。

 これは男よりも女のほうが向いているのではないかと思っている。

 男だとすぐに将来がどうの出世がどうのと言いだすからな。

 それに女のほうが給料が安くて済むということもある」

「それで、なぜ私を。

 私は数学のことなどちっとも分かりませんが」

「私が知っている女性の中で一番適任だと思うからだ。

 そもそも日本に女性の数学者は居ない。

 となると数学の出来は関係無い。

 静子さんなら師範学校を出ていて英語を流暢に話せ身元がしっかりしている。

 しばらくは俸給が出なくても生活に困ることがないくらいの余裕が実家にある。

 しかも、実家は学校設立のために私財を出すことに同意している」

「えっ」


 静子が毅を見た。

 毅が大きくうなずく。


「お父様……」


 また、静子の目に涙が溜まってきた。

 とても良い話みたいだけど、俺には教授がまた一人で突っ走っているように思えてしまう。


「反対する人は居なかったんですか」

「もちろん、最初はみな反対だった。

 そこは、それ、政治だよ。

 だから国立ではなく私立にし独立採算にする。加えて文部省関係の人間を理事長に据える。

 これで文部省は納得した。

 国から金を入れないので大蔵省は反対できん。

 そしてここの卒業生を暗号解読要員として男性よりも安価で働かせると言ったら、外務省と陸海軍は納得した。

 彼らは他国の暗号を解読したくて仕方が無いからな。

 最大の問題は内務省だった。

 それはこの前の向島事件で協力したことを盾に押し切った。

 まあ、内務省とは他のことでも交渉中でな、そっちを譲歩することになったし、また何かあったら義雄君に協力してもらうことを約束させられたよ」


 教授は笑いごとのように話すが、俺を勝手にだしに使わないでほしい。


「他にも小さい反対はあったが、では自分の金を出せるかと聞くと誰も手をあげない」

「でも金はどうするんですか。

 温籠さんが出すお金だけで足りるんですか」

「もちろん足りん。足りない分は秘密資金から援助する。

 土地は没落家族の屋敷跡を安く買えたので、これを使う。

 最初は学生も少ないので学費だけでは運営できん。

 それで貸付制度を作り、学生に学費、寮費を全額貸し付ける。

 そして、卒業後には俸給から毎月返済してもらう。

 こうすれば、学生を集めやすいし、とりっぱぐれも無い。

 学校もいずれ運営が安定するだろう」

「本当に上手く行くんですか」

「私は大丈夫だと思っている。

 あとは静子さん他運営者の努力次第だ。

 すぐには無理だろうが、十年で結果を出してくれれば良い。

 十年後に単年度黒字になり、安定して数学者を供給してくれれば成功だよ」


 さすが教授は色々考えている。


「でも、また自分のやりたいことばっかりやってたら恨みを買いますよ」

「私は国のためにやってるんだ。

 私利私欲というなら私がいつ誰から何を受け取ったか示してもらいたい。

 天地神明に誓って一切何も受け取っていない。

 ただ、国益を考えての結果。

 文句があるなら堂々と反論すれば良いのだ。

 これからは数学者が大量に必要となる時代が来る。

 暗号、設計、輸送といくらでも必要だ。

 今から準備しておかないといけない。

 特に数学を教育するものが必要だ。

 だから近い内に大学も作って数学教育者を養成する。

 最初は試行錯誤になるだろうが、次の戦争までには間に合わせる」


 教授が熱くなっている。


「おっと私としたことが語り過ぎてしまったな。

 詳しい話はまた今度にして私はお先に失礼するよ。

 やらねばならんことがたくさんあるんでな。

 温籠さんは静子さんと話もあるだろう」


 そう言って教授はさっさと先に帰ってしまった。

 少し心配な俺は毅に聞いてみた。


「教授は大丈夫なんでしょうか」


 ただでさえ秘密資金の使用方法に影響力が強い。

 恨みを買ってまた狙われても不思議じゃない。

 命の安いこの国なら十分起こりうる。


「そもそも教授の裏の顔を知っている人間は少ないからな。

 まあ、表の顔の仕事ぶりだけでも十分恨みは買いそうだがな

 だが、教授はああ見えて平等なのだ。

 合理的に正しいと思えば、ちゃんと金を出す。

 それに清廉潔白、一切の賄賂を受け取らない。

 といって賄賂を貰ってい者を責めない。

 教授は賄賂をもらおうがそれ以上の成果を出せば黙認するという考えのようだ。

 やましいところが有る者は口を出しにくい。

 自分の教え子や同僚の就職先を口利きをすることはあるが、これは誰でもやっていることだ」

「そうですか」

「だが今回のことは静子のことを思って考えてくれたのだと思う。

 確かに数学者の数が必要と言うのはそうかもしれん。

 だが普通の数学専門学校を作ったり、既存の大学数学科の定員を増やす方が手っ取り早いし反対も少ないだろう。

 ああ見えて教授はフェミニストなのかもしれん」

「フェミニスト?」

「女性の社会進出を目指したり、女性の権利向上を訴える人だ。

 英国で影響を浮けたのかもな」


 今回のことは教授の別の一面を見た気がする。

 たまには良いことをすると感心してしまった。

 これで静子も幸せになれれば良いと思う。

 陰ながらお祈りしておこう。


次回更新は多分次の土日になると思います。

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― 新着の感想 ―
[一言] これはまた海軍でまた揉め事が起きそうな。 聯合艦隊司令部を陸揚げするか否かで。
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