<第三八章 内閣計数室>
夏の暑さも峠を過ぎ、朝晩には秋の気配を感じるようになった。
戦艦に乗ったあの時以来、教授からは何の音さたもない。
教授が来なくても俺の代わり映えしない日常は日々過ぎていく。
毅もめったに顔を見せない。
一度だけ来て満州の油田についてその後のことを教えてくれたくらいだ。
新慶と名付けられた油田のため満鉄の分岐点に駅ができ、今は油田へ向けて新線建設に取り掛かっているそうだ。
千人以上の労働者が日本から送られて突貫工事をしていて、その労働者は今も増え続けている。
現地では労働者の仮の宿が作られ、それ目当ての地元の商売人でにぎわい始めている。
そのうち日本人の商売人も行くだろうとのことだ。
「試掘は三本目の井戸を終えて、採掘用の四本目の井戸を掘っている。
技術者用の食堂や事務所も建てられて、荒野に少しずつ街ができ始めている。
義雄君も一度行ってみると良い」
毅は自分も行ったことがないくせにさも見てきたような口ぶりで説明してくれる。
「義雄君はそろそろ朝鮮の探査が終わるのだろう。
松川教授は北海道、東北でも早く探査をしたいと言っていたぞ」
「教授に会ったんですか」
「仕事で毎週のように会っている。今まで以上に元気にやっているよ」
仕事とはいえ毅とは会うのに俺には何の連絡も無いとは。
寂しいというか水臭く感じる。
「だが北海道東北に飛行場建設となると簡単ではないからな。
作る以上は使わないといかん。
使うとなると民間の航路を開くか、軍が使うしかない。
どちらも、すぐと言う話にはならない。
義雄君が北海道へ行くのはもう少し先になりそうだ」
俺としては北海道は特に興味が無いのでどうでも良い。
どうせ行っても観光もしないで飛行機から探査するだけなのだ。
毅の話から考えると、朝鮮の探査が終わったらしばらくは飛行機に乗らなくてすみそうなので楽しみだ。
何事も無く日々が過ぎて、冬が来て十二月になった。
新聞を読んでいると、色々な事件が起きているが俺の生活に影響を及ぼすようなものは無い。
仕事して、勉強して、訓練しての毎日だ。
俺がこの国へ来て丸二年になったが特に何の行事をするでも無く過ぎ、年末の忙しさに埋もれていった。
そして、年が明けて昭和七(1932)年になった。
正一ハナの兄妹は年末から実家に帰っている。
さすがに何年も帰らないのはまずいのだろう。
それで俺は次郎と二人でハナが作ってくれていたお節を食べ、近所に初詣をして、酒を飲んで元日を過ごした。
二日には毅と静子が二人で年始のあいさつに来た。
「あけましておめでとう。宮鳴の二人が里帰りしたと聞いたので、様子を見に来たよ」
「あけましておめでとうございます」
毅はいつもよりきちんとした格好で、静子は振袖を着ていた。
静子の着物姿は初めて見た。
いつもと別人に見えて戸惑ってしまう。
綺麗な服を着ていると可愛いお嬢さんなのだが、これが授業になると厳しい先生に変わるから不思議なものだ。
「お父様、それでは私は」
「ああ、そうだな、頼む」
静子が台所へ向かった。
静子が何か作ってくれるようだ。
「男二人で料理もしないだろうと準備してきた」
「私はツユアツの料理なら作れますよ」
この家に来て、何回か作ったことがあるが評判が良くなかったから、それ以来作ってないだけだ。
「まあまあ、いいじゃないか。たまには私にも娘の手料理を食べさせてくれよ」
静子は家では料理をしないのだろうか。
ここでは、ハナを手伝って色々しているのだが。
男三人でお節をつまみに酒を飲んでいると、しばらくして静子がお盆を運んできた。
「お雑煮です」
「おいしい」
ハナの作るのとは少し違う。
まず、餅の形が違う。ハナの餅は丸だった。
この雑煮の餅は四角い。
「餅が四角い……」
俺がつぶやくと、毅が教えてくれた。
「雑煮は日本各地で違うみたいだぞ。餅の形もそうだし、ダシも違う。
私の家も昔は京風の雑煮だったが、今は東京風の雑煮だ」
日本みたいに大きな国だと同じ料理でも地域差があるのかと感心する。
「去年は北のほうが不作で景気が悪かった。
身売りもかなり多かったそうだ。
だが今年は菱刈の金山も満州の油田も本格的な採掘が始まる。
これで日本の景気が良くなってくれれば良いのだがな」
毅が突然真面目な話を始めた。
北海道東北が不作だということは新聞で知っていたが、実際は俺が考えている以上に深刻なのかもしれない。
毎日ハナの作った美味しい料理を食べ仕事ばかりしていると、世間の景気の悪さは直接伝わってこない。
だいたい俺は仲間内以外と話すことが少ないのだ。
他だとどこかの研究施設の研究員ぐらいしかいない。
世間からずれても仕方が無いというものだ。
金の心配をすることなく生活できる俺は恵まれているのかもしれない。
「今日は義雄君に伝えたいことがあるのだ」
「なんでしょう」
次郎も居るので深刻な話ではないだろう。
俺は安心して聞ける。
「新年度、政府に計数室という新しい部署ができる。
内閣直属の新しい部署だ。
教授は帝大に籍を残したまま、四月からそこで働くことになる」
「へぇー」
「それで、松川教授はこの部署の新設準備の段階から参加している」
そのために教授は去年忙しかったのか。
一言言ってくれれば良いのに教授も水臭い。
「早く教えてくれたら良かったのに」
「もうすぐ新年度予算が可決されるだろうから話せるようになった。
確実になるまで黙っておいてくれと教授に頼まれたのだ」
途中で駄目になったら恥ずかしいとかだったら、教授にも人間臭いところがある。
「何をやる部署ですか」
「松川教授が作った新しい学問、国家計数学を使い国家の多種多様な数値を分析し内閣の政策決定のための資料を作成する。
という表向きになっている」
「表向き?」
「だが、実際は義雄君に関することを管理する部署になる。
義雄君が稼いだお金の投資先を決め、入出金を行う。
それに義雄君の時間管理だ。関係機関と調整してどこへ行ってもらうかを決める。
新しく見つけた鉱山をどこにやらせるかを決めるのもあるな。
そして近いうちに追加される仕事が、満州で採れる石油の分配比率の決定だ。
今までは、私と松川教授ともう一人の専任の者の三人で業務を処理してきたが、忙しすぎて回らなくなってきた。
それで人を増やすのと同時に公的機関にしてしまおうということになったのだ。
そうすれば、人件費や経費などは国家予算から出せる。
この一年、三人目の金は教授が個人の金を出していたのだ」
「えっ、教授が」
教授が自腹を切っていたとは驚きだ。
あまりお金には執着しないほうだと思っていたが意外な話だ。
「もちろん教授には大学から俸給が出ている。
細かい仕事をやりたくないのと、自分の研究をやりたいから人を使っていたのだ。
教授の金となると他の者は口を出しにくい。
それに義雄君の力を教授が独り占めしていると批判もあって、それを改善するためだ。
もちろん表向きの仕事もやるぞ」
「その国家なんとか学とは何?」
「教授が主張している考え方だ。何に投資したらどのくらい影響があるかを国家単位で考える。
たとえば政府が補助金を出したり減税したりするのに、農業、工業、建設業等どこに出すと一番税収が上がって国力が増えるかを計算で求める。
今まで各省庁が独自に計算したり主張していたのを政府として公平に代表して計算するのだ。
要するに教授の好きな数学を政策決定に使おうというものだな」
よく分からないが難しそうな話だ。
「教授は自分の仕事を取られるのに反対しなかったんですか」
「むしろ喜んでいるよ。
自分の教え子を何人かその部に押し込んできてる。
数学者の就職先で数学を生かせるところは、そうそう無いそうだ。
数学と関係無い職場ならあるが、それだと教授は得心しない」
「なるほど」
「それに教授は金遣いが荒かったからな。
今も毎週飛行機を飛ばしているが、あれも借りるとかなりの金額になる。
いくつか鉱山を発見しているから良いものの、結果が出なければ周りから叩かれたはずだ。
新しい部には教授を抑える意味もある」
「そうなんですか」
教授も実は苦労していたのかもしれない。
あの性格だから人に嫌われることもあるだろう。
それに俺以外にも教授に振り回されている人がいると想像して少し同情してしまった。
「それでだな、部署の新設を祝ってささやかだが一席設けたいと思って声を掛けに来たんだ」
「それは良いですね。
教授が酔うところを見たいです」
「そうだな、私も見たい気がするよ。
では、教授の予定を聞いてまた連絡する」
後日、祝いの会が開かれた。
正式な部の発足は四月一日からで準備のために忙しい教授の仕事の合間を縫ってのことだ。
出席しているのは主役の教授と俺の周りの人達。
毅と静子の親子、正一とハナの兄妹、次郎と俺、それと高原先生。
合計八人。
場所は料理屋の離れを貸し切っている。
一番の年長者である毅が代表して乾杯の音頭を取る。
「松川教授、計数室の新設と参与就任おめでとうございます。
教授のますますのご活躍を祈って乾杯します。
では、乾杯」
毅の声に合わせて全員が盃を掲げる。
俺は乾杯の風習を知らなくて焦ったが周りに合わせた。
この国に来て二年たつが、いまだに知らないことがあってたまに驚く。
会が始まり皆に酔いが回りはじめた頃、教授がとっくりとちょこを持って毅のところへやって来た。
「松川教授おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
毅が教授に酒を注いでいる。
俺は二人の会話に耳をやる。
「温籠さんに本音の話を聞いておきたかったのだ」
「何でしょう」
「新しいとこは内閣所属で良かったのか」
「そのことですか。もちろんですよ。
外務省に置くには毛色が違い過ぎる。
外国情報の分析という名目で作れないこともないですが、そうなると中身と違い過ぎて擬装が難しくなる。
それに外務省が力を持ちすぎても反内務省の結束にひびが入ります。
内務省に置くのは論外。
間を取って内閣に置くのが一番良い。
関連性のある統計局と同じところにするのが筋というものですよ」
「それを聞いて安心したよ。
悪いことをしたと思っていたのだ」
俺に対しての言動からは想像できないが、ああ見えて教授はけっこう人の気持ちを気にしているようだ。
教授という地位だと人間関係で苦労することもあるのだろう。
それならもう少し俺に気を使ってくれても良いのにと思う。
「ところで各国へ視察を派遣しようと思うのだが、おすすめの場所はあるかな」
「うちの方で幾つか見繕いましょう」
「外務省の手の平で踊らされる気もするが、最初は素直に踊るとしよう」
その後教授と毅は難しい政治の話を始めてしまったので。俺は次郎と正一の横へ移動した。
二人は既にかなり酔っている。
今日は毅が席を設けただけあって、酒も料理もいつもより上質なものが出されている。
それで二人は飲み過ぎているのだ。
横を見ると静子とハナが小声でひそひそ話をしている。
何がおかしいのかたまにクスクス二人で笑っている。
高原さんは黙々と料理を食べ続けている。
楽しんでいない俺は何か損をしたような気になって、酒をあおった。
そして結局その日は教授が酔った姿を見ることはできなかった。
俺が先に酔い潰れてしまったのだ。
四月になり部署が正式に発足すると教授は全く姿を見せなくなった。
何かと忙しいのだろう。仕方が無い。
そして六月、坑道の掘削方向の最終調整で菱刈を訪れた際、懐かしい人に会った。
「五条通殿、ご無沙汰いたしまして申し訳ありません」
本郷中佐だ。相変わらず腰が低い。
偶然中佐も出張で来ていたのだ。
いや、偶然ではなくて俺の予定を知った中佐が出張の予定を合わせたのかもしれない。
この人ならそのくらいはやりそうだ。
「お久しぶりです。中佐は何の御用なんですか」
「私はこの鉱山の陸軍側の担当者になってしまったんですよ」
「そうなんですか」
「ここは表向き国有地を民間業者が採掘する形になっていますが、公にできないことも多いわけです。
それに発見を手伝ったのだから我々もかませろと上の者がゴネまして、軍が建設の一部に協力しているんです。
主に道路建設や整地などですが。
それで私も時々来ている次第です。
私は本来作戦課の人間でこういうことに関係は無いんですが、貧乏くじって奴ですよ」
「なるほど」
「ところで松川教授はいらっしゃらないみたいですが、お元気ですか」
「私も教授とはあまり会ってないんです。
三月に会ったのが最後だと思います」
「そうですか」
中佐が少しだけ顔を曇らせた。
「何か」
「いえ、最近松川教授について噂を耳にしたものですから、どうされているかなと」
「どんな噂ですか」
「松川教授は航空関連へ予算をつぎ込もうとしているという話なんです。
陸軍の通常予算を削ってでも日本各地に飛行場を建設すべきだと。
有事には軍事基地としても使える。
また、航空機製造会社の優遇をすると……」
教授は飛行機が好きだから、そういう方向へもっていこうとしているのか。
北海道、東北へ探査のための飛行場を作りたいというのもあるし、例の秘密兵器の爆撃機のことも関係しているのだろう。
「陸軍の中でもこれからの戦争は飛行機が重要と考えているものは居るのですが、やはり主流は陸戦主体に考えています。
それに海軍の中の航空関連の人とも親しいみたいで、一部の人間には二股膏薬に見えるみたいです」
「あの人には陸軍も海軍も関係無いですから」
「私も同じ国を守る人間として協力すべきところは協力すべきだと思うのですが、長年の確執は簡単ではないですから」
俺の少ない経験でも陸軍と海軍の仲の悪さを感じたことがある。
中佐の言葉には実感がこもっていて、問題の根の深さを感じさせる。
「軍の中には血の気の多い者もおりますので、松川教授にはお気を付け下さいとお伝えください」
「分かりました。必ず伝えておきます」
だが俺は教授と会うことがなく、その言葉を中々伝えられずにいた。
次回更新は、間に合えばあさって3/19(土)19時頃投稿します。




