<第三四章 改質>
年が明けて昭和六(西暦1931)年。
正一、ハナ、次郎は三人とも実家に帰っておらず、四人で正月を迎えることになった。
「日本では正月に帰省するんじゃないのか」と俺が聞くと、
次郎は、
「ああ、俺はいいんだ。名前の通り次男だからな。
何年かに一回顔を見せればそれでいい。
便りの無いのは無事な知らせという奴だ」
正一は、
「うちの実家は正月が稼ぎ時だからな、あまり正月らしくないんだ。
帰っても働かされるだけだしな。
俺が送る金で人を雇ってるし、それでいいんだよ」
と二人ともあまり褒められた話ではないことを言っている。
俺が一人で寂しくないようにとの三人の好意だと思って、ありがたく受け入れよう。
正月三が日は全ての仕事が休みになり、四人でのんびり過ごした。
今年もハナが作ってくれたお節を食べ、変な味のお屠蘇を飲み、雑煮を食べ、初詣をした。
二日、三日にはやることがなくて、ただ男三人で飲み潰れていた。
正月明けには正一ハナの家の横の畑を潰して駐車場が作られ、そして車が届いた。
これでどこでも行けるぞと正一は大喜びしている。
俺はまだ運転に慣れていない正一がぶつけてしまわないか心配だ。
そして二月のある日、教授が久しぶりに科学の授業をしてくれた。
今の俺の科学的な知識はなんとかぎりぎり中等学校程度。
毎日教授から科学の授業を受けていることになっているが、教授は実験や俺との会話が主で授業が二の次になっている。
割合でいうと教授の興味のあるものが七、授業が三だ。
そもそも教授は毎日来るわけじゃなくて休みの日も多い。
自分の都合の良い日だけ来ている。
それでも錬金魔法のために知っておいたほうが良いと、原子、分子、化学式当たりの話は聞いている。
物理も空間魔法の役に立つかもしれないと習っている。
「元から論理的な考え方をしていたからか筋が良い。
勉強時間の割には成長している」
と教授の談だ。
化学と錬金術は相性が良いと思う。
原子や分子のことを考えると魔法を想起しやすい。
錬金術の上達に利用できる。
それが分かって以来、教授の時間は化学、物理を中心にしてもらっている。
問題は空間魔法と精神魔法は科学との理論融合がうまくできないことだ。
空間魔法はエネルギー保存の観点から考えるとおぼろげに説明できそうなのだが、いざ公式化しようとすると上手くいかない。
精神魔法については科学で説明はできないのではと思うほどかけ離れている。
今後の研究課題だ。
教授には前から一度聞いてみたかったことがあるので、授業の最後に聞いてみた。
「教授は魔法が嫌いじゃないのですか」
「なぜ、そう思う」
「だって科学で説明できない」
「この世の中に科学で説明できないことはいくらでもある。
なぜ、引力があるのか。
宇宙の果てはどうなっているのか。
他の星にも生物は居るのか。
分からないことだらけだ。
魔法もその中の一つにすぎん。
今はまだ原理が究明されていないが、いつの時代か科学で解明されると思っている」
何のてらいも無く答えてくれた。
そんな風に考えているとは想像していなかった。
「そんなことより、義雄君にやってもらいたいことがあるのだ」
「なんですか」
俺は深く考えずに尋ねた。
久しぶりの科学の授業が面白かったし、教授が魔法嫌いではないと分かって少し気分が良かったのだ。
「石油の改質だ」
あっ、来た。
俺はすぐに気付いた。
これも、また面倒な奴だ。
ほんと、教授と話していると悪い意味で裏切られる。
「陸軍が本格的な冬が来る前に試掘をしたのは温籠氏から聞いただろう。
寒さで大変だったらしいが、何とか深さ八〇〇メートルまで掘ったそうだ。
そして運よく石油が出てきた。
最初は皆が歓喜した。
これで燃料を外国に頼らないで済むと。
自国産の物だけで戦えるというのは戦争でとても重要なことだそうだ。
だが、試掘成功の話はすぐに失望に変わった。
石油の質が良くないのだ。
試掘で出た石油はどうにも質が悪い。
まず、流動点が高い」
「流動点?」
「石油が固まる温度だ。
満州の石油はその流動点が高い。
要するに汲み上げた端から冷えて固まってしまう。
固まるとポンプで送れないから扱いがとても難しくなる」
固体の方が運ぶのに便利そうだが違うのか?
「さらに比重も重い。
重油としては使える。
軽油がなんとかというところ。
重要なガソリンはあまり取れそうもない。
となると飛行機や車には使えず、船の燃料として使うことになる。
海軍が喜ぶだけで陸軍としては全く面白くない」
俺は船と車で燃料が違うことを初めて知った。
全て石油で同じ物かと思っていた。
「救いなのは硫黄分が少ないことだ。
まあ、流動点が高いのは手間はかかるが石油を温めるという手がある。
それに対して質が良くないのは、簡単には解決しない。
改質しないといかんが、これが難しい。
そこで錬金術で何とかならないかという話になったのだ」
石油の質を変えるなんてもちろんやったことがない。
そもそも石油の質ってなんだ。
鉱石の質なら分かる。全体の中の必要な物の割合のことだ。
石油の中に必要な物と不必要なものが混ざっているのか。
それに俺は空間魔法の魔法使いなのだ。
錬金魔法は片手間に習っていただけで、初級の腕しかない。
「陸軍としては春の本格的な試掘の前に目途を付けたいようだ。
採掘したは良いが使えないじゃ、意味が無いからな」
「毅は? 政府はなんと言っている」
「試掘してしまったことはもう取り返しがつかない。
誰が責任を取るかは別として済んでしまったこと。
政府も石油は使えると考えて色々動いているので、今さら使えないでは困る。
それで、義雄君にぜひ協力してもらいたいそうだ」
石油は在るのは在るが、量や質は分からないと何度か言ったはずだ。
それなのに誰もがその石油を当てにして動いている。
取らぬ狸の皮算用で机上の計算だ。
俺のせいじゃないのに、なぜか俺がケツを拭かされる。
「どうだ、良い話だろう」
「えっ、何が」
面倒な話だとしか思えない。
「政府公認で新しい魔法の研究ができるんだぞ。
もちろん、その間は通常の仕事は減らしてもらう。
元の世界でも石油はあったのだろ。
もし、石油の改質ができれば灯油を作れるぞ。
ランプの燃料だ。
電灯は無いんだから、ものすごく儲かるのではないか」
儲かると言われて俺の心が少し動いた。
元の世界で明かりは蝋燭か獣脂だった。
金持ちは蝋燭を使い、貧しい者は獣脂を使う。
さらに貧しいものは薪の炎しかない。
獣脂は匂いがきついし、ススが多い。
灯油ランプのほうが明るくて匂いとススが少なくて便利だ。
ランプの構造は簡単だ。
ホヤを作るのが難しいかもしれないが錬金術で何とかなる気がする。
確かに売り出せば儲かるかもしれない。
考え込む俺に教授は話を続ける。
「見るだけ見て、やるだけやってみないか。
駄目で元々で良いじゃないか。
義雄君を連れて行きたい所があるのだ」
ということで後日、俺は半ば強引に教授に連れられて陸軍の燃料施設という場所へ連れて行かれた。
現地に着いての第一印象は『えっ、ここ?』というものだ。
見事に何も無い。
海が近い単なる空き地に小屋が一つあるだけだ。
「陸軍は満州を自分の縄張りだと考えているからな。
そこで採れたものは当然自分の物だと考える。
だが、陸軍には精製する技術も施設も無い。
海軍には燃料廠があるが、海軍には頼りたくないし、意地でも使わない。
そもそも日本に高度な精製技術はない。
そのままでは宝の持ち腐れになる。
そこで急遽用意したのがここだ。
今はまだ単なる建設予定地で何も無い。
裏金を使って退役軍人の個人名義で土地を借りただけだ。
再来年度の予算で陸軍が買い上げることになるのだろう」
再来年の予算とか鬼が笑うどころの話ではない。
正気を疑う話だ。
「ここなら海が近いので船で石油を運べる。
習志野の演習場が近いし、東京から来やすいので何かと便利だ。
石油の埋蔵量と利用の目途が立った時点で海岸を埋め立てて岸壁を作り、一大石油精製施設を作る。
あくまでも予定だがな。
なかなか雄大な話だろう」
「お金はどうするんですか」
こんな何も無い所に一から作るとなると莫大な費用がかかるのは俺にも分かる。
「まだ試算段階だが、義雄君が稼いだ秘密資金を元にして将来的には軍の燃料費や余った石油の売却益から返していくことになるだろう。
どうだ、やる気が出てきたんじゃないか。
義雄君の魔法でこの巨大計画を成功させてみようじゃないか」
教授は自分の専門分野とは違うのにワクワクしているみたいだ。
これはあれだ。
こうして俺に計画を説明して、やらなければならない気持ちに追い込む作戦だ。
まんまと教授の作戦に乗せられてしまった。
俺が返答に困っていると、
「ここにはまだ何も無いからな、場所を移そう」
と言われて、また別の場所へ移動することになった。
結局そこでは空き地を見せられただけだった。
次に着いた場所は何か研究施設みたいな所だ。
部屋の中には実験器具みたいなものがたくさん置いてある。
「ここは陸軍が石油会社から借りている部屋だ。
軍のやることだから、力づくで迫ったか将来の燃料購入をちらつかせてのことだと思うが。
それで、これが試掘で採れた石油だ」
教授がガラス瓶に入った黒くてドロドロした物を出してきた。
俺が知っている燃える水に近い。
「こちらがその石油を分留して作った各種石油製品」
教授がいくつかの瓶を並べる。
中には黒いのからほぼ透明なものまである。
「石油は実は色々な種類の炭素化合物が混ざってできている。
石油を熱すると沸点の低いものから順に気化していき、複数の種類に分けられる。
これを分留という。
そして、それを混ぜ合わせて製品を作るわけだ。
一番黒いのが残油――絞りかすみたいなものだな、それから順に重油、軽油、灯油、ガソリン。
それで満州の石油はこの重油の割合が多くてガソリンがとても少ない。
だが、陸軍が欲しいのはこのガソリンなのだ」
素人考えでもあの真っ黒の石油からこの透明な物質が大量に取れるとは思えない。
そりゃそうだろうという感じだ。
「義雄君にはこの重油を錬金術で軽質油――軽油、灯油、ガソリンに変えてもらいたいのだ。
科学的に行う場合の大体の方法は分かっている。
密閉した容器にこの石油と水素を入れる。
そして高温高圧にして何らかの触媒を加えると石油に水素が結合して軽質油になる」
「原理が分かっているなら、その通りにやれば良い」
「それはそうなのだが現実は難しい。
まず可燃物を高温高圧にするのが難しい。
それに触媒は何が良いのかあまり分かっていない。
触媒は石油技術の核心らしくて石油各社は秘密にしている。
最適な圧力、温度、反応時間を一から探すのは非常に時間が掛かる。
いずれかはやるとしても今は時間が無い。
しかも日本の石油会社の技術は非常に遅れている」
「では、外国にやってもらえば良い」
自分でできなければ、できる人に頼む。
当たり前のことだ。
「自国でできるのとできないのでは交渉が大きく変わってくる。
できないとなると外国がどんな条件をふっかけてくるか分からない。
相手は日本が石油精製することを望んでいない。
自分達の石油を売りたい国ばかりなのだ。
そんな外国と交渉するために札は一枚でも多いほうが良い」
こうして理詰めで俺を追い込んでくるのが教授のいつもの手なのだ。
「政府と軍は国内石油会社を発展させることで合意している。
だが、時間も金も無い。
そこで、義雄君の登場だ。
義雄君に軽質油を作ってもらい、それを売る。
その浮いた金で研究を行い、欧米石油会社に追い付こうという考えなのだ。
また、多少なりとも自国でできるとなれば外国と技術提携の話をするにしても交渉がしやすくなる。
分かってくれたかな」
「ここまではだいたい分かりました」
「では、具体的な話に移ろう。
重油は化学式で書くとこうなる」
そう言って教授は黒板に長い化学式を書き始めた。
「重油は炭素が鎖状に繋がってこのように大きな分子になっている。
大ざっぱに言うとこれを途中で切って切れ目に水素をくっつける。
これで軽油ができる。
一番良いのは重油からガソリンを作ることだ。
日本で一番不足しているからな。
だが、ガソリンを作る方法はもっと難しいそうだ。
だからまずは重油から軽油を作りたい。
軽油が取れればディーゼルの燃料を心配しないでよくなる」
どうするか……。
本当に石油の改質ができるならツユアツに帰ってから役に立つ気がする。
それにこれで石油会社が儲かるなら俺の待遇を良くしてもらう交渉に使える。
あらためて考えると自分でも贅沢になってきたと思う。
ツユアツに居た頃と比べると生活は断然良くなっている。
だがその分、仕事もきつくなっている。
ツユアツに居た頃は忙しいことは忙しかった。
なんせやることが多かった。
でも全部を一人でやるので、途中で手を緩めることもできた。
畑仕事の合間に一息ついたり、街へ買い物に行ったついでに店を回ったりできた。
今は平日にはびっちり予定が詰まっている。
だがやるにしても、どうやってやる。
合成魔法は混ぜるだけだ。金属同士でも溶かさないで混ぜられるが、今回みたいに分子構造を変えることは多分できない。
変態は化学でいうと原子配列の変更に当たる。今回は関係無い。
やることは変質とでもいうのだろうか。
錬金術では上級になるのだろう。
シギルからはまだ教わっていなかった。
どうするか。
俺はしばらく一人で考え込んだ。
次回更新は明日3/12(土)19時頃投稿の予定です。




