<第三三章 満州後日譚>
興奮の冷めない俺が一人部屋で待っていると、小一時間ほどして次郎と佐伯さんが戻ってきた。
「どうだった」
「これです」
次郎の第一声に俺は紙を渡した。
次郎が手に取りしげしげと見つめる。
「ふむ、かなり詳しいことが書いてあるな。
参加者は部隊名しか書いてないのは惜しいな。
だが、調べれば分かるだろう。
賛同者はその部隊の将校に違いないからな。
これで十分だ。よくやった義雄」
「でも、どうやって……」
佐伯さんはとても不思議そうだ。
密室といえる部屋の中から、いくら暗闇とはいえ紙を盗み出してくるとは。
俺のことを泥棒の天才とでも思っているのかもしれない。
次郎が視線を向けると、佐伯さんはそれ以上聞かなかった。
「聞いてはいけないのでしたね」
佐伯さんが少し悲しそうな顔をしたが、これは仕方が無い。
「そちらは」と俺が聞くと、
「こっちも問題無く終わった。
一分ほど待ってから電気を元に戻して、何食わぬ顔で部屋に戻った。
そして、しばらくして店を出た。
店を出るときに、隣の部屋の連中は何か騒いでいたぞ。
紙が無くなったことにすぐ気が付いたんだな。
店の人間を疑っていたようだ」
いきなりの停電で他の客が入って来るとは考えにくい。
「店の主人には後で迷惑料を渡しておきます。
それで店側は問題無いでしょう。
いくら疑われてもやっていないのだから、あの大尉もどうすることもできないです。
それよりも紙が無くなったことで彼らが慎重になり調査が難しくなるほうが問題です」
「それは佐伯さん達に任せるとして、我々はこれで引き揚げます。
この証拠は持っていきますが、写しは明日にでもそちらへ届くようにします。
佐伯さんはこれからどうされますか」
「私達はまだ残って調査を続けます。
一味の名前が全員分かっていませんから。
もうしばらくはここに残ることになるでしょう」
「そうですか。
ではこれでお別れになります。
もう会うことはないと思いますが、お互いに今回のことは忘れるとしましょう」
「分かっています。お元気で」
「ここは寒いですから、佐伯さんもお体にはお気を付けて」
俺達はあっさりと別れを告げて日本領事館へ向かった。
そして長居は無用だと、すぐに転移して家へ帰った。
こうして初の潜入捜査である三日間の短い旅が終わった。
仕事だったし今回は転移で行ったので旅の気分がほとんどしない。
移動に時間がかかってこその旅なのだと思う。
帰宅したことを毅へ電話するとすぐに来るということだ。
時刻は夜九時を過ぎているのに、まだ役所に残っていたのだ。
仕事熱心なことだ。
毅が来るまでの間に俺達は隣へ行って正一とハナに帰宅を伝えた。
「おう、おかえり、仕事はうまくいったか」と正一。
「ご苦労様でした。お夜食を作りましょうか」
とハナが言うのを断って、明日の朝食からお願いした。
満州の料亭で食事したのでもう十分だし、夜遅くにハナの手をわずらわせるのは申し訳ない。
待つこと三十分ほどで毅はやって来た。
「義雄君、ご苦労だった。首尾はどうかね」
毅は部屋に入って来るなり挨拶も抜きで聞いてきた。
「上手くいきました。これです」
俺が証拠の紙を渡すと、
「おう、どれどれ」
毅が紙にざっと目を通す。
「お手柄だ、義雄君。
これで危ない奴らをまとめて処分できる。
後のことは任せてくれ。
詳しい報告書は明日にでも大川君と協力して書いてくれれば良い。
今日はゆっくり休みたまえ。
それと、例の約束の件は必ず守るからしばらく待っていてくれ。
私は悪いがこれで帰らせてもらう。
結果を首を長くして待ってる人が居るんでな。
それでは」
そう言い残して毅は帰っていった。
正味五分も居なかったのではないか。
嵐のように去っていった。
もう九時を過ぎているのに、これからまだ仕事をするような感じだった。
ご苦労なことだ。
翌日俺は次郎と二人で今回の詳しい報告書を書いた。
何をしたか、何を聞いたか、思い出せること全てを書いた。
できたものは外務省の俺専用部屋に置いておいたら次の日には無かったので、しかるべきところへ渡されたのだろう。
それからしばらく毅からは何の連絡も無かった。
顔も見せない。
静子に毅のことを聞くと、
「毎日帰りが遅いです。
わたしもあまり顔を合わせていないのです」
と教えてくれた。
本当に忙しいのだろう。
そして十二月に入り満州行きから一か月がたつ頃、毅から連絡があった。
今日行くから教授に夕食後も残っていてくれということだ。
毅は八時近くになってようやくやって来た。
そして来るなり、この前のときと同様に人払いをした。
部屋には俺と毅と教授の三人だけだ。
「今日は義雄君にあれ以降のことを説明しようと思う」
「次郎は?」
次郎は一緒に満州に行ったのだから、話を聞かせても良いだろう。
「大川君はまた別に私が説明しておく。
政治的な面で聞かせたくない話もあるのでな」
そういうこともあるのか。
「あれから色々あって説明に来るのが遅くなってしまった。
すまなかった」
「計画した人は捕まえたのでは?」
あれから一か月もたつのだから、当然悪い奴らは全員捕まったのだと思っていた。
「首謀者達は異例の異動で日本各地へ転属されている」
「逮捕じゃなくて転属ですか」
「逮捕となると理由が必要になる。
まさか満州侵略の計画をしていましたとは公表できん。
計画の存在が外部へ漏れたら国民党に不要な警戒を招くことになる。
義雄君なら自分の家へ泥棒に入る計画を作っていた人間と仲良くなれるか。
計画自体を無かったことにしなければならない。
そういうことだ」
「はぁ」
「義雄君が戻ってきてからも内偵を続けて、主な参加者はだいたい割り出して対処した。
そっちのほうはだいたい片が付いた。
問題は張学良のほうなのだ」
「何が?」
「関東軍内の急な異動で国民党や張学良も何かあったことは気付くだろうが内容までは分からない。
それで終わりのはずだったが、陸軍が余計なことをしてしまった。
満鉄用の井戸と称して石油の反応地帯で試掘をしたのだ」
「鉄道用の井戸?」
「蒸気機関車は石炭を燃料にして走るが、水も要るのだ。
石炭を燃やして水を水蒸気に変えてその力で動くが、走っているとだんだん水が減ってくる。
それで水も補給しないといかん。そのための井戸だ。
陸軍には井戸を掘るための部隊がある。
その部隊は数百メートルなら穴を掘れるそうだ」
陸軍に井戸掘り部隊まで居るとは意外な話だ。
水が無い所でも戦争するためには必要なのだろう。
「本郷中佐ですか?」
「彼は関係無い、関東軍が独断で計画し陸軍省が黙認したようだ」
「そして、その部隊が穴を掘っている間に日本から石油会社を呼び寄せた。
石油会社が軍と交代して掘り始めた時点で政府が察知した」
「春になってからでは」
「そうだ。予定では冬の間に各国と調整して春から本格的に調査を行うはずだった。
だが、満州を自分達のものだと考える陸軍は国内の勢力争いで有利になるために先走った。
その動きは張学良も知るところとなる。
満鉄から十キロも離れた所で穴を掘っているのだ。
何かあると考えて当然だ。
そこで張学良が動き出した。
おそらく油田の話を掴んだのだろう。
各部族の有力者に接触して自説を展開し協力を求めた。
それが『大満州論』だ」
「大満州か」
それまで黙っていた教授がつぶやいた。
なにか思い当たるところがあるみたいだ。
毅が教授をちらりと見て話を続ける。
「今でこそ易幟と言い、満州は国民党の下へ入る形になっている。
だが、清朝成立以前、満州は支那とは別の国だった。
その形に戻そうという考えだ。
満族、漢族、モンゴル族、朝鮮族、その他小部族も大同団結して満州を独立国にする。
モンゴル族、朝鮮族はその中で自治を行う。
建国の資金は油田と鉄道。
将来採掘される石油を担保に外国資本から金を借りる。
また、満鉄を日本から接収して、株式の一部を外国へ売却する。
そして、国力を高め、東清鉄道(※)をソ連から奪い返して満州を完全な独立国とする。
というなかなか壮大な計画だ」
「張学良もなかなか考えるな」と教授。
「おそらく前から考えていたのだろう。
取り巻きに頭の良いのが居るのか、それか――」
「それか?」
「外国の入れ知恵だ」
「どこの国だ」
「本命は米国。意外な所だとドイツ。それから英国も考えられる。
満州独立など外国の後ろ盾が無いと到底現実味のない話だ。
我が国がそんな話を了承するはずがない。
中国国民党も黙ってない。
米国としては、満州が独立して米国資本の元で油田開発するのが一番良い。
もし満州と日本が紛争になったとしても、正義の味方の振りをして満州を支援して日本を弱らせる。
どちらに転んでも米国に損は無い」
「それだと米国と支那の関係が悪化しないか」
「支那にはまた別で武器供与や経済援助などの美味しい話をちらつかせているのだろう。
国民党は内戦がうまくいかず困っている。
武器はいくらでも欲しい。
米国は国内不況で政治に不満を持つ国民の目を外国へ向けさせたい。
極東が荒れれば介入の機会が増える。
米国と国民党で妥協の余地はある」
「恐ろしい世の中だな」
「ああ、これが私達外交官の戦争だからな。
それで、ごたごたが続いて中々顔を出せなかった。
申し訳ない」
毅が軽く頭を下げる。
「これからどうなるのだ」
教授は俺のことなどより、話の続きを聞きたいようだ。
「我が国も依然話した国民党との共存案――政府内で油田共同管理案と呼んでいる、を進めている。
だが、大きな交渉だからな、すぐに結論は出ない。
外国の妨害も考えられるし、張は張で動くだろう。
はっきりするのは三月か四月になる。
成算は十分にあると私は踏んでいる」
「満州独立よりは現実味があるな」
教授の一声に毅もそうだろうという顔をしている。
俺はよく分からないので、分かった振りをしてうなずくだけだ。
「それと義雄君への褒美も決まったので、そのうちに届くだろう。
楽しみにしておいてくれ」
「教えてください」
「待つのも楽しみの一つだぞ。
今日はそのことも伝えたかったのだ。
それでは、私は引き上げるよ」
毅は慌ただしく帰っていった。
それから数日後、色々なことがあった。
まず、最初は家に冷蔵箱が届いた。
これは箱の中に氷を入れて、その冷気で中の物を冷やすものだ。
食品が傷みにくくなる。
「ユシウさん。こんな高価な物が届きました。
氷も配達してくれるそうです。
本当に使っても良いのでしょうか」
ハナが少し戸惑っている。
「ハナがいつも頑張っているからと毅が手配してくれた。
遠慮せずに使って」
「はい、分かりました。
これがあれば冷たいお料理やお酒も出せます。
ありがたく使わせていただきます」
ハナが嬉しそうで何よりだ。
俺も冷たいビールが飲めるなら大歓迎だ。
そして次郎へ手紙が届いた。
「ユシウ、俺のところへ車の運転を覚えろって手紙が届いたんだが、何か知っているか」
「毅の配慮だと思う。行けば良い」
そのうちに車が届くのだろう。
これまで移動は転移か迎えの車でしていた。
車があれば行動の自由が広がるし、俺が使わない時はハナが買い物にでも使えば良い。
心配なのは近所で何と噂されるかだ。
車は高級品だ。この辺りで車を持っている人はほとんどいない。
正一に聞くと、
「車が来たら近所になんて言われるかな」
「ユシウは近所づきあいをしないから知らないか。
ユシウは華族様の隠し子ということになっている。
車があっても不思議じゃないだろ」
と驚くことを言われた。
確かに俺はそういう設定だが、近所の人まで知っているとは思わなかった。
「まあ、いいじゃないか。事実じゃないが、事実なんだから」
正一とハナが良いなら、俺はそれで良い。
近所の人と顔を合わせることはめったにないので、どう思われようが平気だ。
そして、次郎のところにも話が来た。
「義雄、今日連絡が来てだな、遊郭へ行くのを月に二回にしても良いそうだぞ。
これが、あれか、温籠さんが来たときにチラッと話していた約束というやつか」
「そうです」
「おお、そいつはありがたい。
正一も喜ぶぞ。さっそく教えてやろう。
ちょっと行ってくる」
次郎が浮かれながら隣の正一の所へ行った。
満州の仕事はそれほど難しいものではなかった。
やる前は怖かったし緊張したが、終わってしまえば簡単な仕事だった。
みんなが喜んでくれて、本当にやって良かったと思う。
※東清鉄道: ロシアが満州内に建設した鉄道。日露戦争の結果、一部は日本へ譲渡され満鉄になった。残りは昭和五(1930)年時点でもソ連が利権を持っている。
次回更新は明日3/10(木)19時頃投稿の予定です。




