<第十六章 風邪>
上海、シンガポールを過ぎインドのボンベイを出港して二日目、俺は喉の調子が悪いのに気が付いた。
んっ、これは、風邪の引き始めかな。
さっさと治すか。
治癒魔法をかけてもらわないと――。
んんっ、あれっ?
あああああぁ、師匠は居ないんだったぁ!
バカだった。
違う世界へ来ていることは分かっているつもりだったのに、本当には分かっていなかった。
元の世界だと俺が病気になれば師匠が治してくれた。
逆に師匠が病気の時は俺が治した。
めったにないが二人そろって調子が悪い時は、ひどくなる前に他の魔法使いを呼んだ。
なぜそうするか。
それは治癒魔法を自分に掛けてもあまり意味が無いからだ。
特に病気の場合は意味が無い。
治癒魔法は術者の体力を使って患者の体力を回復したり治癒力を高める。
患者自身の治癒力で病気を治すのだ。
だから治癒を自分に掛けたら、自分の体力を使って自分の体力を回復することになる。
これがケガの場合なら止血などの応急処置など意味が有るのだが。
この世界にはどんな病気があるんだろう。
ツユアツと同じなんだろうか。
元の世界では世界中が探検された時、離れた土地の病気が広まるという弊害があった。
その時は国が魔法使いを動員して流行を抑えていた。
この世界に魔法使いは多分俺しかいない。
これはまずいことになってしまった。
もっと病気に対して慎重になるべきだった。
もし、この世界の病気が特殊なものだったら――。
「どうしましたか」
授業中、急に考え込んでいる俺に気付いて静子が声を掛けてきた。
時がたつにつれて静子との気まずさは少しずつ解消して、元のように普通に話せる関係になりつつある。
静子はあの晩のことを無かったことにしたいのかもしれない。
「病気、喉が痛い」
「それは大変。
待っててください。お医者様を呼んできます」
静子が部屋を飛び出していった。
そしてすぐに毅が血相を変えてやってきた。
「義雄君、大丈夫か」
「まだ大丈夫。病気の最初」
「喉が痛いのか。他に痛いところは無いか」
「喉だけ」
「今、医者を呼びに行ってる。すぐに来るからな。
横になっていなさい。
義雄君にもしものことがあったら、私は文字通り腹をかっさばかなくてはならん」
いつもは威厳のある毅がおろおろしている。
こんな毅を見るのは初めてだ。
ベッドで寝ていると、静子が医者を連れてきた。
『ドクター、喉が痛いそうなのだ。
金は幾らかかってもかまわん。絶対に治してくれ』
『診察してみないことには何も言えません』
毅が外国語を話している。さすがは外交官。
医者は三十代くらいの外国人だ。
髪は黄色で肌が俺より白い。目の色も薄い。
元の世界で色の薄い人はツユアツから遠く離れた国に居たそうだが見るのは初めてだ。
『はい、口を開けて』
『大きく息を吸ってー、はい、吐いてー』
『ここは痛くないですか』
医者は俺の口の中をのぞき、体に小さな器具を当てて音を聞き、体の色々な所を押して痛くないか聞いた。
五分ほどそうやって俺の体を色々調べた。
『しばらく様子を見ないとはっきりしたことは言えませんが多分風邪でしょう。
アスピリンを出しておきます。
容態がひどくなるようでしたら、また呼んでください』
そう言って医者は帰っていった。
毅が見るからにほっとした様子で分かりやすい。
「ひとまずは安心だ。
だが油断しちゃいかん。風邪は万病の元というからな。
静子、これからハナさんと交代で義雄君の看病だ。
しっかりやるんだぞ」
「はい、分かっております」
「後は何をすれば良いんだ。
まずは部屋を暖かくして……、食事はどうすれば……」
毅はひとり言をつぶやきながら部屋を出ていった。
部屋には俺と静子が残された。
この前の件からようやく普通に話せるようになったばかりなのに、どうすれば良いのか。
しかも授業じゃないから何を話せばよいか分からない。
しばらく二人の間で無言が続いた後、静子がおかしそうに言った。
「父が慌てる姿を久しぶりに見ました」
「面白かった」
「そうですね」
それで会話が途切れてしまった。
やっぱり気まずい。
「さあ、義雄さんはお薬を飲んで寝てください。
風邪には安静が一番です」
いつもと違って静子が優しい。
普段はきつい感じの静子でも病人相手だと優しくなるのだ。
やはり女性なんだと思う。
俺は素直に薬を飲み横になった。
薬を飲むのは十年ぶりだ。
師匠と暮らし始めてから薬を飲む機会が無かった。
いつも師匠に治癒魔法を掛けてもらっていたからだ。
そういえば師匠も病気の時は優しかったな、そんなことを思い出しながらいつの間にか俺は眠り込んだ。
思ってた以上に疲れが溜まっていたみたいで昼だというのにぐっすり寝ていた。
それからだんだん風邪がひどくなってきた。
頭が痛くなり、体がだるい。
寝たり、覚めたりしていると、誰かが何かを運ぶ気配がした。
それから頭に濡れた手拭いを置いてくれた
冷たくて気持ち良い。
半分寝ている頭でそんなことを考える。
夜中に目が覚めた。
ベッドの横で静子がウトウトしている。
俺が体を起こすとすぐに目を覚ました。
「具合はどうですか」
静子が俺の額に手を当てる。
その手はひんやりしていた。
「熱はそれほどではないですね。
何か食べられそうですか」
あまりお腹は減ってない。
それより喉が渇いた。
「水」
「はいはい、お水ですね。
ついでにお薬も飲んで、もう一度寝ましょう」
言われるがままに水と薬を飲み横になった。
ひりつく喉に水が心地良く染みていく。
少し楽になった気がする。
目をつむると、静子の気配を横に感じながらすぐに寝てしまった。
次の朝はいつもより早く目が覚めた。
少し喉がいがらっぽいがだいぶん良くなっている。
どうやら病気は特殊なものではなかったみたいだ。
ツユアツの軽い病気とあまり変わらない。
今何時だろうかと時計を探して周りを見ると、ハナが椅子に座ったまま寝ていた。
「ハナ」
俺が声をかけるとハナはすぐに目を覚ました。
「あぁ、すみません。
私ったら、いつの間にか寝てしまって。
お加減はどうですか」
「うん、だいぶん良い。お腹すいた」
「そうですね、昨日は夕食を食べていませんからね。
少し早いですが朝ご飯にしましょう。
すぐにもらってきますから、ちょっとだけ待っててくださいね」
ハナが部屋を出ていった。
すでに話がしてあったのか、それほど待つことなくお盆を抱えて帰ってきた。
「パン粥と言って牛乳にパンと砂糖を入れて温めてふやかしたものだそうです」
ハナが白くてドロリとしたものを皿についでくれた。
一口食べてみる。温かくて甘いし食べやすい。
弱った体に良さそうな食べ物だ。
「美味しい」
「それは良かった。いっぱい食べてくださいね」
俺がパン粥のお替りを食べ終わる頃、毅と静子がやってきた。
「義雄君、体の具合はどうだ」
「はい、大丈夫」
「おお、そうか、そうか。
単なる風邪で流行性の感冒ではなかったようだな。
とりあえずは一安心だ。
だが、大事を取って二、三日は寝ていたまえ」
「はい、分かりました」
毅が見るからにホッとした表情をしている。
外交官のくせに感情が顔に出るのはまずいんじゃないのと思う。
「それで義雄君、今度の件で考えたんだが転移というのは船に乗っていてもできるものなのかね。
というか移動中でもできるものなのかね」
俺はハッとした。
やったことがない、というか、考えたことがなかった。
そもそも元の世界で長距離を旅することはほとんどない。
たいていのことは転移と空間連結で済んでしまうからだ。
それにツユアツで船はあまり使われていなかった。
船といえば漁師が漁に使うもので、俺は乗ったことがなかった。
だから試したことも、試そうと考えたこともない。
なんとなく船が止まっていればできそうな気がする。
実質地上に居るのと同じだからだ。
船が動いている場合でも船から地上への転移はできそうだ。
地上側の場所をしっかりと頭に思い浮かべられる。
逆に地上から動く船の上へは無理だと思う。
もしずれたら大変なことになりそうだ。
実験するにしても国外のしかも大海原では怖くてできない。
するなら旅行から帰って、万全の準備をしてからにして欲しい。
「船の上からでも転移ができるなら万が一の時には東京へ戻ってしまえば良い。
それか連結できるなら東京から医者でも薬でも持ってくれば良い。
最後の手段があれば何かと心強いからな」
「船から東京は、多分行ける。
反対は、多分無理。
やったことない。実験は怖い」
「そうか。しかし、転移は無理にしても、連結なら実験できるのではないか」
と毅に言われ、二日後いつも通りに体調が戻ったところで実験することとなった。
俺の船室と東京の外務省にある俺専用部屋を連結する。
すると、あっさり成功してしまった。
これには拍子抜けした。
一回目は失敗するかもとか、いつもと魔法発動時の感覚が違うかもと思っていたのに、普段と全く同じだった。
目的地が明確に特定できれば連結できるということなのだろう。
「これで毎日報告書を送れる。
早速今回のことも報告せねばな。
義雄君、これから毎晩報告書の送付をよろしく頼む」
毅は嬉しそうだ。
その夜から毎晩東京と連結して報告書を机に置き、毅宛ての連絡を持って帰ることが日課に加わった。
それと逆方向の陸上から船への実験は日本へ戻ってから行うことになった。
インドの後、船はスエズ運河を通り、エジプトへ寄港した。
寄港するたびに転移の実験をしているが、どこも問題無く成功している。
もう全員転移魔法に微塵の疑いも持ってない。
そこで計画の変更があった。
次のイタリアへ到着したら大使館での実験後すぐに飛行機でロンドンへ向かうこととなったのだ。
急遽決まったらしい。
当初の予定ではイタリアからは鉄道でヨーロッパ各国を回り最後にイギリス、それから船でアメリカとなっていた。
なのだが現在ロンドンで国際的に重要な会議が開かれていて、どうしても俺の力を借りたいそうだ。
なんでも各国の軍の船を減らす話し合いらしい。
そう言われても俺はピンとこない。
そもそもツユアツに軍の船は無かったのだ。
飛行場に着いて俺は最後の抵抗をした。
「聞いてない。飛行機、嫌だ」
「突然決まったのだ。仕方ないだろう。国家の重大事だ。我慢しろ」
と毅はにべもない。
だが、もう二度と飛行機には乗らないと決めたのだ。
「嫌だ。乗らない」
「我がまま言うな。大川、頼む」
俺は抵抗むなしく次郎に引きずられるようにして乗せられた。
力では次郎にかなわない。
そして、ロンドン行きの飛行機で予想通り何度も肝を冷やした。
もう、嫌だ。二度と飛行機には乗らない。
俺は固く固く決心した。
次回更新は明日2/19(金)19時頃投稿の予定です。