三月四日
「ただいま。」
「おかえり、意外と早かったわね。」
彼女は、ベッドに寝そべった状態で僕に視線を向けていた。
「そんなに遅くなるとでも思っていたのか?」
「あなたのことだから、どこか寄り道してくると思っていた。」
「検査のために遠くの病院まで行ってきただけだ。用事がなければさっさと帰ってくるさ。」
「そう。」
そう言って彼女は上体を起こす。長い黒髪がその後を追うように舞う。
「どうかしたのか?」
「何か言いたそうな顔してた。」
「いや、もうあれから三年たつんだなって思っただけだ。」
「三年……、あぁ、そういうこと。」
「早いもんだ。」
「私は、あなたが話してくれたことくらいしか詳しくは知らないけど、それでもあなたがどう思っているかは知っているつもりよ。」
「皮肉なものだ。ちょうど三年になる少し前にその事でわざわざ遠くの病院まで行かなければならなかったからな。」
椅子に座りながら僕はそう言った。
「そうね、皮肉なものね。」
いつの間にか彼女は僕の後ろに立っていた。
「心配しているのか?」
「まさか。」
彼女はそう言って否定した。
「素直じゃないな。」
僕は、背もたれに寄りかかって反り返るようにして彼女を見る。
「なんのことかしら。」
彼女は視線をそらして答えた。
「歌ってくれるかい?」
「随分と唐突ね。」
「なんとなくだ。」
「かまわないけれど、私が歌うかはあなたしだいよ。」
「そうだったな。」
そう言って僕は、部屋の片隅に置いてあるベースを手に取る。
「奏でる音は心の形だったか。」
「それはあなたが好きな言葉でしょ。あなたが奏でないと始まらないわ。聴かせて、あなたの心を。」
僕は静かにベースを奏で始める。それに合わせて彼女は歌う。素直で優しい歌声、初めて会った時から変わらない彼女の歌声だ。そして始まった時と同じように静かに曲は終わりを迎える。
「やっぱりあなた、音楽をしている時はいつもと違うわね。」
演奏が終わってから彼女が言ってきた。
「そうか?」
「普段のやる気のなさからしたらぜんぜん違うわよ。」
そう言って彼女はベッドに寝そべる。長い黒髪がシーツの上に広がる。
「でも今の演奏じゃ、十分歌えなかっただろ…。」
「そうね。」
「すまないな。僕の腕が未熟なばかりに面倒をかけて。」
「あなたの心は伝わっているから十分よ。」
彼女の声は小さくてよく聞こえなかった。
「何か言ったのか?」
「なんでもないわ。」
「そうか。」
そう言って、僕はベースの手入れをする。
「あなたのその手入れをしている時の手つきは本当に楽器を大事にしている感じがするわ。」
「大事に思っているからな。」
「そう。……ありがとう……。」
彼女の語尾は小さくて聞き取れなかった。