不眠症と不感症。
*哲学的ゾンビについて
振る舞いは人間と全く変わらないが、それに伴う内面的な物(意識、クオリア*)を持たない存在のこと。あくまで哲学的な思考の素材としての架空の存在。
+クオリア:何かをした時に心の中に生まれる「感じ」のこと。
*“The story,all names,characters and incidents portrayed in this production are fictitious.No identification with actual persons,places,buildings and products is intended or should be inferred.”
「この物語ははフィクションであり、実在の人物・団体とは関係ありません。」の意。
放課後の誰もいない教室で、地平線すれすれまで沈んだ太陽の橙色の光に包まれた彼女はとても寂しそうに笑うのだった。
+
「私、不眠症なの。」
どのクラスにも、必ず一人は目立たない物静かな生徒がいるものだ。嫌われているわけではない。話してみれば普通に会話は成立する。けれど、どこか空気が他の生徒と違って、皆あまり近づくことが出来ない。
あたしのクラスに置いてそのようなポジションをキープしているのは、葉月さんと言う、色素の薄い髪が綺麗な、目の下に濃いくまがある女子生徒だった。女子生徒、といってもあたしの学校は女子校なので別に特筆すべきことでも無いのだけれど。
そんな彼女とあたしの記念すべきファースト・コンタクトは、放課後の教室で彼女の割とどうでもよい告白によって果たされたのだった。
そう、どうでもよいのである。紫色の絵具を泥水で溶いたような色のくまや、彼女のふらふらとした覚束無い歩き方を見れば、彼女が不眠症であることぐらい誰でも想像がつく。
「睡眠薬でも飲めば?」
睡眠不足による貧血でバランスを崩し、あたしの胸の中へと飛び込んできた彼女の後頭部を撫でながら提案をした。葉月さんの髪の毛は太陽の下で干された布団のように柔らかく、懐かしい匂いがした。思わず深く息を吸って、これじゃあまるで変態じゃないか、と慌てて空気を鼻腔からキャッシュバックする。葉月さんの髪の毛が鼻息に吹かれてふわりと舞い上がった。
「…面白い人ね。」
頭髪の草原をなびかせるそよ風の感触に気づいたのか、胸の中で葉月さんが軽く笑っていた。おかしな人、と言われなかっただけまだいいか、とあたしは自分を慰める。そんなあたしの気も知らずに、彼女は愉快そうな口調で「睡眠薬、飲んでも眠れないのよ」と続けた。
「そりゃ大変だね。」
何だか少し薄情な返事になってしまった。「ご愁傷さま」…も何だか冷たい気がする。「安らかに眠らせてやる!」は絶対に何か間違っているな。
などと間違った台詞をとっかえひっかえ口にしては自分でツッコミを入れていたら、葉月さんはいつの間にかあたしの身体から離れて自らの脚で身体を支えていた。すぐに折れてしまいそうな細い脚。それを特に何を思うでもなく眺める私。
「もう大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫。」
彼女はそう答えて、教室の後ろにあるロッカーの上に座った。顔色は、陰に隠れて読み取れなかったけれど、きっと良くは無いんだろうなぁ。そんなふうに何となく思うのだった。
「私――」
しばらくして、葉月さんが再び何か言おうと口を開いた時、教室の扉が荒く開かれた。その酷く暴力的な音に、教室の中に満ちていた温かい空気が霧散して行くのを感じて、折角並べていたドミノが途中で倒れてしまった時のような残念で悔しい気持ちになる。
「あ、柏木さんいたいた。田端先生が探してたよ。」
開いた扉からひょこりと顔を覗かせたのは、学級委員長の、えーっと何さんだったっけ? 確か松原さんだったような、やっぱり違ったような。まあいいか。
「何か進路希望のアンケートのことで言いたいことがあるって言ってたよ。」
「あー、ソープ嬢って書いた気がするぜ……どこ行けば会える?」
委員長は笑いを押し殺しながら「職員室に行けば多分いると思う」と答えて、じゃあね、と何処かへ歩いて行った。
やっぱりソープ嬢はやりすぎだったかな、せめてキャバ嬢辺りにしておけば良かった。けれどキャバクラの雰囲気があまり好きではないんだ。
そんなことを考えながら教室を出ようとして、さっき葉月さんが何かを言いかけていたことを思い出した。振り向いて、葉月さんに「何言おうとしてたの?」と問う。
「なんでもないわ、気にしないで。」
葉月さんは、薄く笑いを浮かべてそう言いながらロッカーを静かに飛び降りた。あたしはその笑みに少しの間見惚れる。何をしても絵になる人だなぁ、と。
+
「私、転校するの。」
いつだって、あたしの周りで起こっていることは、どれもテレビの画面を通しているかのような嘘臭さを伴って感じられた。画面の向こうの紛争、画面の向こうの飢餓、そして画面の向こうのあたし。どれも曖昧で、“The story,all names,characters and incidents portrayed in this production are fictitious.No identification with actual persons,places,buildings and products is intended or should be inferred.”の字幕を入れたくなる。日々を生きるあたしの慢性的な不感症。別に日々が詰まらないわけでは無いさ、ただ現実味が無いだけ。
もしかしたらあたしは哲学的ゾンビなのかも知れないな、と思考を巡らせてみる。外面は人間と全く変わらないけれど、一切のクオリアを持たない存在。でも哲学的ゾンビは否定されているんだっけ? まあそんなことはどうでもいいや。
そんなあたしと彼女の記念すべきセカンド・コンタクトは、初めての接触の翌日、同じく放課後の教室にて、その割と衝撃的で、何故あたしに話したのか良く分からないような告白によって果たされたのだった。
昨日初めて会話を交わしたような人間にそんな重大な発表をされても激しく反応に困る。それに葉月さんだって、あたしなんかよりもっと喋ったことのあるクラスメートに話した方がそれなりの反応を得られて気分がいいだろうに。
「それはそれは…」
事実、あたしは自分の足りない頭をいつもの十倍程のスピードで回転させてみたけれど、その台詞の後に続ける感想を見つけることは出来なかった。昨日と同じようにロッカーの上に座っている葉月さん。片脚を立ててロッカーの上に乗せている所為で、スカートの中の下着があたしの視界に入り込んでいだ。思わず目線を奪われて、これじゃあまるっきり変態じゃないか、と慌てて目線を逸らす。
「…おかしな人ね。」
昨日と全く同じように彼女がくすくすと笑っていた。この変態、と罵られなかっただけまだ救いがあるさ、とあたしは自分を慰めた。まだ救いがあるさ。
「お母さんが倒れて、実家に戻らなきゃいけなくなったの。」
葉月さんは一人暮らしだったのか、と新たに明かされた事実を頭の中のメモリーに仕舞う。仕舞ったところで、すぐに転校するのだから役に立たないけれど。どちらかと言えばさっき見た下着の色を保存した方がいい気がした。その前にあたしの思考回路があまりに中年オヤジ過ぎるのを何とかした方がいい気もする。
それはさておき、葉月さんは何故転校までしなければいけないのだろう、と私は疑問を抱いた。確かに母親を放っておくわけにはいかないけれど、お見舞いをした後こっちに戻ってこればいいだけの話なのに。
そう口にすると、彼女は「無理なのよ」と溜め息を吐くように溢した。彼女の吐息が部屋の空気と混じり合って、それをあたしが吸う。これぞ究極のリサイクル。
「もともとお父さんは私がこの学校に来るのに反対だったの。地元の高校に通って欲しかったみたいで、いい機会だから戻って来なさいって。」
それは、酷く理不尽だけれどとても理屈に適った話だった。
いつだって、あたしたちを育ててくれるのは親で、親の敷いてくれたレールに乗って進むことが結局は一番の幸せへの近道なのだ。親の敷いたレールなんて、と嘯く人は親にレールを敷いてもらえない人の苦悩を想像したことも無いような人に決まっている。
だからあたしは彼女に「向こうでも頑張って」とだけ言って、帰る準備を始めた。いつの間にか日が傾いて、辺りは夕焼けに包まれている。今日は早く帰って進路希調査のアンケートを書き直さないといけない。明日までに将来の夢を考えろ、なんて無茶な話だよなぁ、と溜め息を吐いた。一体何十年分の運命を一日で決めろって言うんだ。
荷物を纏めて、鞄を掴む。じゃあね、と言おうとしてあたしが口を開いたのと同時に、葉月さんが「待って」と小さく叫んだ。あたしは驚いて、喉を駆け上がりかけた台詞を上手く嚥下出来ずにむせた。
「待って。」
あたしが呼吸困難から立ち直ると、もう一度彼女は同じ言葉を繰り返した。あたしは立ち止まって振り返る。葉月さんは、下瞼を今にも決壊しそうに震わせていた。
「ねえ、こんなこと言うのは気持ち悪いって、分かってるの。」
彼女は俯いて床に向かってそう発した。
そんな彼女を見てあたしが抱いていたのは、飼い主がペットに、母親が子供に、姉が妹に、恋人が相手に対して抱くような庇護欲だった。抱きしめてやりたい。頭を撫でて「大丈夫だよ」と言ってやりたい。
あ。
あたしゾンビじゃ無かった。
「気持ち悪いって何さ? 別に思わないってそんなこと。」
「キスして。」
彼女が強く命令するような口調でそう言う。
「いいよ。」
即答すると、葉月さんは驚いた顔をして固まってしまった。つんつん、と頬をつついても口を浅く開けたまま動かない。あたしはその唇に自らの唇を押しつけた。葉月さんの目が更に見開かれる。自分で命令した癖に、可愛いなぁ、もう。
あたしはそのまま彼女の身体を机の上に押し倒して、舌を口の中へと差し込んだ。思うままに葉月さんの舌を蹂躙する。初めは暴れていた彼女も、しばらくすると落ち着いて舌を絡めて来るようになった。レモンの味じゃないのは、きっとあたしの純潔がとっくの昔に奪われていたからに違いない。けれど、そんなことはどうでもいい、どうでもいいのさ。
やがて、息が続かなくなって唇を離す。虹色に輝く唾液の橋が二人の唇の間に架かって、すぐに千切れた。不思議と汚いとかそう言った類の不快感は一切感じなかった。むしろその体液を余すところ無く啜ってしまいたいような感覚に襲われる。
「どう?」
キスの感想を聞いてみたけれど、葉月さんはぼーっとした様子で天井を眺めていて返事は無かった。余韻に浸っている彼女を見て嗜虐心がくすぐられて、その余計な脂肪が無い、けれど柔らかそうな頬を抓ってみる。
「…痛い。」
何だか愉快になって、あたしはにやにやと笑った。悪戯が成功した時のような気分だ。こんな気分になったのは酷く久しぶりで、懐かしさと楽しさと嬉しさがごちゃまぜになって笑いが止まらなかった。
葉月さんも、つられた様に唇の端をにぃっと上げて笑っていた。その笑顔は、あたしが頬を抓んでいる所為で酷く歪んでいた。
どれだけの間そうして笑い合っていただろう。下校時間を知らせるチャイムが鳴って、あたしたちは身体を離す。朝、布団から這い出る時のような物足りなさが身体を蝕んだ。もっと彼女の深いところまで知りたい。もっと深いところで繋がり合いたい。けれど、それは神聖なる学び舎で励むべき行為では無いので諦めた。何事も諦めが肝心なのさ。
「一緒に帰る?」
その代わりに葉月さんの口の周りを濡らす唾液をハンカチでぬぐいながら提案してみた。近いうちに会えなくなる彼女との想い出作りとやらに励んでみようか、と。
しかし葉月さんは、首を横に振って、
「私はもうしばらくここにいるから。」
と小さな声で言った。ならあたしももう少しいるよ、と言おうとして彼女と目が合う。それで全てを理解して、あたしは開き掛けた口を閉じた。
鞄を掴んで、彼女に背を向ける。後ろ髪を引かれる、と言うのはこう言う感覚のことを言うんだろうなぁ、と思いながら扉を開けた。もう帰らなくちゃ。ほら、進路調査のアンケートに書く夢を考えなきゃいけないし。
けれど、最後に、最後に。
あたしは振り返って、葉月さんに「バイバイ」と別れを告げた。机の上に座って顔を伏せていた彼女は、その声に肩をびく、と震わせて顔を上げた。そして、小さな声で、「じゃあね、バイバイ。」と答えた。
何処か湿度を含んだ声。けれど、懸命に頬の筋肉を引き攣らせて。
放課後の誰もいない教室で、地平線すれすれまで沈んだ太陽の橙色の光に包まれた彼女はとても寂しそうに笑うのだった。
+
「今年も一緒のクラスだね。」
学級委員長、と言えばお節介だとか鬱陶しいだとか、そう言ったマイナスイメージを抱く人が多いと思う。けれど、去年一年間あたしのクラスの学級委員長を務めていた松田さんは、そう言ったイメージからはかけ離れた、優しく気配りの出来る素晴らしい学級委員長だった。
ちなみにその松田さんの名前をあたしはついさっきまで松原さんだと思っていた。クラス分けの貼り出しを見ている時に彼女が「あ、私も二組だ」と言って指差した先にあった名前を見て間違いに気づいたのだ。申し訳ない。
けれど、クラスの皆が彼女のことを委員長、と呼んでいたことにも責任があると思う。あれじゃあ松田さんの名前を知るタイミングなんて無いじゃないか。
「今年も委員長やるの?」
あたしとしては彼女ほど理想的な学級委員長はいないので是非続投して欲しい、と言う希望を行間に忍ばせて彼女に質問してみる。
「やるわけないよ!」
結果はハズレだった。
「なんでさ。」
「委員長って結構大変なんだよ、もうやりたくない。」
嗚呼、だか松田さんよ。キミのその希望はきっと叶わないぜ。
おそらくキミは皆から推薦されてほとんど強制的に学級委員長に就任することになるだろうから。
心の中で就任祝いに何を贈ったらいいだろうなどと考えていたら、「そう言えば、」と松田さんがえらく強引な話題転換を仕掛けて来た。他人の心の中の思考まで転換させようとするなんて、キミはそんなに委員長になりたくないのか。
「ソープ嬢になるのってどんな勉強をすればいいの?」
その問いに思わず私は口の中に溜まっていた唾液をミスト状に噴出してしまった。優等生がソープ嬢のなり方なんて知ってどうするんだ。
「あー、とりあえずAVを見まくって勉強してるよ。」
要するに実技が大切だからね、と付け加えると、松田さんは「ふふふ」と笑って、それから「頑張れ」と応援の言葉を付け加えてくれた。当り前だよ、と力強く答える。頑張ってAVを研究するよ。
再提出の進路調査アンケートに再び書いたソープ嬢の四文字。きっと叶えて見せるさ、とあたしは意気込んでいた。全くもってイカ臭い将来の夢だった。
さて、とりあえずあたしと松田さんが前までより仲良くなったことはこれで分かってもらえたと思う。次に、あのキスをした日の後、あたしと葉月さんがどうなったかについて述べておこう。
端的に言えば、どうにもならなかった、である。
翌日学校に行くと彼女はいつもの様に一人ぽつんと自分の席に座っていて、前日見せたあの泣きそうな顔はもう何処にも無かった。勿論あたしに話し掛ける様なことも無かったし、あたしから話し掛けることもしなかった。彼女がそれを望んでいないのは痛い程に分かっていたから。
そして、葉月さんはそのまま転校して行ってしまった。あたしに「転校するの」と言った四日後のことだった。
担任の先生が彼女の転校について皆に発表したのは、葉月さんがこの学校に通う最後の日の朝のことだった。突然すぎる発表にざわめく教室。
その日は一日中、皆が葉月さんの周りに群がっていた。メアドを聞く人が多くて、けれど彼女はケータイを持っていないのだった。転校の理由を問う声。別れを惜しむ声。忘れないでね、と約束を交わす声。
当然ながら、泣く生徒はいなかった。
過去の回想にのめり込んでいたら、いつの間にか教壇には新しい担任の先生が立っていて、「始業式が始まるから講堂に行け」と唾を飛ばしながら叫んでいた。なかなかに暑苦しそうな先生だ。まあいいか。
席を立つと、眩暈に襲われて立っていられなくなった。すぐに机に体重を預けたおかげで転ばずにすむ。生理は辛いなぁ。始業式の間立ってられるだろうか、と溜め息を吐いて目を瞑った。
今でもこんなふうに目を瞑るとすぐに、あの日別れ際に彼女が見せた泣き笑い顔が浮かんでくる。あの何かを訴えかける様な目も鮮やかに思い出される。そして重ねた唇、絡めた舌の感触も。
――じゃあね、バイバイ。
また会おうね、とは言わなかった。それが嘘になるだろうことを知っていたから。
再会を約束した元クラスメートたちの中で果たして何人がか葉月さんと実際に再開するだろうか。忘れないでと言った元クラスメートたちの内、一体何人が葉月さんのことを死ぬまで忘れずにいるだろうか。
あたしはそんな上辺だけの台詞を吐きたくなかった。だから、忘れないと言う約束もしなかった。
けれど。
「忘れたくはない、なぁ。」
あたしは小さくそう呟いて、教室を出た。
「キミを忘れない」とか(笑
そんな青臭い感情なんていつかは忘れていくものだけど。
そんな感じの小説です。