第四十一話 音は村に響く
第四十一話 音は村に響く
~逃亡~
奴隷達の関係も少しずつ改善の兆しが見えてきた頃、男達は薄暗い闇の中で行動を開始した。
日が沈み、濃厚な黒色が視界を遮る刻。虫の声が夜の空間を支配している。
昼間には住民達が仕事や訓練で行き交うその場所を、のそりと歩く。緊張で足が震え、手には汗が滲み出した。
薄暗い視界の奥にはオワゾを囲った外壁。安全に生活できるための、住民を守るための防壁。外壁の近くには等間隔に物見矢倉が建設されている。その監視員に気づかれぬよう、背を低くしながら歩く者達の姿があった。
息を潜め、のそり、のそりと歩いていく。
気配を殺し、足音を消し、それでも胸の高鳴りだけは抑え切れなかった。
ドクン、ドクン――
息苦しくなるほどの鼓動。
心臓の音さえも煩く感じる暗闇の中、彼等は目的の場所へとひたすら向かっていく。
目標は壁の向こう側。彼等はその先を夢見ていた。
オワゾに来てからというもの、彼等が心から望むモノは此処に無かった。その開放された場所を彼等は切望している。そこには真なる自由が待ち受け、自分達の存在意義そのものだ。誰に止められようと、誰に咎められようと、男達は壁の向こうに自由を求めていた。
靴底と地面が擦れる音が鳴る。
一同動きを止め、周囲を探った。緊張感に身体は強張り、視界と聴覚を最大限に活用し辺りを探る。
虫の鳴き声が聞こえた。リーリーと鳴くその声が耳の奥底で痛いほど響く。見つかっては居ないようだ。胸を撫で下ろし、高まった警戒心を一時的に解きながら再び彼等の足が前へ一歩進んだ。
壁はもうすぐ目の前。焦る気持ちを落ち着かせながら男達が近づいていく。その時、彼等以上に音も無く、気配も無いその人物はその場に現れた。
「……何やってんだお前達」
緊張が皆に走る。
左右に首を振り、声の出所を探るが辺りに人影は見えない。慌しく視界を巡らせ、最後にぐるりと身体を捻らせる。
「その壁の向こう側がどんな所か、お前達は解ってんだろ?」
背後を確認すると、そこにはクーヤの姿があった。男達が冷や汗を垂れ流す。
筋肉は強張り、喉も萎縮して上手く声が出なかった。誰かが唾を飲む音が聞こえる。冷えた風が男達の肌を撫で、嫌な汗を垂らした肌からさらに体温を奪う。男の一人が身震いをした。
風が吹く。
風が彼等の間に生まれた嫌な空気と頭上を覆っていた雲を押し流す。心地よいはずの風が彼等には不吉な感じた。
雲に翳っていた月がその場に明かりを灯し、男達の姿が顕になる。
「風呂場だぞ?」
「それこそが目的っすよ」
月明かりに照らされたイース達は気まずそうな顔でクーヤを見つめていた。
気づかれては不味いのか、声はとても小さい。
親指を突き立てると共にさわやかな笑顔でショルはクーヤに返事をした。親指の爪先が何度も壁の向こう側へと指される。
笑顔とは裏腹にその目は真剣そのものだった。目が語りかける。俺達は真の自由を求めてやってきた、邪魔するべからず、と。
「なんと言うか、なんと言うか……本当になんと言うか――残念な人達だ」
「うるせー。お前は毎晩嬢ちゃん達の裸体を見ているからいいだろうけどな、俺達は此処に来てから禁欲の生活なんだぞ!」
「……頭を地面にこすり付けて頼み込んだらだうだ? 同情してくれる人がいるかもしれないぞ」
「馬鹿野郎! そんな最低な事出来るか!」
語気を荒げているようだが、音声は小さかった。
覗きは最低の行為に入らないのだろうかと、彼等の価値観を疑ってみるがクーヤにはよくわからなかった。
「無理やりもいけません。そんなの唯の強姦による犯罪者ですから」
覗きも犯罪の一種では無いだろうかとさらにクーヤは悩むが、罪の重さが違うのかもしれないと一応の納得はした。
「そうっすよ、無理やりはいけないっすけど、覗きならオワゾの外を見張ろうとしてちょっと場所を間違えちゃった、って言い訳が成り立つっす」
いやその理屈はおかしい、とクーヤは心の中で語るが呆れて声には出なかった。
性欲とはそれほどに男を駆り立てるのか。何故そこまで情熱を捧げる事が出来るのか。周囲からよく枯れていると言われる彼には理解出来ない欲望である。
「……自分で処理しろよ」
「そのためのネタ探しじゃねぇか。いいから見逃せ…………そうだ、クーヤお前も一緒にどうだ?」
何を言い出すのか、イースはクーヤに覗き行為を誘ってきた。
もうすでにこの後の惨劇を予想する彼には素直に同意出来ない。いや、イース達以上に地獄を見る事は想像に難しくない。無意味なハイリスクは犯せない。
覗きに興味の無いクーヤは即座に否定しようとしたが、ウィムが両肩をあらん限りの力で掴みかかった。肩を固定され、血走った目を彼の眼へ向ける。
「いいですか、クーヤ君。覗きは男のロマンです。外という開放感の中、裸体をあらわにする女性達! 普段じゃ見られない無防備な姿! 悪い事をしているという微かな罪悪感も良いスパイスになります! そんな場所を作ってくれたクーヤ君には感謝のしようがありません」
そんな理由で作ってはいない。そう否定しようにも、彼等にどんな言葉をかけようとも彼等の耳に届かない事は理解していた。
「見つかって折檻されるのが目に見えているんだが……」
「裸を見られて恥らうその仕草やその表情をこの目に焼き付ければ本望です。その後の暴力も甘んじて受けましょう!」
背筋を伸ばし、握り締めた拳で胸を叩き堂々とこの場で宣言する。惚れ惚れする程のその潔さに、クーヤはため息を吐き出す反応しか出来なかった。
「もう色々と自由だよあんた達は……」
この場から逃げ出したい。全てを忘れ見なかった事にしたい。自分を巻き込まないで欲しい。逃避という言葉が彼の脳内でグルグルと回る。
気づけばイースとショルもクーヤの隣に立っていた。彼を逃がす気は微塵も無いようだ。
「そもそもお前は嬢ちゃん達以外の裸を見た事があるのか?」
思い起こしてみるがそんな記憶は存在しなかった。
首を横に振るとイースが嫌らしい笑みを浮かべてさらに近寄る。
「そいつは勿体ない。お前はもっと世界を知る必要がある」
女体を世界に例えられても反応に困る。
そもそもただ女体を眺める行為にそれほど興奮するものなのか、と彼等を説得してみるが、何か絶望したように肩をがっくりと落とす反応が返ってきた。
「お前は何もわかっちゃいない。クーヤは本当に老いているな」
「クーヤは枯れてるっす。本当に枯れてるっす。しおしおっすよ」
クーヤとしてはただ裸を眺めるだけよりも、その後の行為にこそ価値が有るのではないかという意味だったが、同意は得られないようだ。責められるべき立場が逆転している。
「いいかクーヤ。女体は神秘だ。人それぞれに個性が有り、きめ細かい肌に価値が有り、身体の曲線には美が存在する」
イースの言葉に彼もわずかに同意した。
女性にはそれぞれの美しさがある。そういった個性は観察眼に長けたクーヤが最も良く知っている。
「美しいものは昔から何も変わっていません。女体とは男にとって永遠のテーマです」
前半の言葉には同意である。
宝石、絵画、彫刻。芸術品というのは確かに美しい。その形、その曲線、その色合い。美という人々が求めて止まない物は昔から何も変わっていない。
何事も絶えず劣化していく。その劣化していく世界の中で一瞬の美を求めているのか、とクーヤは複雑に考えすぎていた。
「これは俺っち達にとって修行の一環っす。相手に気づかれないように行動し、興奮を抑えながらも獲物に狙いをつけるんすよ」
隠密行動はクーヤの得意とするものだ。相手に気づかれずに移動するのはかなり自慢できる。段々と興味が沸いてきた。
「そして見つかったら最後、死は免れない。そんな生死の瀬戸際で行う任務だ」
背後に死を背負いながらの行動。緊張感を含んだとても実践的な修行である。
近頃は動きの鈍くなった魔獣を狩るばかりで、瀬戸際の戦いを行っていない。少しばかり命の危機を体験しないと、直観を忘れてしまいそうだ。
「……なるほど、面白そうだ」
彼の悪い癖だ。
クーヤの行動原理は思っているよりも単純である。
生きるために必要であれば迅速に行動する彼であるが、普段は興味が有るか無いかで大きく分けられる。興味がなければきっぱりと切り捨て、興味が有るものでも一つの理由では動かない。行動を起こすにはいつくかの理由を羅列しないと腰を上げない怠け者である。
「よし、行くか――!」
結局は、なんとなくやってみたい。ただそれだけだ。
彼の、悪い癖だ。
露天風呂の中は今まで見たことの無い新鮮な光景であった。
湯気に包まれる空間。霞の中に女性らしい丸みを帯びたシルエットがうっすらと浮かぶ。女性達の笑い声も柔らかく耳朶に響いた。風が緩やかに吹くと覆われた湯気が取り払われ、囲いを登った男達の前に裸体が晒される。
「「「おおおおおおおおお」」」
胸の膨らみ、腰のくびれ、臀部の魅惑的な曲線。
オワゾに訪れた当初は骨と皮がくっついているようなガリガリに痩せている者が多かったが、日々が過ぎるにつれて肌の丸みや髪の艶が戻っている。髪が流れ露わになるうなじ、そこから背中に流れる線、その先には女性特有の肉付き。
獣人達の中には肌を体毛で隠している者もいるが、胸部や秘部は覆われておらず、むしろ扇情的であった。奴隷達の中には身体に傷を負っている者もいたが、そんな些細な事など気にならない芸術。
湯船に浸かる恍惚の表情。同姓だけの空間で警戒心を解いた無防備な姿にイース達の興奮は高まっていく。彼等とは逆にクーヤはただぼーっと眺めていた。
「どうだ、これこそが楽園だ!」
「いやまぁ、綺麗だとは思うがな」
美しいとは思うが彼等のように性的興奮は沸いてこない。彼としては情事の上擦った声や頬を朱に染めた表情、恥ずかしげに身をよじる仕草にこそ美しさがあると認識している。
周囲を警戒してはいるがあまり長居しているとその分見つかるリスクが高まるだろう。本音を言うと、そろそろ飽きてきた。
微かに揺れる湯気の奥に映る裸体を眺めながら、クーヤは夜の空間に楽しみを見出し始めた。
耳を澄ませば草陰から虫の鳴き声が聞こえる。女性達の控えめな笑い声も届いた。入浴が彼女達にとって娯楽になっているようでなによりだった。
風が頬を撫でる感触に目を瞑る。冷たい冷気が皮膚を突き刺すようだ。
風が大気を揺らし空気を運ぶ。隣から肉の焦げる臭いが漂った。
「何が綺麗だって?」
聞きなれた声が空から聞こえる。
目を開けると、先程まで隣にいたイース達の姿が無い。周囲を見渡すと、三個炭の塊が地に落ちていた。錆び付いた機械のように首を動かし、空へと視線を向ける。
「……なるほど、上は予想外だな」
空中にラビとアリスの姿はあった。
空を飛んでいるわけではない。暗い闇の中でははっきりと視認出来ないが、おそらく薄い氷が張られているのだろう。地面を見張っていてもこれでは意味が無い。
「本当に、本当に――残念だ」
空気が熱く、冷たい。一体どちらなのか理解は及ばなかった。
「お前達の方が綺麗だぞ」
ただ一つだけ確かな事が言える。自分の身体は冷め切っていると。
「そう? ありがとう。嘘でも嬉しいわ」
「本音だけれどな」
「褒められると照れる。せめて苦しませないようにしてやろう」
出来れば命だけは助けて欲しい。そんな儚い願望には縋らず、クーヤはその場を逃げ出した。
「「逃がすか!!」」
彼の背後から鬼が二匹追いかける。
迫り来る死の気配に彼は足が千切れんばかりに逃げ続ける。捕まったら最後、次の朝日を拝む事は叶わないだろう。
身体を掠める炎と氷に肝を冷やしながら「ああ、これは確かにいい修行になる」と何処か遠い自分が場違いな感想を漏らしていた。
日の出を迎えるまで、クーヤの逃亡劇は続くのであった。
~制御~
木枯らしが天へと昇る。巻き上げられた木の葉はくるくると空へと向かい、その存在を消していく。
乾いた空気が漂う場所でクーヤは一点を見つめて微動だにしなかった。瞬きすらも忘れ、じっと視線をむけている。やがて目が乾き、潤すために刹那の間目を閉じた。
開けた視界、そこに見えるのは渦を巻く空間。
空気はガラスで閉じ込められたように動きを止め、閉じた空間の中には枯れた木が丸々一本。襲い掛かる空間に、枯れ木はギシギシと軋みを上げながら耐え続ける。だが、彼女の力の前でそれは些細な抵抗だ。
やがて爆発が起きたかのような音が辺り一面に広がる。その音すらも彼女の力によって握りつぶされ、すぐさま消えていった。
5メートルはあった木が押しつぶされ、もみくちゃにされ、無様なオブジェとして出来上がる。最早それが、一本の木であった事実など理解出来ない程に捻り曲がり、原型を留めてはいなかった。
念動力。ティナによる圧縮に特化された超能力だ。
「どう……ですか?」
オワゾと森林の境界線。外壁から少しだけ離れた所にはクーヤ、ティナ、ウィム。そして超能力の検証をするという話を何処からか聞きつけたのか、ニールの姿もあった。
「ふむ、やはりティナの力はマナを媒介としているな」
「そうですね。クーヤ君の予想通りです」
超能力の中でも有り触れた念動力。何かしら未知の力が働いているかもしれなかったが、検証してみるとやはりマナを媒介として物質を動かしているようだ。物質の世界において物を動かすとなると、なんらかの物質が動いているだろうという彼の予想が的中した。
自分の仮定が間違っていなかったと知るとクーヤは満足気に一つ頷いた。
「えっと、それが解るとどうなるんです?」
「マナを用いているならば魔術的な過程を辿る。力を制御するにあたって少し助言が出来るな」
彼女の力はマナにエネルギーを吹き込み、さらにそこから二次的な魔術を行っている事が判明した。媒介となる物質が解れば想像が容易に、ひいては制御がしやすくなるだろう。
最も、何故マナを操れるかまでは理解出来てはいない。
「どんな力にも言える事だが、不可視の力ならば想像力が制御の鍵となる。ティナ、お前は今どんな事を想像した?」
「えっと……潰れろ、としか」
「あー……よくもまぁそれだけの想像で力が使えるものだな」
その程度の想像で力が行使出来るとは、と苦笑が漏れる。魔女という規格外の力に呆れ顔でやれやれと首を振った。
「なら今度はさらに鮮明な想像をしてみようか。例えば、そうだな……お前の身体から目に見えない手が伸びる想像をしてみようか――」
ティナはクーヤの助言をよく聞き、自分の頭の中で想像を膨らませ実践を繰り返す。マナという大気に満ちる魔素の存在を考え、自分の影からゆらりと手が這い出てくるのを想像し、ゆっくりと伸びた手がまた別の木を握っていく様子を空想。
また一つ枯れ木を押しつぶしていく。だが今回は、先程のような奇怪なオブジェではなく、やや歪だが丸みを成した球体が出来上がった。
真下にはねじ切れた根元を残し、歪な球は空中で静止を続ける。やがてその球体は空中を動き始めた。最初はゆっくりと、そして段々加速して。数分後には縦横無尽に宙を駆け回る球体の姿があった。
出会った当初のような浮遊する速度ではなく、まるで鳥が飛翔する速さ。それほどのスピードを出しながらも、力の暴走は起こらなかった。
「あ……出来ました……え、ほんとに出来た!?」
「うん、悪く無い。後はその感覚を忘れないよう反復しないとな」
「こんなに……簡単に」
「どんな力だろうと、想像は大事だという事だ。そして力がどのような過程で行使されているかを知れば、想像が容易になる」
彼女の脳内では球体を手で包み込むように握り、左右に振る想像を浮かべていた。ただそれだけの簡単な事。だが、そんな簡単な想像すらも彼女は今までやって来なかったという事でもある。
想像の腕をがむしゃらに振り回し、最後にはボールを投げる様子を思い浮かべて手を離す。枯れ木だった球体は放物線を描きながら飛んでいき、森の奥でズシンという音が響いた。
「力の使い方に少しは慣れたみたいだな」
「はい。あの……少し知りたい事があります」
「なんだ?」
「あのですね、オドとマナってどんな違いがあるんですか?」
オドが小源、マナが大源。オワゾの魔術師ならば誰もが知っている事である。
ティナが知りたいのはその先の事であろう。自分の力がどのような物か詳しく知ろうという姿勢に、クーヤは一つ頷いた。
「オドは人が持つ魔力、マナはこの星や精霊が持つ魔力という所までいいか?」
「はい。不思議に思ったのは私がマナを扱えるなら他の人も……と思いまして」
「いい質問だ。だが、残念ながらそれは難しいな」
「どうしてですか?」
「魔力として同じように扱われているが、オドとマナでは性質が異なるんだ。言うなればオドはガソリン、マナは原油」
「ガ、ガソ……?」
「正しい言い方をすればオドとマナは同位体ではなく、同素体の関係に近い」
同位体とは同一元素において、電子状態が同じであるため化学的性質は同等である。例えとしてあげるならば、水素と水素に中性子を一つ足した重水素。
同素体で一番有名な例をあげるならば、黒鉛とダイヤモンドであろう。単体、すなわち互いに同じ元素から構成されるが、化学的・物理的性質が異なる事を特徴とする。
オドとマナはそれぞれが似ているようで扱い方や性質が異なっている。ゆえに同素体の関係に近いというのが彼の見解だ。
「元素が同じというだけでまったく同じ物質では無く、それぞれの構成が違い、構成が異なるからこそ性質も異なり、それによって人には容易に扱えない物として――」
クーヤの頭の中で知識が駆け巡る。ヒートアップする彼にティナは掌を突き出し、待ったをかけた。
「すいません。解りません。もっと解り易く説明しやが――何でも無いです」
「ああ、すまない。表現が駄目だな……そうだな。ここにりんごと附子の実があるとしよう。見た目はほぼ同じ、だがティナはどちらを食べる?」
「えっ……それは勿論りんごですよ」
似た形を持つりんごと附子の実。見た目は同じような果物ではあるが、人にとって食べられる物と食べられない物。オドとマナの関係は、噛み砕くとそんな感じだ。
「そうだな。似ているが附子の実は食用に適さない。同じようにマナは常人には扱えない……お前の力はその扱い難い物を容易に扱える特別なモノだ。単なる魔術師じゃ扱えない」
「なるほど、最初からそう言いやがれですいませんなんでもないです」
「クーヤ大先生、一つ質問があります」
そこでニールが手を挙げた。ティナによって説明が中途半端に終わったが、彼としてはさらにマナに関する知識を得たかった。ただ、話の続きを進めるだけでは脳が無い。日頃、自分の中で疑問に思っていた事を載せてクーヤへと投げかけた。
「人が持つ魔力であるオドは身体から放出すると時間の経過と共に消失します。しかし自然の魔力であるマナは周囲に満ちています。何故、同じ魔素であるにも関わらずオドは消失し、マナは空気中に存在し続けるのでしょうか?」
「そこに気づくとはニールは頭が良いな。良い質問だ」
「確かに気になりますね。マナが周囲に満ちているというのは聞きますが、オドが満ちているというのは聞いた事がありません」
「それを説明するにはまず認識して欲しい事項がある。全ての物質は安定した状態を望んでいるという事を――」
「私はこれで失礼しますね」
ティナがお辞儀をしてその場から去って行った。話が長くなる事を察したのだろう。彼女にとって必要なのは力の制御方法だ。魔力に関する深い知識ではない。
自分に必要な知識を選択して得るのはとても効率が良い。ただ単に、訳の解らない話が長くなる事を察して逃げたのは目に見えていたが。
「安定した状態、つまり容易に分解されない状態。不安定な物質は何かと化合する事によって安定を目指しているんだ」
「安定……ですか」
オドというのは魔素という原子単一で存在している為、不安定である。不安定であるからこそ他の元素とくっつき易い。くっつき易いからこそ、この世に存在する物質と結合し、魔術としての現象を起こせる。オドという不安定な物質は、人の手で操るのにとても都合の良い性質なのだ。
それに対し、マナは魔素がいくつか合わさり安定している魔素の集合体。安定している事によって空気中にも暫くの間存在し続ける事ができ、そして安定しているからこそ人には容易に扱えないモノとなっている。
その安定している物質に介入し、ティナや精霊達はマナを操って魔術として行使している……そうウィムとニールへ説明していった。
「それはおかしくないですか? クーヤ君はオドが小源、マナが大源と言っていますよね。オドが最小単位であるのならば、オド自体が大源と言ってもいいのでは?」
「そう言う疑問は大歓迎だ。しかしウィムさんの考え方には人間的主観が少し混じっている。最小単位が大源という訳じゃない」
先程述べたようにオドは魔素単一、そしてマナは魔素の複合体の物質。構成が異なるからこそ、性質も異なり、人には扱いが難しい物として存在している。
「こうは考えられないか? 元々完成していたマナという分子を、人が扱い易いようにオドという原子に砕いたという説を――」
その後、三人による討論は続いた。クーヤが仮説を述べれば、ウィムとニールによる反論や疑問が投げかけられ、三人による議論は日がかなり傾くまで交わされていった。
「いやぁ、つい遅くなってしまいましたね」
「僕は今とても感動しています。これ程までに魔力……いえ、魔素について知っている人がどれ程いるのでしょうか。また一歩、魔術の深淵に近づいた気がしています。狐獣人としてこれほどの喜びは存在しません」
「そうかい。喜んでくれたのならなによりだ」
流石に喉が渇いてきたため、一旦村へと戻る事に誰も異論はなかった。しかし白熱した議論は熱が冷めず、その帰り道でも彼等の会話は続いていた。
「しかし納得のいく説明ですね。世界中にある物質にくっつき易く、離れ易い。そして想像という命令をエネルギーに乗せて魔素に付与し操る……だからこそ体外の、魔吸石内のオドも操れるという事ですね」
「その通り。だが、魔吸石があまり無い現状だ。乱用は控えてくれよ」
「ふふふっ、この杖のおかげで扱える魔力が倍に増えましたよ。早く試したいものです」
「使える属性は一つに限られているがな」
「それでも十分過ぎる物ですよ」
クーヤの手によって作られたウィムの新しい武器。落雷のような形状をした杖の先端には、蒼色に染まる魔吸石が取り付けられていた。柄を両手で握り締め、恍惚とした表情で頬擦りを繰り返す。その姿は実に気持ちが悪い。
「また疑問が浮かびます、なぜ魔吸石はオドを消滅せず保存出来るんでしょうか」
「それはまだ解明していないな」
「ふむむ、そうですか。それと、大先生が研究中の魔獣に備わる魔素汚染。あれは先程の説明から考えるに、汚染された魔素も同素体という関係ですね」
確信に満ちた声でニールが語る。何も間違った事は言っていない。同じ魔素から成り立つオドとマナ。しかし構成が異なるからこそ性質が違い、扱いも異なる。その考え方でいくのならば、汚染された魔素も同様の事が言えるだろう。
クーヤからの返事は無かったが、ニールはうんうんと頷きながら足を進めていく。隣り合ったウィムに声をかけ、また別の考察を語りかける様子をクーヤは後ろから眺めていた。
「……いや、あれは構成も性質もオドとほぼ同一だ」
苦い顔でぼそりと呟いた彼の声は、誰に聞こえる事も無く空気に溶け込んでいった。
今日もまた焼き所には金属を叩く音が聞こえる。
一定のリズムで甲高い音を響かせるその音楽は、此処最近鳴らなかった日など無く、それは最早オワゾにおける日常の一部となりつつあった。
毎日毎日、クーヤは武器を叩き上げていく。材料は奴隷達の拘束用に用いられていた拘束具。それを溶かし、酸素を還元し、なるべく質の高い鉄を手に入れて造りあげた。
作業は順調に進められ、兵士達全員に武器が配布される現状にまで至ったのはつい最近だ。いや、順調という言葉で濁してはならない。彼が無理をして作業を推し進めたのは明らかであろう。
「ふ~~」
深く、長いため息が彼の口から漏れ出す。クーヤには疲労の色が伺えた。
響いていた槌の音がピタリと止み、紅蓮に染まる刃物を宙に掲げてじっと目を凝らす。刃の根元から切っ先へ視線が流れ、思い描いた形が取れているか細部まで確認する。彼が手にしているのは日本刀だ。
「…………ん~、もうちょっと叩くか」
イース達への報酬となる武器はもう手渡した。フィズとティナに持たせる武器も作り、兵士達に持たせる武器は全て出来上がっている。残るのは壊れてしまった自分の武器を作ることだ。
再び鋼鉄の音楽は鳴り出した。その音は彼が満足するまで続き、刃物が水中で泡を放つ音が最後に響く。焼入れの完了だ。
「良し。研磨はまた後でだな」
一仕事終え、長椅子へと座る彼の手には紙の束。オーク村周辺を調査した報告書だ。迫る開戦に向けて重要な情報である。全ての内容を頭に叩き込み、吟味しなくてはならない。それが住民の命を守る事に繋がるのだ。
精錬で酷使した目が少し霞む。眉間を揉み解し、目に溜まった疲れを誤魔化すと再び書類へと視線を戻した。
「……無理は良くない」
隣から少年の声が聞こえてくる。いつの間にかクーヤの隣にはサエッタの姿があった。
勿論、サエッタの存在に気づいていた彼は、特にこれと言ったリアクションは返さない。一度だけその姿を一瞥し、すぐさま書類へと視線を戻した。
「まぁな。だがいま無理をしないと、後でさらにでかい皺寄せがやってくる」
「……頑張りすぎるのは駄目」
「俺はな、本来怠け者なんだ。だが、生きる事に対して怠ける訳にもいかない。生きる事に怠けたら死しかないからな」
「……よくわからない」
「後で一杯怠けるために今を頑張るんだよ」
サエッタに顔を向けず、目の前の文字を追っていく。それからは二人の間に無言の時間が続いた。クーヤは書類に目を通す事に夢中であり、サエッタは自分から進んで話をする性格でもない。仕事に集中しているのを邪魔しない彼なりの配慮もあるだろう。
手持ち無沙汰なサエッタは首にかけていたネックレスを取り外し、絡まらないようまとめて長椅子の上へと置いた。そのネックレスはクーヤが彼に与えた魔術道具である。
ネックレスは黄色に染まった魔吸石を中心とし、そこから左右に鎖が伸びてぐるりと輪を作っている。目を凝らさないと気づかないが鎖には細かい魔術文字が描かれ、鎖自体が魔方陣を作っていた。この魔術道具の機能は電磁波妨害だ。
サエッタの力を検証した結果、この心を読むという力は電磁波を読む事であるのが証明されたのは彼等が出会って数日後の事。そしてその帯域はかなり広いという事のみである。
脳波である電気信号の周波数は30ヘルツ以下、それは超低周波と区分される家電製品から出る電磁波よりも周波数が低い。
その電磁波を遮断する方法としてクーヤが作った物だが、魔術道具であるネックレスを使っているという事は、まだ上手く人の思考を遮断出来ていないのだろう。
「……ん、まだ上手く出来ない」
思考を読まれ再びちらりと横を盗み見る。耳を澄ますように目を閉じているが、その耳は両手で塞がれていた。まるで、脳内の音を逃がさないような仕草だ。幼い彼にはクーヤの膨大な思考を聞き漏らさないのに必死だろう。
まるで監視されているような気分だ。情報を頭の中で整理している傍らでそんな事を考えていると、サエッタは一度だけ頷いた。
『でもこんな事が出来るようになった』
その音は空気を震わさずクーヤの元へとやってきた。流石に驚愕し、書類から顔を背けサエッタへと向ける。反応してくれた事が嬉しいのか足を交互に揺らし、目を瞑りつつも笑顔を見せた。
「凄いな、受信するだけじゃなく送信する事も出来るようになったのか」
「……ん」
頭を撫でるとくすぐったそうな反応が返ってきた。そしてサエッタの頭に手を置きながら深い思考へと落ちていく。
この力が解明されればかなり有益では無いだろうか。ただ一つ怪訝な事がある。
今クーヤの脳内で響いたのはサエッタの声である。しかし、彼は人の考えが文字で頭の中に浮かぶと言っていた。この差異は何故だろうか。いや、そもそも声という音波と思考という電波が波形も性質も等号である方が考え難い。ならば何故サエッタの声として認識したのか。他の者にはどう聞こえるのか。疑問は尽きない。
「……うぅ」
高速の情報処理についていけなくなったのか、サエッタは顔をしかめていた。考察を一時中断し、検証へと移行する。読み進めていた報告書はまとめて重石を乗せた。
「ちょっと実験したい。今やった事を他の者にもやってくれるか?」
「……いいの?」
誰もが心を読まれていい気はしない。
ネックレスは思考を遮断出来ないサエッタを守るため、その前提は変わらないが心を読まれないのは周囲で生活する者への配慮もある。平穏を保つため、ネックレスを外すのは力の使い方を学ぶ時、そして気の知れた者の前だけだ。
「ああ、俺の興味本位として伝えれば誰もお前を責めはしない。後でどんな風に聞こえたか報告して欲しい、という一言も付け加えてくれ」
「……うん」
「まずはエリーナからだな」
目を開けて周囲を探るように視線を動かした。サエッタがどのように頭に浮かぶ文字で個人を特定するのかクーヤは知らない。だが様々な人の思考が混雑しても間違える事は無かった。言葉にして伝える事が出来ない微妙な感覚があるのだろう。
「……エリーナが自分の家が出来てちょっと戸惑ってる、でも嬉しいって」
今でも長屋で生活している者は多いが、個人宅はそれなりに建てられ始めている。集団生活する事で連帯感を持つ効果も有るため、希望する者へという訳でも無い。主にそれぞれの分野で核を担う者達に対しての配慮だ。
「当然の対価だ、気を病む必要はまったく無い。と伝えてくれ」
「……ありがとう、だって」
「そうかい。アッガーはどうだ?」
「……クーヤ兄ちゃんからの宿題に悩んでる」
「まぁ、頑張れと応援しておいてくれ」
今後の仕事を考えるとある程度の計算はやってもらいたい所だが、渡した量が多かっただろうか。反省し、後で何か差し入れでも持っていく事を決めた。
「ショルさんはどうしてる?」
「……ショルは……フィズ姉さんのお尻を眺めて、ニヤニヤしてる」
「いや、ほんとあんた等は自由だよ」
クーヤからため息が漏れる。この時間帯なら合同演習しているはずなのだ。
「よし、それはフィズに伝えてやれ」
数秒の後、どこからとも無く凄惨な悲鳴が聞こえた。尾を引く叫び声から察するに、追いかけられているのだろう。その事実にクーヤからは感嘆の息が漏れた。
フィズの性格から考えるに有無を言わさず殴りかかっただろう。それなのに悲鳴が聞こえる、それはつまりフィズの猛攻を避けたという事だ。ショルも技量が上がっているようで喜ばしい事である。
「さて、ウィムさんはどうだ」
「……ウィムが…………い、言えない」
「この変態が、と罵っておいてくれ」
脱力がクーヤの身体に襲い掛かる。紳士とのたまっているが、住民に被害が出ないか本気で心配になってきた。
「……お礼言われた、どうして?」
「ちっ、ご褒美だったか」
クーヤであってもウィムの業の深さを理解する事は不可能な気がした。
「さて、最後にラビとアリスは?」
「……二人共、クーヤ兄ちゃんの事心配してる。最近疲れた顔してるって」
「――――そうか。心配させてすまない、と伝えてくれ」
「…………うん、わかった」
重要な戦いの前にいらぬ不安は抱かせるべきでは無いことは重々承知だ。やるべき事は迅速に済ませ休養を取る事は後に回したが、少し疎かにしすぎたかもしれない。前科がある分、反省するべきであろう。
「………………」
「ん?」
サエッタの沈黙が長引く。視線を向けるが彼は身じろぎもせず、一点を見つめたまま動かない。一言送るだけのはずだが、一体どうしたのだろうか。
「サエッタどう――」
クーヤが疑問を口に出す前に、吹き荒れる風がオワゾを覆った。
衣服がはためき、重石を乗せた書類は暴れだす。発信源を特定するまでも無い、それは村の何処からでも見る事が出来た。
熱風が渦を巻く低音と空気が凍りつく高音。この村の名物にもなりつつある二柱が天高く昇っている。温度差が激しく異なる柱は寄り添う事により、暴風は勢力を増しつつあるようだ。熱くも冷たい風が駆け巡り、村を蹂躙する。
ギシギシと軋む建物を見つめながら、この風圧を耐えるのならば嵐が来ても大丈夫だろう、という場違いな感想をクーヤはため息と共に吐き出した。
「おい、サエッタ」
「……なに?」
何が起きたのかという疑問すら浮かばず、クーヤは隣に座る少年へジト目を向けた。
「お前、なんて送った」
「ん……内緒」
今日もまたオワゾには魔女達の力によって轟音は響くのであった。
「ちょ、ちょっとさっきの言葉は本当なの!?」「真実か!?」
「あ~、帰ってくるなりどうした?」
「なんか最近、軽んじられてたけど……まさか、あんな……」
「…………一体なんて言葉だったんだ」
「そ、そんな恥ずかしい事、口に出せるわけが無いだろう!」
「そうよ! バカ、エッチ!」
「ああそうかい」