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日常とSF

完璧な遺言

作者: くるみ
掲載日:2026/05/16

「私が死んだら、この箱を開けなさい」


祖父はそう言って、小さな木箱を私に渡した。


祖父は、村で一番の変わり者だった。時計職人なのに時間には少しも厳しくなく、金持ちだという噂があるのに古い家に住み、誰よりも孤独そうなのに、いつも楽しそうに笑っていた。


私は、子どものころから祖父が好きだった。

祖父はよく言った。


「人間はな、一つ見つけるとそれが全部だと思うから間違える。

見えているものを全部だと思うな」


意味はよくわからなかった。


祖父が亡くなった、と知らされたのは、それから三年後の冬だった。

葬儀には、親戚が集まった。

普段は祖父の家に寄りつきもしなかった人たちが、黒い服を着て、悲しそうな顔をして、それでも目だけはどこか忙しそうに動かしていた。


「財産のことは何か言っていなかったのかしら」

「貸金庫があるという話を聞いたことがある」

「土地もあるはずだ」


私はその会話が嫌で、祖父の作業部屋に逃げた。


壁には、古い時計がいくつもかかっていた。どれも少しずつ違う時間を指している。祖父らしい、と思った。

机の上に、あの木箱を置く。

鍵はかかっていなかった。

中には、封筒が一通だけ入っていた。

表には、祖父の字でこう書かれていた。


「お前に、すべてを譲る」


私は息をのんだ。

封筒を開けると、中には一枚の紙が入っていた。

そこには、短くこう書かれていた。


「裏庭の桜の下を掘れ」


私はスコップを持って、裏庭へ出た。

雪がうっすら積もっていた。桜の木は葉をすべて落とし、黒い枝を空に伸ばしている。子どものころ、私はよくその木の下で祖父とお茶を飲んだ。祖父は、桜が咲いていない季節ほど、この木はよく働いているのだと言っていた。


私は、根元を掘り始めた。


十分、二十分、三十分。


指先が冷たくなり、息が白くなったころ、スコップの先が硬いものに当たった。


鉄の箱だった。

胸が高鳴った。

箱を引き上げ、泥を払う。錆びた錠前は、少し力を入れるだけで外れた。

中に、札束も金貨もなかった。

入っていたのは、古いアルバムだった。


私はその場にしゃがみこみ、ページをめくった。

若いころの祖父がいた。隣には、知らない女性が写っていた。二人は、見ているこちらが照れるくらい幸せそうに笑っていた。

次のページには、赤ん坊の写真があった。


私は首をかしげた。

祖父に、子どもがいたなんて聞いたことがない。私の父は、祖父の養子だったはずだ。

ページの間から、手紙が一通落ちた。


「ここまで来たなら、もう少しだけ付き合いなさい」


私は読み始めた。

祖父には若いころ、妻と娘がいた。けれど流行病で、二人を同じ年に亡くした。何もかも嫌になり、村を出ようとした夜、祖父は雪の中で泣いている男の子を見つけた。

それが、私の父だった。

祖父は、父を引き取り、育てた。


「血はつながっていない。

だが、家族になるには十分すぎる時間があった」


手紙の文字は、そこで少し震えていた。


私は知らなかった。

父も、きっと知らなかったのだろう。


アルバムの最後のページには、幼い私と祖父が写っていた。祖父は私を抱き上げて、少し困ったように笑っていた。私は手に団子を持ち、祖父の服を汚していた。

その下に、祖父の字で短い文章が添えられていた。


「私が失ったもの、拾ったもの、守ったもの。

その全部が、この中にある。

この思い出が、私の財産だ」


私は雪の中で、しばらくアルバムを抱えていた。


涙が出た。

祖父は財産を隠していたのではなかった。

誰にも見せなかった人生を、私にだけ残してくれたのだと思った。


そのとき、背後で声がした。


「見つけたか」


私は振り返った。

桜の木の向こうに、祖父が立っていた。

いつもの古いカーディガンを着て、いつものように少し意地悪そうに笑っていた。


「おじいちゃん?」


私は叫びそうになった。


「だって、死んだはずじゃ……」


「うん。そういうことになっている」


「葬儀は?」


「芝居だ」


「芝居?」


「協力者は多い。村は暇だからな」


私は言葉を失った。

怒ればいいのか、泣けばいいのか、抱きつけばいいのか、まったくわからなかった。


「なんで、そんなことを」


祖父は、桜の木を見上げた。


「死んだあとにしか読まれない手紙というものがある。でも、読んだあとの顔を見られないのは、つまらないだろう」


「つまらないって……」


「それに、親戚どもの顔も見たかった」


「ひどい」


「そうだな」


「本当に、ひどいよ」


「うん」


「でも、生きててよかった」


そう言った瞬間、涙が止まらなくなった。

祖父は、少しだけ困ったように笑った。


「私は本当に、もう長くない」


風が吹いて、桜の枝から雪がぱらぱらと落ちた。


「だから、確かめたかった。お前が箱を開けるのか。庭を掘るのか。何も出なくても、最後まで読んでくれるのか」


「信じられない、人を試すなんて」


「うん」


「でも、読んでよかった」


祖父はうなずいた。


「なら、成功だ」




その一か月後、祖父は本当に亡くなった。


今度は芝居ではなかった。

けれど、葬儀はあげなかった。


「二度も人を集めるのは迷惑だ」と、祖父が生前に言い残していたからだ。


私は、祖父の作業部屋を整理した。

止まった時計。削りかけの歯車。古いレンズ。飲みかけの茶葉。祖父のいない部屋は、祖父の気配だけで満ちていた。


机の一番下の引き出しを開けたとき、小さな封筒が出てきた。

表には、祖父の字でこう書かれていた。


「本物の遺言」


中には、銀行の貸金庫の鍵が入っていた。

私はしばらく、その鍵を見つめた。


それから、町の銀行へ向かった。

貸金庫を開けると、中には大量の金貨と、土地の権利書と、古い株券が入っていた。


そして、祖父の字で書かれた紙が一枚。

私は、それを開いた。


「アルバムで終わりだと思ったか。

一つ見つけても、それが全部だと思うな、と言っただろう。


きれいごとだけで生きていけるほど、世の中は甘くない。

それでも、金だけで生きていけるほど、人間も安くない」

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