完璧な遺言
「私が死んだら、この箱を開けなさい」
祖父はそう言って、小さな木箱を私に渡した。
祖父は、村で一番の変わり者だった。時計職人なのに時間には少しも厳しくなく、金持ちだという噂があるのに古い家に住み、誰よりも孤独そうなのに、いつも楽しそうに笑っていた。
私は、子どものころから祖父が好きだった。
祖父はよく言った。
「人間はな、一つ見つけるとそれが全部だと思うから間違える。
見えているものを全部だと思うな」
意味はよくわからなかった。
祖父が亡くなった、と知らされたのは、それから三年後の冬だった。
葬儀には、親戚が集まった。
普段は祖父の家に寄りつきもしなかった人たちが、黒い服を着て、悲しそうな顔をして、それでも目だけはどこか忙しそうに動かしていた。
「財産のことは何か言っていなかったのかしら」
「貸金庫があるという話を聞いたことがある」
「土地もあるはずだ」
私はその会話が嫌で、祖父の作業部屋に逃げた。
壁には、古い時計がいくつもかかっていた。どれも少しずつ違う時間を指している。祖父らしい、と思った。
机の上に、あの木箱を置く。
鍵はかかっていなかった。
中には、封筒が一通だけ入っていた。
表には、祖父の字でこう書かれていた。
「お前に、すべてを譲る」
私は息をのんだ。
封筒を開けると、中には一枚の紙が入っていた。
そこには、短くこう書かれていた。
「裏庭の桜の下を掘れ」
私はスコップを持って、裏庭へ出た。
雪がうっすら積もっていた。桜の木は葉をすべて落とし、黒い枝を空に伸ばしている。子どものころ、私はよくその木の下で祖父とお茶を飲んだ。祖父は、桜が咲いていない季節ほど、この木はよく働いているのだと言っていた。
私は、根元を掘り始めた。
十分、二十分、三十分。
指先が冷たくなり、息が白くなったころ、スコップの先が硬いものに当たった。
鉄の箱だった。
胸が高鳴った。
箱を引き上げ、泥を払う。錆びた錠前は、少し力を入れるだけで外れた。
中に、札束も金貨もなかった。
入っていたのは、古いアルバムだった。
私はその場にしゃがみこみ、ページをめくった。
若いころの祖父がいた。隣には、知らない女性が写っていた。二人は、見ているこちらが照れるくらい幸せそうに笑っていた。
次のページには、赤ん坊の写真があった。
私は首をかしげた。
祖父に、子どもがいたなんて聞いたことがない。私の父は、祖父の養子だったはずだ。
ページの間から、手紙が一通落ちた。
「ここまで来たなら、もう少しだけ付き合いなさい」
私は読み始めた。
祖父には若いころ、妻と娘がいた。けれど流行病で、二人を同じ年に亡くした。何もかも嫌になり、村を出ようとした夜、祖父は雪の中で泣いている男の子を見つけた。
それが、私の父だった。
祖父は、父を引き取り、育てた。
「血はつながっていない。
だが、家族になるには十分すぎる時間があった」
手紙の文字は、そこで少し震えていた。
私は知らなかった。
父も、きっと知らなかったのだろう。
アルバムの最後のページには、幼い私と祖父が写っていた。祖父は私を抱き上げて、少し困ったように笑っていた。私は手に団子を持ち、祖父の服を汚していた。
その下に、祖父の字で短い文章が添えられていた。
「私が失ったもの、拾ったもの、守ったもの。
その全部が、この中にある。
この思い出が、私の財産だ」
私は雪の中で、しばらくアルバムを抱えていた。
涙が出た。
祖父は財産を隠していたのではなかった。
誰にも見せなかった人生を、私にだけ残してくれたのだと思った。
そのとき、背後で声がした。
「見つけたか」
私は振り返った。
桜の木の向こうに、祖父が立っていた。
いつもの古いカーディガンを着て、いつものように少し意地悪そうに笑っていた。
「おじいちゃん?」
私は叫びそうになった。
「だって、死んだはずじゃ……」
「うん。そういうことになっている」
「葬儀は?」
「芝居だ」
「芝居?」
「協力者は多い。村は暇だからな」
私は言葉を失った。
怒ればいいのか、泣けばいいのか、抱きつけばいいのか、まったくわからなかった。
「なんで、そんなことを」
祖父は、桜の木を見上げた。
「死んだあとにしか読まれない手紙というものがある。でも、読んだあとの顔を見られないのは、つまらないだろう」
「つまらないって……」
「それに、親戚どもの顔も見たかった」
「ひどい」
「そうだな」
「本当に、ひどいよ」
「うん」
「でも、生きててよかった」
そう言った瞬間、涙が止まらなくなった。
祖父は、少しだけ困ったように笑った。
「私は本当に、もう長くない」
風が吹いて、桜の枝から雪がぱらぱらと落ちた。
「だから、確かめたかった。お前が箱を開けるのか。庭を掘るのか。何も出なくても、最後まで読んでくれるのか」
「信じられない、人を試すなんて」
「うん」
「でも、読んでよかった」
祖父はうなずいた。
「なら、成功だ」
その一か月後、祖父は本当に亡くなった。
今度は芝居ではなかった。
けれど、葬儀はあげなかった。
「二度も人を集めるのは迷惑だ」と、祖父が生前に言い残していたからだ。
私は、祖父の作業部屋を整理した。
止まった時計。削りかけの歯車。古いレンズ。飲みかけの茶葉。祖父のいない部屋は、祖父の気配だけで満ちていた。
机の一番下の引き出しを開けたとき、小さな封筒が出てきた。
表には、祖父の字でこう書かれていた。
「本物の遺言」
中には、銀行の貸金庫の鍵が入っていた。
私はしばらく、その鍵を見つめた。
それから、町の銀行へ向かった。
貸金庫を開けると、中には大量の金貨と、土地の権利書と、古い株券が入っていた。
そして、祖父の字で書かれた紙が一枚。
私は、それを開いた。
「アルバムで終わりだと思ったか。
一つ見つけても、それが全部だと思うな、と言っただろう。
きれいごとだけで生きていけるほど、世の中は甘くない。
それでも、金だけで生きていけるほど、人間も安くない」




