間壱−1 突き動かすもの
世界には他の何よりも傑出した才能が数多存在する。そのなかにはモーツァルトやダ・ヴィンチのような天才に比肩するような、怪我や病気を治せたり身体を浮かせたりできる魔法のような力を持った人たちがいたかもしれない。けれど得体の知れない存在はそれを認めたくないマジョリティによって排除される。ヨーロッパで行われた魔女狩りはこんな能力を持つ者を狙ったものだったのかもしれない。
石動硫弥は他人よりものを考えるのが速かった。苦労せずとも思考は働いた。身体を動かすより考えることのほうが好きだと思う。それもまた彼の才能だった。
そして彼の優れた思考力は人々がありえないことだと笑うあらゆる可能性に惹かれた。平たく言えば空想力があった。
幼い頃から奇妙なものに脅かされる。それ自体は鬱陶しく思うものの、彼はそれを嫌ってはいなかった。
⋯⋯ある事件があるまでは。
□□□
穏やかな空気の流れるド田舎の島。それが彼の住む梯子島だ。学校に行くには海を渡って本土の町に行く必要がある。その町は少し都会っぽくて憧れの町で、休日にはよくここで島の人間を見かける。高校で上京したあとになって気づいたことだが、東京と比べれば田舎だった。
白い息がマフラーの間から漏れ出るのを見ながら、赤くなった指先を握る。やはり一月は寒い。手袋を持ってくればよかったと後悔してももう遅かった。仕方がないから隣を歩く男のポケットからカイロを奪う。『寒い!』と騒いでいるが知らない知らない。
「ああー明日から学校とかマジないわー」
「⋯⋯冬休みが続けばいいのにね。残念ながら明日は始業式です」
「先生、俺は悲しい」
「真面目にお勉強しないとね」
「硫ちゃぁーん!」
明日は1月9日。中2の3学期がやってくる。遊びたい盛りの中学生にとって、冬休みなんてゼロに等しい。クリスマスに予定はなかったし、新年を迎えてみんなではっちゃけて、今年もいい年になりますようにとお願いして。そうしたらいつのまにか時間は過ぎ去っていて、カバンの中の冬期課題が存在を主張してくるころにはすでに休暇は残り1日。成人の日という名の休日がなかったら今日はなかった。
石動は宿題をコツコツ終わらせるタイプではない。小学生の頃は工作や自由研究以外の課題はすべて初日に終わらせていたが、元来彼はめんどくさがり屋である。当然残していた課題は最終日に仕上げる羽目になっていた。意外だと思われるかもしれないが、彼は真面目というわけではないのだ。ただ少しばかり責任感もあり、教師への申し訳なさを感じるのも事実。
そういうわけで今日は互いに宿題を終わらせるためにファミリーレストラン・ソルトへ向かっている。朝から図書館の談話室でしていたが、腹が減ってそれどころではなくなったのだ。課題はあと2つだし、近くのソルトで何か食べようという話になった。全国チェーンのソルトは品ぞろえが良いためどの世代にも愛されている。
ソルトの前の大きな交差点は、冬休みも終わるこの頃はごった返すというほどでもないが、まあまあ混んでいる。彼らは横断歩道を渡る列の最後尾についた。
「俺、将来アレになる」
「普通に言って。熟年夫婦じゃないんだから」
「えー⋯⋯俺、警察官になりたい。『凶悪犯罪を取り締まる!』的な?」
「いいじゃない? カッコイイ」
「だろ? そんで硫ちゃんの宿題も取り締まる!」
「は?」
「顔に書いてんすよ。数学の米原の課題冊子終わったつもりだったけど、どこ置いたっけって」
「は? 書いてないし」
「俳句、テキトーに終わらせよ。『米原の 頭がハゲる 初夢で』って。うわ最低。チクッとこ」
「俺が殺されるやつじゃん。ていうか思ってんのそっちじゃん。やめてよ」
「まぁ、俺も終わってないんだけどー」
「なんで俺に偉そうに言えたの」
「あっははっ 細かいことはどうでもいいんだよ! あとはー、」
いつだって幼馴染は前を向いている。来年の中学卒業も近づいてきて、やりたいことの幅が広がったらしい。彼は何にでも全力だからなんだってできそうな気はするけれど。でも、応援したくなるいい魅力を持った男だ。隣にいるのは居心地がよくて、楽しい。石動は居心地の良いこの空気感が好きだった。
「硫弥とめっちゃおもしろいことしたい。遊ぼうぜぇ!」
パッポパッポと信号機が催促して、沈黙が下りる。ニヒッと歯を見せて笑う男を見て、無性に恥ずかしくなる。
「⋯⋯うるさ」
「声ちっちゃー」
ちょっと嬉しくて、顔が赤くなっているのがバレないように彼を後ろに置いていく。人の列を追って、早歩きになる。今振り向いたら、絶対彼は笑っているから。
「待ってー、硫ちゃーん。照れんなよー⋯⋯⋯⋯硫弥! 危ないッ!」
彼の切羽詰まった声。背中を強い力で押された。
鈍い音がして、続いて何かが割れる音がした気がする。水中にいるみたいに周りの音が聞こえづらくなって、左耳の耳たぶを引っ張る。
振り返ってもそこには誰もいなかった。ただ資材をのせたダンプカーと自動車がぶつかってひしゃげていた。フロントガラスとヘッドライトが割れ、バンパーがあらぬ方向に曲がっている。折れたカーブミラーが足元に転がってくる。そして、悲鳴。
つんざくような女性の悲鳴。ぼんやりしていた耳が、それを皮切りに耳がクリアな音を拾い始める。周囲がガヤガヤと騒がしくなっていく。
「子どもが轢かれたぞッ!!!」
近くを歩いていた人たちがスマホのカメラを向けてくる。生の事故を見て興奮している。誰かがこちらを指さして何かを叫ぶ。そのどれもが理解できなかった。頭が追いつかなかった。
「ぇ」
どこにもいなかった。自分に声をかけた男が。自分を押したやつが。
「あっつん?」
ダンプカーと自動車の間から、真っ赤な何かが広がっている。アスファルトの地面にも、細い線がいくつも連なって緩く円を描くようにして飛び散っている。
「あっつん? ねぇ、厚人? ねぇどこ? ねぇって、」
無我夢中で目を動かして、やっと見つけた。彼の着ていたコートの裾が車の隙間からはみ出ていた。
「っあ、と。あつと。あつとっ」
その隙間に両手を押し当てる。かろうじて見える彼の肉体は彼の好きな赤色で覆われていて、ヌメリとした感触に鳥肌を覚えた。
「なん、でっ」
何度も何度も手に力を込める。けれど奇跡も魔法も存在しない。それは空想の世界の産物で、厳しい現実にはなんの影響も与えない。厚人の姿は元には戻らない。笑ってはくれない。喋ってはくれない。
(そんなことあっていいはずない!)
今からソルトで昼飯を食べながら宿題にヒィヒィ言って、今度の週末にでも二人の好きなアクション映画を見に行く。また学校に一緒に行く。
親友が死んでいいはずがない。傷口を押さえる手に力を込める。これ以上漏れ出してこないように塞いでも、赤い液体は際限なくあふれてくるようで石動に恐怖と焦りを駆り立てる。
さっきまで普通に笑って喋っていたのだ。これからだって何も変わらない。変わりやしない。なんとかなる。きっと大丈夫。
それは甘い希望だった。親友は即死だった。
「⋯⋯は?」
石動の隣で彼と同じ姿勢で嗤う黒い影が目に入る。真っ黒な人型の異形だ。大きく裂けた不気味な口だけが顔に鎮座している。いつのまにか現れ、彼は包囲されていた。ケタケタと気味の悪い声を上げて尖った指でダンプカーを指した。
「⋯⋯ッ!」
運転席で嗤う、白く光る目を持った黒い影。他とは明らかに違っていた。殺害という快楽のために厚人は殺されたらしい。
目の前が真っ暗になった。
気がつくと、どんよりした空気の中にいた。ガラスビトが発生したのにどうしてだか助かったらしい。制服を着てビニール傘で空を拝んでいた。どこもかしこも黒い喪服を着た人ばかり。分厚い灰色の雲が雫を落とす。土砂降りだった。
「兄ちゃあん! 兄ちゃあん!」
厚人の妹の泣きじゃくる声が響く。いつもは穏やかに笑っていた顔が真っ赤になって、瞼が腫れあがってボロボロだ。膝から崩れ落ちて、父親が背中をさすっている。
「かわいそうにねぇ。まだ若いのに」
「本当ねぇ。交通事故なんて」
「でもあの子ちょっと変わってたじゃない⋯⋯自分から飛び出したんじゃ?」
「ありえるわね」
「シッ 公錐さんに聞こえるって」
正座して待つ近所のおばさんたちが小さな声でささやきあう。彼女らは普段から井戸端会議に興じる噂好きで、いやらしい顔つきで妄想を呟いた。
石動は顔色の悪い厚人の両親に頭を下げて棺に近づく。遺影は明るく笑っているのに、棺は閉じられていて顔すら見えなかった。
公錐厚人。デカデカと真っ黒な墨汁で書かれた、石動の親友の名前。それが、葬式の主役の名前。
息苦しい。目頭が熱くなって、涙があふれてくる。いまさらになって頭が自覚したらしい。彼の後に仲が良かった友人らが続くのを眺める。狭い島だから全体が親戚のような扱いで、葬式には総出で出席するのが慣例だ。みんな神妙そうに暗い表情をしている。
なんだかここにいたくなくて、石動は誰にも声をかけず部屋を出た。制服を着ているのに学校ではなくて葬式で、彼らはみんな下ばかり向いている。
「⋯⋯か⋯で」
廊下を少し行った先の部屋から誰かの話し声が聞こえた。電話をしているようだった。ところが、立ち聞きしては悪いと思って引き返そうとしたとき、聞き捨てならない言葉が聞こえた。
「今? 例の事故で死んだガキの葬式にいるけど。ダンプと車に挟まれて顔も身体もグッチャグチャ。かわいそーになァ。俺チラッと見えちまってよぉ⋯⋯あ、写真?⋯⋯たくっしゃあねぇなぁ。あとで5万払えよ?」
抉れた肉に絡む赤い液体が目立つ写真をニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべてスクロールする。3枚、4枚、5枚⋯⋯。棺に入れられた後の整えられた身体。事故現場で撮られたであろう写真。
(⋯⋯こいつらは、厚人の死を笑ってる)
そう気づいて、頭がおかしくなりそうだった。
「ねぇおじさん、それ何?」
「ゲ、聞いてた? しくったな」
半笑いの男は頬を掻きながらスマホをしまう。頭の奥の真ん中で、花火みたいに真っ赤に何かがはじけた。腹の底からドス黒いものが駆け上がって、顔が熱くなる。
「ふざっけんなよッ! 厚人は死んでんだよ!?」
力いっぱい腹を蹴り上げて、男が吐くのが見えた。頬を思いきり殴りつける。よろめいて、倒れたところにすかさず馬乗りになって殴った。鼻から血を流して目の周りが徐々に紫色に変わる。前歯が折れて畳の上に転がった。生まれて初めて人に暴力を振るった。
「うわ、やめっやめろ! 殺したんは俺じゃねぇ! 事故のせいだろ! 俺はただ写真を撮っただけで!」
「黙れ!」
「わかった! 謝るから、許せって! な!?」
「黙れ! 死ね! 死ね! 死ねッ!」
死んだ。死んだって。厚人、死んだって。形は保ってないけど身体はまだあるのに。お前の家も服も思い出も、全部あるのに。お前だけがいないんだって。
――――――硫弥とめっちゃおもろいことしたい。遊ぼうぜぇ!
人間は人を忘れるとき、声から忘れるらしい。でも俺は覚えてるよ。厚人の声を、最期の切羽詰まった声を、まだ覚えてる。10年経とうが100年経とうが覚えてる。一緒にバカしでかしたお前も、母の日の料理を失敗してしょげてたお前も。
お前は普通に生きてた、ちょっと天然でかなりバカなやつ。誰かに恨まれることなんか全くないやつ。そんなお前が理不尽にも殺されて、同じ島の人間に笑われている。冒涜されている。
どうして。どうして。なんで。
おかしいことだらけ。俺は、ただ泣いて悲しんでるだけ。中学生なのに、もう幼稚園児でもないのに。
救急車を呼ばずにスマホを向けてきた野次馬も、口々にあーだこーだと厚人を貶す連中も、厚人のえぐれた身体の写真を売りつけるゴミカスも、みんなが悪魔に見えてくる。
おかしいんだよ。ふざけんなよ。お前が死んでいい理由なんてひとつもないのに。
すべてはあの光る目を持った黒い影のせいだ。アイツをなんとしてでもブッ殺してやる。
「お前を殺したやつを、俺は絶対許さない」
石動の目に冷酷さが宿った瞬間だった。
作者は目や鼻や耳なんかのパーツがない不気味な存在が好きなのかもしれない
壱章に続いて間章でも弐章でもでてきます
なんでかな




