間壱−3 拳は壁を突き破る
今回石動はいません。留守番
氷魚塩来にとって朝嘉硝は永遠の宿敵である。通っていた幼稚園が同じで、彼とはそこで出会った。
朝嘉は読書家だ。幼い頃から暇さえあれば運動か読書に興じている印象が強い。その日も彼は読書をしていた。四歳。まだ年少さんである。
「なによんでるの?」
「『他人の気持ちがわかる心理学』って本」
「し、シンリガク?」
「俺はこれを習得しなくちゃならねぇんだよ」
何を言っているのかチンプンカンプンだった。今ならわかるが、当時彼が読んでいたのは新書だった。漢字も多く、ルビなんて全くない。翌日にはまったく違う本を持ってきていたからきっとまだ読めなかったのだろう。ただのカッコつけの激しいやつ。そう思った。それと同時に面白いやつだとも思った。
彼がなぜそんな本を読んで心理学を習得しようとしていたか。それはすぐに分かった。氷魚は馬鹿みたいなことをよく言うが、そのほとんどは周りを笑わせようとして発せられるものだ。彼は石動や朝嘉ほどではないが聡い子どもだった。
定期的に腕や首に痣を作って登園する朝嘉を見て、彼は幼いながらに朝嘉の家の事情を何となく察した。そのとき朝嘉はまだ宮本という苗字だった。きっと両親が自分に暴力を振るってくる心理を知りたかったのだろう。
氷魚は朝嘉に憧れた。かけっこではいつも一番。ひらがなやカタカナの練習も彼が一番。少しだけ習った足し算や引き算も彼がクラスで最も出来が良かった。何でもそつなくこなす姿はクールでかっこよく見えた。
憧れたから、悔しくなった。自分にできないことを彼は上手くやっている。それが悔しくて、ある日氷魚は突然ギャン泣きした。バタバタと暴れ回って顔が真っ赤になり、まぶたが大福みたいに腫れ上がるまで泣き続けた。幼稚園教諭はびっくりしたことだろう。クラスの中でもおとなしい子が突然泣き叫び始めたのだから。
朝嘉は基本的には面倒見がいい人間だ。オカンっぽいともいう。氷魚を泣き止ませようとあれこれ手を尽くした。しかしながら彼は泣き止まなかった。それどころかおかしなところに飛び火して朝嘉に掴みかかった。そこからは取っ組み合いの大喧嘩である。
「オマエはスゴイ!」
「だから何だってんだよ!?」
「わかんない!」
「はぁぁぁあ!?」
近くにあったペンで互いに顔に落書きをし合って顔が汚くなったのを覚えている。夕方互いの保護者が呼び出されたが、朝嘉のところは来なかった。氷魚の母親は彼に平謝りして氷魚に拳骨を落とした。
だがまぁ、彼らは馬は合わないし喧嘩は絶えないしで仲が悪いが、仲がいいとも言う。間違っても親友などとは呼ばれたくないと、互いに口をそろえるところからして仲がいいのだ。小学校も中学校も高校も同じ。小学二年から六年まで朝嘉はアメリカへ行っていたが。喧嘩するほどなんとやら、だ。
この事件をきっかけに彼らはつるむようになった。周囲は首を傾げるが、彼らのなかでは納得のいくものだったのだ。
幼児の氷魚には言語化できなかったものがある。あのとき大泣きしたのはただ単に朝嘉が自分より優秀だったからではない。
子どもというのは上手くできたものを自慢して、褒められたら嬉しくなって笑うものだ。ところが朝嘉はそうではなかった。冷めたような目線で先生を見上げる。彼女は言葉に詰まった。
できることが増えていくのは楽しかったことだろう。けれども彼はちっとも楽しそうではなかった。何かに急かされるように次から次へ貪欲に吸収していった。できてあたりまえ。できなければおしまい。そんなルールがあるみたいに彼は急いでいた。
何でもできるくせに褒められても寂しそうな顔をする。寂しそうな顔をするくせに人と関わりたがらない。
腹が立った。
(オレといっしょにいろよ!)
自分を頼って心のなかに溜め込んでいるものを吐き出してしまえばいい。そんな顔をするな。俺を見ろ。
ずっとそう言いたかった。
氷魚は情の深い人間だ。泣いている人間を放っておけず、苦しんでいる人に戸惑いながらも手を差し出すようなお人好し。そして気に入った相手にはとことん構い倒しに行くお節介焼きである。朝嘉もまた似たようなものではあるが、当時の彼は氷魚ほどではなかった。
朝嘉はあまり人と関わりたがらず友達らしい友達はいなかった。だが初めて自分に殴りかかってきた同い年のクソガキは遠慮なく自分に向かってきた。それが氷魚だったのだ。当然ムカついたし殴り返して泣かせてやった。しかしどこか救われたと感じた。
以降朝嘉はよく笑うようになった。勝負を仕掛けてくる氷魚のことは相変わらずムカつくが嫌いではない。互いが互いをライバルだと認めていった。
「バレーボール。生の試合、見たくねぇ?」
幼馴染のアメリカからの電話に誘われ、氷魚は初めてバレーボールを知った。海外旅行は初めてで緊張していたところ蹴り飛ばされ大喧嘩になったのは言うまでもない。
圧倒的な熱気に焼かれながら見た試合は感動した。ジリジリと音がしそうなくらいどのチームも緊張の糸が張り、ひとつひとつの技を丁寧に繰り出す。お祭り騒ぎでひどく興奮した。
「俺、バレーやりたい」
同時に声を上げた。互いに顔を見て、ニヤリと笑う。すでに戦いの火蓋は切られたのだ。二人は馬が合わないが、時折同じ思考をしていることがある。
二人は親友ではないが、永遠の宿敵である。




