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二話:やべっ…


 草原を撫でる風が、銀糸をさらさらと梳かしていく。

 遠くまで視界を遮るものはなく、空は高く、青は深い。


「うわー……すっごくいい景色!!」


 弾んだ声が、開けた大地に気持ちよく響いた。


「そうですね」


 対して。

 隣から返ってきたのは、案の定というべきか、温度の低い相槌だった。


「いやいやいや、もっとこう……あるでしょ!? ほら見てよあれ! あの白いの!」


 白銀の長い髪を風に遊ばせながら、細い体躯の少女がぐいっと隣の少女の肩を引き寄せる。

 透けるような肌、森の蔦を思わせる装飾。人間離れした美貌の主は、遠方を指差した。


 地平線の先。

 白く輝く巨大な壁が、まるで世界を区切る境界線のように横たわっている。


 均一な石材。崩れ一つない稜線。

 つい最近補修されたばかりなのが素人目にも分かるほど整っていた。


「十年前はあんな綺麗じゃなかったよ? もっと低くて、ところどころ崩れててさー」


 そう言って目を細める彼女の横顔を、そよ風が撫でる。

 揺れる銀髪の隙間から覗く表情は、懐かしさと、少しの驚きが混じっていた。


 足元はやわらかな草地。

 森を抜けた先で見つけた街道には車輪の跡が幾重にも刻まれ、今も頻繁に使われていることが見て取れる。十年前の記憶を頼りに辿ってきた道は、間違っていなかったらしい。


 ふと視線の角度を変えてみると、城壁の一部だけでなく、その根元に備えられた巨大な門構えまで見えてくる。


 そして、その門前の様子まで、はっきりと視界に入り込んできた。


「いや~……にしても。十年前って、こんなに人通ってたっけ?」


 人、人、人。

 旅人、商人、冒険者風の者、荷馬車。門前には検査待ちの列が街道にまで伸び、長蛇どころか川のような流れを作っている。

 人の気配がここまで濃い光景を、彼女は記憶の中に持っていなかった。


「……ま、見てるだけじゃ進まないか。さてと、行こ行こ!」


 軽く息を弾ませ、気持ちを切り替えるように言う。


 彼女は隣の少女の手を掴み、そのまま駆け出した。

 引かれる少女は、すでにメイド服ではなく、町娘風の服に身を包んでいる。揺れるスカートの裾が草をかすめ、控えめな装飾が陽光を反射した。


 草原を踏みしめるたび、柔らかな草が左右に揺れ、風が後ろへ流れていく。

 城壁は走るごとに少しずつ大きくなり、門前のざわめきが次第に音として届き始めた。


「……大きい町ですね。こういう場所は初めて見ます」


 歩幅を乱さぬまま、隣の少女が静かに言う。


「でしょー!」


 やがて速度を落とし、人の流れの最後尾へ滑り込む。

 門はまだ遠い。並んだ瞬間、外の空気とは違う“人の多い匂い”が周囲を満たした。


 城壁の内側に広がっているであろう世界を想像し、彼女の足先がわずかに浮き沈みする。期待が体に余り、じっとしていられない様子だった。


 ――どれほど経っただろうか。


 最初は余裕のあった表情も、時が経つにつれ徐々に変化を見せていた。

 楽しげに揺れていた視線は落ち着きを失い、口元はわずかに尖り始めた。


 そして、太陽の位置がわずかに傾いた頃。


「長すぎない!?」


 地面の草が、ぼんっと小さく弾けた。

 踏みしめたつま先から逃げ場を失った空気が弾き飛ばされ、砂と草片がふわりと舞う。

 本人はただ体重を乗せただけのつもりだが、周囲の何人かが驚いて足元を見る程度には“勢い”が出ていた。


 思わずこぼれた不満は、半ば独り言のように空へ向かって飛んでいった。


「検査があるのでしょう。積荷の確認に時間を要しているようです」


 隣から届く声は、状況説明をする機械のように淡々としている。


「む〜……」


 その反応に、彼女は不満ありげに頬をぷくっと膨らませた。

 その仕草は、無防備で破壊的に愛らしい。だが当人は当然のように無自覚だ。

 

 退屈が長引き、感覚が外へと開いていく。

 風の向き、足音の重さ、鎧の擦れる金属音、布の擦れる音、荷車の軋み、そして人々の会話が層になって耳へ流れ込む。


 雑踏のざわめきは本来ただの音の塊のはずだった。

 だが――


――そういや最近あの宗教国家で勇者召喚があったんだってよ?


 その一言だけが、糸で引かれたみたいに彼女の意識へまっすぐ滑り込んできた。


――勇者召喚?


 言葉が空気に溶ける前に、彼女の瞳の色は変わった。


 足先の向きが変わる。

 重心が、わずかに前へ流れる。


 次の瞬間。


 風が遅れた。


 彼女の姿があった場所だけ、空気が不自然に揺らぎ――そこにはもう、誰もいない。


 人の肩と肩の隙間を縫ったのか。

 足場を蹴ったのか。

 それともただ、最短距離で“そこに在る場所”へ移動しただけなのか。


 理解が追いつくより先に、前方に並んでいた男二人のすぐ背後に、彼女は立っていた。


「すみません、その話ちょっと詳しく」


 背後から落ちた声に、男たちの会話がぶつりと途切れる。

 ゆっくり、ぎこちなく振り向いた。


 光が、彼女の銀髪に反射する。

 人の形をしているのに、人の範疇に収まりきらない存在感が、静かに圧をかけていた。


「え、あ……えっと、その……」


 言葉がうまく形にならないまま、視線だけが泳ぐ。

 だが、話しかけられたという事実からは逃げられず、「伝え聞いた話だから、詳しくはないんだが……」と前置きしつつ、男たちはぽつぽつと語り始めた。


 最近、とある宗教国家の学者たちが、地下の聖域から古い神聖文献を発掘したこと。

 そこには“世界が危機に陥った際の対処法”として、巨大な魔法陣の構築方法と発動手順が記されていたこと。

 半信半疑で実行した結果、本当に召喚が起きたこと。

 一度に四十人弱、しかも十五歳前後の若者ばかりだったこと。

 全員が常識外れの能力を持っていたこと。

 文献の記述に倣い、“勇者”と呼ぶことになったこと。


「……って感じらしい。俺も聞いた話だけどな」


 「詳しくない」と言いながら、やけに具体的だった。


「ありがとう!」


 にこっと笑い、ひらひらと軽く手を振りながら、彼女はくるりと踵を返す。


 残された男たちは、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

 胸の奥がふわりと軽くなるような感覚だけが残り、理由も分からぬまま互いの顔を見合う。


 だが――彼女の視界に、もう彼らは入っていない。


 そのまま弾むような足取りで、元の定位置に戻ってきた。


「ねぇ聴いてた!? 勇者が四十人だって! しかも若いのばっかりで、全員バケモン級らしいよ!」

「多いですね」

「でしょ!? 四十だよ四十! 一国の戦力ってレベルじゃないでしょそれ! 絶対どっかでトラブル起きるって、面白そうじゃない?」

「相変わらず、興味の向きが独特ですね」

「だってさぁ、世界が動いてる感じするじゃん!」


 温度差のある会話が、周囲のざわめきに紛れながら続く。


 久しぶりに盛り上がりを見せた会話の間にも列は進み、気付けばようやく門の目前。すぐ横では荷馬車の中身が一つ一つ確認されているのが見えた。やはり、それらが渋滞の原因だったらしい。


「……あの、ところで。私たちはどうやって入るんですか?」


 その問いに、彼女の体がぴたりと止まる。

 一瞬だけ視線が宙を泳ぎ、次の瞬間には「あっ」とでも言いたげな顔になった。


「あー、そうだった!」


 思い出したように懐をまさぐりながら、足取りは軽いまま続ける。


「普通は銀貨三枚なんだけど〜……私はこれ!」


 そうして取り出したのは、黒曜石のような艶を持つ長方形の板。

 手のひらサイズで、地球で言うスマートフォンに似た形状だが、金属とも石ともつかない不思議な質感がある。


「これね、十年前に冒険者ギルド登録したときにもらった会員証! 身分証があれば楽勝なんだよねー。はい、確認お願いしまーす!」


 手渡されたそれを、門番が受け取る。

 近くで見ると鎧がやたら分厚い。肩の紋章も傷だらけで、地面に突き立てた槍がやけに重そうに見えた。


「ははっ、元気な嬢ちゃんだな」


 朗らかな笑みを浮かべて、門番は証の表面を、慣れた手つきでなぞる。

 黒い板の奥で、微細な光が一瞬だけ走った。刻印確認の魔術反応だ。


「ほう、懐かしい型だな」


 軽口のように呟きながら裏面へ返す。

 その瞬間、彼の視線は止まった。


 刻印の下部に浮かび上がる、更新記録欄。

 そこにある日付は――十年前。


 門番の目が、ゆっくり細められる。


「……期限切れだな、これ」


「へ?」


 門の上を抜けた風が、旗を大きくはためかせる。

 列のざわめきがわずかに引き、空気が一瞬だけ薄くなる。


 時間が気まずさに足を取られたかのように、場が静まり返った。

「過ちを犯さない人間は、何も新しいことに挑戦していない人間だ。」

〜 アインシュタイン 〜

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