一話:飽きた!!
空。それは本来遠い存在。
しかしそれは今、近く思える距離にある。
ここは大地ではない。
風は吹き抜けるが、森の匂いとも違う。足裏へと伝わる感触は、土の湿り気とは異なり、生きた樹の表皮が持つしなやかな硬さがあった。
ここは――“樹の上”だ。
世界樹。
そう呼ぶしかないほど巨大な、一本の樹からなるダンジョン。
幹は山脈のように太く、枝は都市より広がり、根は大陸の裏側にまで食い込んでいると言われても不思議ではない。
現代のどんな人工物も、この樹の前では模型のようなものだ。
その天辺近く。
枝と枝が絡まり合って生まれた天然の足場に、まるで貴族の別荘のような空間があった。
蔦が優雅に手すり代わりに垂れ下がり、葉の隙間から降り注ぐ陽光が床を金色に染める。
そこに置かれているのは、重厚で艶やかな木製のテーブルと椅子。磨き抜かれた表面は、この異質な空間に不思議な生活感を与えていた。
その椅子に、ひとりの少女が腰かけている。
白銀の髪に、わずかに混じる白。光を受けて透けるような肌。
身体には細い蔦が装飾のように巻きつき、彼女がこの森と一体の存在であることを示している。
ドライアド。
この世界樹の主。
このダンジョンの創造主。
見た目は十七歳ほど。長身で、すらりとした体躯。どこか冷たく、そして美しい。
彼女はティーカップを指先でつまむように持ち、静かに紅茶を口に含んだ。
香りを確かめるように、目を細める。
そして、飲み込んだ直後。
静寂が一拍、世界を包み込んだあと――
「飽きた」
あまりにも唐突なその一言は、風に溶けず、はっきりと空間に響いた。
その声は、すぐ隣に立っていたもう一人にも届く。
メイド服を纏った、小柄な少女。
身長は百五十センチほど。整いすぎた顔立ち。人形のように可愛らしいのに、どこか感情の起伏が薄い。
彼女は一瞬だけ瞬きをし、わずかに首を傾ける。その動作すら機械的に正確で、
「……は?」
と、短く返した。
ドライアドの少女は、カップをソーサーに戻すと、椅子に深くもたれかかる。
長い脚を組み、視線を天へ流しながら、指先で無意識に蔦をくるりともてあそぶ。退屈を持て余した仕草だった。
「飽きたんだよ、これ」
片手で周囲を示す。
空中庭園のようなこの場所も、その下に広がる無数の階層も、すべて。
その横顔はどこか拗ねた子供のようで、けれど十年という時間の重みだけは確かに滲んでいた。
「ダンジョン作り。最初は最高に楽しかったよ? 罠考えて……地形いじって! 魔物配置して!! うっかり罠に引っかかって助けてもらって……気づいたら十年経ってたくらいには、夢中だったなぁ」
語るうちに身振りが大きくなる。椅子の上で足を揺らし、手振りで罠の構造を再現するように空を切る。その瞳は当時を思い出しているのか、ほんの少しだけ輝いていた。
メイドは静かに聞いている。
「でもさ!」
少女はゆっくりと視線を上げた。
枝葉の隙間からのぞく空は、手が届きそうなほど近いのに、どこまでも遠い。
風が銀髪を揺らし、光が頬をなぞる。その横顔には、楽しさの余韻と、長い孤独が混ざっていた。
「誰も来ねぇんだよ」
言葉が落ちる。
葉擦れの音だけが、代わりに空間を満たした。
沈黙が、少し長く続く。
「……はぁ」
メイドの返事は、実に事務的だった。
その反応に、ドライアドは一瞬むっとした顔をし――次の瞬間、ぱっと目を見開いた。
「あ、そうだ!!」
勢いよく立ち上がり、メイドの両肩をがしっと掴む。
「外出ようぜ!」
その瞳は、子供が新しい遊びを見つけた瞬間のように、きらきらと無邪気に輝いていた。
「……外、ですか」
「そう、森の外! 気分転換にさ、久しぶり……十年ぶりに人里に行きたいんだよ! ……そうだ! ついでにダンジョンの領域も広げちゃおう! この森ぜんぶ飲み込んじゃえば、誰かしら迷い込む確率上がるしー……」
「気分転換、ですか」
「そうそう! あとさ、今の人間がどんな生活してんのか普通に気になるんだぁ」
にやり、と悪戯っぽく笑う。
その表情は、同性であっても一瞬心を奪われるほど無防備で、破壊的に愛らしいものだった。
対してメイドの顔は変わらない。美しい無表情が、まるで感情という概念を持たない人形のようにそこにある。
「よーし、んじゃ何もって行くべきかなぁ……確か身分証代わりにギルド会員証が使えたはずだし……あったあった」
そして振り返りもせず、軽やかな足取りで歩き出しながら、弾んだ声を投げる。
「んじゃ、人里目指してレッツゴー!!」
ドライアドは枝の上を軽やかに駆け出した。
その後ろを、音もなくメイドが追う。
世界樹の主は、ついに“外”へと興味を向けた。
「退屈はあらゆる悪の根源である」
~ キルケゴール ~




