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硯女のこと 2

 春休みに入る前、新しく同室の子が来る、と寮母さんに言われた。

 巌橋咲良。知ってる。術師の選択授業で一緒になる子だ。祖父が国会議員。両親が会社を経営していて、本人も術師として仕事をしていると聞いた。いつも友達に囲まれていて、お兄さんも高等部で寮長をやっていたはずだ。私とは全然違う、キラキラした世界に住んでいる子。そんな子に、私はまた迷惑を掛けてしまうのかと思うと吐きそうだった。息苦しさに耐えきれなくなって、硯に向かう時間が増えていった。


 その日は朝に巌橋さんの荷物が部屋の前に届いた。少し迷って、部屋の中まで運ぶ。せめてそれくらいは役に立ちたかった。それから春休みの高等部事前課題を広げて、難易度と量に絶望しながら少しずつ進めていった。

 午後になってドアのロックが外れる音がした。人の気配に思わず体が固くなる。声を掛けられて衝立のところまで出ると、巌橋さんが立っていた。

 私の重たい髪とは違って、ふわふわ柔らかな髪。目尻の上がった、気の強そうな目。すっと背筋を伸ばして、春休みでもきちんと制服を着込んでいる。キラキラ明るくて強い気配に押されて、何も言えなくなってしまう。最初は笑顔で話していた巌橋さんも、ずっと黙っている私に少し困ったような顔になっていった。

 何とか「よろしくお願いします」とだけ伝えて、逃げるように机に戻る。じっと息を殺していると、カーテンの向こうから荷物を片付けている音が聞こえてきた。久々の、同室者。巌橋さんも、何故私が一人部屋だったのかを聞いているだろう。嫌だなとか、気持ち悪いとか思われているんだろうと考えると、胸の奥底で何か重たいものがぐるぐる渦巻き出した。耐えられなくなって文箱を開ける。冷たい床に直接座り、いつものように墨を磨ると、私の周りの雑音が消えた。自分の中からじりじり滲み出すものが墨汁に変わっていく。ただそれだけに集中し、私はひたすら手を動かし続けた。


 何時かは分からないが疲れ果てたところでベッドによじ登り眠りに落ちる。目が覚めると、もう十一時くらいだった。朝ごはんの時間はとっくに終わっていたが、三年生になった頃から食欲はほとんど無くなっていたしどうでもいい。一応お腹が空いた時用に大袋のお菓子を買ってあるが、あまり減らないまま何ヶ月も机の引き出しに入れっぱなしになっている。

 ベッドから降りて、昨日というか今朝まで磨っていた硯と墨を片付ける。気で練る墨汁は、その媒体となる硯には残らないので洗う必要もない。できた墨汁を溜めた器を持ち上げると、ずしりと重かった。隣からは何の音もしない。巌橋さんは部屋にいないようだ。そりゃそうか。春休みにずっと部屋に閉じこもっているなんて、私以外にはいないだろう。

 器を抱えて部屋を出たら、巌橋さんがちょうど戻ってくる所だった。邪魔をしないように端に寄ってすれ違おうとしたら、巌橋さんのお腹が鳴った。聞き間違いかと思ったけど、耳を真っ赤にしていたしそうでもないらしい。寮に来たばっかりで、日課に慣れていないから朝ごはんを食べられなかったんだろうか。

 どうせ私は食べないから、と思って買い置きのお菓子を一個渡すと、巌橋さんは大袈裟なくらい感謝してすぐに食べてくれた。にこにこ笑うと目尻が下がってふんにゃりして、びっくりするくらい可愛い。こんな顔もできるんだ、と見惚れていると、巌橋さんの目線がふと下がり、私の抱える器で止まった。

「それってさ、墨?」

 そう聞かれて、全身がぎゅっとこわばった。責められている気がして、受け答えもそこそこにその場を離れて洗面所に駆け込む。私にとって、溜め込んだ墨汁は誰にも見られたくないものに変わっていた。水を流して、そこに器を傾けると透明だった流れはすぐに真っ黒になった。私の中には、汚くて醜い、真っ黒なものしか入ってないんだ。こうして墨汁を捨てる度、そんな現実を突き付けられてる気がして目の前も墨を流したように真っ暗になっていく。

「え!?」

 突然響いた声に振り向くと、そこに巌橋さんがいた。びっくりして固まっている私にぐんぐん近付いてきた彼女は、私の持つ器にいきなり手を出してきた。

 何が何だか分からずに飛び退いた私に、巌橋さんが色々質問してきた。よく分からないまま答えていたら、巌橋さんの顔が何故だか嬉しそうに輝き出した。と思ったら、ぐんぐん私に迫ってきた。洗面所の奥まで追い詰められて逃げ場のない私を、綺麗な瞳が容赦なく襲う。

「すごいね、水守さん」

 何の悪意もない言葉。彼女の手を汚した墨を、綺麗だ、と言った。こんな綺麗な墨、見たことない、って。

 醜くて、汚くて、迷惑しかかけられない。

 そんなふうに諦めていた私の中に、巌橋さんはまっすぐ殴り込んできた。ぐらぐらに揺らいでどんな感情でいたらいいのかも分からない私は、訳も分からず巌橋さんに引きずられて食堂に連れていかれたのだった。

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