硯女のこと 1
雪の残る中、杏の花が咲く頃に生まれたから杏花。それが私、水守杏花の名前の由来。秋田市から車で一時間くらい。内陸に引っ込んだ、田んぼしかない町の、小さな神社が私の実家だ。神社といっても田んぼも持っていて、どちらかというと米農家と言った方が正しいと思う。
私の術師としての能力が現れたのは小学校のとき。学校で習字があって、家に帰ったら何故かよく分からないけど蔵に行きたくなった。鍵をわざわざ開けて薄暗い中に入り、積み上がったがらくたの中から長持を引き摺り出す。その中に丁寧に仕舞われていた文箱を取り出したところで祖母に見つかり、私は母屋に連れ戻された。
これは呼ばれたのかもしれんねえ、と祖母が呟き、文箱の中に入っていた硯と墨を手に、墨を磨るように言われた。硯に向かい手を動かすと、水も無いのにじわじわ墨汁が溜まり出す。その後どうしたのか覚えていないけど、家族は喜んでいたように思う。
それから祖母に筆の扱い方を教えてもらいながら、氏子さんに配るお札を書くようになった。毎年一回、小正月に古いものと交換で新しいものを渡す。氏子さんと言っても近所のおじちゃんおばちゃん達で、杏花ちゃんはえらいねえと褒められるのが嬉しくて、一生懸命墨を磨り、お札を書いていたのを覚えている。
小学校五年生のとき、東京の学校に行ってはどうか、と誰かが言い出した。両親だったか氏子さんだったか。とにかく、せっかくの才能なんだからもっと伸ばしてはどうか、みたいな話だった。東京には術師を集めて育てる学校があり、全国から同じような能力を持った子達が集まっているらしい。そう聞いて、私もうっかり期待してしまったのだ。私のこの能力で、特別になれるんだって。
入学試験は難しかったが、術師枠だかで何とか群星学園中等部に入学できた。不安と期待でいっぱいだった私の胸は、入学早々あっさり押し潰されることになる。
まず授業にまったく付いていけない。群星学園は東京の、全国屈指の進学校。受験があるからと塾に通ってはいたが、秋田の田舎でちょっと勉強ができた、くらいではどうにもならなかった。同じクラスの子達はみんな垢抜けていて、キラキラして見えた。田舎者の自分が笑われているようで、席に座ってじっと俯いている時間が増えていった。
術師の素養がある子達だけを集めた選択授業でも、結局私は特別ではないと思い知らされるだけだった。大きな寺社の子。国会議員の家の子。両親が社長だという子。中には、もう大人と同じように請われて術を扱っている子もいた。氏子さんに喜ばれたくらいで有頂天になっている、田舎のちっぽけな神社出身の私が、惨めで恥ずかしい存在に思えた。結局、ここでも俯いて過ごすことしかできなかった。
それでもなんとか、どうにか頑張ろうとしていた中等部二年の冬。両親が学園に呼び出された。三者面談で告げられたのは、奨学金の打ち切り。元々術師枠の奨学金で寮生活をできていたが、成績が基準に満たないため来年度から全て自費になる、という宣告だった。中等部は義務教育の扱いなので留年は無いが、このままの成績で高等部に進学すると進級は厳しい、とも言われた。
「お金の心配はしなくていいから。杏花のやりたいようにやっていいよ」
そう優しく言ってくれた両親と別れて寮の部屋に戻ったら、涙が止まらなくなった。何もできない。迷惑しか掛けてない。後から後から涙が溢れる。ちっぽけで役立たずな自分が悔しくて、消えたくて、ただ立ち竦む。
その時何故か、またあの文箱が目に入った。上京するときに、家族が持たせてくれたもの。本当は神社の宝だけど、相応しく扱える人の所にあった方が良いだろうからと一緒に送り出された硯と墨。
文箱を取り出し、のろのろ床に座る。正座して墨を動かすと、体からゆっくり気が引き出され、硯との境界でじわじわ墨汁に変わっていくのが分かった。しゃ、しゃ、と墨を磨る動きに全てを預けていると、不思議と心が落ち着いた。ただただ同じ動きを繰り返して、溜まった墨を墨池と呼ぶにはかなり大きな器に集めていく。自分の中の全部を取り出して注ぎ込むような時間が過ぎ去ると、頭も体もどっぷり泥に埋もれたように疲れ果てていた。ベッドに上がり横になると、何も考えずに眠れた。
それから、私は苦しくなると墨を磨るようになった。周りに置いてけぼりになる惨めさも将来への不安も、墨を磨っている間は忘れられた。三年生の途中で同室だった子が別の部屋に移り、それがどうやら自分がずっと墨を磨っていて気持ち悪い、という話だったと噂で聞いたが、もう止められなかった。使い道の無い墨汁は、誰もいない時を見計らって流しに捨てた。黒々としたそれは、役立たずで迷惑しかかけない私みたいにどろどろ汚かった。
二月の高等部への内部進学試験。先生から、一般受験であれば足切り点以下だったと告げられた。このまま群星学園に残るか、秋田に戻って地元の高校に進学するか、両親とよく話し合うように、と。
両親は相変わらず優しかった。私は、群星学園に残りたい、と伝えた。
今家族の元に戻って優しくされたら、死んでしまいそうだったから。




