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 やらかした。

 午前十一時。女子寮三階の洗面所にドライヤーの音が響く。鏡の前でブラシをガシガシ動かしているのは咲良だ。彼女が目を覚ましたのはほんの十五分ほど前。まだ眠い頭で時間を確かめて、またうとうと寝そうになったところで気が付いた。

 朝ごはん、食べ損ねた。

 生活棟の食堂で朝食が提供されるのは朝七時から八時十五分まで。学園の始業時間に合わせて設定された日課は休みの日でも変わらない。昼食の提供は十二時から。まだ一時間ある。時間を意識すると、お腹がきゅるきゅる鳴いた。昨日来たばかりでお菓子も用意していない。頭の買い物リストに『たべもの』と大きく書いておく。

 一応見られる姿になったのを確認してドライヤーのスイッチを切ると、女子寮にはまた静寂が戻ってきた。咲良の猫毛はくるくるもこもこ言うことを聞かないので、毎朝格闘になる。今のこの時間を朝と呼んで良いのかは少々疑問だが。

 部屋に戻ろうとしたところで、三〇六号室から出てくる人影と出くわした。水守さんだ。相変わらず学校指定のジャージ姿で、するんとした黒髪がさらさら揺れている。何か筒のようなものを抱えた彼女は、咲良に気付くと一瞬動きを止め、軽く会釈をして小走りで横をすり抜けようとした。

 ぎゅるるるるる。

 その瞬間、咲良の腹が盛大に鳴った。人気の無い廊下にこれでもかと轟いた音がこだまする。ように、咲良には聞こえた。咲良の真横で、水守さんの足が止まる。そこはスルーするのが優しさじゃない?耳に血が集まり赤くなるのを感じながら咲良が足を早めドアを開けると、水守さんも何故か引き返してきた。

「あの」

 一言だけ発した水守さんが、部屋の右側のスペースに消える。すぐに戻ってきた彼女の手には、何かが載っていた。

「良ければ、これ」

 おずおず差し出されたそれは、個包装のミニ最中だった。長い前髪に遮られて表情は見えないが、どうやら腹を空かせた咲良のためにわざわざ取りに戻ってきてくれたらしい。咲良が最中を受け取ると、水守さんは気まずそうにさらに俯いた。

 え、めっちゃ良い子じゃん…………!

 人は、空腹の時には単純になるものである。食の恨みは一生。そして、一飯の恩も一生。『硯女』とか思っていた後ろめたさも相まって、咲良の中で同室の隣人に対する評価が爆上がりした。そして、そもそも眠れなくて朝食を食べ損ねた原因になったのは何か、もどこかに吹き飛んでいた。

「え、ありがとう。嬉しい」

「いえ、別に、そんな」

「食べていい?いいよね?」

「あ、はい」

 水守さんが返事を終える前に咲良は最中を口に放り込んでいた。パサつく皮を噛み砕くと、粒あんの甘みが広がる。最中は粒あんだよね、うんうん。脳が糖分を歓迎している。心なしか視界が明るくなったような気がして、咲良の頬が緩んだ。水守さんはしばらく困ったように立ちすくんでいたが、また会釈をして部屋を出ていこうとした。

「あ、水守さん」

「はい」

「それってさ、墨?」

 水守さんが抱える陶磁器の筒のようなものを見ながら聞くと、彼女は警戒するようにそれを抱え直し、身を固くした。

「……はい」

「どうするの?それ」

「どう、って、べつに」

 ペットボトルより小さいくらいの容器で、優雅な流水の絵付けがしてある。たぶんかなり古い。祭祀に使うために特別にあつらえたものではないだろうか。

「昨日、ずっと磨ってたもんね。すごい集中力」

「あの、もういいですか」

 咲良を遮るように言葉を被せると、水守さんは身をよじるようにして部屋を出ていった。ちょっと踏み込みすぎたか、と気まずくなりながら見るともなしに見ていると、水守さんの背中は咲良がさっきまでいた洗面所に消えていった。

「……ん?」

 少し迷った末に、咲良も廊下を引き返す。洗面所を覗き込むと、水守さんはちょうど筒から墨を流しに捨てているところだった。

「え!?」

「は」

 思わず声を上げた咲良に気付いて、水守さんが固まる。流れ落ち続ける墨を見て、咲良の手が思わず伸びた。

「ちょ、ちょっと」

「な、なん、です、か」

 無理に筒を起こしたせいで、咲良の手が墨で汚れる。奪い取られるとでも思ったのか、水守さんはそれをぎゅっと抱き締めてじりじり距離を取り始めた。

「え、捨てるの?なんで?」

「なん、でも、いいじゃないですか。私が、つく、作ったものだし」

 水守さんが少し震えながら洗面所の奥まで下がった。長い前髪に隠れて表情が読めないが、全身から怒りとも不信とも取れるオーラを発している。

「だって、これ」

 咲良が汚れた自分の手を見た。吸い込まれるような黒。墨の付いた部分がほんのり温かい。ちりちりと肌を刺すように感じるのは、強く気を練り込んでいるからだ。

「水、使ってないよね?ほとんど気だけで磨ってる?」

「……はい」

「……それを、この量?」

「はい……」

 怒られたり否定されたりしている訳ではなさそう、と思ったのか、水守さんの態度が少し和らいだ。まだ警戒が解けない様子ではあるものの、俯いていた顔が少しだけ上向く。

「え、すご。すごいね、水守さん」

「え、と」

「すごいよ。こんな高品質な墨、初めて見た。私も自分で使う用に磨るけどさ、こんな綺麗な墨できないよ」

「あ、え」

 咲良の目が興奮でキラキラ輝き出した。術師として護符の類を作成している彼女にとって、墨と紙は一般的な高校生よりも遥かに大きな意味と価値を持つ。商売として、両親が築いた信頼関係を壊さない品質のものを作ろうとすれば、神社で見るような一枚のお札を書くにしても莫大な気を込めなければならない。複雑な符になれば、必要な量の墨を磨るだけで精神も体力もごりっと削られる。そんな代物を、目の前の少女は捨てるほど磨り上げているのだ。

「もったいないよ、捨てちゃうなんて。え、なんで?なんで捨てるの?」

「いや、なんで、って、その。つか、使わない、ので」

 ずいずい詰め寄る咲良に押されて、後の無い水守さんが洗面所の壁に伸び上がるように張り付いた。背筋がまっすぐ伸びると、頭が咲良よりわずかに高い位置になる。前髪に隠れていた目元を遠慮なく下から覗き込む咲良の視線に、水守さんの黒々とした瞳が激しく泳いだ。

「使わないならさ、ちょうだい。欲しい、それ」

「え」

「あ、もちろんタダとは言わない。ちゃんとお金払うし」

「いや、あの、え……」

 しどろもどろになる水守さんの頬が、どんどん赤く染まっていく。と、その時、てんてけてんてんてけてけてん、と間抜けなアラーム音が洗面所に響いた。

「あ、ごめん」

 咲良がスマホを取り出しアラームを切る。昼食は逃してはならぬ、とわざわざアラームを登録していたのだ。時刻は十一時五十分。食堂が開くまで、あと十分。

「とりあえずさ、お昼食べに行かない?詳しい話は食べながらしよ」

「はい……」

 呆然とした様子の水守さんのジャージには、容器から飛んだ墨が点々と付いていた。

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