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「はー………………」
午前五時。女子寮一階のロビーに、咲良の長い溜め息が零れ、消えていく。外はまだ暗い。さっきまでいじっていたスマホはテーブルに投げ出されていた。寝不足で重たい頭をソファにだらしなく預け、寮生活初日を振り返っていく。
咲良は自分がそこまで繊細な方ではないと思っていた。環境が変わると眠れなくなるとか体調を崩すとか、そういう人もいるけど自分は大丈夫、と根拠なく信じていた。結果、入寮を決めたことを既に半分後悔している。
あの後、墨を磨る音はずっと続いた。文字通り、ずっと。水守さんはトイレと食事以外、ずーーーーーーーーっと墨を磨っていた。お風呂……も、行っていたのかな?分からない。水守さんが分からない。同室だし少しずつ仲良くなれたらいいな、と思っていたが、そもそも話すタイミングすらない。夕食の時間は決まっているので一緒に、と狙っていたけど、いつの間にかいなくなっていつの間にか帰ってきていた。衝立の隙間からちらっと見える同居人は、こちらに背を向けて床に座り、機械のように正確に墨を磨っている。長い黒髪が肩から背中を覆い、灯りも付けずに同じ動作を繰り返している姿は申し訳ないが怖かった。昔話の山姥が包丁を研いでいる的な、どこか妖怪変化じみているというか。『硯女』というのもそういうニュアンスが入っている通称なんだろう。
一応術師的に解釈するならば、一定の動作を繰り返すことでトランス状態に入り、術の効果を高めるという技法がある。そう考えれば理解できなくはない。いや嘘。理解できない。だって一晩中やってるんだもん。耐えきれなくて午前三時頃からロビーに下りてきて、何をするでもなくずっとソファでだらけている。こうしていてもしゃっ、しゃっと墨を磨る音が聞こえてくる気がしてしまうあたり重症だ。
水守さんは何がしたいのか。
咲良の胸に、もう何百回目か分からない問いが浮かんでくる。課題の術に使うために墨を磨るにしては、さすがに時間をかけすぎているし量も多すぎるはずだ。じゃあ何のために、というのが分からない。咲良のようにビジネスとして展開しているなら大口注文があったとも考えられるが、水守さんがそんなことをしているという話は聞いたことがない。術師の世界は狭いので、何かあれば咲良の耳にも入っているはずだ。じゃあ何のために?大量の道具が必要になる術に心当たりはあるが、さすがに水守さんがそんなことに手を出しているとは思えない。……ないよね?中学三年間、同じ選択科目で一緒だったのに、彼女のことを全く知らない。いつも一人で俯いてじっとしている子。もっと話しておけば良かったな、と今更な後悔が湧いてきた。
ロビーの時計に目をやると、針はもうじき六時を指すところだった。生活棟の食堂が開くのは七時。ぼちぼち起き出して朝の身支度を始める子達が出てくる頃だろう。もう一回深く長い溜め息を吐くと、咲良は体をソファから引き剥がし、階段を上がっていった。
三階の自室に戻ると、右側からは何の音もしなかった。水守さんも寝るんだ、と妙な感想が咲良の頭に浮かぶ。いやそりゃ寝るでしょ。水守さんを何だと思ってるんだ。うっすら『妖怪硯女』とか思い始めている自分に気付いて、頭をぶんぶん横に振る。良くない。本当に良くない、こういうの。左の自分のベッドによじ登り、身を横たえる。自宅と比べるとずいぶん近い天井をぼんやり見上げていると、静かな寝息が聞こえてきた。墨を磨るのと同じように、規則正しく響く音。でも、こっちは不思議とそこまで気にならない。目を閉じて布団を被ると、新しいリネンの匂いがした。シーツの交換日っていつだっけ、と考えているうちに、咲良の意識もどんどん曖昧に溶けていった。




