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群星学園女子寮は学園敷地の中央あたりに位置する、三階建ての横長の建物だ。全校生徒が使える食堂やサロンがある生活棟とは渡り廊下でつながっていて、生活棟を挟んで反対側には最近建て替えられた男子寮がある。色々と細かな寮則があるが、常識的に生活していれば規則違反になるようなことはない。
三月末の桜ほころぶ晴れた日。春休みになり生徒の姿の減った生活棟前を、巌橋咲良は制服姿でボストンバッグを抱えて歩いていた。私物は既に段ボール箱に詰めて送っていたが、最後まで手元にあったあれこれをまとめたら結局それなりの荷物になってしまった。制服を着ているのも、荷物に詰め込むのが面倒という理由だ。兄の幸彦には「真面目だねえ」とニヤニヤしながら揶揄われたが、そんな兄とも無事離れられると思うと少し心が上向く。青空に映える桜を見上げながら生活棟の横を回り、女子寮の玄関に着いた。
女子寮の鍵は生徒証だ。群星学園では生徒証に埋め込まれたICチップでだいたい全ての認証が行われている。便利だが生徒証を忘れたり落としたりしたらアウトだ。玄関脇のパネルに生徒証をかざすと、微かなモーター音がして鍵が外れた。ドアを開けて中に入ると、ひんやりとした玄関がある。入寮手続の時に教えてもらったシューズボックスにローファーを入れて上履きに履き替え、三階の部屋まで階段を上がっていく。女子寮は一階にロビーのほか洗濯室と浴場、二階と三階が居室だ。春休みは自宅で過ごす生徒も多いそうで、寮内は静かだった。結局誰ともすれ違うこともなく、自分の部屋に着く。「三〇六」の札の下には二つの名前。巌橋咲良と、水守杏花。硯女こと水守さんは、部屋にいるのだろうか。ドアノブの下に生徒証をかざすと、かちゃんとロックが外れる音がした。少し緊張しつつ、ドアを開く。
室内はカーテンで左右に区切られていて、左が私の領域だ。入ってすぐの位置にクローゼット、ベッドは二段ベッドの高さで下に机と収納がある。カーテンの両側に衝立が置いてあって、外からの視線を遮るようになっている。右側の住人、水守さんの姿は見えない。
「あのー……」
そっと声を掛けると、衝立の向こうで何かが動く気配がした。ぱたぱた足音がして、衝立とクローゼットの間から顔が半分覗く。
まず目に飛び込んでくるのが、長い黒髪。眉を超えて伸びた前髪の下から、警戒した感じの瞳が咲良を窺っている。学校指定のジャージを着た彼女、水守さんは、何も言わずにただじっと立っていた。
「あ、えーと。聞いてると思うけど、巌橋咲良です。一緒に生活することになる、ので。よろしくね?」
咲良がせいいっぱい愛想よく笑顔を浮かべても、水守さんは黙ったままだった。嫌な汗が咲良の背中を伝う。
「あー、選択授業で一緒だよね。知ってる人で良かったー、なー、なんてー……」
無言の水守さんに対して、咲良の言葉もだんだん尻すぼみになっていった。警戒心を隠そうともしない彼女を前に、どうして良いのか分からなくなる。
「…………あの」
水守さんがようやく口を開いた。すいっと視線が泳ぎ、前で組んだ手にぎゅっと力が入る。
「よろしく、お願いします」
「あ、うん。よろしくー……」
咲良が言い終わる前に、水守さんは衝立の奥に引っ込んでしまった。向こう側で何やらガタガタ音がしている。取り残されてしまった咲良は、気を取り直して左側の自分のスペースに入った。ベッド下の収納の前に、事前に送っておいた段ボール箱が積んである。とりあえずは、自分の荷物の整理をしよう。うん。
咲良の自宅までは地下鉄で十分ほど。教科書類や日常的に使う衣類以外は、何かあれば取りに戻れば良いので大して持ってきていない。机に教科書を並べてタブレットを置き、収納に衣類を納めたら荷解きは終わりだ。制服を着たままなのも何なので、少し悩んだ末にジャージに着替える。生徒としてふさわしい服装、という大雑把な規定はあるが、寮生の格好は基本的に自由だ。ジャージを日常着にするなら購買でもう何着か買っておいた方が良いだろうか、と考えていると、カーテンの向こうから音が聞こえてきた。
しゃっ、しゃっ。
その音は、一定のリズムで静かに、それでいて意識の中に割り込んでくるように続いた。何の音、と思った時に、小春の言葉が蘇る。
『え……。マジで?硯女と?』
しゃっ、しゃっ。
カーテンの向こうから、確かに存在を主張してくる音。人気の無い寮内では余計に気になる。墨を磨ってる、のか?本当にやってたんだ、水守さん。春休みの課題とか?いやそんな課題出てないな?趣味?そんなわけないか。
咲良の脳内で答えの出ない問いがぐるぐる回っている間も、それはちょうど耳に残るくらいの音量でずっと続いていた。




