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春休みの十時過ぎの食堂にはほとんど誰も居ない。朝食の片付けと昼食の仕込みの音が響く中、窓際の席に居座っている二人がいた。数学の参考書と教科書が積まれたテーブルには菓子が転がり、無料ドリンクバー(給湯器)のプラスチックのコップはほとんど空になっている。
「おい杏花さん?目を逸らすな?」
「無理です」
「なんだかんだできるようになってるじゃん。はいあと一ページ」
「もう、もうよくないですか?できるようになったんだったら」
「ここで躓いてたんでしょ?ここを越えれば楽になるよー」
「今楽になりたい……」
「いいから。ほら手ぇ動かす」
感情を失った顔でシャーペンを持ち直した杏花の前で、咲良はミニ羊羹の包みをぺりぺり剥いていく。「分からないところを一つずつ潰していく」と約束した翌日、というかその日の夜には、咲良はもう行動を開始していた。杏花のスペースに乗り込んで過去のノートを見返していく。教科書もノートも綺麗に色分けされていて、努力の跡が読み取れた。と同時に、塗り絵の如くにマーカーペンで塗り潰された教科書では何が大事なのやら全く分からない。几帳面に教科書もプリントもノートも小テストの結果も全部取っておいてあるのに、それを見返していないのも判明した。見返していないというか、今の授業についていけなくて心理的に見返していられる余裕が無いのだ。復習ゼロで、日々の授業と宿題で出されたものを分からないままただこなしている。あまりの効率の悪さに、咲良は思わず天を仰いだ。見上げた天井にまで墨が飛んでいる。何をどうしたらそんな所まで墨が飛ぶのやら、咲良には理解できなかった。
とにかく手始めに数学から、どこから分からなくなったのかを確かめていく。咲良自身も成績が良い方ではないが、両親にビジネスの視点を叩き込まれている。問題点の洗い出しや時間資源の集中といった考え方は、商売として護符を扱う中で覚えた。容赦なく切り込んでくる咲良にたじたじの杏花は言われるままだ。そんな大騒ぎの末、日付が変わる頃には中学二年の内容で躓いていたのがはっきりした。
「よし、寝よう!続きは明日!」
と宣言した咲良が自分のスペースに戻った後には、床にまで広げられたプリントの山とその中に呆然と立ち尽くす杏花が残されていた。
そして今。朝食を食べたら即中学二年生の教科書類をまとめさせられ、何故か引き出しにしまってあったお菓子の袋まで持ち出されて、いつの間にか図書室から持ち込まれた参考書と共に杏花は食堂での「勉強会」に参加させられていた。窓の外にはうららかな日差しに照らされた校舎と、少し先にグラウンドが見える。服装はいつものジャージではなく、これまた着せられた昨日買ってきた服。細いんだから足を出せと迫る咲良とそれは無理と拒否する杏花とのせめぎ合いの末、膝丈より少し長いくらいのスカートと体の線が出るニット。全く落ち着けない格好だったし自分は制服を着込んでいる咲良に釈然としないものがあったが、勉強会が始まるとそれどころではなくなった。まずこれ、次はこれと次々差し出される問題をノートに解いていく。ほんの一時間ほどで、杏花は口から魂が飛び出ているのを感じていた。咲良は素知らぬ顔でタブレットとスマホをいじりながら、杏花の手の動きを観察している。手が止まるとぴしりと声が飛んでくる。杏花の脳裏に鞭を持った家庭教師のイメージが一瞬浮かび、そして定着する余裕も無いまま消えていった。




