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「咲良さん。ちょっと見てあげて」
篠澤さんに呼ばれて咲良が立ち上がると、大きな鏡越しに杏花と目が合った。
そう、目が合ったのだ。目元を覆い隠していた前髪がすっきり切り揃えられ、髪の流れに合わせて分けられている。腰まである長い黒髪はほぼそのまま、毛先を揃える程度だが綺麗に編み込まれていて、受ける印象が全く違った。
「え、ヤバ」
「どうかしら?長さをあんまり変えたくないって希望だったから、軽くセットするくらいだけれど」
「いやもう、……ヤバいですねコレ」
元が色白で小顔だから、髪が軽くなると透明感が凄い。語彙力が破壊された咲良が遠慮なくじろじろ見ていると、杏花は恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
「変、ですよね。なんか」
「いやいやいや。めっちゃ可愛いよ。ヤバいって。杏花、なんてもん隠してんのよ」
咲良の勢いに押されてますます小さくなる杏花を見て、篠澤さんがふんわり笑った。
「お友達は気に入ってくれたみたいね。本当に綺麗な髪だから、私も楽しかった」
「いえ、そんな」
「これ、どうやってるんですか?やってみたい」
されるがままの杏花をいいことに、咲良までヘアアレンジに加わりだす。普段は静かな店内に、芽吹く緑のような若い笑い声が響いた。
日が傾くと、まだ明るくても吹く風は冷たい。咲良と杏花は、美容室を後にしてまた遊歩道を歩いていた。杏花はざんざん遊ばれた挙句、細かく編み込まれたうえにさらにゆるく編まれるという盛り盛りの髪型になっている。
「もっと顔上げなよ、杏花。もったいないって」
「ごめんなさい」
「いや謝ることじゃないけどさ」
人目を避けるように後ろを歩く杏花を見て、咲良も再び反省した。自分のものとは違い素直に言うことを聞き姿を変えていく髪の毛にテンションが上がり、遊び過ぎてしまったのは否定しようもない。
「ごめんね、なんかやりすぎた?」
「あ、いえ。そういうわけじゃ」
「お店、良かったでしょ?次からは自分でも予約できるよ」
「あ、大丈夫です」
「いや何でよ」
即座に首を横に振る杏花に思わず突っ込んでしまう。咲良が散々横槍を入れたとはいえ、見ていた限りでは杏花も気に入っていたように思ったのだが。
「あ、違うんです。お店が悪い、とかじゃなくて。その、私には似合わないっていうか」
「そんなこと無いでしょ」
「だって、その。せっかくかわいくしてもらっても、こんなんじゃ」
杏花の手元が着ているパーカーの裾を引っ張る。確かに都内だけで百店舗はあるんじゃないかという量販店のものではあるが、そんなにおかしいだろうか。すっと背の高い杏花が着ると、カタログモデルみたいで咲良からすれば映えて見える。
「んー、じゃあこの後服見にいく?」
「無理です」
「おい」
こいつ今無理ですって言う前に私の服見たか?
母親の趣味で時代がかったお嬢様ファッションになっている自覚はあるが、それを指して無理と言われたら良い気はしない。思わず目が据わる咲良に、杏花は慌てて両手を振った。
「違、違うんです。私には、そんなかわいいの絶対似合わなくて」
「いーよ。気ぃ遣わなくても」
「咲良、は、似合ってますよ?」
「はいはい。心配しなくてもこんな服は見に行かないから」
この前時代コーデが似合っていると言われるのも何だか微妙だ。「縦ロール似合うよね」って言われているみたいな感じというか。兄に「お前は何着ても似合うな」とニヤニヤしながら言われてきた咲良にとっては、杏花の言葉は素直に受け止められるものではなかった。
「とりあえずさ、もうちょい行けばわりとお店あるから。時間あるならちょっと見て行こ」
「時間、あんまり無い、かも、です」
消え入りそうな声でそう言うと、杏花はまた俯いてしまった。そんな姿を見て、咲良は首を傾げる。今まで一緒に生活していて、彼女に予定らしい予定があった印象は無い。いつも寮にいて、たいてい自分の机に向かっている。初日以来墨を磨っている様子も無かった。
「ん?何か予定があったりした?」
「あの、予定っていうか。勉強が、全然」
下を向く杏花の耳が真っ赤だ。そういえば授業についていけない、みたいな話を聞いたっけ。ひょっとして、ずっと机に向かっていたのは勉強していたのか。真面目か。咲良は思わず紺色を濃くしていく空を仰いだ。
「……あのさ、杏花」
「……」
「そんなずっと勉強してなくても良くない?」
「でも、私。本当に、できなくて。分かんなくて。分かんないんです」
振り絞るようにそう答える杏花は今にも泣きそうだ。何故この子はこんなにも自分を追い込むのか。墨を磨るにしても、勉強するにしても。咲良には理解できなかった。
「えっと、今何やってるの?宿題?」
「はい、春休みの課題、です」
「分かんないならさ、無理にやる必要なくない?スマホで問題読んでさ、『解答教えて』ってやれば秒で終わるでしょ」
「へ」
杏花がぽかんとした顔で咲良を見る。とりあえず顔は上がった。よしよし、と思いながら、咲良が続ける。
「分かんないことに時間使っても仕方ないじゃん。あの課題、高等部の内容だよ?今できなくても授業でやるじゃん」
「いや、でも。私、本当に」
「私も勉強できる方じゃないからさ。捨てるとこは捨ててる。全部やろうとしてたら時間いくらあっても足りないって」
「でも……」
杏花はまだ納得できていない様子だ。おどおどしていて自分に全く自信が無いのに、頑固で一生懸命。本当に不器用だな、と咲良は思った。
「どっちかっていうとさ、中学の内容を復習した方が良くない?苦手なのは何?」
「全部です」
「いや……うん。じゃあ、これは無理、ってのはどれ?現代文は?」
「……まあ、無理、では、ないです」
「古文」
「まあ、何とか」
「英語」
「無理です」
「数が」
「無理です」
「早っ」
そんな話をしているうちに、輪郭は見えてきた。数学がとにかく苦手。そのせいで計算問題がある理科も苦手。英語は単語は何とか覚えられるが、文法が分からない。国語と社会科はそこまでできなくもない。
「よし。じゃあ、分かんないとこ一つずつ潰していこう。私も手伝うからさ」
「いや、そんな」
「いいって。その代わり、今日はこのまま買い物。ほら、行くよ」
「でも」
「でもじゃなくて。言ったでしょ、墨のぶん奢らせてもらうって」
「でも……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………はい」
「よし」
根負け気味の杏花の手を取り、咲良が半ば強引に遊歩道を進んでいく。街灯に照らされた桜が花びらを散らす向こうで、藍に染まった空には星が瞬き出していた。




