細君は寡黙なんです
「いただきます」
横長のちゃぶ台を八雲と妻、そしてたくさんの異様な生き物達で囲んでいる。会話もなく食事をする。食事をしているのだから黙るものだが、そうではなく世間話がない。妻は近くにいる犬みたいな生き物に餌をあげている。がつがつと食べているのを無表情で見守っている。犬の鼻息が一番賑やかだ。
ここはキッチンカーの中。この車も奇妙な生き物。なんと言ったか、欲望を叶える車だったか。欲深い人間が入ると欲望が叶う。一つ叶えばまた欲が出るから中々出られない。尽きる頃には生気を抜かれて干からびる。そんな車。
この群れの長である八雲、今は小説家だ。
以前は違った。
寡黙な伴侶に出逢ったのは政治家だった頃。人間社会に紛れて活動していたら正体がバレ、人間に深傷を負わされ、鴨川のような広い川辺まで逃げて倒れた時に出逢ったのだ。彼女が手当をしてくれた。人間の形をしている彼女だが、人間ではないようで。特殊な体質の彼女は自分から関わらないと認識されづらいものらしい。ぬらりひょんみたいな感じだろうか。そのお陰で彼は傷を癒す間、追手に見つからずに済んだ。これは利用できると思った男は出逢って間もない彼女に結婚しようと告げた。意味を理解しているのかわからないが、彼女はそれに応じた。その瞬間から晴れて夫婦になったと言うわけだ。
街から遠ざかりキッチンカーできままに移動して生活をしている。どこにいても狐の渡という男が原稿をとりにくる。その男に言われた。いつの間に籍をいれたんだ?と。
あぁ、としか答えなかった。それ以上教える義理はない。相変わらず面白味のない男だな、と愚痴られた。そんな男と長年つるんでる狐も物好きだ。
ある日、八雲は朝から気だるかった。執筆をしていたのだが、なんだか思うように動けない。はてどうしたものかと頭を悩ませていたら、妻がきた。この時間は外で生き物の世話をしているはずだが。
「何かようかな?」
彼女は男の額に触れた。
何をしているのだろう。ぼんやりと見つめていたら彼女は男の作業を中断させるために筆をとりあげた。
「こら」
「お加減が悪いようなら寝てください」
表情の変わらない彼女は寝所を指差す。あっちで休めと言いたいのか。
「いや、これから昼食の準備があるしこのくらいなら問題ないのでお気遣いなく」
「朝から具合が悪かったでしょう?準備は私がします。寝てください」
頑固だった。
彼が折れるまで彼女はずっとその場を離れず、寝ろと言い続けた。のそのそと寝床に入った彼は、思った以上に体がだるいのに気付きぱたりと布団に倒れた。
あぁいつ振りだろうか、風邪は。疲れていたのか、熱のせいか彼はすぐに寝息をたてた。
カチャカチャ。
テーブルに食器を並べる音が聴こえる。
しまった。そんな時間か。彼は飛び起きふらふらとした足取りで移動すると、昼食の支度はすでに整っていた。
不思議な光景だった。
何もかも、いつも彼が用意するような料理が並べられている。生き物達の餌も抜かりなく用意されており、彼らは好き勝手に食べ始めていた。
八雲に気付いた彼女は食えそうか聞いてきた。美味しそうな匂いはするがたくさんは無理そうだ。少しなら、と伝えれば掛けて待っててという。運ばれてきたのはお粥だった。卵が入ってる。
美味しそうだ。
「これは一体…」
彼女はきょとんとした顔で彼を見た。
「私が用意しました。何かおかしなところがありましたか?」
「ないから驚いている。君、炊事ができたんだね」
何を言うか。
結婚した際に男から提示したのだ。仕事も炊事もこちらでする。その変わりにこいつらの面倒をみて欲しいと。彼女がいれば姿は認識されづらい。これ以上の利点を求めていなかった彼は、その他を自分で請け負った。大したことではない。食事も一人分増えただけだ。妻は、言われた通りしっかりと世話をしてくれていた。だから、彼女がそれ以外のことが出来ることに驚いてしまったのだ。
「いつも見ていたので、覚えました」
何事も無関心そうな彼女が、彼の体調の変化に気付き、食事の用意も覚えるほどに見ていたらしい。
「ありがとう」
彼女は首を振る。礼を言うのはこちらだと頭を下げた。
「衣食住を与えてくれました。ありがとう」
「今聞くのもどうかと思うが、どうして結婚を受けてくれたんだい?」
結婚というのがどういうのか理解はしていたらしい。
なら、尚更だ。出逢い方は衝撃的だったし伴侶として共に過ごすには不安があっただろうに。
彼女は言った。
「困っていたので」
たったそれだけ。
友人でも知人でもない初対面の男と結婚する理由が、困っていたので。思わず笑ってしまった。なんてずれているんだ。どうやら思っていた以上に優しい女性のようだ。いままで一緒にいたのに知らなかった。考えようともしていなかった。利便性だけで共にいたのだから仕方ないと言えば仕方ない。
食事を終えれば片付けも全て彼女がしてくれた。世話も怠らず、いつもの風景を寝床で見ていれば、様子を見にきた彼女は八雲の額に冷たいタオルを乗せてあげた。ひんやりして気持ちいい。こちらを見つめる彼女の顔を見た。
そういえば、容姿をまじまじと見たことがなかった。
色素の薄い髪、甘露飴みたいな琥珀色の瞳の妻。無表情だと思っていた。
いつも。
でも、今だけは違うように見える。
優しく、労るような柔らかい笑みに目を奪われた。おやすみなさいと言った彼女は立ち上がる。
待って。
声は出なかった。
それでも、体は動いていて彼女の手を掴んでいた。
「どうしました?」
意味もなく呼び止めてしまった八雲は視線を泳がせ、言葉を探す。
なんと言えばいいのか。
もう少しだけ、そばにいて欲しい。
そう思った瞬間、耳鳴りがした。八雲だけでなく妻にも起きているようで耳を塞いでいる。
この音には覚えがある。八雲はガバッと飛び起きて布団を蹴飛ばし慌てて外へと飛び出していく。置いていかれた妻はきょとんとして八雲が走り去ったドアを見る。
しばらくして耳鳴りが止んだことに気付いた妻は、乱れた布団を整えてから、彼を呼びに行った。
一方、車から飛び出した八雲は外で膝をついて息を整えていた。余程慌てていたのか裸足だ。
あの音は政治家の時に何度も何度も聴いたことがある。人間を連れて入ると欲望を感知し、取り込む際の幻聴。
いままで乗っていたのに八雲達に反応しなかったのは、欲望も願望もなかったからだ。少なくとも、車が反応するほどのものはなかった。
「これは、参った…」
彼は頭を抱えた。
今さら意識するなんて。
冷たい風が頬を撫でる気持ちよさに自分の体温が高いことに気がついた。
くしゅん。
あぁ熱が高かったのか。だからあんな行動をしたのか。下がれば元に戻れるだろうか。八雲が愛用している褞袍を持って走ってくる妻を見てまた一つクシャミをした。