慟哭
葉桜の時期も過ぎ、暖かさが顔を出し始めた五月中旬。
凛、紗良、伊織、実央の四人でテーブルを囲み、中庭で昼食を摂りながらその中の一名が発狂する。
「もうすぐ中間テストが迫ってるぅぅ!! イヤァァァア!!」
紗良は両手で頭を抱えながら叫ぶ。そう、彼女は昔から勉強が苦手であり、高校に入ってからは赤点常習者だった。
「紗良、大丈夫だよまだ一週間あるから……!」
「伊織いいよ、いつものことだから」
「そろそろ詰めていかないとだな」
紗良の喚声に伊織だけが心配し、二人はスルー。
「え、待って? 男子グループもしかして余裕なの? テストいつも何点くらい取ってんのよ?」
「いや、そんなには……」
「別にフツー」
焦る伊織とさらりと答える実央に対し、誤魔化さずに教えなさいよ、と詰める。
「俺は、古文と漢文が苦手で六十点代くらい……それ以外は八十点代かな……」
「俺は英語が苦手だから気抜くと七十点代だな。それ以外は八十〜九十くらい?」
特に考えたこともなかったが、二人が意外と成績優秀なようで凛も内心驚きつつ、紗良をちらりと見ると目を見開き大口を開けていた。
「……余裕のある者は、そうでない者に手を差し伸べるべきよ……よってテスト勉強会を開く! いや開かせてくださいお願いします!」
紗良は両手でテーブルを叩き、そのまま頭を下げて懇願した。
考査前は午前で授業が終わり、午後からは完全に自由時間となる。空き教室にて四人で机を合わせて各々が教科書やノート、問題集を広げ、勉強を開始した。
「紗良はまず公式を覚えるところから。そしたら最低限は絶対点稼げる」
「公式って多くない?? これ覚えて最低限なの??」
スタート地点がゼロではなくマイナスだと知り、凛は額に手を当て天を仰いだ。
「ちょっと理系クラスのおふたりさ〜ん! コツ教えてよ! 公式覚えるコツ!」
「いや、二人に聞くのは止めといた方が……」
「うーん、意識して覚えようとしたことないから難しいなぁ……」
「ウッ」
伊織の言葉の矢は紗良の心に命中。傷は深いようだ。
「俺、公式何も覚えてないけど」
「マジで!? 裏技あるんじゃん!」
「例えばこの問題だったら、この式を作って計算したら、ホラ。公式なんか使わなくてもできるだろ。」
実央は紗良が持っていた問題集を抜き取り、ひょいひょいと当然のように式を組み立て解を導く。
「黙れよ天才……」
問題集の持ち主は悲しみを通り越して怒りに支配されかけていた。
「だから止めときなって言ったのに。理系選択者に理系科目を聞いても無理だよ、こういうやり方するから」
「馬鹿は大人しく公式を覚えろってことか……」
ゆるふわの髪は心なしか萎びており、肩を落として教科書と向き合った。
勉強を開始して一時間後、紗良が「疲れたから休憩!」との宣言により一時中断となり、ここぞとばかりにダル絡みを始める。
「そういえばさ〜、伊織ってなんで転校してきたんだっけ? 親の仕事の都合とか〜?」
「あーそっか、言ってなかったね。俺、五歳くらいから両親じゃなくて叔父さんに育ててもらっててさ」
「えっごめん! 軽々しく聞いちゃった」
机の上で寝そべっていた上体を急いで起こし謝罪するが、伊織は手を振り笑って否定する。
「大丈夫大丈夫、物心付く前で全然記憶もないし。
……それで高校一年の終わり頃に、叔父さんから『もう自立していい歳だから、一人暮らしを始めなさい』って」
「なんか、急にスパルタだな」
「突然でびっくりしたけど、優しい人なんだよ。生活費も準備してくれたし」
「そうなんだ……叔父さんとはたまに会ったりしてるの?」
「ううん、会うどころか連絡も取ったらダメだし、宵に戻るのもダメだってさ。『いつかそっちに行くからそれまで待ってて』って言われたんだ」
「うーん、よく分かんないね〜。会いたくないわけじゃなさそうだし……」
「俺もよく分かんない。まぁでも、いつか来てくれるならそれまで待つよ」
以前、薙刀を母の形見だと話していたことを凛は思い出す。父親はいるのかと思っていたがそうではないことに驚いた。生い立ちの複雑さが少し気になるが、興味本位で根掘り葉掘り尋ねるのは失礼だと自制した。
日も落ち始めた頃、広げたノート類をバッグに詰め込み、机を元に戻し校門を出る。
空は濃藍色が覆いかけており、オレンジ色の帯が横たわっていた。
「あのさ、みんな。……一緒にいてくれてありがとう!」
口を開いたのは伊織だった。突然のことで皆、目をぱちくりさせながらも笑って反応する。
「なになに!?」
「卒業式に言うやつじゃね? それ」
「伊織っていつも急に変なこと言うよね」
「……転校するとき、不安で仕方なかったんだ。けど暁に来てなかったら俺はずっと討伐士として落ちこぼれだったし、学校もこんなに楽しくなかったと思う。……って思ったから、言おうと思って!」
伊織は出会ったときから素直だ。思ったことは隠さずに、飾らずに、そのままを伝える。凛にとってはその素直さが羨ましく感じた。
「こちらこそありがと〜」
「俺も伊織と知り合ってから面白いよ」
「……私こそ、伊織と会ってから色んなことが変わった。……ありがと!」
普通であれば来年の春に交わす会話をフライング、しかも中間考査前という訳のわからない時期にしており、思わず全員が吹き出した。
一週間後。すべての試験は終わり、解放された。
「みんな〜! マッジでありがとう! 赤点回避できたよ!」
ゆるふわサイドポニーの少女は三人に小分けのお菓子を配りお礼をする。その一方。
「普通に勉強するより……疲れた……」
「まさかここまでとはな……」
「それなら良かったよー……」
乗りかかった船だと紗良の赤点回避を目標とした三人は、目標達成と引き換えに通常以上の体力と精神力を消耗したのだった。
こうして、高校二年生一学期の中間考査は幕を閉じた。
中間考査の結果も無事に終わり、気分は開放感で満ち溢れていたその日。
補習に追われることもなく舞い上がっていた紗良は、日を跨いでも自室でスマートフォンを片手に動画を眺めていた。
〈喉乾いたなぁ……炭酸の気分なんだけど、いま家に無いよね〉
紗良はベッドから起き上がりパジャマのまま財布だけを手にし、玄関を開けた。
家から歩いて数メートルに位置する自販機でレモンスカッシュを購入。ガコンと落ちた五百ミリリットル缶を手に取り、自宅への方向を向いたときだった。
ぐす……ぐす……
背後から啜り泣く声がした。振り返るとそこには白ブラウスの上にサスペンダー付きの紺色プリーツスカートを身に纏った三つ編みの少女。
この夜中に小学生くらいの女の子が道端で泣いていることにぎょっとしたが、何か事情があるのかもしれないと駆け寄った。
「ど、どうしたの!? 迷子……?」
「ううん。……違うよ!」
少女は伏せていた顔を上げると、にんまりと笑っていた。
虹彩が針のように鋭く、明らかに人間の目ではない。自販機の光に照らされ、それはより際立っていた。
「あ……え……っ」
レモンスカッシュが手から滑り落ち、ガラガラと転がった。
心臓は早鐘を打ち始める。
額からは冷や汗が伝う。
呼吸しようにも気道の狭まりを感じる。
必死で思考を巡らせる。
〈怖い、逃げないと、警察? いや、芥だ。救急要請しなきゃ——〉
ポケットへ手を伸ばすが、指先に想像していた感触はない。スマートフォンはベッドの上に置いてきたことを思い出す。
〈どうしよ、どうしよ、どうしよ〉
体は震え、足を動かそうにも微動だにしない。
その刹那。
「ばいばい、お姉ちゃん」
三つ編みの少女は瞬時に爪を鎌のように長く鋭く伸ばし、紗良の首を掻き切った。
膝から崩れ落ち地面へ倒れる。頸動脈を裂いたのか滝のように血が吹き出し、手で押さえるが止まることを知らない。掌には生ぬるい感覚が広がり、辺りは鉄の匂いが充満し始めた。
意識が遠のく寸前、レイピアを両手に舞うポニーテールの少女を思い出す。
「り……ん」
翌日、緊急全校集会ということで全校生徒が体育館へ詰め込まれた。それとなく情報を知っている者や全く見当のつかない者、皆がざわざわしていた。
〈紗良、今日休みなのかな……返信も来てないし……〉
ブレザーのポケットからスマホの画面をタップするも、通知は来ていない。
そうこうしていると校長が舞台袖から登場し話し出した。
「えー……非常に、悲しいことが起こりました。昨夜、本校の生徒の柊紗良さんが——」
頭が真っ白になる、なんてものではなかった。
そうか。今この場では意地の悪い、壮大なドッキリが仕掛けられているんだ。
最近のテレビ番組はどうやら学校の先生や生徒と協力してドッキリを企画しているらしいし。
そう思うと無性に笑いが込み上げてきたが、ここで笑ってしまっては企画に支障が出てしまう、と平静を装った。
どうやらドッキリは長期間続くようで、しばらく授業は午前中で切り上げる、なるべく集団で下校するように、と帰りのホームルームで担任から伝えられた。
教室を出ると伊織と実央が待ってくれていたようで、二人とも神妙な面持ちをしており可笑しくてたまらなかった。
「めちゃくちゃ手の込んだドッキリだよね。この田舎の高校でもテレビの依頼とか来るんだね」
「凛……」
「これっていつネタバレするのかな、ちょっと長い気が——」
「凛!!」
実央は凛の両肩を掴み、向かい合わせになるように力いっぱい体を引く。見上げると目元が赤く、苦悶に満ちた顔をしていた。隣にいる伊織は今にも涙をこぼしそうだった。
「……なに?」
「……ドッキリじゃない。本当なんだよ」
「でも、昨日あんな元気に——」
「夜中! 外で、首を……切られて……大量出血で……って……聞いた……」
「うそ。うそでしょ。……家行こうよ。絶対家に居るよ!!」
「凛!」
「待って!」
凛は伊織と実央の制止を振り切り紗良の家を目指して駆け出す。二人も凛を追いかけるしかなかった。
紗良の家は学校から近く、走れば五分もせずに着いてしまう。角を曲がると茶色の瓦が葺かれている家を視界に入る。門の前には全身黒ずくめの初老の男女が立っていた。
「あの……紗良のお父さんとお母さん、ですよね。……紗良は、いますか?」
両手を膝の上に置き、息を切らしながら問いかける。初老の女性は表情を変えずに口を開いた。
「こんなときにイタズラ?」
「……え? ……イタズラ? 私、紗良に会いに——」
「あの子はもうどこにもいないのよ!!」
女性の声がキンと耳に響く。それは決して演技などではなかった。
「あなた、天英会の人なんでしょ……? なんで……なんで助けてくれなかったのよぉ……!」
女性は顔を覆って泣き崩れた。それはあまりにも弱々しく、何をしても壊れてしまいそうだった。
「落ち着け、この子を責めても仕方ない……すまないが、君たちはもう帰ってくれないか」
男性は女性を介抱するよう背中に手を回し、家の中へ入って行った。玄関が閉まると同時に凛は力が抜け膝から崩れた。
「……はは、ははははっ……あはははははは! ……うあぁぁぁぁぁあ!」
笑いが込み上げてきたと思えば次には止めどなく涙が溢れ出した。
もう二度と紗良に会えない。
それは信じたくもない残酷な事実。抗おうと努力することすら許されず、受け入れるという選択肢しか残されていない現実はナイフのように心を突き刺してくる。
「凛、行こう」
伊織はそう言うと屈み、凛の両手を取り立ち上がらせる。実央は何も言わずただ背中に手を添えてくれていた。
二人に連れられるがままベンチへ座る。両サイドに伊織と実央が挟むよう腰を下ろした。
「……犯人、は? 捕まってるの……?」
伊織と実央は口をつぐむ。つまりそういうことなのだろうと凛は察する。
「ねぇ。なんで……? こんな小さい町なんだから、犯人なんかすぐわかるでしょ!」
「人間、じゃないかもしれない。……噂だけど」
切り出したのは実央だった。
「人間……じゃなかったら、なに? 動物って言いたいの?」
「一度の攻撃であまりにも正確に致命傷を狙ってるし、首以外に傷はない。……かといって、人間がやってできる傷の深さじゃない、らしい。だから、人間とも動物とも判断しづらいって……」
「それで……芥なんじゃないかって……」
実央に続いて伊織もぽつりとこぼした。
「伊織も、芥がやったって思うの?」
「芥は攻撃的だけど、人を殺せるような知能も力も無い……と思う……怪我をしたって人はよく聞くけど、殺されたなんて聞いたことないし……」
「そうだよ。芥ができるわけない。それが本当なら、緊急で報告が来てるはず」
「だからあくまで噂だ。それくらい、捜査が難航してるんだろ……」
しばしの間沈黙が訪れ、凛が静寂を破る。
「伊織、巡回行こう」
「えっ!?」
「本当に芥なら、まだこの辺うろついてるでしょ」
「ダメだ」
そう言い放ったのは実央だった。
「な、なんで、一般人の実央にそんなこと……」
「一般人の俺でも分かるくらい、今はダメだってことだ。明らかにそんな状態じゃないだろ」
「平気だよ! 討伐くらい、全然——」
「凛。今日は、帰ろう」
伊織にも否定され、凛にはそれ以上抵抗する気力もなく従わざるを得なかった。
しばらく歩くと見慣れた日本家屋に到着。帰宅は付き添ってもらったため、礼を伝える。
「二人とも今日はごめん、ありがとう……」
「ゆっくり休めよ」
「巡回はやっておくから、気にしないで」
実央と伊織だってつらいはずなのに自分は一人だけ突っ走って、泣いて、迷惑をかけてしまった。なのに温かい言葉と表情を向けられてしまい思わず涙腺が緩む。二人のおかげでなんとかギリギリ正気を保っていられている。そうでなければ今頃どうなっていたか分からない。
重い引き戸を開け、靴を脱いだ後に自室へ向かおうと階段を上っていたときだった。
「ちょっと。なんでこんな時間にいるの」
「……しばらく、午前で授業終わるんだって」
一番会いたくない人だった。背後から声をかけられているがせめてもの抵抗で顔を見ないようにする。
「あぁ、そういえばそんなこと聞いたわね……それで? 巡回は?」
「今日は、ちょっと休む……」
「何言って——」
「友達が! ……殺されたんだよ」
早く話を切り上げたい、関わりたくない。そんな思いで口にしたくない言葉を紡ぐ。だが母親は一切声色を変えずに言い放った。
「そんなことでこれからどうするのよ」
そんなこと。
道端で泣き喚くほど心が壊れそうになったことは、この人にとってはそんなことだった。せっかく伊織と実央が心の形を保ってくれていたのに、この人のせいでまた砕けそうになる。
凛はそれ以上なにも話さず、階段を上りきり自室のベッドに腰を掛け考え込む。
〈紗良、紗良、紗良。なんで紗良が。〉
〈首を切られた……道具? 体の一部を使って? 報告はない、連合はなにか隠してる?〉
答えの出るはずもない問に思考は止まらなかった。
しばらく歩くと見慣れた日本家屋に到着。帰宅は付き添ってもらったため、礼を伝える。
「二人とも今日はごめん、ありがとう……」
「ゆっくり休めよ」
「巡回はやっておくから、気にしないで」
実央と伊織だってつらいはずなのに自分は一人だけ突っ走って、泣いて、迷惑をかけてしまった。なのに温かい言葉と表情を向けられてしまい思わず涙腺が緩む。二人のおかげでなんとかギリギリ正気を保っていられている。そうでなければ今頃どうなっていたか分からない。
重い引き戸を開け、靴を脱いだ後に自室へ向かおうと階段を上っていたときだった。
「ちょっと。なんでこんな時間にいるの」
「……しばらく、午前で授業終わるんだって」
一番会いたくない人だった。背後から声をかけられているがせめてもの抵抗で顔を見ないようにする。
「あぁ、そういえばそんなこと聞いたわね……それで? 巡回は?」
「今日は、ちょっと休む……」
「何言って——」
「友達が! ……殺されたんだよ」
早く話を切り上げたい、関わりたくない。そんな思いで口にしたくない言葉を紡ぐ。だが母親は一切声色を変えずに言い放った。
「そんなことでこれからどうするのよ」
そんなこと。
道端で泣き喚くほど心が壊れそうになったことは、この人にとってはそんなことだった。せっかく伊織と実央が心の形を保ってくれていたのに、この人のせいでまた砕けそうになる。
凛はそれ以上なにも話さず、階段を上りきり自室のベッドに腰を掛け考え込む。
〈紗良、紗良、紗良。なんで紗良が。〉
〈首を切られた……道具? 体の一部を使って? 報告はない、連合はなにか隠してる?〉
答えの出るはずもない問に思考は止まらない。
そうして凛はベッドで横になり、ぼうっとしていた。止まらなかった思考はやがてバッテリー切れとなり活動を止める。
そんなとき、テーブル上に置いていたスマートフォンが鳴った。
はぁ、と一息つきながら起き上がり画面を覗くと伊織からの応援要請が表示されていた。急いで手に取り、場所を確認すると伊織が担当している巡回エリアだった。凛の担当エリアよりも若干遠く、歩いて二十分はかかる場所である。
〈今行くから、耐えて……!〉
そう願いながら凛はレイピアを装着すると家を飛び出し、伊織の元へと疾走した。