2.南の隣国へ
情報の洪水が終わり、エミリアはベッドから顔を上げた。
「私は……」
口に出して見ても、この世界は何も変わらない。
エミリアの魂に眠っていたもうひとつの人生の記憶……。
地球、日本……怒涛のごとき情報量だった。
不思議なことに、蘇った記憶は本を読んだ後のようなものだった。
頭からはすっと取り出せるけれど、それ以上の感情を伴わない。
(総理大臣はわかるけれど、誰が総理大臣だったっけ……)
前世のエミリアの家族についても、いまいち思い出せない。
思い出せるのは知識的なことばかりだ。
関東地方はわかる。肉じゃがも作れる。宇宙ステーションも知っている。
しかし、前世でどういう人生を送ってどうやって生きたか……。
個人的なことは霞がかっていた。でもそれにエミリアは安堵する。
(……これでいいのよ。私にとって人生はこれひとつだけ。フォードだけが私の今、全部なのだから)
神様がくれたのは、きっと記憶の断片だけなのだ。
それは今を前向きに生きるためであって、前世にしがみつくためではない。
(でも、ありがとう。ちょっと強くなれたかも)
今のエミリアは21歳。
正直言って、何も知らない世間に放り出されて生きていける年齢ではない。
しかし知ってさえいれば。知識と知恵があれば、何とかなる。
このベッドで伏している暇も打ちひしがれている暇もない。
エミリアは急いでベッドから跳ね起きると身支度を整えた。
(フォードは……ベッドに運ばないと!)
ソファーで寝る息子を抱え、ベッドに寝かしつけて。
エミリアは一番大きな旅行バッグに、ありったけの物を入れ始める。
「本当に追い出される前に、持ち出せるものは持ち出さなきゃ……!」
元夫のベルは言ったら聞かない。
何が何でも離縁されるだろう。
この世界の司法に期待なんてできないし、すべきでもない。
「ええと、服に下着……薬、それに旅券、あとは……」
口に出しながらふと、手を止める。
金目のモノを持ち出すべきだ。
前世の記憶の断片が強く訴えかける。
夫から押し付けられたアクセサリー類。
どれもゴテゴテしてエミリアには合わない物ばかり。
でも売れば金になる。
全然合わない、夫の買った趣味の悪いドレス。
どうしてエミリアに相談せず作って寄こしたのか、理解不能だ。
けれど売れば金になる。
匂いがキツすぎて見るのも嫌になった香水。
色が濃すぎて化物みたいになる化粧品。
数回しか使ってないけれど、瓶や箱はしっかりしてる。
だから売れば金になる。
(もうあんな男は……夫じゃない!)
そう思っても、胸はぎゅっと押し潰される。
泣くな。あんな男のために。
でも涙が止まらない。
この家で過ごした4年半の思い出をバッグに詰め込むと、もう朝になっていた。
「……お母さん? これ、どうしたの……」
起きたフォードが部屋の有様に呆然とする。
その頃にはエミリアの心はすっきりと母の心になっていた。
エミリアは健気に微笑みつつ、フォードにどう言ったものかと思い――結局、半端にごまかすのはやめることにした。
フォードは賢い。はっきり、息子に向かって宣言しよう。
「この家を出るの、フォード」
「えっ!? 本当に! やったぁ!」
「……あれ?」
思っていた反応と違う。
フォードは両手を上げて喜び、ベッドから飛び出した。
「フォード、わかってる? この家とはさよならなのよ」
「わかってる! この家の人、お母さんのことが嫌いだったもん! 僕も……好きじゃない!」
「――っ」
フォードがそんなことを言ったのは、初めてだった。
何事にも賢く、世渡り上手なフォードがこうもはっきり言うなんて。
いや、もしかしたら……前からシグナルがあったのかもしれない。
でもエミリアはエミリアでそんな余裕がなかった。
それが離縁と前世の記憶ですっきりと区切りがついたのだ。
「……ごめんね、フォード」
エミリアはそっと息子を抱く。
情けない。子どもに励まされるなんて。
そんなエミリアをフォードは優しく抱き返してくれる。
「お母さんって細いよね」
「……かもね」
最近、思い返すと食事もあまり食べれていなかったかも。
振り返ると、この結婚生活は本当に限界だった。
「おいしいモノがたくさんあるところに行こうよ! ね、お母さん!」
「うん、そうだねっ!」
ああ、この子がいてくれれば。
私は頑張れる――。
こうしてエミリアとフォードはオルドン公爵家から出ていき、南の隣国へと旅立っていった。
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