愛の証明~なろう小説のチート能力は実は倫理的機能を果たしているのではないか?~
ドラえもんの名作短篇SFとして「どくさいスイッチ」というものがあると思う。この短篇は、ジャマ者をサクっと消しさってしまう独裁者のような力を見せかけ上、得ることができることに肝がある。
たぶん、人によればこのどくさいスイッチを押せるという人も中にはいるし、そのことになんの痛痒も感じないという人も中にはいるのではないかと思う。
べつにそれはいい。
人の考えをどうこうしようという気はない。
ただ、思ったのは、わたしは凡人であるということだ。おそらくわたしは人ひとりを消してしまうほどの力すらない。幾人かの人に対して、良きにしろ悪きにしろ影響を与えないわけではないが、その力はごく微小に留まるだろう。
もしも、自分が凡人であると感じている人なら、おそらくその感覚は共感していただけるものだと信じている。
さて、そこで問題となるのは、この世界において、わたしの高潔さを、あるいは愛と呼べるものを証明する方法は、おそらくないのではないかということである。
サナシア、あるいは一般的に言えばタナトス、デストルドーと呼ばれるものは、この愛の不証明に起因するのではないかと思う。
なんのことはない。例えば、わたしが読者を愛してるといったところで、それはとてつもなく嘘くさく思える世界であるということである。
政治家が国民を愛していると唱えても、とても嘘くさく思えてしまうということである。
なろう小説でチートという能力がもてはやされるのも、きっとこの愛の不証明こそが問題になっているのではと感じる。
もしも、わたしがどくさいスイッチを手元に有しているのであれば、そのスイッチを押さないことが愛の証明になりうるだろう。
もしも、わたしがスイッチを持っていないのであれば、愛は証明できないだろう。
愛という言葉が重いのであれば、他者のことを少し考える程度でもいい。ともかく存在を消さないことの高潔さを証明しうる手段があるかという話である。
わたしが埋没している状況では、愛は証明できないだろう。わたしが単に弱いので、スイッチを持っていないので、わたしは殺さないのではなく殺せないにすぎないのだ。
なろう小説において、チートを持たせたいというのは、これが理由なのではないだろうか。
要するに、世界をどうにでもできる、あるいはジャマモノをいくらでも消せる力を持ちながら、あえて行使しないということに、ある種の高潔さが演出できるのである。
あるいは、そういった虚偽を用いなければ、現代では愛の証明すらできないということなのかもしれない。
だから、わたしは主人公にはどくさいスイッチを必ず持たせる。等身大ではないけれども、根源的意味において、世界をわたしは掌握しうる力を有することによって、意志の力により支配しないことを証明しうるのである。
倫理観のないと言われているなろう小説は、実のところ、倫理的な戦いが水面下で行われているのではないかと感じている。
スカッとするとか、正義を体現するというの二次的であり、結局のところ、わたしは人間が好きだよと言いたい。それをできる限りの純度をもって伝えたい。ただそれだけはないか。
ほんのちょっと昔、サナシアについて書いたことがあります。
サナシアは共有されうる概念なので、AというキャラクターもBというキャラクターも同時に共有しうると思います。
例えば、それはVRゲームをプレイする子どもたちも、サナシアは持っている。親に見捨てられているという絶望とかをサナシアとして共有していることはありえるのかもしれない。
しかしながら、同時に生きたいという意思も有しているのが人間であり、それを表現したいと願うのがクリエイターではないか。
現代の難しさは、その生きたいという意思さえ、分裂してガスのように散漫しているということです。わたしはずっとそれを書いてきたように思います。