第四話 すごい
西園寺さんの声はよく通る。高くて耳がキーンとするとかじゃなくて、張りのある声なのでつい注意を持ってかれる、そんな声だ。だから一組の教室中が西園寺さんに注目して、静まり返る。
「あれ、ゆめだ。どうしたの?」
「ちょっと来なさい。早く」
しかし、北向くんが立ち上がって返事すると、いつものことかとばかりに教室はもとの賑やかさを取り戻す。いやまぁ、昴くん目当てでわたしもこのクラスに来ることはあるから初めて見たわけじゃないけど、これが普通になってるの、どうなんですか西園寺さん。
教室から出てきた北向くんと、西園寺さんが向かい合う。流石に男の子だから、並んで立つと北向くんのが視線一個分だけ背が高い。それでも、腕を組んだ西園寺さんは北向くんに上からものを言う。
「遅い」
「ごめんごめん。あと、いつも言ってるけど、そんなに大声出さなくても聞こえるよ?」
「あんたが大声出させなきゃいいんでしょ、このけんちん汁!」
「けんちん汁……?」
「けんちん汁……?」
「うっさいわね!」
いやでも、けんちん汁って、どんな罵声ですか……?
もはや、火山の噴火。理不尽な天災だ。意味不明な罵声に首をかしげることは、北向くんだけでなくわたしにすら許されていなかった。
たちむかえるのは、この火山の噴火の被害を受け慣れているだろう北向くんしかいない。わたしのすがる思いを知ってか知らずか、彼が口を開く。
「どうしたんだ、ゆめ。今日は一段と不機嫌だ」
「知らないわよ。自分で考えたら?」
「うーん。もしかして、お昼を忘れたとか? 僕のパンでよければ分けられるけど、一緒に食べる?」
「い、や!」
え、ウソじゃん。噴火してる火山に核爆弾投げ込んだよこの人。
小東さんへの嫉妬があることを知らず食事に誘ってしまうのはまだしも、「不機嫌だね。お腹すいてるの?」と女の子に聞けてしまうのは相当やばいんじゃないか。どっちかというと北向くんに恋愛マスターが必要なんじゃないか。
「あんたのデレデレ鼻の下を伸ばした顔がムカついただけ。通り過ぎたら偶然目に入るんだから、ふざけんじゃないわよ」
「デレデレって。そんな顔してたかな」
「あーんされてたやつが、何言ってんの?」
最初は「西園寺さんキレすぎでは?」と思っていたのが、ちょっとずつ「北向くんも鈍感ってレベルじゃないな?」という感想に変わる。ぜひ昴くんと鈍感王決定戦をしてほしい。
すっかり困りきった北向くんと、苛立ちの冷めやらぬ西園寺さん。すっかり会話のなくなった、西園寺さんの視線だけピリピリした沈黙は、西園寺さんがくるっと身をひるがえして終わりを告げた。
「とにかく、もう用事は済んだから。せいぜい表情筋でも引き締めておくことね!」
「うん。よくわかんないけど、わかったよ」
「千草、行くわよ!」
「あっ、うん!」
西園寺さんはわたしに声を翔けつつも、別に待つわけでもなく、つったか歩いて行ってしまう。北向くんはわたしに、「ごめんね。僕が怒らせちゃった」と申し訳なさそうにして、教室に戻る。助けを求めて昴くんの方を見ると、彼は自分のスマホをいじっていて。わたしにスマホを見るようにジェスチャーする。待ち受け画面には通知が一件。
『追いかけて、話をしてやれ』
え、昴くんとの記念すべき初メッセージ、これ?
◇◆◇
西園寺さんは教室にはいなかった。見失ってしまって、『大丈夫? 今どこ?』と送って、『屋上』とだけ素っ気ない返事。うちの学校って屋上開放してないような……と思いながら階段を上がっていくと、屋上の扉前の狭いスペースに隠れるようにして、西園寺さんが体育座りしていた。
「サイアクでしょ」
「……え?」
わたしがやってきたのに、足音で気づいたのだろう。西園寺さんは自分の膝の間に顔を埋めたまま呟いた。そのまま空気に溶けてしまうようなか弱い声。
「いっつもああなんだもん。アタシ、気づくと賢人に辛く当たっちゃう」
「し、仕方ないよ。西園寺さんだって動揺してたんだし」
「動揺してなくたってそうよ。知ってんでしょ」
「えーっと、それは……」
おっしゃる通り、知っております。
西園寺さんは、北向くんにだけ特別に当たりがキツイ。去年、西園寺さんと北向くんと、わたしは同じクラスだった。だからこそまさか知らないとは言えなくて、きっとそんな見え透いたウソをついたなら、怒ってどこかに行ってしまうだろう西園寺さんだ。
例えばそれは、彼が何かしらの提出用紙を忘れてしまったとき。あるいは、試験範囲を丸々勘違いして試験で赤点を取ったとき。はたまた、通学途中にずっこけて、制服のズボンに穴をあけて教室に現れたとき。北向くんらしいすっとぼけたミスをするたびに、西園寺さんが「あんた何やってんの?」と大げさに呆れかえって、みんなが「またやってるよ」と気づくのだ。実の母親とかくやとばかりに責め立てる西園寺さんに、北向くんはいつもたじたじ。
夫婦漫才だと楽しんでいる人もいれば、言い過ぎじゃないと眉をひそめる人もいる。そんな塩梅だった。
西園寺さんはすっかりふさぎ込んで、薄暗い空間に沈黙が染み込んでゆく。こういう空気感にはなれなくて、所在なく爪の縁をなぞる。彼女の後悔が自分にものしかかってくるようで、逃げ出したいのが本音で。
だけど――
「でも、西園寺さんはすごいよ」
「……」
返事はないけれど、わたしはぐっと不安を飲み下して話し続ける。
「西園寺さん、自分を変えようとしてる。恋愛相談部に来て、素直になりたいって言ってた」
そう、彼女は自分がダメなところをこうして抱えて、それでも諦めずに自分を変えようと言う気持ちがあるのだ。そこが、わたしとは違う。わたしは、自分が自分を変えるために恋愛相談部に行ったのかと聞かれて、迷わずに「はい」と言える自信がない。
「それって、すごいことだよ。あんなとーへんぼくな北向くんだから、気づいてくれないのが悪いんだーって、そうなっても仕方ないのに」
わたしだって、昴くんに不満を持ったことはあるのだ。だって彼は、全然わたしに話しかけてくれなかったから。わたしの方で昴くんが同じ学校にいると気づいていて、彼の方では一年間気づかないって、そんなことはないだろう。ちょっとくらい、挨拶しに来てくれたっていいじゃないかって、自分から話しかけてもいないくせに思ったりもしたのだ。
辛く当たってしまうとはいえ、ずっと隣にいた西園寺さんが、そんな気持ちを持たないわけがない。
「だから、西園寺さんはすごいんだよ」
自分でも自分に嫌気が差して、それでも、恋を叶えたくて。
提出物を忘れたときは、さんざん言ったあとでどうするかを一緒に考えて。赤点を取ったときは、やっぱりさんざん言ったあと、一緒に補習に残って。ズボンに穴が開いたときは、なぜか持ち歩いているソーイングセットでその穴を繕って。
そんなに仲が良くなかったわたしでもわかるくらい。
「そんなに北向くんを好きになれてるんだから、すごいんだよ」
「…………バカじゃないの」
伝えたかったことの半分も伝えられなかった気がするけど、やっと返事をしてもらえて、胸をなでおろす。西園寺さんは自分の座る位置を置く側にずらして、空いたスペースを手でポンポンとやる。座れと言うことらしい。
言われたとおりに腰を下ろすと、深く長い溜息をついて、西園寺さんが顔を上げた。目元をぐいとぬぐう。薄暗くてよくわからないけど、多分、ちょっと腫れてる。
「今更って、思われないかしら」
「今更なんて、そんなことないよ」
「だって、あんなに理不尽なのに?」
「今ならツンデレで通るんじゃないかな」
「え、半分ふざけてる?」
そんな失礼な。これが恋愛経験値ゼロの乙女の本気の答えですけど?
とはいえ、やっとわたしを受け入れてくれた西園寺さんに失望されるのもイヤなので、わたしは底の浅い脳内引き出しをがさがさとやる。すると、出てくるのはやっぱりこれしかない。
「じゃあ、そう。そんなこと言っちゃったら、わたしまで手遅れになっちゃうから! だから大丈夫だよ!」
一気に胡乱げになる西園寺さんの視線。
「あぁ、星宮昴のこと? まだ諦めてなかったんだ」
「え、いや、うん……」
急にきついこと言うね?!
ちょっとだけ心に刺さってしどろもどろと答える様子を、彼女は緩慢なまなざしで見ていて、そして笑った。からかわれたのだった。
「……わたし、そういうトゲのあるところが北向くんに気づいてもらえない原因だと思うな」
「あはっ。そうね、気を付けるわ」
「もう、これでも心配したのに」
「わかってるわよ。ありがと」
彼女はさらっと礼を言うと、さっきまでの重たい感じはどこへやら、すっと立ち上がった。そして大きく伸びをする。まぁ、気持ちが切り替わったならいっか。わたしも西園寺さんにあわせて立ち上がる。スマホで時間を確認すると、もうすぐお昼休みは終わってしまいそうだった。
「西園寺さん、教室に戻ろ? お昼食べれなくなっちゃう」
「ねぇ、ちょっと」
「え? 何?」
あれ、タイミング間違えた?
てっきり、もう大丈夫かなと思って切り出したんだけど、無神経に聞こえてしまったかもしれない。恐る恐る西園寺さんの顔色を窺うと、ぷいっと顔をそらされる。
「ゆめでいいわよ」
「と。言いますと?」
「西園寺さんじゃなくて、ゆめでいいって言ってるの!」
捨て台詞のように言い残して、西園寺さんはさっさと行ってしまう。おかげで、脳が理解をするのに、時間がかかって、ようやく彼女の真意を理解する。
なんだか、まさに西園寺さん――じゃなくて、ゆめちゃんらしい感じだった。
◇◆◇
遅れて階段を下りて、自分の教室のある階へたどり着く。階段前のスペースから、廊下に出ようとしたところで。
「よくやった」
「うわぁ! 昴くんっ?!」
昴くんが壁にもたれてわたしを待ち伏せしていた。完全に気を抜いていて、残りの時間でお昼食べきれるかなぁなんて考えていたくらいだから、心臓が口から飛び出るかと思った。昴くんに顎で示され、わたしのクラスである四組まで、昴くんと隣り合って歩く。
え、ゆめでも見てる?
「西園寺ゆめは暗い表情ではなかった。メンタルケアは、放課後しか動けないオレにとって、一つの課題だった。助手として、よくやってくれた」
「え、えぇ? そうかなぁ」
昴くんは、別にわたしのことをなでてくれたりしないし、なんならわたしと目を合わせてもくれないけど、それでも直接褒められるなんて。今までと比べたら嬉しすぎて嬉しい。一言一言、気持ちがふわふわとして、わたしだって昴くんを直視できなくなってしまう。
「ええっと、もしかして、内容の報告とか必要?」
もっと褒められたくて、自分から提案してみる。もう無限に話したくてうずうずしている。
「何を話したのかは聞くまい」
しかしそこは昴くんだった。ドライな返事にちょっとしょんぼりはするけれど。
「オレは別に、プライベートな部分に深く踏み込みたいわけではないからな。今回の案件では、千草にメンタル面のサポートを任せようと思う」
「う、うん! 頑張る!」
昴くんがわたしを褒めて、頼ってくれた。それが何より嬉しかった。
だって、わたしが落ち込む西園寺さんにちゃんと声をかけてあげられたのは、昴くんのおかげだから。後ろ向きになりそうだったわたしの背を押したのは、昴くんから任されていたから。
わたしが小学生だったころ、つまりは、わたしが泣くたび、昴くんが助けてくれていたころ。
五年生になったばかりのわたしは、漢字テストの返却を待っていた。今にして思えば、テストとは名ばかりの、漢字を五十個書き取れればいいだけの簡単なものだが。学年も上がってきたからと塾に入れられたばかりのわたしにとって、それは初めて本気で取り組んだテストだったのだ。
テストが終わった瞬間漢字ドリルを開いて、忘れていた感じがなかったことを確かめて、だからわたしは順番に先生からテストが返却されているのを眺めて、わたしの順番が来るのをずっと待っていた。ひとつ前の子が百点をとって褒められているのを見て、その姿を頭の中で自分に置き換えていた。
けれど結局、テストは百点に届かず。トメやハネで減点を食らったテストを「惜しかったね」と言われながら受け取ったのが悔しくて悔しくて、わたしは席に戻って静かに泣き出してしまった。周りのみんなが「ほとんど百点なのになんで泣いてるんだ?」という顔をしている中、自分のテストを受け取りに出てきた昴くんが、わたしのそばに来て一言。
「そこまで悔しがれるだけ、お前は頑張ったんだろ。すごいじゃないか」
ぶっきらぼうにそう言って、彼は席に戻っていった。当時から偉そうな口調で、周りは余計に「何言ってるんだ?」という顔になってたけど、わたしはそれがたまらなく嬉しくて。
だからこそ、今日は頑張れたのだ。
「昴くん」
「どうした、千草」
「ううん。なんでもない」
要領を得ないわたしに、露骨に顔をしかめる昴くんは、こんな思い出話をしても、バツに大したことじゃないだろうと流してしまうのだろう。でもわたしは、昴くんがこの想い出を共有してくれる関係になりたいから。今はまだ、隠しておく。
まずはゆめちゃんの恋を叶えて、それからだ。
次回更新は5月29日の24時です!