12.人の感情なんて見えないほうが幸せです
今日は一日雨。
まだ夕方にもなっていないのに、空が暗い。
宿題をしていた手を止めて、椅子に座ったまま両手をあげて体を伸ばす。
そういえばジードも昨日こうやってのびてたなあ。
昨日の彼は生き生きしててかわいかった。今日も天気がよければ散歩をと思ったけど、この雨じゃあね。
今日は彼に会いに行かず、ずっと宿題をしていた。
思ったよりもいいペースで進んでるから、夏休みの終わりに焦らずに済みそう。
苦手なドルス語も、ギルバートが色々教えてくれたおかげで少しずつ理解できるようになってきた。
……ギルバート。
また黒い棒が伸びちゃったなあ。
でも、あの場面では仕方がない。あれはギルバートが言い過ぎだし。
とはいえ、やっぱり黒い棒が伸びると心が沈む。
セレナは長い間、この感情と向き合ってきたんだよね。
セレナは重度の人間不信だった。
幼い時から見えた黒い棒のせいで。
最初は意味がわからなかったその黒い棒が、自分に対する嫌悪や怒り、嘲りといった負の感情だとわかったときには、恐怖と不信感でいっぱいになった。
セレナが歪む決定打になったのは、自分を理解し優しくしてくれたお母様の死と、婚約者の存在。
五歳の頃、セレナがわがままを言って領地の町のお祭りを見に行きたいと言った。
お父様はいつも通り仕事で忙しく、ギルバートは熱を出していたので、お母様と二人で馬車に乗って町に向かった。
ギルバートを引き取ったばかりの頃で急にできた弟の存在に不安になっていたセレナは、お母様を独り占めできる時間がうれしかった。
けれど。
二人が乗る馬車が、横転してしまった。その瞬間のことはまったくおぼえていない。野生動物が急に飛び出してきて、それに馬が驚いて急に走り出したのだと後から聞かされた。
馬車は運悪く道の脇にあった用水路に転がり落ちた。
馬車についてきていた護衛騎士がなんとか馬車の扉を開けたとき、お母様とセレナ、二人とも意識がない状態だった。お母様はセレナを守るように抱きかかえていたのだという。
そして気を失ったセレナが目を覚ました頃には、お母様はすでに帰らぬ人となっていた。
目覚めたばかりのセレナに、お母様の死を告げたお父様。
呆然とするセレナを見下ろすお父様の胸の黒い棒は、みるみる伸びていった。
口にこそ出さないけれど、愛するお母様が亡くなったのはセレナのせいだと思っていること、セレナを憎んでいることを知ってしまった。
そこからお父様との関係が一気に悪くなった。
もともと仕事で忙しくあまり子供に関心のない人だったけど、痛みを忘れるようにさらに仕事に没頭していき、顔を合わせることすら少なくなった。
その間、セレナとギルバートは乳母に面倒を見てもらった。
ギルバートだけをあからさまにかわいがり、セレナを空気のように扱う乳母に。
お父様は知っていたんだろうか。セレナに対する乳母の態度を。……今さら考えても仕方がないことだけど。
そして婚約者。
外国に留学していた彼とは幼いころ一度会ったきりで、たまに文通をするだけの仲だったけれど、セレナは自分を理解してくれている人のように感じていた。お父様との関係が悪かった分、自分は幸せな家庭を作りたいと結婚に夢を抱いていた。
十三歳の頃に留学先から戻った婚約者と再会するまでは。
既にぽっちゃりさんになっていたセレナに失望したせいなのか、婚約者の黒い棒はひどく長かった。
それでも紳士的に振る舞ってくれたのは、彼の優しさだったのか義務感だったのか。
けれど紳士的な態度と黒い棒の長さのギャップに耐え切れず、結局、セレナはお父様に懇願して婚約を解消した。
今考えれば、彼の黒い棒が長かった原因は容姿のせいだけではなく、学園でセレナの悪行の噂を耳にしたせいもあったんじゃないかと思う。
元婚約者のように、人が心の内を隠して本心とは違う振る舞いをするのは何もずるさからだけじゃない。
円滑な人間関係を築くためでもある。
そうして人間関係を築いていくことで、関係が本当に良好なものに変わることだってあるし。
けれど、セレナはその考え方に行き着くことはできなかった。
芹奈くらい人生経験があれば、誰がどれくらい自分を嫌っているかわかっていても耐えられたかもしれない。
そこから良好な関係にもっていこうと努力したり、すべての人間が自分を好きになるわけはないと割り切ったり。
けれど、それをするにはセレナは幼すぎた。
ただただ不信感をつのらせ、つらい感情だけをつのらせ、人間不信になって横暴な子になってしまった。
でもそれはあくまでセレナの事情。
ほかの人に対して横暴にふるまったり傷つけていい理由にはならない。
特にギルバート。
幼い頃から理由もわからずいじめられ、どれほど辛かったか。
彼に許してほしいとは思わない。いや、殺されたいわけじゃないけど。
でも……その辛さが少しでも解消されてほしい。
そう思うのに、また黒い棒が伸びてしまった。
人を嫌うのも憎むのも、つらいことだと思う。そうさせてしまったのはセレナ……私だ。
彼をどうしたらいいんだろう。
とそこで、ノックの音が響く。
「どうぞ」
「……失礼します」
この声は、ギルバート。
扉を開けて入ってきた彼は、気まずそうな顔をしていた。
「昨日はここに来られずすみませんでした」
あ、気まずいのそっちなんだ。
ジードのことかと思った。
「本来自分がやるべきことをあなたに手伝わせてるんだから、あなたが謝る必要なんてないわ」
「……」
ギルバートがその場に立ったまま黙り込む。
もしかして何か話があるのかな。
「立ち話もなんだし、そこに座って? 今お茶も用意してもらうから」
「お茶は結構です」
そう言いながら、いつも宿題をしているティーテーブルの前の椅子に座る。
「そう……」
私もギルバートの向かいに座る。
なんだろう、この深刻な感じ。
悪い話?
「姉上に聞きたいことがあります」
視線をテーブルの上に固定したまま、私を見ずにギルバートが言う。
「なに?」
「姉上が身だしなみや体型を気にするようになったのは、あの奴隷男のためですか?」
……?
いきなり何を言い出すの、この子。
「特にジードのためというわけじゃないわ。大人として女性としてもっと魅力的になりたいと思っただけよ」
「あの男を懐柔するために色仕掛けをしているのではないですか」
色仕掛けって。
坊や、聞いてる? 人の話。
でもまあ、殺されないために彼の歓心を買おうとしているんだから、当たらずとも遠からずな部分はあるのかな。色仕掛けと言われるのは心外だけど。
「いくら彼を護衛騎士にしたいからって、色仕掛けなんてするわけがないでしょう。だいたい、十七歳の恋愛経験もない子供があの男に色仕掛けして通じると思う?」
「もうじゅうぶんに大人だと思いますが」
そう言う彼の視線は私の胸元を見ている。
視線が正直すぎやしない? しかも頬を染めるでもなくモノでも見るような視線で。
そういえばギルバートは姫香みたいなほっそりスレンダータイプが好きなんだったわ。
唯一の自慢である胸を強調した服を着るセレナを見ては、気持ち悪いものでも見るような目で見ていた。
「どこ見てるの」
「特に興味を持って見ていたわけではありません」
脚を見せた時は動揺してたくせに。
脚フェチなのか、普段隠された部分が見えるという状態が好きなのか。
まあどっちでもいいや、弟の性癖なんて。
「ジードが気に入らないようね」
「奴隷上がりの護衛騎士など、伯爵家の名誉にかかわります」
「戦争奴隷を従わせるのはむしろ貴族にとって名誉だと聞いたけど」
「それは野良犬みたいな男でなければでしょう」
野良犬野良犬って。
あえて言うなら狼よ、ジードは。
言ったらへそを曲げそうだから言わないけど。
「いずれにしろ、ジードが私の護衛騎士になって私がいずれ出ていけば関係がなくなる話よ」
セレナが自分だけの護衛騎士を欲したのは、伯爵家の騎士に嫌われているからということ以外にも理由がある。
伯爵家の騎士はあくまでお父様の騎士。そしてそれは騎士たちにも支持されているギルバートが継ぐ財産でもある。
跡継ぎをあきらめないと言いながらも心のどこかで無理だと悟っていたセレナは、後継争いに負けたとき、どこかに嫁がされることもわかっていた。
そのときに付いてきてくれる騎士がほしかった。
かつて婚約者に夢見ていたように、騎士にも夢見ていたように思う。強いイケメンが自分だけを守ってくれるというシチュエーションに憧れていた。
伯爵家からの借り物じゃなく、心から自分を守ってくれる騎士がほしかった。
そんな騎士にしたいのに鎖でつないで鞭で打つというのもアホすぎる話だけど。
「出ていくとはどういう意味ですか」
「あなたが成人である十八歳になって後継者が完全にあなたに決まれば、私はどこかに嫁ぐことになるでしょう。今は婚約者すらいない状況だけど」
それはひたすらセレナが拒否したからなんだけど。
まともな縁談が残っているとは思えないなあ……。おじさま貴族の再婚相手とかになっちゃうのかな。
「爵位を継ぐのはあきらめるんですか」
「正直なところ、今はもうお父様の後を継ぎたいとは思っていないわ。あなたが爵位を継ぎたくないというのならもう少し考えるけど」
「それを嫌だと思ったことはありません。それよりも、姉上は父上が決めた縁談を受け入れるつもりなんですか。いい縁談は難しいという状況で?」
「好きでもない人と結婚なんてしたくないし、できれば結婚せずに自立して暮らしたいけど。いずれにしろ後継者でもないのにいつまでも実家に居座るわけにはいかないわ。あなたの結婚の邪魔になるし」
「僕の結婚なんてどうでもいいんです」
いらだったような声でギルバートが言う。
どうでもよくはないでしょう。
ギルバートもまだ婚約者を決めていない。セレナが後継者になりたいと言い出したせいで、次期伯爵としての地位が定まっていなかったから。
とはいえ、私が後継者をあきらめればすぐにいい縁談が決まるはず。次期伯爵で美形ともなれば引く手数多だろうし。
「後継者になるのはあきらめているのに、なぜあの男を護衛騎士にしようとするのはあきらめないんですか。後継者にならないなら、あの男を従わせるという父上が出した課題を達成する必要もないでしょう」
お父様もギルバートの縁談をそろそろ決めたいからこそ、攻略不可能と思われるジードを使って後継者の話に決着をつけたかったんだろうなと思う。
「奴隷一人従わせられなかったから」という理由をつけてあきらめさせ、私の縁談もさっさとまとめるつもりだったんじゃないかな。
お父様にとっては、素質もないのに後を継ぎたがる娘なんて……ましてや愛する妻の死の原因になった娘なんて、ただの厄介者なんだから。
なんだか、胸が痛い。
「ジードの忠誠を得るのは無理だと思っているお父様を見返したい気持ちもあるし、伯爵家じゃなく私に従ってくれる人がほしかったというのもあるわ。騎士たちに私と伯爵家どちらを選ぶか聞いたら、どうなるかわかるでしょう? だから自分だけの騎士がほしいの」
「騎士がほしいだけならあんな厄介そうな戦争奴隷じゃなくたっていいでしょう。……姉上はあの男のことが好きなんですか」
また黒い棒がじんわりと伸びる。
私がジードを好き?
いい男だと思うし、惹かれる気持ちはたしかにある。
でも、彼と結ばれる道はないと思っている。
「私は彼と恋人にはなれないわ。そもそもどうしてそんな話になるのかわからない」
「答えになっていません」
なんでジードにそんなにこだわるの?
もしかしてギルバートは私を好きとか?
……ないわ。
仲が最悪だったとはいえ幼い頃から姉と弟として育ってきたし、彼は姫香のことが好きなんだから。
でも、小説の中ではセレナが死んでからギルバートはヤンデレになったんだよね。
よくわからないけど、セレナに対して執着にも似たこだわりや姉として慕う気持ちがもともとあったのかもしれない。本人は絶対に認めないだろうけど、その死をきっかけに性格が変わるくらいなら、ただ憎いだけじゃなかったのかも。
挨拶を律儀に返してくれたり、嫌味や皮肉を言うために自分から私に話しかけたり。ただ嫌いなだけなら無視するはず。
さしずめ、歪んでひねくれてねじ曲がったこじらせシスコン心ってところかな……。
「ジードに関しては完全な解放も考えているの。どうするにしろ私が決めることだから、静観しておいて。あと彼にひどいことは言わないで」
「……」
ギルバートが不快そうに眼を細める。
背筋がひやっとするほど冷たい表情。
あーまた黒い棒が伸びてる……。ジードよりこっちのほうが状況がよくないんじゃないの?
仕方がない、少しフォローしておこう。
「私を心配して言ってくれたんだってわかっているわ。ありがとう、ギル」
笑顔を向けると、彼の表情が少し和らいだ。黒い棒もちょっと縮む。
また愛称で呼ばないでと言われるかなと思ったけど、今回はそう言われなかった。
「ひとまず奴隷の話は置いておきましょう。これ以上話していると感情を抑えられなくなりそうですから。……ドルス語の宿題は進んでいますか?」
「ええ。ギルバートのおかげでだいぶ理解できるようになってきたわ」
「ギルと呼ばないんですか。さっきはギルと呼んだでしょう」
少し目をそらしながらギルバートが言う。
「嫌じゃないの?」
「別に嫌ではありません」
私を嫌う気持ちが薄れてきたから愛称で呼んでもいいぞってことかな。
「じゃあギルって呼ぶわ」
「お好きにどうぞ」
自分からギルと呼ばないんですかと言っておいてお好きにどうぞってツンデレか。
さすがヤンデレ候補、なかなか複雑な精神構造をしている。
思春期の男の子って難しいわ。ギルにはジードと違った難しさがある。
でもまあ、また黒い棒が縮んだからいっか。




