奪取
奪え――金を。日曜日の銀行前――人であふれる=歩道の縁石を上る子供/たばこを吸う奴/腕を組み小走りではしゃぐ男女――おれは目頭を押さえる=眼が痛くなる。ぶち切れそうだった――目の前を横行する日常に。邪魔だ――いらだつ。どいつもこいつも、脳天気な顔をしやがって。だが――人混みは、同時におれの姿を隠す。ピンチ=チャンス/狂乱する理性+衝動/息を潜める――荒い息を吐く。早くやっちまえよ――声がわめき立てる=おれを急かす/まだ待て、警察がうろついてるかもしれない――別の声がわめき立てる。んなわけないだろう、事件も何も起きてないんだぞ――おれははっとする=辺りを見回す――当然、周りの様子は変わらない。焦りすぎて、すでに強盗をした気になっていた。落ち着け――また、声。どっちの声だ?――脳みそがかき回される。意味も無く両手を組む――指先をしならせる。掌を開く――閉じる――また開く。汗でべたつく。そんなことすら許せない。舌打ちが出る。人の熱気に些細な怒りは消える。やれ――いや、まだだ、落ち着け。急げ――声がする。こんな格好じゃ周りに怪しがられるのも時間の問題だ。早くしろ――声にせかされ、銀行に入る。足取りがぎこちない。銀紙がこすれるような、変な音が出た。体中の産毛が冷やされ、逆立つ/汗――氷のように冷たくなっている。
体の芯は熱い――煮立っているように/対照的に表皮は冷たい――鳥肌が立つ/かゆくなるほどに。
「お客様、どうなさいました?」
スーツを着た、そばかす混じりの顔――若い男性行員が近づいてきた。表情に浮かぶ記号――怪訝。やたら荒い息、顔が見えないほどのマフラー。深くかぶったつばの長い帽子。三月末――季節は春。北海道にでも行くような格好――明らかにおかしい。
「うるせえ」――力みすぎて大声が出なかった=行員も聞き取れていない様子。思わず、足踏み――もどかしい/焦り/怒り――限界が来る=たやすく爆発する。
「うっせえ!」
「は?」
「うるせえ」――言い直す。
「今、何と――」
「金を出せ!」
行員が言葉を発す前に怒鳴った――ポケットから拳銃を取り出した。迫力十分――かはわからない=知ったこっちゃない。早く金を奪い、逃げる――娘に渡しに行く。脳内で計画を反芻する。そのためには、一刻も早く――。
むっとした行員の表情が、おれの手元を見て変わった――拳銃の効果は絶大だった。抗いようのない威圧感を黒塊は生み出していた。
「早くしろ」
「わ、わかりました、早くお持ちします」――裏返った行員の声。怯え――焦り。怒りを抱く余裕は見られない。
「さっさと‼」
おれはぬるつく手で拳銃を握り直した/声を荒げたのは生まれて初めてだった=当然だ。おれは普通のサラリーマンだった――一週間前までは。腕を持ち上げ、撃った/釘を打ち込まれたような強烈な衝撃――いらだちに任せた軽率な行為を後悔した。だが、仕方ない――本気だとわからせなければ、行員が警察を呼ぶ。金を渋る――その結果、捕まる/金が渡せない=終わりだ。
被害妄想には際限がない。
「もたもたやってんじゃねえ‼」
背後=どよめき。振り向きざま、撃つ/銃弾が音を立てて、壁にめり込んだ――一般客から悲鳴が上がる。
「い、いくら必要でしょうか」
行員が裏返った声で訪ねる――おれは大きめの手提げ鞄を足下に置いた。
「あるだけ全部だ!これに詰められるだけ詰めろ。ケチったら殺す。余計なまねをしたら撃つぞ。距離はちかいんだからな――おまえなんか軽く殺せるんだぞ」
行員が青ざめる=脂汗を浮かせて/おれは大きく息を吐いた――拳銃を持つ手の力は緩めずに/興奮に酔う。
眩暈がする=吐き気もする/断続的に。
映像が浮かぶ=警官が押し寄せる/捕まる。
手足が震え続ける――死にかけの虫のように。
「貸せっ」
よれた鞄の持ち手を摑む――湿っている=行員の手汗。ジッパー――閉める。おれの手も汗ばんでいる。舌打ちしながら、駆けだした。人だかり――再び、頭が爆発する。拳銃――闇雲に撃った。
「どけ‼」
血しぶきと悲鳴。誰が怪我をしたか――しったこっちゃない。腕を振り回す=銃身で人混みをかき分ける――までもなく、誰もが避けてゆく。
「誰か! 誰か警察を‼」
中年女性――おそらく――の声がおれを追ってきた。無視した。
車――銀行から十メートルほど離れた場所にある空き地に止めていた。急げ――足に命令しながら駆け出す。緊張と急な負荷――棒のように固まっていた。誰かがすでに、警察を呼んでいるのは間違いない。こんなところで捕まるわけにはいかない。息が上がる/喉が渇きにひりつく/眩暈の連続。顔がばれないようにかけたサングラス、厚い布のフードつきの上着、マスク――息苦しい。それでも走る。
急げ急げ急げ――おれの車を見つける。鍵――開けっぱなし。乗り込んだ。
徳島の田舎まで車を飛ばす。行き先は実家――そこで娘が療養しているはずだ。速度メーター――百二十キロ。ハンドルが汗で滑る。おれの目はおそらく血走っている――しみるような感触で、分かる。拳銃――助手席に放った。一週間前、五万円で歌舞伎町で買ったもの――弾丸ごと。ネットで調べ、一週間かけて中国人の販売元を見つけた。弾丸は入れ直していた。
金がいる――娘のために。だから――強盗。結果、追われている。すでに四面楚歌。金を渡せるかもわからない。間違っている――誰もが言うだろう。避難するだろう――おれの行動を。間違っている――わかっている。それでも、仕方なかった。娘――重度の肝臓病。手術費は法外だった。家を売った。足りない。親戚中に無心した。それでも足りなかった。会社に無心した。退職願を出した。退職金――最後の望み。
ああ、君、退職するんだっけ――まあ、ウチではいてもいなくても同じだけど。部長ははした金を渡し、おれを追い出した。
もう少し、お願いできませんか。娘が――おれは必死に訴えた。みっともなかった――関係なかった。無駄だった。
はいはい。君程度じゃそれが出せる限界だよ。それじゃ――部長は椅子を回した。おれが口を開く前に手元のパソコンに文字を打ち出し始めた。
すいません、では――おれの声は今にも消え入りそうだった。恥辱に耳たぶが赤くなった。周りの視線――遠ざけた。五感の範囲に僅かでも入れたくなかった。
部長はおれが立ち去るのを見ようともしなかった。
おれだって一生懸命やってきた。生きてきた――部長はおれをあざ笑うように追い出した。
笑顔の消えた我が家――妻は泣き崩れるばかりだった。おれがどうにかする――必死に、奮い立たせた=妻/おれ自身。家がなくなったので、娘はおれの実家に預けた。
金がない=娘を救えない。原因――上司の顔、おれの給料、近所の主婦共の偽善面、妻の辛気臭い顔。無限に浮かんできた。
クソ野郎共が――いつだって、おれは我慢してきた/虐げられてきた。学生時代からそうだった。係の仕事でちょっとしたミスをした=翌日からおれを襲ったのは周囲からの冷たい視線だった。友達なんて出来ない=誰もおれを受け入れてくれない。次第に、ものが隠されたり、プロレスごっこと称して一方的に叩かれるようになった。中学校まで続いた。その間ずっと、家族には人気者の自分という虚像を伝え続けていた。高校は虚無だった。大学も同じ。社会人になれば虐げられる日々に逆戻り。
小学校=些細なことで、嫌がらせをされる――机に小さく死ねと書かれる/牛乳を一人で運ばされる/放課後に中庭に連れだされ、叩かれる。それ以外は無視をされる。親には言えない。先生にも言えない。誰も気づかない。
中学校=クラスのリーダー格に絡まれ、付き添わされる――奴らは騒ぎ、クラスの花瓶を割る。罪をかぶれ、お前のせいだ――脅される。先生にはおれが割ったと自首する。
高校生=環境が変わる。みな、おれなどいないかのように振る舞う。部活の熱気を尻目に、一人で自転車をこいで家に帰る。帰りにはいつも一人でブックオフで暇をつぶす。家族には友人と遊んできたと嘘をつく。
大学生=存在すら認知されない。自分が何者なのかもわからない。
社会人=上下関係/しわ寄せ/コミュニケーション/陰口/激務。家に帰れば子育て/粗末な晩飯/妻の文句。夜は醜態を思い出し、悶え、眠れない――眠れても見るのは悪夢。
それがずっと続く。
おとなしくしていたのに、周りに迷惑をかけないようにしてきたのに、気を使ってきたのに、常に己を犠牲にしてきたのに――歯ぎしり。
車を飛ばす――すべてから逃げてしまいたい。
大分山奥まで来た。張り詰めた身体が僅かに、弛緩する――運転席のシート=汗でびしょ濡れ。荒い息を吐き続ける。
背の高い木が並び続ける。車を走らせる――すぐに消えてゆく/また現れる。どれも違う木のはずなのに、区別が付かない。街中で嫌が応にも目にする、くたびれた顔の社会人――区別がつかない。社会で楽しみを知ることなく没落してゆく社会人――おれのようだった。
‼――目を見開いた。フロント硝子前――車。ハンドルをがむしゃらに回す。衝撃音――振動。車はガードレールを突き破る。道路の端の絶壁に激突する。
停止した黄色の小型車――男が出てきた。引きつった顔――叫んでいる。
「なんなんだ! おい――明らかに速度おかしいだろその車⁉」
怒り狂う男。時間が無い/車が壊れた/
――すぐさまおれは爆発した。
「うるせえんだよカス‼ おれの邪魔すんな‼」
銃口を押しつける――男の顔はすぐさま歪んだ。そのまま相手の車に押し入った。
「よし、てめえ、車を――」
サイレンの音――空気に乗って流れてくる。おれの鼓膜を切り裂かんばかりに。
心臓が止まりそうになる。対照的に震えは止まらない。頭痛/悪寒/恐怖=襲い来る負の連鎖。娘に金が渡せない――捕まってしまえば死ぬ。強盗の娘――世間からの冷遇。
だが、なぜ? 何でおれが強盗だと気づいた⁉
車――レンタカー。身分も虚偽のもの。顔も隠していた。厚手のコート、マスク、眼鏡――それは今も同じ=手掛かりは無いはず。
ばれるはずがない――こんな短時間で。いくら警察が有能であろうと。推測――警察共は、単純に強盗犯のおれを追ってきた。正体が分からなくとも、当然警察は現行犯を追う。
おれは最高速度で突っ走ってきたはず――速すぎる。
どちらにせよ――くそっ。
娘に金が渡せない。
斜面を登ってくるパトカー――二台。心臓が潰れそうだった。
男は引きつった顔で震えている。車――進行方向でなく、パトカーを向いている。間に合わない――
「くそ、くそ、くそ、くそ‼」
両方のパトカーから、警官が一人ずつ飛び出す。どちらも二人組だった――もう一人は運転席に座ったまま。飛び出した二人の警官――ポケットをまさぐる/拳銃を取り出す=おれに向ける。
「止まれ!」
「おい、その人を離せよ!」
おれは男に銃口を押し当てる――拳銃は冷や汗に塗れている。
おれは男に銃口を押し当てる――拳銃は冷や汗に塗れている。
変わらない状況。もう無理だと本能が訴えている。
「止めろ‼」
「うっせえよ! 殺すぞ‼」
おれは叫ぶ。声は裏返っている。むなしく山で谺す。速く逃げろ。ハンドルを動かす、車を発進させる――ハンドルが動かない。レバー――自分の車種とは全く違う。運転できない。また、出来ても間に合わない――視界が暗闇に覆われる。
視界が回り続けている。警官、木々、男、拳銃――眩暈の余りすべてが曖昧になる。足下さえおぼつかない。吐き気/苦痛――どうやっても絶望に回帰する。
もう無理だ――声がする。娘に金は渡せない。おまえは捕まる。ふざけるな――声に返す。
警官が何かを言っている――聞こえない。銃口を突きつけられた男が泣きながらわめいている――聞こえない。
声とおれだけがこの世界に存在している。
おまえは犯罪者だ。もう手遅れだ。
娘のためだ。退職金、家を売った金――すべてが足りなかった。アルバイトを掛け持ちしても間に合わない。だから、犯罪を犯してでも、娘を救うと決めたんだ。
声は続ける。
何で強盗なんかした?――それなら。娘の為に金がいる=いくらでも短期間で、金を集める方法はある。借金でも何でもいい。おまえの生命保険でも。
おれがいなかったら、娘も悲しむ。
呆れたな――結局、おまえは自分を傷つけることは出来ないんだ。他の人間を呪い、傷つけようとも、自分だけは護りたいんだ。
声のおれへの反論は続く。諭すような口調――脳みそがひび割れそうだった。
違う‼ 家族のため、娘のためだ‼ 他に思いつかなかったんだよ! やり方が間違いだろうが、おれの愛は本物だ!
おれは虚空に向かってわめく。
じゃあ、おまえは強盗するとき、家族を――何より娘を思い浮かべたか?
おれは答えない。
結局、おまえにとっておまえ以外はすべて他人なんだ。他人のために覚悟をするなんて、おまえという人間にとってはあり得ない。考えない。
ただ、おまえは社会に復讐したかっただけなんだ――己の不遇の原因のこの世に。娘を口実に。
どうでもいいさ――どうせ、気に入らないから。そうだろう? どいつの命も。
金を奪えなかった――おれの威厳を奪えなかった。なら、こいつの命を、警官共の威厳を、奪って、ぶち壊してやる。
警官、男――何も聞こえない。彼らの顔さえ分からない。
男の喉を掴み、フロント硝子に叩き付ける。後頭部――銃を突きつけ、撃った。男の頭が破裂した。爆裂し、飛び散る脳みそ。音を立て砕け、飛び散る硝子。警官の絶叫。すべてを飲み込む甲高い音。
笑った。腹が引きつるほどに笑った。
脳みそで咳き込んだ。目に血が染み、痛みを訴えた。
それでも笑った。吐きながら笑い続けた。
――山の中で虚ろに谺する、絶望的なまでのおれの哄笑。