第6話 二重生活開始
そして三日後、アレンはあくびを噛み殺しながら冒険者ギルドへと戻ってくると、いつも通りにスライムの魔石を出勤してきたマチルダへと渡して帰途へついた。
ちなみに勤務日数が減り、その代わりに一日当たりの時間が長くなったためスライムの魔石のノルマが二百個に増えていたが、アレンは余裕をもってそれをこなしていたので全く問題はない。
レベルアップの罠の予約は既に半年先までいっぱいになっている。
レベルアップの罠自体が珍しい罠であることも確かだが、それが街から一時間で着くことができるほど距離が近いダンジョンにあり、しかもそこに出てくるモンスターは危険性のほとんどないスライムのみということもあって、この機会にレベルを最大まで上げてしまおうという人が多いのだ。
そのせいで逆にレベルが最大まで上げづらくなってしまい、未だにレベル500となった者は出ていない。
言い方を変えれば一種のバブルだ。
しかもレベルを上げたい者は少なくないため、その泡がはじけることは早々にない。冒険者ギルドとしては、ほぼ何も投資せずに勝手に利益が出るのだから笑いが止まらない状態と言える。
とは言えそれが給料に反映される訳でもないアレンにとっては、しばらくこの勤務形態が続くことの方が重要ではあるのだが。
街の西北西、スラムにほど近い場所にある自宅へと戻ったアレンは、窓を閉め切りしばしの仮眠に入った。
これからのことを考えるとなかなか寝付けなかったのだが、十三時間歩き回った疲れも手伝ってか、しばらくして静かな寝息がその部屋に響く。
そして昼過ぎに目を覚ましたアレンは簡単な食事をとると、にやにやした笑みを浮かべながら用意しておいた衣装を取り出した。
それは全身を覆うローブと、アレンが昔、単独でダンジョンに行ったときに発見した唯一の宝であるクラウンのマスクだった。それを身につけ軽く体を見回しアレンはうんうんとうなずく。
ローブですっぽりと体を覆い、そこからのぞく両目から涙を流すクラウンの仮面という姿は疑いようもなく不審者であるのだが、当のアレンは自身の正体を隠すことしか頭になく、これならば見破られることはないだろうとご満悦だった。
日が暮れ、とうの昔に着替えを済ませていたアレンは事前に用意してあった荷物一式を背負ってこっそり家を出て西へ向かって歩き始める。
歩みを進めるごとにすえた臭いや、路上に転がるゴミや人が目につくようになっていく。
道の両側に建てられた家々は、もともとあった家をそこに住む人が勝手に改築していっているため、ごちゃっとした統一感のない街並みになっていた。
ライラックの西地区の防壁の付近にはスラムが広がっている。北、東、南にはそれぞれ門があるため、外部の人の目につきにくいそこに集められたという方が正しいかもしれない。
過去にはスラムを排除しようという動きもあったのだが、いつの間にか元の状態へと戻ってしまうため、放置されているというのが現状であった。
たまに迷い込んでしまった旅人などが金を巻き上げられるといった被害は出るが、スラム外の者に対する殺人などは起こらないため、住民にとっては危険だが近づかなければ問題ない地区という認識になっている。
街の中心部のような灯りがないためほぼ真っ暗な道をアレンはすいすいと進んでいく。それはアレンの夜目が利くからというわけではなく、アレンのかぶっているクラウンのマスクの効果だった。
白粉で塗りたくられたような真っ白な顔に赤い鼻、そして両目を黒いひし形が突き刺しており、そこから黒い涙が流れているという、呪われていそうなクラウンのマスクをアレンはかぶっていた。
しかしその効果は見た目に反して高く、マスクをかぶっても視界は遮られず、暗闇でも昼のように見えるようになり、そのまま食事さえでき、自ら外そうとしない限りマスクがずれることさえないというかなり良いものだったのだ。
アレン自身、手に入れた当時はこれでデザインさえまともならと涙し、装備するかそれとも売り払うか散々迷ったあげく、いつか使うかもと考えて結局使うことなく家の奥で眠っていたものだが、いつ何が役に立つのかわからないものだ。
スラムをアレンはすいすいと進んでいく。いつもならゴロツキに声を掛けられるくらいはするのにな、と少しアレンは疑問に思ったが、順調であるなら問題ないかとあまり気にしなかった。
全身をフード付きのローブで身を隠して、さらにはクラウンのマスクをかぶった不審者に、スラムの人間さえも接触を避けたという真実を、幸か不幸かアレンが知ることはなかった。
特に何事もなく西の防壁へと到達したアレンは、ライラックの街を守る要であるそれを見上げる。
十メートルを超えるその堅牢な姿は住民には安心感を与え、外敵には威圧感を与える。ライラックの街が出来て以来補修を続け、街を守り続けてきたという貫禄がそうさせるのかもしれない。
とはいえ今のアレンにとってはただの越えるべき壁でしかない。
「さてと、行きますかね」
アレンはそう呟くと防壁へ向かって走っていく。そして地面を蹴って飛び上がり、六メートルほどのところで一度防壁を蹴りつけると、その勢いを利用してさらに上へと飛び上がった。
余裕を持って防壁の上部へと手をかけたアレンはきょろきょろと左右を見まわし、見回りがいないことを確認するとよじ登ってそのまま外へ向かってダイブした。
しばしの浮遊を終え、アレンが軽々とした仕草で音も出さずに街の外の地面へと着地する。防壁を飛び越えたことに気づいた者はどこにもいなかった。
アレンは音を立てずに走り、遠ざかっていく防壁をときおり振り返りながら改めて自身のステータスの脅威を思い知っていた。
防壁には魔法による侵入を防ぐために付近で魔法を使えないようにするアンチマジックの結界が張られているのは周知の事実だった。
だからこそ魔法を使わず、肉体の力のみならば不法侵入することができ、そんな方法で侵入しているスパイがいるという根も葉もない噂がまことしやかに流れていた。
アレン自身、何を馬鹿なと思っていたのだが、本当に実行できてしまった身として噂は本当かもしれないと思い直していた。
そして同時にもっと見回りを増やすべきなんじゃあと、ある意味で余計なお世話な考えが浮かんでいたが、それをされると困るのは自分自身だということも重々承知していた。
意味のない考えを頭を振って消すと、アレンはとりあえず街から離れることに専念すると決めて走り続けたのだった。
アレンが目指しているのは、ライラックの街の冒険者ギルドが管理する四つのダンジョンの内の一つ、西にある鬼人のダンジョンである。
近くに門がないことや出てくるモンスターのせいでライラック周辺のダンジョンとしては北のスライムダンジョンの次に人気のないダンジョンである。とはいえ他の冒険者とのごたごたを嫌った者たち御用達のダンジョンであり、そこに潜る冒険者たちのレベルは決して低くない。
その者たちを満足させるだけのモンスターやお宝が出てくるということだ。
つまり、あまり目立たず腕試しをしたいアレンにとって最適なダンジョンと言えた。
わくわくが抑えきれず、アレンは通常であれば歩いて二時間程度かかるダンジョンまでの道のりをわずか十分ほどで息一つ切らさず走りきる。
そして鬼人のダンジョンの出入りを管理している冒険者ギルドの職員が常駐している出張所の小屋へと意気揚々と入っていった。
「うわぁ! なんだお前は! 強盗か、ここには金なんかないぞ!!」
「……」
書類仕事をしていたのか机に座っていたギルド職員の男が、突然現れたクラウンのマスクの不審者に驚き飛び上がる。そしてその男は同時に腰から剣を抜き放っていた。
関わりはほとんどないが顔はお互いに知っている間柄のギルド職員に剣を向けられ少し動揺したアレンだったが、完全放置状態だったスライムダンジョンと違い他のダンジョンは出入り口にある出張所で入る許可を取らなくては中に入れない。
管理は冒険者ギルドがしているとは言え、ダンジョンは本来、街の領主である伯爵の所有物なのだ。無法など出来るはずがなかった。
それを十分に理解しているアレンは、あくまで平和的に解決するためにそのギルド職員の男へと近づこうとする。
アレンが一歩近づく、すると男が一歩離れる。
また一歩近づく、するとまた一歩離れる。
じりじりとした攻防が続き、ついにギルド職員の男の背中が壁に当たった。
男の顔は蒼白で、その体にはじっとりと嫌な汗が流れていた。元冒険者という矜持もあり、剣こそ取り落としていないものの、その頭は恐怖に支配され恐慌状態に陥る瀬戸際だった。
異様な格好もそうだが、そのクラウンの仮面をかぶった男は無造作に近づいてくるのに隙がないのだ。いや正確にいえば隙はあるのだが、どこを攻撃しても反撃されるという確信とも言えるような予感が男にはあった。
それは冒険者時代にさんざん男を救ってきた直感だ。その直感が言っているのだ。
こいつは化け物だと。
アレンがローブの中へと手を入れる。攻撃する絶好の機会であるのに、男が出来たのは目を閉じることだけだった。
抵抗など意味がないと諦めてしまったのだ。ならばせめて自分の殺される光景など見ずに死のう。そう考えての行動だった。
一秒経ち、二秒経ち、そして十秒経っても、男の予想したその時は来なかった。
男が恐る恐るうっすらと目を開ける。
そして眼前に見えたのは男にも見覚えのある文字。「ダンジョン入場申請書」と大きく書かれた書類だった。
「へっ? ダンジョンに入りたいのか?」
男の問いかけにアレンがコクリとうなずく。そしてその申請用紙と申請料の千ゼニーを男へと差し出した。
「ええっと、ネラっていう名前なんだな。申請料を払うってことは冒険者じゃねえってことでいいよな」
再びアレンがコクリとうなずく。
ダンジョンに入る場合、冒険者ギルドへと登録している者はそのギルドカードを出すだけで入ることが出来るが、冒険者ギルドに所属しない者が入ろうとすれば既定のお金を払う必要があるのだ。
この鬼人のダンジョンの場合はそれが千ゼニーであった。
どうやら危険はないようだと察した男の頭が少しずつ冷え、落ち着いていく。そして自分のすべき仕事を思い出した。
「ダンジョンの説明は必要か?」
アレンが首を横に振る。そしてそのまま男を残して小屋から出ていった。
小屋の中に残された男は、まるで何かに化かされたような気持ちになりながら、しかし手元に残った千ゼニーと申請用紙が今の出来事が現実であることを証明していた。
ぐっしょりと汗を吸った服の不快感を覚えながら、こんなことが続くようなら近いうちに配置換えの申請をしようとギルド職員の男は決意を固めたのだった。