第1話 ライラックへの帰還
新章始まりました。
ライラックはエリアルド王国の南東に位置する国有数の規模を誇る街である。
交通の要衝であるため商人などの行き来も多く、さらには街の周囲に四つのダンジョンが存在しているため、それを目当てに多くの冒険者が活動し、そこから産出される希少な素材は街の繁栄に大きく寄与している。
そんな活気のある街の大通りを一台の箱馬車がゆったりと進んでいた。引き締まった筋肉を持つ四頭の馬が曳くそれは、細部まで洗練され一目で高級なものであることがわかる。
家紋が刻印されていないため貴族が保有するものではないが、下手な貴族が所有しているものより良いものであることは明らかだった。
大通りをしばらく進み、そこから程近い大きな屋敷の前でその箱馬車が止まる。そして御者の男が音もなく御者台から降りると、扉の前に階段を設置して、静かにその扉を開けた。
「足元にお気をつけください」
「おう」
御者に促されて出てきた男が、少しまぶしそうに手で日差しを遮りながら階段を降りる。箱馬車の豪華さに比べるといささか見劣りしてしまう使い込まれたジャケットを羽織り、硬いブーツでその階段を踏んだのは、この街を拠点とする冒険者であるアレンだ。
ドゥラレのダンジョンを初踏破したことにより金級冒険者となっていたが、その服装は相変わらずであり、少しはねた茶髪をそのままにしているところなども変わっていない。
そんなアレンが振り返り、箱馬車の中に向かって手を差し伸べる。その手にそっと柔らかそうな白い手が置かれ、そして顔を赤くしながらもどこか嬉しそうな顔をした美女がその姿を現す。
ゆったりとした白のワンピースに身を包み、そのブラウンの瞳で降りるのを補助するアレンを見つめるのは、冒険者ギルドの職員であり、アレンの妻でもあるマチルダだ。
「アレン、そこまでしなくても大丈夫よ」
「いや、なにかあったら大変だろ」
首を横に振り、頑として聞き入れないアレンの姿にマチルダが苦笑を浮かべながら階段を降りる。アレンの視線が注がれているマチルダのお腹は、一目見ただけで妊娠しているとわかるくらいにぽっこりと膨らんでいた。
マチルダが階段を降りきり、やっと手を離したアレンが、優しい眼差しで二人を見つめていた御者の男へと向き直る。
「ありがとうな、マシュー。おかげで快適な旅だった」
「いえ、こちらこそ色々良くして頂きました。またのご利用お待ちしております」
「おう。マシューカ、マシュール、マシューテ、マシューホもまたな」
しっかり箱馬車を曳いていた馬一頭、一頭の名前を呼ぶアレンの姿に、マシューがその相好を崩す。じゃれつくようにマシューカたちはアレンに顔をこすりつけ、アレンもそれを当然のように受け止めながらその流れる毛並みを撫でていた。
マシューにとってマシューカたちは家族だ。そんな家族をアレンがただの馬として一括りしなかったことが嬉しく、自然とその顔には笑顔が浮かんでいた。
上機嫌のまま去っていったマシューを見送り、一息を吐いたアレンとマチルダが同時に顔を見合わせる。
「さて、帰ってきたな」
「そうね。まあ本当の家じゃないけれど」
「一応こっちも本当の家ではあるんだけどな。俺自身あんま実感ねえけど」
目の前の立派な門を眺め、それに続く大きな屋敷を視界に入れながら二人が苦笑する。
もちろんここはアレンが以前暮らしていたスラムに近い実家ではない。学術都市国家キュリオに現在は席を置く薬学の研究者であるギデオンがもともと住んでいた屋敷だった。
奇妙な巡りあわせの末に、今はアレンが半分所有権を持ち、残りの半分を保有しているギデオンから自由に使って良いと言われている屋敷なのだが、今まで二人は余分な物を置く倉庫代わりにしか使っていなかった。
元々アレンが住んでいた家も二人で生活するのであれば十分な広さであり、アレンの手によって改装されたことで快適に生活できていたからだ。
それなのにライラックへと戻ってきたアレンとマチルダが、以前二人で住んでいたアレンの家ではなく、こちらの大きな屋敷へとやってきたのは妊娠し、お腹がかなり大きくなったマチルダのことをアレンが心配したからである。
設備としてもアレンの家より良いものが揃っているということがあったが、一番の理由は街の中心部に程近い場所に屋敷があるため、いざという時に医者をすぐに呼べるからということだった。
その時、屋敷の扉が開き、姿を現したメイド姿の若い女性が肩の長さで切りそろえられた黒髪を揺らしながら門の前で話す二人のもとへ駆け寄る。
「お待たせして申し訳ありませんでした。おかえりなさいませ、ご主人様、奥様」
「いや、そのご主人様ってやつはやめてくれ。なんというか、むず痒いし」
「いいじゃない。それ込みで雇っているんでしょ。初めまして、私はマチルダよ。あなたはコルネリアでいいのかしら?」
ぽりぽりと鼻をかいて苦笑いを浮かべるアレンに、軽く肘うちをしながらマチルダがそのメイドに微笑みかける。
「はい、見習いメイドのコルネリアと申します。若輩者ではございますが、誠心誠意尽くさせていただきます」
ぴこぴこと揺れるネルの頭についた猫耳と、メイド服のスカートからチラリと見える尻尾のピンと張った様子に、長年冒険者ギルドの受付をしていた経験からかなり緊張しているなと察したマチルダは、その緊張が少しでもほぐれるようにと柔らかく微笑んで返す。
「私たちは貴族でもないし、そこまで緊張する必要はないわ。帰ってくるって先触れを出さなかったのは私たちなのだからあなたに非はないでしょ」
「そうそう。もっと気楽にいこうぜ。俺は元々庶民の出だし、マチルダの手助けをしてくれればいいなと思って雇ったわけだし、堅苦しくて気疲れしちゃ意味ねえだろ」
マチルダとアレンの言葉に、コルネリアの表情が少しだけ柔らかくなり、そしてピクリとその耳を動かして背後から聞こえる足音を拾うとその表情を即座に引き締めた。
「あまり孫を甘やかさないでいただけますか? この子はそうでなくても調子に乗りやすいのですから」
そんなことを言いながら近づいてきた、コルネリアに良く似た初老のメイドがしなやかにその尻尾を揺らす。まるで鞭のように動くその尻尾に表情を固まらせるコルネリアを眺めながら、アレンは苦笑した。
「本心なんだけどな。ああ、そうだ。マチルダ、この人が以前からこの屋敷を定期的に管理してくれていたルトリシアさんだ。俺はルーばあさんって呼んでる」
「奥様、ご紹介に与かりましたルトリシアと申します。既にメイドとしては引退した身ではございますが、出来の悪い末孫ともども誠心誠意尽くさせていただきます」
「マチルダです。こちらこそ無理を言ってしまって申し訳ありません」
引退したと言いつつも、コルネリアよりもはるかに洗練された仕草で挨拶をするルトリシアにマチルダが感謝を伝える。
ルトリシアはほんの少し、マチルダのお腹を見つめて優しい笑みを浮かべると、ゆっくりと首を横に振った。
「お気になさらずに。この歳になっても、自らの経験を評価していただけたことは幸せに他なりませんから。そして新たな命のためにまた働けるということも」
目を細めながら、ゆったりと尻尾を揺らすその姿は、その言葉が本心であるとなにより物語っていた。
実際、本人が言うようにルトリシアは既に現役のメイドではなく、定期的にアレンの屋敷の管理だけを商人ギルドで受けていた。本人としては細々とそういった仕事を受けるだけのつもりだったのだが、そんな彼女にアレンがマチルダを手助けして欲しいと直接依頼したのだ。
人が不在の屋敷を管理するという仕事を受けられるだけの商人ギルドからの評価、そして打ち合わせした時の温和かつ柔軟な対応、そしてその完璧なまでの仕事にアレンは前々から人を雇うのであればルトリシアが良いと考えていたのだ。
メイド歴の長いルトリシアは出産の立会い、そして育児の経験も豊富であり、彼女なら安心してマチルダを任せられると判断したからだ。
当初、アレンのお願いをルトリシアは受けなかった。既にメイドとしては引退した身であり、体も全盛期に比べて衰えてきた現在ではメイドとして十分な仕事を果たせない、そう断ったのだ。
しかし、それでも諦めないアレンにルトリシアは一つの条件を出した。それは、末孫であるコルネリアをメイドとして雇ってほしいというものだった。その教育係としてであれば、アレンの依頼を受けると、そう伝えたのだ。
お読みいただきありがとうございます。
少し遅れてしまい申し訳ありません。
章の名前をどうしようか悩んでいるうちに時間が経ってしまいました。
結局シンプルなものに落ち着きましたが。