閑話 風変わりな夫婦
学術都市国家キュリオ。
それは、国と名はついているが、実質的には周辺を取り囲むエリアルド王国を始めとした3国が共同研究を行うために造られた街である。
その国で女王、都市長などといった呼ばれ方をする、名目上の最高権力者であるネイラノールが住んでいるのは都市の中心部、幾多の研究所に囲まれた場所に位置する賢者の塔の最上階だ。
ワンフロア全てがネイラノール専用となっており、その中にはネイラノールの研究用の部屋さえ存在している。ただ現在ネイラノールは学生を指導したりといったことはしていないため、ここに来る者はごく限られた者しかいなかった。
そんな最上階へと続く階段のそばの一室。他国からの来賓などを迎えるために用意された滅多に使われることのない、高価な芸術品が飾られ魔道具によって空調なども整えられている応接室にて、ネイラノールはソファーに座りながらにこやかな笑みを浮かべていた。
「このたびは説得にご協力いただき本当に感謝いたします、殿下」
そう切り出したネイラノールが対面に座る若い男へと心からの感謝を伝える。
ゆったりと体を預けることもできる最高級のソファーに座りながらもぴんと背を伸ばし、エルフのネイラノールという美女に微笑みかけられながらも表情一つ動かさずに男は応じた。
「いや、あの者はもともと我が国の研究者だった。我々が動くのは当然だ。それに発表を許せば治安維持に支障が出る可能性は高かった。国防を担う者として私が動くのが良い、そう判断したまでだ」
「そういえば殿下は第二師団の師団長でもいらっしゃいましたね。たしか第二師団は……」
「国内の治安維持が主な役割だ。不穏分子の排除なども含まれるがな」
記憶を探るように言葉を止めたネイラノールの後を継ぐように、チラリとネイラノールの背後の壁へと視線を向けて殿下が言葉を補足する。
表情の全く動かないことやその発言内容から、どこか後ろ暗いところを感じさせたが、ネイラノールは全く気がついていないかのようにさらりとそれを流した。
「あの者はどうされるおつもりですか?」
「王都へと連れ帰る予定だ」
「そうですか」
即座に返ってきた答えのその先のことを意図して質問したネイラノールだったが、それ以上聞いたとしても意味のないことだとそれ以上の問いかけをやめる。
既に件の研究者の身分はエリアルド王国のものになっており、その処断に関してはネイラノールの力の及ぶところではなくなっている。分野は違うとはいえ、同じ研究者として思うところはあるものの、ネイラノール自身がさんざんした忠告を聞かなかった結果なのだから仕方ないと諦めたのだ。
重い話題を切り上げ、軽い歓談へと変わったものの殿下の表情は全く変わらなかった。
もしかすると表情筋が固まっているんじゃないか、とネイラノールの研究心がうずきはじめたころ、話題が一区切りしたところで殿下がゆっくりとうなずいた。
「この度の歓待、感謝する。学術都市キュリオが今後も真なる研究者たちの楽園として発展していくことをエリアルド王国、第二王子として願う」
「ありがとうございます。我々の研究が三国にとって良いものとなるよう努力いたします」
その形式的な言葉を最後に2人の個人的な会談は終わった。
エリアルド王国、第二王子シャロリックが出て行き、1人残された応接室で疲れたようにソファーに身を預けていたネイラノールの耳にドアをノックする音が聞こえる。
それに対してネイラノールが入室の許可を出すとすぐに入ってきたのは、エルフとは思えない屈強な体つきをした短髪の男、フルナゼーノの先生でもあるトラエノールだった。
トラエノールはソファーに体を預けてだらけるネイラノールの姿を見て苦笑を浮かべると、手に持っていた水の入ったグラスをテーブルに置き、先ほどまでシャロリックが座っていた位置へ音もなく腰を下ろす。
ソファーから体を起こしたネイラノールが、最初に一口だけ礼儀として口にした最高級の茶葉を使用し高価な茶器に淹れられたお茶には目もくれず、ただのグラスに入った水を飲み干す様子を面白そうに眺めながらトラエノールが口を開く。
「疲れているね」
「ええ。あなたに代わって欲しいくらいには」
「上に立つものとして外見と言うのは重要な要素だよ。僕には無理な相談だ」
軽く力こぶしを見せつけて笑うトラエノールに、先ほどまでの女王としての微笑みとは全く違う自然な笑みをネイラノールが浮かべる。
「トール。あなた、そのために鍛えた体を維持しているんじゃないわよね?」
「昔、親友に言われたんだ。仲間は裏切るかもしれないが、自分の筋肉だけは決して裏切らない。むしろ裏切るとすれば自分が筋肉を裏切るんだ。だから筋肉を鍛え続けている者は信頼できるとね。生涯鍛え続け、そして僕を裏切ることもなかった親友の生き方に僕は共感しているんだよ。君も好きだろ?」
「……まあ嫌いじゃないわ」
飲み終えたコップを机に置き、そして立ち上がってトラエノールの横にしなだれかかるように座ったネイラノールがその上腕二頭筋をつねろうとする。しかし確かな弾力をもってトラエノールの筋肉はそれを跳ね返した。
自慢げに笑うその頬を引っ張ろうとネイラノールが手を伸ばすが、それが届く直前にその指に1枚の封筒が挟み込まれる。
「これは?」
「我らが英雄からだよ」
「あらっ、カールから? あの子から手紙が届くなんていつぶりかしら。それにしても息子のことを英雄と呼ぶなんて、あなたやっぱり変よ」
「内容を読めば君もそう思うさ」
不敵な笑みを浮かべて手紙を読むように促すトラエノールの姿に、少し首を傾げながらもネイラノールが封筒から手紙を取り出し、それを目で追っていく。
しばらくの間は、どこか懐かしそうな顔をしていたネイラノールだったが、ある一文に目を見開き、バッとトラエノールへと視線を向けた。
そしてトラエノールが黙ったままゆっくりとうなずく姿を確認したネイラノールは大きく一度息を吐き、再び手紙へと戻してそれを読み終えた。
「荒ぶる森の精霊に認められた、あの子が?」
「他部族のエルフもその光景を目撃している。にわかには信じがたいことだけどね」
「ヴェルダナムカの森のざわめきがここまで聞こえてきそう」
エルフの特徴とも言える長い耳をわざと動かしながらネイラノールが疲れた表情で天を見上げる。
精霊を信仰するエルフたちにとって、その精霊に認められたということが何を意味するのか明らかだった。
カミアノールだけでなく、下手をすれば目撃したエルフたちの人生さえも大きく変わってしまうかもしれない、そんな未来図をネイラノールは頭に浮かべ、再びため息を吐いた。
「君がそこまで気にする必要はないさ。カールはもう200歳を超えているんだからね」
「それはそうかもしれないけれど……」
「大丈夫。カールは筋肉の良さは理解してくれなかったけれど僕が徹底的に鍛えたし、加えて君の聡明さも受け継いでいる。気に食わなければ別大陸に逃げるくらいするだろう」
「それもそうね。女の子にもてなくなるから筋肉は嫌だって、あなたから逃げ切るくらいには頭が回るものね」
つい最近の出来事のように100年以上前のことを語るネイラノールの言葉に、トラエノールが男くさい笑みを浮かべて遠くへと視線をやった。
無言の内に昔を懐かしんでいた2人だったが、「そうそう」と思い出したように口にしながらトラエノールが視線をネイラノールへと向ける。
「そういえば手紙にアレン君のことが書かれていたのに気づいたかい?」
「ええ、うっかり殺しそうになったって……もっと早くにこの手紙が届いていれば私も謝罪できたのだけれど」
「ふふっ、女王に謝罪なんてされた日には彼も逆に迷惑だろう。しかし不思議な縁だね。彼は僕、カール、そして君とそれぞれ別の理由で関わっているんだ。ただの冒険者だというのに」
「含みのある言い方をするわね。昔の癖が抜けてないんじゃない?」
意味ありげな笑みを浮かべるトラエノールに、ネイラノールが呆れた目をしながらチクリと釘を刺す。それを受けて歯を見せながら、はっはっはと笑ったトラエノールだったが、その目の奥にはどこか冷たいものを感じさせた。
「いや、彼が善良な性格をしているというのは僕も疑っていないよ。僕たち3人に会ったということもただの偶然だろう」
「なら……」
「でもね、善良だからといって危険ではないかというとそうではないんだよ。まあ僕の経験則というやつだね。という訳で君に1つ提案がしたい。彼の弟のジーン君についてなんだが……」
真剣な表情でそこまで言って、トラエノールが言葉をためる。思わずネイラノールがごくりと唾を飲み込むのを確認し、トラエノールはその表情を崩した。
「大切に見守って欲しい。婚約者のフーノが僕の研究所にいるから、結婚の後見人になるなんてのもいいかもしれないね」
「あなたねぇ」
冷たい視線をネイラノールから受けるが、それに対して臆することなく嬉しそうにトラエノールは笑っていた。
しばらくぶりの愛しい人との時間を楽しみつつ、トラエノールは胸の内で考える。
(たぶん、アレン君の大切な者を大事にするのが一番の安全策になる。そんな気がするんだよ、ネール)
いざという時が来たら自らの命を捨ててでもネイラノールを守り抜く、そんな数百年にも及ぶ想いのためにトラエノールは今日も筋肉を鍛え続ける。
ソファーに座っているように見せて、そこに体重を全くかけないという地味な鍛錬を当然のようにトラエノールは行いながら、風変わりなエルフの夫婦の歓談はしばらく続いたのだった。