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オーサーの導き

作者: 藤 達哉

 祐輝は河畔の喫茶店で百合と会っていた。窓下を流れる川面には桜の花びらがアップリケ模様のように漂っていた。

「春真っ只中ね」

百合が微笑んだ。

「そうだね、初めて百合に会ったのもこの季節だったね」

祐輝も微笑を返した。

店を出て川沿いの道を歩きだした二人の頬を、心を包むような甘い春風が撫でていた。

 百合はカリフォリニア大学バークレイ校に留学し、AIの最先端の研究を行い帰国したばかりだった。彼女はその分野の先頭に立っていた。

繁華街のはずれにある割烹で夕食をとり、その後郊外にあるバーのカウンターに落着いた。付合い始めて季節がひと巡りしていたが、祐輝は百合の自宅がどこにあるかさえ知らなかった。

「研究は順調なの」

彼女は帰国後、洛中大学で講師として研究を続けていた。

「ええ、なんとかやってますわ、だけど日本の研究はアメリカに比べると五年以上遅れています、これ以上差がつくともう追いつけません、脱落者になってしまいますわ」

「百合が救世主になるのかい」

彼が返した。

「そうなればいいんですけど、この分野は超ロケットスピードで変化していますから、並みのことをしていてもだめですわ」

百合は背筋を伸ばし、カクテルグラスを傾けた。

「百合は天才的な才能の持主だから、そんなのへっちゃらじゃないの」

祐輝は冗談交じりに微笑み、ロックグラスの琥珀色のウィスキーを舌の上に乗せた。

「あら、そう簡単にはいきませんわ」

「今度のテーマはなにかな・・・、あっ、聞いても解んないか」

「量子コンピュータとAIのコラボについての研究ですわ」

「うーん、なんだか難しそうだな」

「そうですね、まだ始まったばかりの新分野なんですの」

「この研究が進むとどうなるのかな」

「量子コンピュータの処理速度はスパコンの数万倍です、だからAIと組合せることで、恐らく人智を超えることになると思いますわ」

「そんなことになるのか」

「このプロジェクトが旨くいけば、いろいろと応用できますわ」

「応用って、例えばどんな」

「位置測定とか自動運転とかは勿論ですけど、医療分野では遺伝子治療とか、ゲノム編集とか応用は無限にありますの」

「いろいろあるんだ」

「だけど医療分野ではクローンを創ったり、人間が勝手にデザインした動物が生まれる可能性もありますの、そうなったら人間が神の領域へ入ることになりますわ」

「なんだか空恐ろしいね」

「そうですね、その先は私にも分りませんわ」

「どこの国でもこの研究してるのかな」

「最先端をいってるのは日本とアメリカですわ」

「そういうことか、研究が進んだらまた教えてくれる」

「いいですわよ」

「百合の仕事は結構疲れると思うんだけど、これどうかな」

彼は褐色の紙巻タバコのようなものを取出した。

「なんですの」

「大麻ですよ、ほっとしますよ」

「あら、どこで覚えられたんですか」

「学生時代アジアを放浪したことがあるんですが、そのころアフガニスタンで愛好者に勧められたんです」

「そうですか、でも私だめなんです。アメリカに住んでる時にいろんな薬をやってみたんですが、全然効かなくて。体質的にそうみたいですわ」

彼女は微笑んでいた。

ふたりはグラスを空けて外に出た。

「夜空が綺麗だね」

見上げた満天の星空から蒼い月影が降注いでいた。

「ご馳走様でした、明日も早いからもう帰りますわ」

百合は足早に去って行った。


 五年前、大学を卒業した祐輝は定職に就かず、様ざまな仕事を転々とし、最後に辿り着いた仕事がホストだった。色白、端正な顔立ちの彼はたちまちホストクラブのナンバーワンになった。

女性との会話も巧みで、大勢の馴染客を擁し、やがて彼は、これが自身の天職だと思い始めるようになった。

しかし、そこにいたる道筋は平坦ではなかった。

「おい、祐輝」

閉店後、店を出てきた祐輝に男が声をかけた。

祐輝が振向くと、トムの姿があった。トムはこれまで店のナンバーワンを張っていた。

「なんだい」

祐輝は微笑んで応えた。

「お前、ちょっと人気があるからっていい気になるんじゃねーよ」

トムは言葉を吐きながら、祐輝の胸座を両手で掴んだ。

「おい、待てよ、なにするんだ」

祐輝は咄嗟に手を振り解いた。

「こいつ、こうしてやる」

トムの右手にはサバイバルナイフが光っていた。

次の瞬間、彼が祐輝に突進してきた。祐輝は身を翻し、両手で懸命に彼の右手を押さえ、揉みあいになった。

「うっ」

声を上げたトムの頬は鮮血に染まっていた。

「・・・」

祐輝は驚いてトムの顔を見た。

「なにするんだよ、商売道具の顔を傷付けやがって」

トムは傷口を押さえながら祐輝を睨みつけた。

対峙する二人の間に、店から出てきた同僚のホストが割って入り、その場は収まった。

 翌日、祐輝が出勤すると、トムが控室で待っていた。

「これどうしてくれるんだ、お前のせいだぞ」

顔の半分を包帯で巻いたトムが毒づいた。

「そんなこと言ったって、お前が始めたんじゃないか」

祐輝は言い返した。

「全治三週間、傷痕がずっと残るんだぞ」

トムは拳で机を叩いた。

後日、大事なホストの顔を傷つけたとして、トムは祐輝を相手取り民事訴訟を起こした。騒動を先に起こしたのはトムだったが、顔に傷痕の残した事実はいかんともし難く、裁判を嫌った祐輝は三百万円を払う示談で解決を図った。

貯えのない彼は、示談金のためサラ金から借入れし、大きな負債を背負うことになった。


 声をかけられたのはそんな時だった。

「祐輝君だね」

暗闇から声が聞こえた。

「そうですが」

深夜、彼は店の仕事を終え、ほろ酔い気分で繁華街を歩いていた。

「君に話があるんだ、一緒に来ないか」

低音で落着いた口調だった。

「どこへ行くんですか」

「まあ、黙って来なさい、君にとっていい話だから、さあ、乗りなさい」

黒い高級車が眼の前に滑り込んできた。

促がされて、彼は運転手が開けたドアから後部座席に乗込んだ。車内は暗く、傍らに坐る声の主の顔は見えなかった。

「さあ、これを着けるんだ」

男は黒い布を取りだし、祐輝に目隠しをした。

ひんやりとした目隠しは彼の視界を遮った。

車は寝静まった市街を駈け抜け、猛スピードで郊外へ向かった。住宅街を過ぎ、やがて山岳地帯を疾走し、一時間ほどの後、レンガ造りの大きな洋館に着いた。どこをどう走ったのか、彼には見当もつかなかった。

目隠しを外してエントランスのステップを踏み、中へ入ると応接に通された。

「まあ、かけなさい」

男に促がされて、祐輝は柔らかいソファに坐った。

「なんの話でしょうか」

彼は神妙な口調で訊いた。

「君はホストとしてなかなかのやり手のようだね」

部屋は仄暗く、相変わらず男の顔は見えなかった。

「はあ、まあ、なんとかやってます」

「君はルックスもよく、魅力ある男性のようだね」

「はあ、あのお話というのは」

「これは失礼、そうでなきゃ、ホストなんか勤まるはずもないな」

「それはそうですが・・・」

「そこでだ、私の仕事を手伝ってほしいんだ」

「仕事?」

「そうだ、ある女性と親しくなって彼女の持っている情報を私に流す仕事だ」

「情報といいますと」

「AIについての最新情報だ」

「AI? あなたは一体何者ですか」

彼は眉をひそめた。

「私のことは知らないほうが君のためだ、どうだね、やってくれるかね」

「・・・」

「君にとっては容易なことだろう。あー、相応の報酬を支払うことは勿論だ」

「そうですか、面白そうですね」

借金を抱えた彼は報酬という言葉に心が動いた。

「そうか、引受けてくれるかね、よかった、きっと悪いようにはしないからな」

「それで、どうすればいいんでしょうか」

彼は蔭のなかの男の顔を見つめた。

「これは念のために言っておくが、ここで話すことは総て機密で、他言は無用だ、約束できるかな」

「約束します」

「もし機密が漏れた場合、君の命は保証しないからそのつもりで、それから、私のことは司令と呼ぶように」

「分りました」

「君を信用するとして、今度のターゲットはこれだ」

司令は彼に仕事の詳細を語りはじめた。渡されたペーパーには対象女性の姓名から携帯番号、詳しい経歴、趣味、顔写真まで載っていた。

「すごい情報ですね、しかし、僕はAIについては素人ですよ、ちゃんと出来るかどうか・・・」

祐輝は不安を訴えた。

「心配ないよ、専門知識は要らないんだ。どんな情報でもいいから彼女から盗るだけでいいんだ、情報の評価はこちらでする」

「そうですか、いつから始めればいいんですか」

「明日からでも始めてくれたまえ。それから、私のことは探さないように、連絡はこの秘書兼運転手の天賞らからする。なにか質問はあるかな」

「いえ、べつにありません」

彼はちいさく応えた。

「結構だ、それでは、天賞に車で送らせよう」

来た時と同じように、彼は目隠しをされ、車に乗せられた。


 気がつくと、祐輝はアパートの自室にいた。窓外には白く明け始めた空と街並が広がっていた。


《あそこはどこだったのだろう、それにあの司令とかいう男の話は本当のことなのだろうか。どういうわけか、あの男の奇妙な提案を受けてしまった》


昨夜の出来事は、彼には夢のように思えた。報酬という言葉に惹かれて、素性も知れない男の仕事を引受けてしまった彼は、自身の行動が信じられなかった。

しかし、時間とともに、この面妖なオファは次第に形を現してきた。


 洛中大学近くのバーに客はまばらだった。

「あの、ここいいですか」

一年ほど前、祐輝はカウンターの若い女性に声をかけた。

「えっ、ええ、どうぞ」

女性は戸惑って応えた。

「百合さんですよね」

「そうですが、私のことをどうして」

「いきなりで申し訳ありません、あなたの論文を読ませて頂きました」

「そうなんですか、あなたもAIを研究されているんですか」

「あー、いえ、そうじゃないんですが、ちょっと興味があって、あの、僕、祐輝といいます」

「そうですか、でも、私の研究は専門知識がないと難しいと思いますわ」

「ええ、それでもいいんです、あなたとお話ができれば」

祐輝は微笑んだ。

「あら・・・」

「なにをお?みですか」

「えっ、あー、これはスロージンフィズです」

「じゃあ、僕はギムレットにしよう」

間もなく、銀色に輝くカクテルが運ばれてきた。

「乾杯しましょう」

二人はグラスをあげた。

「お酒、お強いですか」

「いいえ、そうでもないんですよ、お替りいかがですか」

空いたグラスを見て、彼が促がした。

「ええ、でもお酒の名前があまり分らないので」

「そうですか、それじゃ、アプリコットクーラーというのはいかがですか」

「ええ、トライしてみましょう」

運ばれてきた琥珀色のカクテルを、彼女はひと口?んだ。

「まあ、美味しい、これ気に入りましたわ」

「そう、よかった。ここへはよくいらしゃるんですか」

「ええ、仕事が終わってほっとしたいときに来るんですの」

彼女が微笑み、形のいい唇を綻ばせた。

このバーは百合と会える場所として、司令から教えられた。ほろ酔い気分になった祐輝は、彼女の美しい横顔に見とれていた。

「こんど食事にお誘いしたいんですが」

「えっ、ほんとに、嬉しい、でも夜も仕事してますのよ」

「夜遅くまで仕事なんですか」

「ええ、夜中まですることもよくあるんです」

「へー、仕事熱心なんですね」

「そんなこともないんですけど、することが山ほどあって、寝る間も惜しいんです」

「そうですか、それじゃ週末のランチはどうですか、気分転換になるでしょう」

「ええ、それならいいですわ」


《百合という女はどうなっているんだ、天才的頭脳の持主と聞かされたが、男に対してまるで無防備で子供のように素直で無垢だ。それに、あの美しさはこの世のものとも思えない、輝く半透明の肌、赤い薔薇のような唇、匂い零れる眼差し、少女のように可憐にして妖女のように艶やか・・・》


祐輝は与えられた任務を忘れ、百合の虜になっていた。


 週末の昼、祐輝と百合はイタリアンレストランに席をとっていた。

「よく来てくれましたね」

祐輝が口を開いた。

「ランチを外で食べるなんて、ないことですもの」

「僕も久しぶりです、ここのパスタはいけるんですよ」

本当は、彼が初めて訪れたレストランだった。ホストクラブでの勤務を続ける彼は昼ごろ起き出し、近くの定食屋で昼飯をとるのが日常だった。

「ほんと、美味しいですわ」

料理を口に運んで、彼女が微笑んだ。

「ねえ、百合の研究資料を見せてもらいたいんだけど」

「そうね、でも、研究室じゃ目立つから、こんど祐輝のお部屋に持って行きますわ」

「そう、そうしてくれると嬉しいな」

「祐輝さんはどういうお仕事してるんですか」

「あー、僕も忙しくて夜遅くまで仕事することが多いんです」

「そうなんですか、じゃあ、私と同じですね」

「そ、そうですね、同じですね」

彼はその場をなんとか繕った。

「いつお邪魔すればいいですか」

「それじゃ、来週の土曜の午後に」

「分りました、愉しみにしていますわ」


 夜、祐輝はホストクラブに出勤していた。店内は客で賑わっており、時折嬌声もあがっていた。

「ケリー、久しぶりね、相変わらず恰好いいわ」

ケリーは祐輝の源氏名だった。

店でいつも彼を指名する四十代後半の女性客、エミが彼に寄りそって微笑んだ。

「ほんと、お見限りでしたね、お顔見たかったですよ」

祐輝も微笑を返した。

「今日はケリーに会えたから、ブーブクリコのシャンパンを入れるわ」

エミが得意気に言った。

「ありがとうございます」

祐輝が声をあげると、すぐにウェイターがシャンパンのボトルを携えて現れた。

「シャンパン入ります、ありがとうございます」

グラスに注がれたシャンパンで二人は乾杯した。

「ねえ、ケリーは休みの日はなにしてるの」

エミは彼に身体を押しつけてきた。

「それが、休日も結構忙しくて」

「あら、そうなの、残念だわ」

彼女は祐輝にご執心で、以前から店外で会うチャンスを狙っていた。「さあ、?みましょう、そうすればもっと魅力的になりますよ」

「あらそう、じゃあ、どんどんいっちゃうわ」

彼女はグラスを口に運んだ。


《こういう女はなにを考えているんだ、自分が稼いだわけでもないのに、金を湯水のようにばら撒いて、男にちょっかいをだしてくる。僕のことを気に入っているようだけど、いい迷惑だ》


ホスト目当に遊びに来る中年女性を、彼は軽蔑の眼差しで見ていた。


 慎吾は表参道で若い女性に声をかけていた。

「ねえ、彼女、いい仕事があるんだけど」

シックなファッションに身を包んだ大人しそうな女性だった。

彼の言葉を無視して、女は後姿を見せて過ぎ去っていった。


《うーん、やっぱりああいう知的な女は難しいのかな、だけど、この仕事は馬鹿じゃ務まらんだろしな》


「あっ、彼女、ねえ、いい仕事があるよ、紹介するよ」

彼は別の女性に声をかけた。

彼女はすこし派手目のワンピース姿だった。彼から視線をずらし、彼女は速足で歩き去った。

「また、だめか」

彼は舌打した。

「えーっと、彼女、彼女、いい仕事があるんだけど、どう」

カジュアルな服装の学生風の女に声をかけた。

「あら、どんな仕事」

女が脚を止め振返った。

「銀座で夜のお仕事なんだけど」

「なんだ、夜のお仕事は無理だわ、お父さんがうるさいから」

「大丈夫だって、きれいなお仕事ですから」

「うーん、やっぱり無理よ」

女は微笑ながら去って行った。


《なんだ、冷やかしか、でも、あの子供っぽい雰囲気じゃこの仕事は難しいな》


慎吾は法学部を卒業後、司法試験を目指して法科大学院に進んだが、司法試験に二度失敗し、法曹を諦めざるを得なかった。

試験勉強に邁進したお蔭で、その後暫く彼は腑抜のような生活を送っていた。半年ほど経って、気を取直した彼は派遣社員の事務職として働き始めた。

しかし、仕事に馴染めず数か月で辞め、水商売の世界へ脚を踏み入れた。新宿のホストクラブでホストとして勤務したが、人気はとれず成績はあがらなかった。途方に暮れている時に、ホスト仲間に銀座のクラブを紹介された。折からの人手不足で、依頼された仕事はホステスのスカウトだった。

スカウトを引受けた彼は、対象になる女性がいそうな銀座、六本木界隈で仕事を始めた。場所柄、夕刻ともなると、店に出勤する洗練された感じの女性が風に舞う蝶のように流れていた。

不馴れな仕事に戸惑いながら、何人かのホステス風の女性に声をかけたが、振向くものはいなかった。一流と言われる店に勤務するホステスをスカウトするのは難しいのかも知れないと思った彼は、新宿、原宿辺りに河岸をかえてみた。すると、若い女性が面白いように話に乗ってきた。

一年ほど経つと、彼はホステス・スカウトとして名を知られる存在になっていた。スカウトをしたなかには女子大生もいた。銀座で働けば結構な高報酬が得られるというと、女たちは眼を輝かせ、話を聞きたがった。


《まったく、女というのはなんという生き物だ、ちょっと褒めて、プライドをくすぐってやると、ほいほい話に乗ってくる、彼女らの頭のなかは一体どうなっているんだ》


スカウトをして、優柔で迷っている相手に対しては、彼はいつも巧みに褒め言葉をちょいちょいと振掛け、そして自尊心を刺激する世辞っぽいことをいうと、ほとんどの女はなびいてきた。そして、決まって投げかけてくるのが、どうして私なの、なぜ私をスカウトしようと思ったの、というナルシスト的質問だった。


《まったく、女というのはプライドが高いのか低いのか、自意識過剰というか、どうしようもないな》


彼は女の壺を押さえていた。


 ある夜、慎吾は洋館の応接室で男と相対していた。

「君は腕利のスカウトのようだね」

「はあ・・・」

慎吾は男に指示された運転手にいきなり目隠しをされ、高級車でこの洋館に案内された。それは祐輝と同じ体験だった。

「君に頼みたいのはホステスのスカウトだ」

「そうですか、いいですよ、それが私の仕事ですから」

彼は要領をえないまま応えた。

「よかった、引受けてくれるんだね」

「ええ、それでどんな条件でしょか」

「報酬は心配しなくてもいい」

「ああ、そうじゃなくて、スカウトする対象の条件です」

「おお、そうだね、年齢は二十代後半から三十代前半、知的で大学卒以上が望ましい、それに勿論ホステスとして魅力と才能を備えた女性だ」

「なにか資格とかは要りませんか」

「べつに必要ない、才能は資格に優るからな」

「それで、勤務先はどこでしょうか」

「それはスカウトした候補者次第だが、とにかく銀座のクラブのどこかだ」

「分りました、特に難しい条件もないようですので、そう時間はかからないでしょう」

「そう願いたいね、どれくらいかかる」

「二週間もあれば」

「期待してるぞ、とにかく急いでくれ」

「分りました」

「私のことは司令と呼ぶように、それから連絡はしないように、連絡はこちらからする」

話が終わると、来たときと同じように目隠しをされ、高級車で送り返された。


 慎吾が帰って行ったあと、司令は窓外に眼をやった。紫紺の空の遥か彼方には山並が漆黒の影を連ねていた。


《この国へ赴任して五年、五十に手がとどく齢になってしまった。このへんで実績を上げないと本部への帰任がますます遠のいてしまう。今回引きずり込んだ間抜けな男どもが、気の多い強欲な女たちをたぶらかし、私の出世の糧となってくれるだろう、そのときが来たら、天賞も一緒に連れて帰ってやろう》


司令は大学卒業後、情報機関のスパイ養成所でプロの訓練を受けた。血を吐くような過酷な訓練の後難関の試験にパスし、情報機関の幹部としての途を歩みはじめた。アジア担当の部署に配属され、五年前、日本に駐在することになった。表向きは貿易会社の社長だが、誰も裏の顔と本名を知ることはなかった。

不馴れな生活を送るなかで、本国に残してきた家族のことを思い、里心が頭をもたげ始めていた。


 慎吾の自宅は都心のマンションだった。

「ただいま」

「おかえりなさい」

同棲相手の郁子が応えた。

「あれっ、今日は早いんだね」

「ええ、はやくあがったの」

郁子は去年、慎吾にスカウトされ、銀座で働いていた。

「そう、よかったね、店の景気はどうだい」

「まあまあね、うちはお馴染さんが多いから、今日はなにかあったの」

「うん、新しいスカウトの依頼があったんだ」

「あら、商売繁盛ね」

「それはいいんだけど、こんどのはちょっと変わってるんだ」

「変わってるって」

「その・・・、依頼主がどういう相手なのか分らないんだ」

「あら、それは困ったわね」

「だけど、金持風で報酬はたっぷり弾むって言うんだ」

「まあ、それじゃぜひやってちょうだい」

郁子は屈託なく微笑んだ。


 依頼を受けてから、慎吾は懸命にスカウトを繰返した。しかし、条件にあう候補者には思いのほか行き当らなかった。スカウトを難しくしているのは、ただ一点、「知的な女性」という条件だった。

スカウトの途上、何人かのいい候補には会っていた。彼女たちはルックスもファッションのセンスもよく、ホステス向きだった。磨けば隠れた妖艶な魅力を引出せること間違いない、と彼は確信した。しかし、無邪気で明るく性格も申し分なかったが、知的な要素を見出すことはできなかった。

二週間後、司令の秘書兼運転手の天賞からメールが入った。


〈いい候補が見つかったのなら、すぐ面接の手配をしますが、いかがですか〉


〈申し訳ありません、条件にあう候補者がまだ見つかりません。鋭意探しておりますので、今暫くお待ちください〉


 翌日から、彼はスカウト場所を増やして懸命に仕事に取組んだ。この仕事に失敗するなどということは、スカウトとしての彼のプライドが赦さなかった。

土曜の午後、明治神宮前でスカウト相手を探していると、メトロの階段を一人の女性が上がってきた。白のスーツーで包んだグラマラスな姿に惹かれ、彼は思わず声をかけた。

「あの、ちょっとお話いいでしょうか」

「はい、なんでしょうか」

彼女は微笑んで応えた。

「あの、私こういうものなんです」

彼は名刺を手渡した。

「・・・、スカウト」

「ええ、銀座でのお仕事を紹介してるんですよ」

「面白そうなお話ですわね」

「そうなんです、ぜひ詳しいお話をさせて頂きたいんですが」

「そうね、でもいまは時間がないんですのよ」

「そうですか、ではお日にちを改めてお会いできませんでしょうか」

「いいですわ、それじゃここへお電話しますわ」

名刺を見ながら彼女は応えて、去って行った。


《しまったなあ、逃がしてしまったな、多分電話はかかってこないだろう。それにしてもいい女だな、磨かなくても、もう艶やかな雰囲気が漂っていたな、あー、残念》


気を取直して、彼は翌日も新宿界隈でスカウトを続けていた。夜ともなれば、会社帰りのOL風の女たちが繁華街を流れるように歩いていた。なかには若く魅力的な女性が眼にとまり、思わず声をかけようとしたが、聞かされた条件が頭に浮かび思い止まった。

「知的な女性」という条件が彼を縛っていた。

その夜、成果がないまま、彼は帰宅した。


 一週間ほど経ったある早朝、慎吾は夢のなかで携帯が鳴る音を聞いた。

「・・・」

携帯は鳴り止まなかった。

「もしもし・・・」

われに返った彼が電話に出た。

「あの、私です」

「えっ、どなたですか」

どこか聞憶えのある声だった。

「あの、このあいだ原宿でお会いしましたでしょう」

「あっ、この間の、お電話お待ちしてました」

「詳しいお話をお伺いしたいのですが」

予想外の電話に彼は小躍りした。

 週末の午後、彼は電話の主と表参道のコーヒーショップで会っていた。

「優子と申します」

形のいい唇が開いた。

「お会いできてよかったです、私のお話に興味を持って頂いてなによりです」

彼はにこやかに応えた。

「それで、どんなお仕事ですの」

「銀座の一流クラブでの仕事です」

「まさか、ホステスということでしょうか」

「そのとおりです」

「そうですか、でも私にできますかしら」

「優子さんは充分に資格があると思いますよ、履歴書を持ってきて頂きましたでしょうか」

「ええ、これですわ」

彼女はハンドバッグから封筒を取り出した。

「拝見します」

履歴書を見た彼は驚いた。

そこには東京大学法学部卒、スタンフォード大学МBA取得、シカゴコンサルティング・グループに勤務、とあった。

「素晴しいご経歴ですね」

彼は言葉を継いだ。

「たいしたことありません、普通にやってきただけですわ」

彼女は優しく微笑んだ。

「優子さんのご経歴はこんどの仕事にぴったりですよ」

「まあ、そうですの」

「ご興味あるんですね」

「ええ、というのはコンサルタントになってもう三年、でもコンサルティングの内容は代わり映えしないんですの」

「どういったコンサルティングが多いんですか」

「IT化とか、リストラとか要するに組織の合理化、縮小です」

「そういうことには興味が持てないんですか」

「ええ、総てが数字なんです、情緒や情念を一切捨象して、そして人間どうしの対話もないんです」

「そういうのは苦手なんですか」

「ええ、それでこの頃は仕事がつまらなく感じておりますの」

「それならこんどの話は打ってつけです、お客と話すのが仕事ですから」

「お客様って、どんな方かしら」

「銀座ですから、そりゃあもう一流の客ですよ、代議士、医者、弁護士、大企業の役員なんかです」

「まあ、面白そう、やってみようかしら」

彼女はすっかりその気になっていった。

「そうですか、それじゃ実際に勤務するクラブのママさんに面接してもらいましょう」

「分りました、そうしてください」


 慎吾は自分から連絡できないことに苛立ちを覚えていた。三日後、漸く天賞からメールが入った。


〈その後、状況はいかがですか、司令が心待ちにしておられます〉


慎吾はすぐに返信した。


〈連絡をお待ちしてました。極上の候補が見つかりました、面接のアレンジをお願いします〉


翌日、天賞から返信があった。


〈それでは、今週の土曜、午後二時、銀座二丁目のクラブ「グレイプバイン」で葵ママの面接を受けてください〉


《グレイプバインは超一流だ、ここなら優子も文句ないだろう、これは面白くなってきたぞ》


慎吾はほくそえんだ。彼は何人かのホステスをグレイプバインに紹介しており、葵ママとは顔見知りだった。


慎吾は早速、優子の携帯へ電話した。留守電になっていたので面接予定を入れておいた。


 土曜の午後、慎吾と優子は連れ立って、グレイプバインを訪ねた。開店前なので路地を通って、裏口から仄暗い店内に入った。暗い奥から声が届いた。

「慎吾さん」

「ええ、お久しぶりです」

「候補者がいらっしゃるんですって」

照明がつき、和服の葵ママが姿を現した。

「そうなんです、こちら優子さんです」

「優子です、よろしくお願いいたします」

「お世話になってる葵ママです」

慎吾は優子にママを紹介してソファに腰を下ろした。

「まあ、お綺麗な方ね」

言いながら、ママは履歴書に眼を通した。

「なかなかの経歴でしょう」

「まあ、すごい経歴だわ、でも、うちなんかで働いて頂けるのかしら」

「どうなの、優子さん」

慎吾は優子を見た。

「興味がありますわ」

優子は微笑んだ。

「そういうことですので、ぜひお願いします」

彼はママに拝むような仕草をした。

「そうね、じゃあ、来月からお願いできるかしら」

「ありがとうございます、ここで頑張ってみたいと思いますわ」


 彼はスカウトした優子の転職が成功したことを、天賞に知らせた。


〈ありがとうございます、司令も喜んでおられます。優子さんにやってもらいたい任務がありますので、詳細を後ほどお知らせします。それから慎吾さんの報酬ですが、彼女の入店確認後お支払いします〉


《やってもらいたい任務とはなんのことだろう》


彼はそのことが腑に落ちなかった。


 その日、朝から祐輝はそわそわしていた。午後、百合が研究資料を持って彼の部屋を訪ねることになっていた。

午後の陽射が部屋の奥まで入るころ、彼女が訪ねてきた。

「こんにちは、おじゃましますわ」

彼女は微笑んでテーブルに着いた。

「ようこそ、コーヒーそれとも紅茶」

「そうね、紅茶がいいですわ」

「資料、持ってきてくれた」

紅茶を淹れながら、彼が訊いた。

「ええ、これですわ」

彼女がノートパソコンを取りだし、スイッチを入れた。

「えっ、これに入っているってこと」

彼は眼をまるくした。

「そうですよ、このごろはペーパーにしないでみんなメモリーに保存してますの」

「そうか、そういうことなんだね」

「ほら観てください、これが革新的なAIの設計図ですわ」

彼女が指さす画面には複雑なプログラミングの結果が示されていた。

「なんだか難しいそうだね」

「これは量子コンピュータで計算して完成しましたのよ、今の世界最速のスーパーコンピュータで百年以上かかる計算を量子コンピュータは数週間でやってしまいますの、それでこの設計図ができましたのよ」

「すごいなぁ」

「関心するのはまだ早いんですのよ、これはまだほんの序の口ですわ」

「そうなの」

「このAIを例えばロボットに移植すれば自律的に判断して行動できるようになりますわ」

「へー」

彼は驚きを隠さなかった。

「それだけじゃないんですのよ、ロボット同士でコミュニケーションがとれて組織的な行動をとることもできますわ」

「それは大変だ、そのロボットに武器を持たせればロボット兵士になりますね」

「いいところに気がつきましたわね、そのとおりですわ、もう既にアメリカの国防総省や大手の兵器メーカーから引合が来てますわ」

「やっぱりそうですか、で、どうするんですか」

「このAIはまだ未完成ですのよ、武器として使うのは危険過ぎるの、だから引合に応じる気はありませんわ」


《そういうことか、司令がAIの情報を入手したがっているのは軍事目的なんだ》


司令の考えと自身の置かれた立場を、彼はおぼろげながら解ったような気がした。


「ねえ、もう夕方だし、一杯やらない」

「あら、いいですわ、私もそういう気分です」

部屋には傾いた陽光が射し込んでいた。

「じゃあ、カクテルを作ってあげるよ」

「あら、できるの、嬉しいですわ」

彼女は無邪気に微笑んだ。

彼はキッチンでジンベースにオレンジジュースを混ぜて、手際よくカクテルを作った。店のバーテンダーのカクテル作りを見様見真似で憶えたものだった。

「はい、どうぞ」

オレンジ色のカクテルグラスがテーブルに置かれた。

「わー、もう出来たんですの、なんていうカクテルですか」

「オレンジブラッサム、口にあえばいいけど」

「まあ、美味しいですわ」

ひと口?んで、彼女は眸を輝かせた。

「気に入ってもらえてよかった。AIだけど、いまよりもっと発達

したら、どういうことになるんだろうね」

「そうですね、まず人間の仕事がなくなりますわ。それに兵器に応用すれば今の人間の軍隊も無用になりますわね」

「それってどういうこと」

「歩兵はロボット兵士に置き換わりますでしょ、それから、艦船や軍用機も自律的に動くようになるから、人間が乗組む必要がなくなりますわ」

「そうすると、相手方も同じことをするだろうから、AI対AIの闘いということになるね」

「そういうことですわ」

「次の段階の研究はもう始めてるの」

「ええ、もう・・・」

「どうかしたの、大丈夫」

彼が訊いたとき、彼女の上半身がテーブルのうえに崩れ落ち、間もなく深い寝息をたて始めた。

カクテルには睡眠薬が入っていた。睡眠薬は天賞が祐輝に渡していた。

祐輝は素早くUSBメモリーをノートパソコンに挿入し、AI設計図をメモリーに移した。彼は百合を抱きかかえて自身のベッドに寝かせた。静かに眠る彼女の横顔の美しさに、彼は身震いを覚えた。

しかし、彼女を抱かかえたとき、女性にしては身体が固く、体温も低いように感じた。そのことを、もう一度確かめたくなり、彼は彼女の肌に触れようとしたが、既の所で思い止まった。


《たしかに彼女は顔も身体もこの世のものとも思えないほど綺麗だ、だけど、あの身体の固さ、それに妙に体温が低いのはなぜだろう、ひょっとしたら持病でも抱えているんだろうか。

それに、あの敬語交じりの奇妙な言葉使いはどうだろう、若い女性とは思えない喋り方だ》


翌朝、百合は祐輝のシングルベッドのうえで目醒めた。

「あら、いやですわ、私、眠ってしまったのかしら」

彼女は戸惑っていた。

「大丈夫かな、ちょっとお酒が強すぎたみたいだね」

祐輝がベッドの脇から起き上がった。

「ごめんなさい、酔ってしまったみたいですわ」

彼女は照れ笑いを見せた。

「次は弱めのお酒にしようね」

「わっ、大変、大学に行かなければなりません」

彼女は慌てて身繕いして部屋を出ていった。


《彼女にはわるかったけど、設計図を手に入れて、司令の要求に応えることができた。しかし、これから彼女との関係はどうなるんだろう》


彼は百合の美しさや言葉使いの秘密を探ろうと思っていた。そのためには彼女との関係を深める必要があった。


翌日、天賞からメールが入った。


〈その後の状況をお知らせこう。司令も成果をお待ちになっています〉


ちょうどいいタイミングだった。祐輝は早速返信した。


〈最新のAI設計図を手に入れましたので添付します。ご要求のものと思いますがいかがでしょうか。評価をお知らせください〉


三日後、天賞から返信があった。


〈送付頂いた図面はまさしく目的としていたもので、司令は大変喜んでいらっしゃいます。引続き彼女との関係を維持して、さらに情報を入手してください。尚、今回の成功報酬ですが、三百万円でいかがでしょうか〉


《なんだって、三百万だって、あの図面はそんなに価値のあるものなのか、それにしても、これはぼろい商売だな、彼女との関係をなんとかしないといけないな》


祐輝は報酬金額に驚いた。この実入りのいい仕事を続けるには百合の存在が不可欠だ、と改めて思った。


 一か月が経ち、街は新緑の季節を迎えていた。銀杏並木の涼風に誘われるように、優子はグレイプバインに初出勤した。

「よろしくお願いいたします」

彼女は葵ママに挨拶した。

「よく来てくれたわね、こちらこそよろしく」

ママがにこやかに迎えた。

「今日からお世話になります」

「それじゃ、優子のお仕事について説明しましょう」

二人は開店前の店内で相対した。

「こういうお仕事初めてなのでなにも分らないんです、どうぞよろしくお願いいたします」

「あなただったら大丈夫よ。まず店の状態だけど、うちは政界や財界の方、それに官僚の方もお客様なの、みんなそれなりの地位の人だから注意してほしいの」

「そうなんですか、大変そうですわね」

「うちを贔屓にしてくださってる鬼頭さんと龍田さんって方がいらしゃるの、優子さんにはこのお二方の相手をしてほしいのよ」

「分りました、そのお二人はどういった方ですか」

「鬼頭さんは防衛大臣、龍田さんは防衛事務次官よ」

「まあ、偉い方たちなんですね、緊張してしまいそうですわ」

「ええ、だからくれぐれも失礼のないようにね」

ママは優子の眼を見て念を押した。


 その週の金曜、鬼頭はグレイプバインを訪れた。

「まあ、先生、お久しぶりですこと」

ママが彼を迎えた。

「ママ、なにを言ってるんだい、先週来たばかりじゃないか」

「あら、そうでしたかしら。せんせ、とってもいいタイミングでいらしたわ、どうぞこちらへ」

「うん、なにかな」

「こんど入った澪です、今日が初仕事なんですよ」

優子は澪という源氏名をもらっていた。

「ほう、可愛い子だね、これは参った」

「澪と申します、まだ不馴れですがよろしくお願いいたします」

にこやかに微笑んで、彼女は鬼頭の傍らに坐った。

「いやいや、まだ若いね、よろしくお願いしますよ」

鬼頭は相好を崩し、彼女の腰に手を回そうとした。

「せんせ、お連様がお見えですよ」

ママが連れを坐らせた。

「よう、篠山君、よく来てくれたね」

鬼頭が笑顔で篠山を迎えた。

篠山は野党の安全保障の若手論客だった。

「お招きに与りまして」

「堅苦しい挨拶はぬきにして、まあ、一杯やりたまえ」

優子が馴れない手つきで作った水割で、二人は乾杯した。

「鬼頭さん、あの新しいミサイル開発計画を認めるわけにはいきませんよ」

グラスを置いて、篠山が強い調子で言った。

彼は与党が進める防衛費増額に反対する野党の急先鋒だった。

「まあまあ、そう紋切り型に言わないで、話を聞いてくれよ」

鬼頭は苦笑した。

彼は自身が発案したミサイル開発計画に野党の賛成が得られるよう篠山の懐柔を狙っていた。

「しかし、あれは軍拡そのものですよ、賛成なんかできませんよ」

「この計画が実現すれば、抑止力により我国のみならずアジア全体の安全保障が格段に改善されるんだよ、問題ないだろう」

「冗談じゃないですよ、いまは軍縮の時代ですよ、核兵器だって廃棄の方向なんですよ、それをいまさら新たにミサイルを開発するなんて、とてもとおる話じゃありませんよ」

篠山は語気を強めた。

話は?合わないまま延延と続いた。

 閉店後、優子はママに呼ばれた。

「なんでしょうか」

「お疲れ様、初めてのお仕事どうだった」

「夢中でした、でもなんだかとっても愉しくて」

「そう、優子さん、このお仕事にむいてるみたいね、よかったわ。それで、お二人はどんな話をしてたのかしら」

「それが難しいお話で、ミサイルとか安全保障がどうのこうのとか・・・」

「そう、詳しく話してみて」

優子は訳も分らず、二人の話の内容を細大漏らさずママに話した。

「さすがね、細かく憶えてるのね、ありがとう。また防衛関係の方がいらしたらお願いね」

「はあ、分りました」


 天賞から慎吾にメールが届いた。


〈なかなかいい人を紹介して頂いたようですね。葵ママから連絡があっていい情報もとれたそうです。司令も感謝しておられます。ついては報酬として紹介料二百万、情報料百万、合計三百万円をお支払いいたします。これからは、今回と同じレベルの情報がとれるごとに百万円を報酬とします〉


《想像していたより高い金額だな。優子が優秀なのは分るけど、それにしても、彼女はどんな情報を得たというのだろう》


彼は高額の報酬に満足していたが、それがどのような情報の見返なのか理解できなかった。

 翌日、彼はグレイプバインに葵ママを訪ねた。

「お忙しいのに申し訳ありません、優子のことでちょっとお伺いしたことがありまして」

「いいですわよ、いい子を紹介してくださって感謝してますわ」

開店前の静かな店で、ママは笑みを見せた。

「あの、依頼主から感謝されましたが、優子はお客とどんな話をしたんでしょうか」

「あら、慎吾さんらしくない質問ね、お客様とのお話は言えませんわ」

「そうでしたね、野暮なことを訊いてしまいました。と言いますのは、彼女はかなり価値のある情報を得たようですので、ちょっと気になりましてね」

「そうですか、話の内容は天賞さんにはお伝えしましたの」

「そうなんですか、彼には内容を話してもいいんですか」

「ええ、だってこの店のオーナーは司令ですから」

「えっ、そうだったんですか」

彼はその事実を初めて知った。


《そうか、あの店は司令の店だったんだ、すると価値ある情報というのはやはり軍事情報だろうか、そうだ、そうに違いない、だから報酬が高額なんだ》


彼は妙に納得した。

 彼が店をあとにして、中央通りに出たところで声をかけられた。

「慎吾さんですね」

振返るとダークスーツの男が立っていた。

「そうですが」

「警視庁公安部のものですが、お話をお伺いしたいのでご同行願いますか」

「こ、公安部、なんの御用でしょうか」

慎吾は戸惑った。

「グレイプバインのことでお訊きしたいことがあるんですが」

「お話ならここでどうぞ」

「詳しくお伺いしたいので、ぜひご同行ください」

促がされ、彼はしぶしぶ車に乗込んだ。

 彼は警視庁の取調室で公安部の二人の刑事と向きあっていた。

「グレイプバインとあなたとの関係は」

刑事が訊いた。

「関係ですか、あの店に人材を紹介しただけですよ」

「人材っていうのは」

「つまりその、ホステスです」

「それがあなたの生業かな」

「まあ、そうです」

「今度、優子という女性をあの店に紹介したね」

「ええ」

「彼女とは以前からの知り合いか」

「いえ、そんなことありません、紹介するためにスカウトしたんですよ」

「それは誰からの依頼なんだね」

「それは言えません」

悪い予感がして、彼は司令のことには触れたくなかった。

「質問に答えないと、ここから出られないことになるよ」

「そんな、僕はなにも悪いことはしてませんよ」

「じゃあ、正直に吐くんだな」

刑事は顔をぐいっと近づけ、彼を睨みつけた。

「わ、分りましたよ」

刑事は真剣なんだ、これは相当まずいことになったな、と慎吾は思った。

「相手は誰なんだ」

「それが、本当に知らないんです、目隠しをされて車で司令とか呼ばれる男の家に連れていかれて、スカウトを依頼されたんです」

「その場所というのはどこなんだ」

「目隠しでそれもよく分らないんです」

「市内からどれくらいの距離だ」

「そうですね一時間くらいですが、かなり飛ばしていましたからね」

二人の刑事は顔を見合わせた。

「まあいだろう、優子を紹介した目的はなんだね」

「目的って、ただホステス紹介の依頼をうけて紹介しただけですよ」

「実は、我われはあの店を以前から内偵しているんだ」

「それはまたどういうことですか」

「詳しくは言えんが、あそこから政府の機密が漏れている可能性がある」

「えっ、まさか、優子がやったってことですか」

「いや、その確証はまだない。あなたのこともここ一か月ほどマークし調査したが、とくに不審な点は見出せなかった」

「そりゃそうでしょう、僕は法律違反になるようなことはしてませんよ」

慎吾は気色ばんだ。

「まあ、今日のところは帰っていいが、その司令とかいう男についてなにか思い出したら連絡してくれ」

額を冷汗で濡らして、彼は警察をあとにした。


《機密が漏れてるって、あの店はどうなっているんだろう、それに素人の優子がどう関っているんだろう》


疑問は膨らむばかりだった。


 午後、慎吾は出勤前の優子と会っていた。コーヒーショップの窓からは微風に揺れる銀杏並木が見通せた。

「ほんとにいいところを紹介して頂いて感謝してますわ」

優子の表情がほころんだ。

「それはよかったね、だいぶ仕事にも馴れたのかな」

「ええ、なんだか私、このお仕事に向いてるみたいですわ」

「そう、ママさんはどうなの」

「馴れない私のことをいろりろ面倒みてくださって、たすかってますわ」

「ところで、このまえ警察に呼ばれて事情を訊かれたんだ」

「あら、警察、なにかあったんですか」

「それが、あの店からなにか重要な情報が漏れてるって言うんだ」

「はあ、なんのことでしょう」

「優子のお相手はどんな人なのかな」

「この前、お相手したのは防衛大臣ですわ」

「そうか、多分、警察はそのことを言ってるんだ。他にお相手したお客は」

「このまえ、防衛次官の方もお見えになりましたわ」

「そうか、そういうことか」

「どういうことですか」

「つまり、その、防衛省幹部が持っている軍事機密が漏れたと疑っているんだろう」

「まあ、私は軍事のことなんか分りませんわ」

「そりゃそうだね」

慎吾は微笑んだ。


《これは間違いない、優子を通して軍事機密を盗ろうとしているんだ、いや優子だけじゃなく、他のホステスも関与してるかも知れない。とすると、あの店は機密情報を入手するためのアジトか・・・》


 疑問を抱えながら、彼はスカウトの仕事を続けていた。綺麗で魅力的な女の子は数多くいるが、銀座の一流店で通用する女性はおいそれとは見つからなかった。

僅かな紹介料を稼ぐのは大変だ、と愚痴っぽくなったとき、百万円が振込まれた。


《金が振込まれたということは、優子がまた仕事をしたということだ、国家機密が盗られたということだ、するとまた僕も公安に疑われることになるのか・・・》


こんなやばい仕事はもうやめよう、と思ったが、司令の連絡先も居場所も分らない。抗うことのできない未知の力に絡め取られたようで、考えるうちに、彼は大きな不安に襲われた。


 雑木林の斜面を見下ろす高台の部屋に初夏の陽光が射し込んでいた。

「司令、グレイプバインからまた情報が届きました」

天賞が司令に報告した。

「そうか、優子をはじめあそこの店からは質のいい情報が盗れるようだな」

「そうなんですが、こんな断片的な情報が役にたつんでしょうか」

天賞はいまの情報収集の方法に疑問を持っていた。

「断片的な情報でも時間をかけて繋げていけば、徐徐に形を現してやがて戦略の全体図が分ってくるものだ、焦ることはない、地道にやることだ」

「はあ、そういうもんですか」

「もうひとり同じレベルのホステスが欲しいな、慎吾にスカウトするように指示してくれ」

「分りました、直ちに」

天賞が部屋を出て行ったあと、司令は本部にメールを入れた。


〈次の情報を送ります。今回は新型ミサイルを制御する管制システムのことです。ミサイルと同時にAIを装備した管制システムの開発も進行していることが判明しました。本件につき引続き情報を収集します〉


 祐輝は百合へメールを入れた。


〈もう夏を感じさせる気候ですね。その後お元気ですか、よければまたぜひお会いして、新しい研究についてお伺いしたいのですが。今週末はいかがですか〉


その夜、返信があった。


〈この前はすっかり酔ってしまってご免なさい。呆れられて、もう誘ってくださらないかと思ってました。私もぜひお会いしたく今週土曜の午後お伺いします〉


《彼女はなにも気づいていないようだ、小さいころから勉強ばかりしてきたせいか初心で世間知らずなんだな、なんて可愛い女なんだろう》


彼は一人で納得して、ほくそえんだ。


タイミングよく、天賞からメールが届いた。


〈防衛省ではAIを搭載した新型の火器管制システムを開発中です、ついてはそのAIについて情報を入手してください〉


天賞の指示はいよいよ核心に触れてきた。祐輝は指示の意味を深く考えることもなく、了解した旨返信した。


 約束どおり百合が訪ねてきた。

「この前は酔ってしまって、すっかりご迷惑をかけてしまいました。あとから思い返して、もう恥ずかしくて・・・」

彼女は申し訳なさそうに苦笑した。

「いいんですよ、そんなこと、お酒あんまり馴れていないんですね」

祐輝は微笑んで応えた。

「ええ、大人ぶって?んでみたんですけど、やはり無理だったようですわ」

「そうですね、今度は弱めのカクテルにしましょう」

「ありがとう、嬉しいですわ」

「今日は天気もいいし、ちょっと散歩してみませんか」

「ええ、いいですわよ」

二人は暫く歩き、街外れの桜並木が続く川堤に着いた。川面は初夏の光を一杯に映して銀箔のように輝いていた。

「もうすぐ暑くなりますね」

「そうですわね、今が一番いい季節ですわ」

葉桜の木洩れ陽を浴びた彼女の姿は輝き、少女の面影を漂わせていた。

「僕は百合さんのこと何も知らないですが、お生まれはどちらですか」

「それが分らないんですの」

「えっ、どうしてですか」

意外な言葉に、彼は戸惑った。

「実は・・・」

彼女は口ごもった。

「あっ、訊いちゃいけなかったかな」

「・・・いいですわ、祐輝さんにはお話します。私は孤児なんです」

「ほんとですか」

「ええ、捨子で養護施設にいたとき、男の人が私を引取って育ててくれたんです。その人は自分のことをオーサーと呼ばせていましたわ」

「そうだったんですか、いまそのオーサーさんはお元気なんですか」

「それが、私が小学校へ入学すると姿を消してしまったんです、それからは一人で生きてきましたのよ」

「そうだったんですか、それで生活はどうなったんですか」

「毎月充分な送金があって生活に困ることはなかったですわ」

「家はどうしたんですか」

「いまから思うと、オーサーはコンピュータ技術者らしく、私は工房のような所で生活していました。彼はいろいろなことを教えてくれて、私は一晩眠るごとに記憶力や能力がびっくりするほどよくなっていったんですの」

「オーサーのことを捜さなかったの」

「勿論、手をつくして捜しましたが、手懸りすら見つかりませんでした。でも、オーサーは置手紙を残していきましたわ」

「そこにはなんて書いてあったの」

「百合には誰にもない能力があるから、それを発達させて社会につくしなさい、というようなことが書いてありましたわ」

「百合さんは随分優秀な女性のようですが、小さいころから勉強ばかりしていたんじゃないですか」

「やはり分ってしまうんですね、そのとおりです、でも勉強すればするほどいろんな能力が発達してますます面白くなっていくんです」

百合は笑みを見せた。

「お勉強が好きだったんですね」

「ええ、まあ、大学も飛級で十六歳で入学したんですのよ。コンピュータ・サイエンスに興味あったんですが、それならやはりアメリカの大学へ行ったほうがいいって言われたんです」

「それで留学したんですか」

「二年生のときアメリカの大学に編入して、ソフト開発を専攻したんですの」

「ソフトって面白いんですか」

「ええ、ソフトは私の命令どおり動いてくれて、決して裏切りませんわ」

彼女の口許が揺れた。

「ソフトは裏切らないけど、人間は裏切るかも知れないと思ってるんですか」

「よく分りませんわ、だって、これまで私と関り合いをもった人達といえば、養護施設の保母さんとオーサーと大学の先生ぐらいですから」

「友達とかはいないんですか」

「いませんわ、だってできないんですもの」

彼女は眼を伏せた。

「そうすると、僕が初めての友達なんですか」

そんなことがあるのか、と思いながら彼は訊いた。

「そうですわ、だから祐輝さんにバーで声をかけられたときは嬉しかったんですのよ、きっと寂しそうに見えたんでしょう」


《無垢な少女のような微笑を湛える百合は一体どんな人生を歩んできたんだろう、僕が彼女に関ったわずかに四人目だとすれば、これから二人の関係はどうなるんだろう。天才児みたいな彼女と旨く付きあっていけるんだろうか》


「寂しげに見えたから百合に声をかけたんじゃないんですよ」

部屋に戻って、祐輝は口を開いた。

「そうなんですか」

「ええ、とっても綺麗に見えたからなんですよ、カウンターの百合は妖精のように輝いていて、思わず声をかけてしまったんです」

「そう言ってくだされば救われますわ」

「ところで、次の開発目標は決まっているの」

彼は話を変えた。

「そうね、AIと量子コンピュータが旨く融合すればいろいろ可能性はありますわ」

「例えばどんなことができるの」

「惑星探査ロケットの複雑な軌道計算が簡単にできますわ」

「役にたちそうですね」

「それを応用すれば大陸間弾道ミサイルもできますのよ」

「それはすごい」

「それを逆に応用すれば迎撃ミサイルもできますから、ほぼ完璧な防衛ミサイル網が可能になりますわ」

彼女は事もなげに微笑んだ。


《司令が欲しがっているのは、まさしくこういった情報なんだろう、こういった情報を得るには彼女との関係を維持しないといけないが、こんなことのために彼女と付きあっていくなんて・・・》


彼は奇妙な孤独感に襲われた。


「そのロケット用の開発にはもう取りかかっているの」

「防衛省からうちの教授に依頼があって、これからスタートする予定ですの」

「そのプロジェクトが具体化したらまた教えてくださいね」

「ええ、いいですわ、・・・あの」

彼女は口ごもった。

「なに」

「今夜、泊めてください」

彼女の眼差しは真剣だった。

「えっ、あー、いいですけど」

彼は戸惑いながら応えた。

「もう一人でいるのは嫌なんです」

彼女はソファで彼に寄添ってきた。

祐輝は思わず彼女の腰に手をまわした。一瞬、熱いものを感じて、彼女の眸を見ながら手をとってベッドに誘った。ベッドのうえで、彼女を横にして抱締めようとしたとき、彼女が彼の腕を掴まえた。

「待って、私だめなんです」

彼女の眼は抱かれることを忌避していた。

「ごめん、百合のこととっても愛おしく思ったからつい・・・」

祐輝は彼女を見詰た。

「ごめんなさい、私、馴れてないんですの」

百合は懇願しながら彼の手を握った。

「分ったよ」

祐輝は彼女の手を握り返し、微笑んだ。


《百合は本当に初心なんだ、焦らず優しく扱ってやらないと、それにしても彼女の手が妙に冷たいのはなぜだろう》


それは、初めて彼女の手に触れたときから感じていた疑問だった。


 半意識で百合は考えていた。自身は暗闇のなかに沈んでいたが、なぜそこにいるのか分らなかった。意識は、ある時青空のように晴れたかと思うと、次の瞬間、混沌とした暗闇へと引込まれていった。

不思議なことに、彼女には想い出というものがなかった。生まれた場所も、育った場所もはっきりした記憶はなかった。恋人や友人と過ごした記憶も辿ることはできなかった。

彼女は公園の大きなヒマラヤスギの下にバスケットに入って捨てられていた、その後親も分らず、養護施設に預けられたんだ、とオーサーから聞かされていた。

心も頭も空虚だった。そして、その異様さにすら彼女は気づいていなかった。しかし、これまで孤独感を抱くこともなかったが、祐輝と知合ってから、熱源を持った未知の生き物が彼女の体内に宿り始めていた。


「百合、さあ、今日も勉強だ。だいぶ進捗してきたが、もっとレベルを上げないといけないんだ。世の中のあらゆる知識と情報を吸収し、蓄積し、考える力を養うんだ。それじゃ、始めようか」

いつも意識の底から響いてくるオーサーの声だった。

この声が聞こえると、暗闇に光が明滅し、意識が波のように揺れた。

仄暗いトンネルやカレイドスコープのような眼も眩む満艦飾の部屋を猛烈なスピードで旋回飛翔するように、彼女には感じられた。

空間が再び暗闇に閉じると、全身に力が漲るように感じられた。


「オーサー、私のお母さんはどこへ行ってしまったの」

「この前も言っただろう、百合のお母さんはお前を捨ててどこかへ行ってしまったんだ」

「どうして私を捨てたのかしら」

「それは私にも分らない、だけど心配はいらないよ、私が立派に育ててあげるから」

「嬉しいけど、どうしてそんなに親切にしてくれるの」

「百合には大きな可能性があるからだよ」

「どういうこと」

「能力を発達させて世界に貢献できるってことなんだ、百合にはそういう能力があるんだよ」

自信に溢れた言葉だった。

「それなら、頑張ってみる」

百合は微笑んだ。

これまでに幾度となく繰返された会話だった。


 オーサーはAI開発の最先端を行くエンジニアだった。革新的なAIの開発を進め、それは完成間近だった。そんな時、予想もしない不幸が彼を見舞った。海外旅行から帰国する際に発生した航空機事故が妻と娘の命を奪った。

妻子の突然の死に彼は衝撃を受け、暫く失意の底で苦悶する日々が続いた。数か月後、亡くなった妻子のためにも、エンジニアとして賞賛に値するAIを開発しなければならない、と思い至り研究開発に邁進した。


カーテンの隙間から朝陽が射し込み、彼女は目醒めた。傍らでは祐輝が寝息をたてていた。


 天賞から慎吾の下へ次の指示が届いた。


〈今回の目標はAIを搭載したレーダー管制システムです。防衛装備庁がその新システムを開発中です。責任者は事務次官の龍田ですので、優子を彼に接近させ、情報を入手してください〉


慎吾が次の仕事は断ろうと思っていた矢先に指示がきてしまった。もっと早く仕事を辞めたい旨司令に伝えておけばよかったと、彼は後悔した。迷いはあったが、前回の高報酬にほだされて、今回を最後に引受けることにした。

 彼は銀座のコーヒーショップで出勤前の優子と会っていた。

「元気そうだね、どう、仕事は順調かな」

彼が訊いた。

「ええ、もうすっかり馴れて愉しんでいますわ」

「それはよかった。今日はちょっとお願いしたいことがあってね」

「なんでしょうか」

「防衛事務次官の龍田さん知ってるかい」

「ええ、うちのお客様よ、ときどき来られますわ」

「よかった、それで頼みというのは彼から開発中のシステムの情報を聞出してほしいんだ」

「難しそうなお話ね、でもいいですわ、やってみます」

彼女が微笑んだとき、スーツ姿の二人の男が現れた。

「慎吾だな」

「はあ、そうですが」

「警視庁公安部だ、特定秘密保護法ならびに不正競争防止法違反で逮捕する」

「なんだって」

仰天する彼に男は逮捕状を示し手錠をかけた。

「優子さん、あなたにも同行してもらいます」

間もなく、二人を乗せた車は走り去った。


 慎吾は取調室で二人の刑事と相対していた。

「このまえ警告しただろう、お前のやってることは違法すれすれだと」

この前より、刑事は居丈高だった。

「・・・」

驚きのあまり彼は唇を震わせ、声が出なかった。

「どうした、黙秘する気か」

「・・・あの、ぼ、僕は悪いことはしてませんよ」

彼はやっと声を絞り出した。

「優子という女を使って最新の軍事機密を漏洩させたな、立派な違法行為だ」

「僕は知りませんよ、優子が勝手にやったんでしょう」

「それなら、さっきの会話はなんだ、すべて録音してあるんだぞ」

「えーっ・・・」

彼に法を犯しているという感覚はなかったが、会話を録音されて、しまった、と思った。

「ネタは上がってるんだ、言逃れはできんぞ、まあこれからじっくりやるから、当分帰れんからな」

刑事はにやりとした。

 隣室では優子も同じく取調を受けていた。

「防衛官僚と親しいようだが、誰の指示で動いているんだ」

刑事は厳しい口調だった。

「特に防衛省のお役人と親しいということはありませんわ、いろいろな客様がいらっしゃいますから」

「しかし、あなたは防衛省関係者に付くことが多いじゃないか」

「それはママの指示ですから、私にはどうしようもありませんわ」

彼女はいつもの笑みをみせた。

「そうか、まあいい、これからゆっくり取調べるからな」

刑事の言葉に、彼女は表情を曇らせた。


 司令は様ざまな情報ソースを維持し、一見無意味と思われるような情報も含め広範囲な情報を本部に送っていた。本部ではそれら情報を分析、集積し敵性国家への戦略立案に役立てていた。

祐輝、慎吾という便利なソースを得た司令は、以前にもまして有用な情報が得られる、とほくそえんでいた。


 天賞が司令の部屋へ飛び込んで来た。

「司令、大変です、慎吾と優子が警察に逮捕されました」

彼は息を切らしていた。

「なんだと、それはどこからの情報だ」

「私が取込んだ警視庁の情報提供者から聞きました」

「そうか、それなら間違いのない情報だな」

司令は口を結び、腕組みをした。

「どうしましょうか」

「うむ、まずは本部に報告だ」

自身が発案したスパイ・オペレーションは順調に成果を上げている、と司令が自信を持ち始めた矢先、オペレーション全体をくじくような事態になってしまった。

本部にどう報告すべきか、彼が頭を悩ませているとき、本部から一通のメールが届いた。


〈検証の結果、貴方からの情報は総て偽情報であることが判明した。そちらの情報ソースは逆スパイと思われる。貴方から送付されたAI設計図どおりにシステムを作成すると、搭載した装置が破壊される怖れがある。

ミサイル開発計画についても他ソースからの情報とは一致しない。総て逆スパイによる撹乱戦略と断定せざるを得ない。従って、彼らを直ちに処分せよ〉


司令は仰天した。メールは信じられない内容を伝えていた。

「天賞!」

彼は大声で天賞を呼んだ。

「はい、なんでしょうか」

天賞は小走りにやって来てぺこりと頭をさげた。

「スパイがいることが判明した、直ちに処分するんだ」

「はっ、どういうことでしょう」

彼は意味が分らなかった。

「祐輝、慎吾、それに百合、優子も処分だ」

「えっ、どうしてまた」

「いいから、直ぐにやるんだ」

「分りました」

彼は腑に落ちないまま部屋を出て行き、二人の男を会議室に呼んだ。

彼が屈強の男たちに処分命令を下すと、彼らは風のように洋館を出ていった。


《一体これはどうしたことだ、この私を狙い撃ちしているようだ。すると、私の正体を知っているということだ、しかし、そんな優秀な情報機関がこの国にあるとも思えないが・・・》


いまおこっている現実を、司令は受け入れることができなかった。洋館から出てゆく二人の男たちを、彼は虚ろな眼で見送っていた。


 天賞から祐輝の下へメールが届いた。


〈大変なことになりました、あなたからの情報は我方の戦略を撹乱するための偽情報と判明しました。それで、我国はあなたを逆スパイと認定しました。

真偽は別にして、あなたと百合さんを「処分」すべく殺し屋が差し向けられました。司令に人殺しをさせたくないので、すぐに逃げてください〉


祐輝は驚き、困惑した。


《僕が逆スパイ? あのAI設計図も偽物だったというのか・・・、そうすると百合は日本側のスパイということなのか》


彼の頭は混乱したが、間もなく冷静になり、百合のことに思いがいたり、急いで携帯へ連絡した。

「はい、祐輝、どうしたんですか」

「百合、大変なことになったよ、直ぐに会えるかな」

「いまは無理ですわ、夕方六時くらいなら会えますわ」

「そう、じゃあメトロの本郷駅で会おう」

 祐輝は逃走できるよう身のまわり品をバッグに詰めて本郷駅に入る階段の上で待っていた。

陽が沈み、辺りが暗くなるころ白いスーツの百合が姿を現した。

「祐輝さん、急にどうしたんですか」

いつもの笑みを浮かべていた。

「百合が逆スパイだってことがばれたんだよ」

「えっ、なんですって」

彼女が驚きの表情をしたとき、眼の前に男が立塞がった。

「祐輝だな」

黒装束に身をかためた大柄の男がしゃがれた声で訊いた。

危険を感じた祐輝と百合は咄嗟に走り始めた。懸命に駈けたが、元来運動が苦手の百合は速く走ることはできず、男はたちまち追いつき、彼女の正面に躍り出た。

「百合だな」

「・・・」

恐怖で彼女は声が出なかった。

「悪く思うなよ」

男は脇のホルスターから素早い動作でトカレフ拳銃を抜き、彼女の頭を撃った。

「ぎゃー」

銃撃を受けた彼女は全身からグリーンの閃光を発しながら頭を抱え、不気味な声とともに歩道へ崩れ落ちた。彼女は横たわり、震える身体から閃光を発し続けた。

「な、なんだこいつは、化物か」

信じられない光景に男は恐怖に襲われ、その場から走り去った。

「ゆ、祐輝さん、私どうなったの、たすけて・・・」

彼女は消入るような声を発した。

「百合・・・」

祐輝はしゃがみ込んで彼女を抱き起こそうとしたが、頭の半分が大きく破壊され、全身がグリーンの電磁波に包まれ、手を触れることすらできなかった。


翌日の朝刊は衝撃的な事件を報道した。


〈昨夜、午後十時頃、メトロ本郷駅付近で若い女性が銃撃を受けました。通行人の通報で救急車と警察が現場に急行しましたが、倒れていたのは人間ではなく、AIを搭載した精巧なアンドロイドであることが判明しました。誰が製作し、稼動させていたかについては調査中です〉

                   (了)





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