2
亘さんとは月に一度、食事に出かけるのが暗黙の決まりとなっていた。
就活をして、勤務先の研修にも参加するようになって気付いたことだが、社会人は忙しい。特に亘さんの職業は激務が付き物のようだ。
そんな中毎月時間を作ってくれていたのは、私か、私の背後にいる祖父に気を遣っていたのだろう。
昼前に待ち合わせをして、昼食をとって解散する。
時間にして長くても三時間。
恋人としてはおそらく短い時間なのだろうが、許嫁としてはどうなのだろう。周囲に同じ立場の人がいないので、よく分からない。
それでも、毎回素敵な店を探してくれて、回数を重ねるうちに私の好みに合わせるようになって、そんな努力をしてくれる亘さんにそれ以上を望むなんて贅沢な気がした。
本音を言ってしまったら、お洒落な女性向きのお店もよかったけれど、亘さんの好みのお店でもよかったし、ランチばかりでなくてディナーとかバーとかにも行ってみたかった。ファミレスでも居酒屋でもいい。気を遣わないでほしかった。亘さんに合わせたかった。実際に本人に言ったこともあったが、大丈夫、そんなわけにはいかないとはぐらかされてしまった。
単に子供扱いされているだけなのか、恋人のように振る舞いたくないという意思表示なのか。どれだけ観察しようと亘さんの表情からは読みとれなかった。
だから、正直不安だった。
食事をしながら会話をするいつもと違う。気まずくなったらどうしよう。最後くらい綺麗な思い出で終わらせたいのに。
けど、それは結局杞憂だった。
亘さんは普段と変わらなくて、会話もいつも通り弾んだ。四年という歳月の間に会話の糸口はいくらでも生まれていたし、元々私はしゃべる方なので、亘さんが相槌さえ打ってくれれば変に無音になることもなかった。
ただ、水族館なんて久しぶりだとつぶやく亘さんに、前は誰といったんですかと訊ねそうになって慌てて口を閉じてしまい、怪しまれてしまったが。
そんな野暮なこと聞いたって、私には何の得にもならないのに。
私自身、亘さんには気になっていたなんていったけれど、水族館なんて小さい頃に行ったきりだった。この年になって改めて足を踏み入れてみると子供の頃に戻ったようで、でも新しい発見もあって、おもしろかった。最近できたばかりということもあり、展示方法も工夫されていたから飽きなかった。
きっと、大人な亘さんはつまらなかっただろうけど、ずっと私のそばで見守ってくれていた。それがとても嬉しくて、思い返すと恥ずかしくなるくらいはしゃいでしまった。
「悪い、一本だけ吸ってくる」
「はい。待ってます」
館内の飲食店で昼食をとった後、亘さんは煙草を吸いに喫煙所に向かっていった。父もそうだけれど、食後に吸う習慣があるのだろうか。もしかしたら、今までの食事会の後も、解散した後にああして喫煙所に入っていたのかもしれない。だとしたら申し訳ないことをしていた。待つくらい、どうということもなかったのに。
亘さんを知れば知るほど、私は気を遣われているのだと思い知らされる。
どうあがいても亘さんの前で私は子供でしかない。
もうとっくに成人しているのだから、私も煙草を吸うくらい許されているのだが。でも、なんとなく、私が吸いたいといったら亘さんは反対するんだろうなと想像できた。子供には早いとかいわれてしまいそうだ。お酒だって、二十歳になったときに一度ごちそうになったきり。大した量は呑まなかったし、悪酔いした覚えも何か粗相をした覚えもないのに、それ以降飲酒すら遠ざかれているような気がする。
亘さんの中の私は、ずっと出会った頃のまま、十八歳のままなんだろう。
どんなに背伸びをしたって、年の差は埋まらない。
むしろ埋めようとすればするだけその壁を思い知らされるだけで、虚しくなるだけだった。
許嫁になった以上、一生添い遂げる覚悟でせめて彼の隣にいて恥ずかしくない女性になりたかったのに。あの人のような大人になりたかったのに。本当に、十八歳の私は何も分かっていなくて、一目惚れをした相手と一緒にいたい。ただそれだけの思いで突っ走ってしまった。一生片想いでいる辛さも、彼の隣にいることで浮き彫りになる自分の子供っぽさも、何も知らないくせに。若さって恐ろしい。
「ひかり」
ふぅと小さくため息をついたところで亘さんに肩を叩かれた。風に乗って、ほんのりと煙草の香りがする。
「疲れたなら少し休むか?」
「いえ、大丈夫です」
「ガキみたいにはしゃぐから」
クツクツとのどの奥で笑う亘さんに、顔に熱が集まっていくのを感じた。
「だ、だって、私だって久しぶりだったんですもん」
(それに、最後だし)
心の中で付け加えた言葉は、もちろん口に出さない。
「さっきあと十分でイルカのショーが始まるってアナウンスがあったけど、行くか?」
「行きたいです」
差し伸べられた手にすがって立ち上がった後、私は勇気を出してそのままその腕に自らの腕を絡ませる。触れると煙草の匂いが強くなった。
子供上等。
いっそのこと開き直ってしまおう。最後に少しだけ、亘さんの温もりに触れるくらいの我が儘、許されたっていいはずだ。
見上げると、亘さんは少し驚いた顔をして、けど特に何も触れずにあっちだってと歩き出した。
初めて腕を組んで歩いてみたけれど、思いの外ジャケットがゴワゴワする。私もコートを着ているので触れあっているという感覚がそんなに持てない。今が夏だったら素肌に触れられたのかなと考えてしまうのは変態くさいだろうか。ただ、煙草の匂いだけでなく、亘さんの匂いみたいなものを感じ取って、胸がドキドキした。こんなに近づいたことは今までなかった。
なんだか急激に恥ずかしくなってしまって、私は亘さんから離れる。なんていいわけをしよう。勢いって怖い。
距離ができたことで二人の間に風が流れる。さっきまでは気にならなかったのに、急激に気温が下がったように感じた。
けれどそれもつかの間。
また、温もりを感じる。
「あそこみたいだな。席、空いてるといいけど」
亘さんの手が、私の肩に触れている。
亘さんが、私の肩を抱いている。
「え、あ、」
さっきみたいに手を差し伸べられるのは別として、今まで亘さんから私に触れたことがあっただろうか。手を繋ぐのはいつも私からだった。
顔が熱い。きっと今頬が真っ赤になっている。
それでも反射的に亘さんを見上げると、彼はいたずらっぽく瞳を薄くして笑っていた。
「なんだよ、甘えてきたのはそっちだろ?」
なんて破壊力抜群の大人の笑みだろう。
惚れた欲目を抜きにしてもこの表情はずるいと思った。
「えっと、その、慣れないことはするもんじゃないですね」
心臓が破裂しそうだ。
わざとらしく視線を逸らす私の頭を亘さんがなでる。
「ん? 別にたまにはいいんじゃないか?」
あんまり外で頻繁にやられると照れるけどなーなんて軽口を言われてしまって、恋愛経験値の差を感じる。
最後の最後にこんな恋人みたいな戯れを経験できるなんて。
勇気を出してデートを持ちかけてみてよかった。
亘さんに手を引かれながら、私はずっと夢見心地だった。