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「お待たせしました!」
「ん、俺も今来たところ」
私が声をかけると、亘さんはコートのポケットに入れていた手を出してひらりと振ってくれた。そして、走ってきた私の少し乱れた髪を直してくれる。
こういうことをさらっとやってしまうところがずるいなぁと思う。
「じゃあそこの駐車場に車停めてあるから行こうか」
「え、電車移動じゃないんですか?」
「車の方が速いだろ。けっこう移動するし。それにしても、せっかく祝ってやるっていうのに、こんなんでよかったのか?」
「はい。何年か前にオープンしてからずっと気になってたんで」
今日は隣県の水族館に出かける予定なのだ。
実は婚約が決まってから食事以外で出かけるのはこれが初めてだった。
私の就職先が決まったお祝いに何か贈ってやろうかという亘さんに、私は水族館に行きたいとお願いした。
最後に一度、亘さんと普通のデートがしてみたかった。
場所はどこでもよかった。でも、せっかくだからできるだけ長い時間一緒にいたくて、少し遠くの場所を指定した。
まさか亘さんの車に乗せてもらえるなんて。思わぬ副産物だ。
助手席に乗り込むと、コロンか何かだろうか。男性らしい清涼感のある香りがしてきた。それともう一つ、嗅ぎなれない匂い。
「亘さん、たばこ吸うんですか?」
動き出した車の運転をしている亘さんは、前方を見たまま苦笑する。
「あー、やっぱ臭うか。ここ最近車では吸わないようにしてたんだけどな。悪い」
「いえ、大丈夫です。お父さんも吸う人なんで、同じ匂いがします」
「さすがに親父さんと同じってのは複雑だな」
単に煙草の匂いについていっただけだったのだが、傷つけてしまった。亘さんとお父さんが同じだなんて、そんなことあるわけがないのに。
そもそも私は亘さんの匂い自体をよく知らない。
喫煙者だってことも今知ったくらいなのだから。
何年も一緒にいて、そんな当たり前のことも知らないなんて、いかに私たちが上辺だけの薄い関係しか築けていないのかを思い知らされる。
つい落ち込みそうになるのを、バレないように腕をつねってやりすごした。
何を今更。
この関係がどれだけ空虚であろうと問題ない。今日で終わりなのだから。
亘さんと出会ってもう四年になるけれど、思っていたよりもずっと彼のそばは居心地がよかった。それを相性がよかったからだとうぬぼれるつもりはなくて、きっとただ気を遣わせていただけなのだろう。それだけ亘さんは優しい人だった。
私は亘さんの横顔を見る。
最初はあの横顔に惹かれただけだったのに。今では内面も含めて好きだと思う。
亘さんはきっと、私のことを妹のようにしか思っていないだろうけど。
「ひかり、そんなに見られると照れる」
「え、あ、ごめんなさい」
「なんか顔についてたか?」
「そういうわけじゃないです。その、亘さんが運転してるところ、初めて見るなって思って」
「いつもは駅近くの店ばっかりだもんな。帰りが楽だからそうしてたけど、今度から遠出もいいかもな」
『今度』
当たり前のように亘さんが口にする未来に胸が痛む。
その言葉に甘えたくなる。
でも、決めたんだ。
私は、亘さんから、このどうしようもない恋から卒業する。
「亘さん、私、飲み物持ってこなかったんでコンビニ寄ってもらっていいですか?」
「ん、すぐそこのでいいか?」
「はい」
タイムリミットのことを考えるのはやめよう。
とにかく今日は最初で最後の一日デート。めいいっぱい楽しんで、未練も何もかも吹き飛ばしてしまおう。
きっとこの方が、お互いの為なのだから。